出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1005 金星堂児童部、武井武雄、島田元麿、東草水訳『青い鳥』

 本連載995で、冨山房の「画とお話の本」の一冊、楠山正雄編、岡本帰一画『青い鳥』にふれ、瀬田貞二の『落穂ひろい』での証言を引き、大正九年の民衆座による『青い鳥』初演は「近代演劇史上の一事件」だったことを既述しておいた。

f:id:OdaMitsuo:20200207111032j:plain:h120 (『青い鳥』)落穂ひろい(『落穂ひろい』)

 実は前回の『支那童話集』を浜松の時代舎で見つけた際に、その隣に置かれていた『青い鳥』 を一緒に購入したのである。それは背のタイトルに「児童劇」が付されたメーテルリンクの『青い鳥』で、島田元麿、東草水訳、武井武雄装画の一冊だった。函なしの裸本だけれど、武井による表紙装画は青い鳥を挟んだ少年少女のそれぞれの半身を描き、その原色は鮮やかさを保っている。

f:id:OdaMitsuo:20200303171209j:plain:h120(『支那童話集』) f:id:OdaMitsuo:20200304115330j:plain:h120(『青い鳥』)

 奥付を見ると、大正十三年の刊行で、発行所は金星堂児童部とあり、巻末広告にはいずれも「童話集」として、徳永寿美子『赤自働車』、吉田一穂『海の人形』、武井武雄『ペスト博士の夢』がそれぞれ一ページで掲載されている。やはりどれもが武井の装幀で、彼と金星堂児童部との関係の深さがうかがわれる。

 ところで、訳者の島田と東のことになるが、前者は紹介がみつからないけれど、後者は『日本近代文学大事典』『児童文学事典』に立項されている。だが『日本近代文学大事典』では「あずま」、『児童文学事典』では「ひがし」と表記されていて、『青い鳥』の訳者表記からすると、「ひがし」のほうが正しいと思われるので、こちらを引いてみる。

 東 草水 ひがしそうすい 一八八二~一九一六(明15~大5)詩人。本名俊三。愛媛県温泉郡南吉井村(現重信町)に生まれ、松山中学より早稲田大学英文科に学ぶ。卒業後、実業之日本社を主舞台に多彩な文筆活動をする。アンソロジー『青海波』(一九〇五)に『秘め恋』などを発表。主に抒情詩を書く。なお、少年小説『夏やすみ』(一一)で、一少年の休暇生活を指摘でユーモラスなタッチで描き、ごく平凡な子ども像を創造する先駆を成した。翻訳にも関心をもち、『翻訳の仕方と名家翻訳振』(一六)は誤訳と歪曲の多い当時の翻訳状況を批判した貴重な論集。彼自身、島田元麿との共訳で『青い鳥』(二四)などを出す。

 これを『落穂ひろい』などによって補足すれば、東は実業之日本社の『日本少年』の編集者で、やはり同社の島崎藤村の『眼鏡』に始まる「愛子叢書」全五編の企画者だったという。また『児童文学事典』の少女小説家の横山美智子の立項によれば、彼女は実業之日本社の『少女の友』の編集者の東の家に起居し、同誌に長期連載を持つようになり、その地位を確立したとされる。そこで『「少女の友」創刊100周年記念号』(実業之日本社、平成二十一年)を見てみたけれど、こちらは昭和戦前の時代と第五代主筆内山基に焦点が当てられ、東や横山に関しては言及が見当らない。

  f:id:OdaMitsuo:20200304174658j:plain:h120  『少女の友』創刊100周年記念号 明治・大正・昭和ベストセレクション

 東の立項も補足も、それ以外のプロフィルや詳細、あるいは共訳者の島田の消息をうかがえない。だが『青い鳥』の翻訳出版が一九二四年=大正十三年とされているので、これは金星堂版を挙げていると思われる。言及が遅れてしまったが、この『青い鳥』は原作の六幕十二景を「樵夫小屋」以下十幕とし、主人公のチルチル、ミチル兄妹は近雄と美知へと日本名に翻案され、それが武井の一ページ挿絵とともに進行していくのである。

 しかしここで問題とすべきは、東の没年が大正五年とあるので、その八年後に金星堂版は刊行されたことになる。それをめぐって気になるのは、奥付の検印紙に金星堂の社印が押されていることで、その事実に注視しなければならない。この検印が告げているのは、『青い鳥』の著作権が金星堂に属するもので、著作者や訳者の印税が生じないことを教えてくれる。それに拙稿「知られざる金星堂」(『古本探究Ⅱ』所収)、及びその後に刊行された『金星堂の百年』にも明らかだが、金星堂はその出自を関西の赤本屋とするもので、大正七年に書店と取次も兼ねる上方屋として始まっている。

 古本探究 2  f:id:OdaMitsuo:20200304175256j:plain:h120 (『金星堂の百年』)

 その拙稿に目を通していたら、自分で書いて失念していたのだが、上方屋は「古い紙型を買って『歳時記』からダイジェスト翻訳の『名作叢書』を出した」とあった。そこで『明治・大正・昭和翻訳文学目録』のメーテルリンクを引いてみると、大正十二年に上方屋から東草水訳『青い鳥』が出されているのを見出したのである。もちろんそこには金星堂版が挙げられていた。

 したがって以下のように推測できる。上方屋『青い鳥』は出版社不明の東のダイジェスト訳の「名作叢書」の古い紙型を買って刊行したもので、さらにそれを共訳者の島田がリライトし、武井の装幀と挿絵により、金星堂版『青い鳥』として、大正十三年に出されたのであろう。それは金星堂が児童書部門も立ち上げ、新感覚派の文芸誌ともいえる『文芸時代』の創刊と逆走するようなかたちだったと思われる。そうした文脈においてみると、この『青い鳥』は新感覚派の児童書のようにも思えてくる。

 だがそれにしても、『青い鳥』の元版はどこから出版されていたのだろうか。

 なおその後の調べで、その元版は明治四十四年に実業之日本社から刊行されていたことが判明した。それは同じく島田と東の共訳であり、私の推理は間違っていたことになる。また島田はロシア文学者だったようだ。


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古本夜話1004 池田大伍編『支那童話集』と『現代戯曲全集』

 前回の一編を書いてから、浜松の時代舎に出かけたところ、本連載994の「模範家庭文庫」の一冊である池田大伍編『支那童話集』を見つけてしまったので、ここで書いておくしかないだろう。
f:id:OdaMitsuo:20200303171209j:plain:h120(『支那童話集』)

 しかも同993の『朝鮮童話集』と異なり、函入の美本といってよく、「家庭中が宝物にする善美第一のお伽絵本」の風格をそのまま残し、伝えているからだ。刊行は大正十三年十二月で、ほぼ百年前の出版ということになるのだが、よくぞ私のもとに届けられたものだという感慨を禁じ得ない。しかも美本は「日本の古本屋」でも見つからないにもかかわらず、古書価は三千円だった。
f:id:OdaMitsuo:20200203154137j:plain:h122 (『朝鮮童話集』)

 まず函のことを記すと、おそらく元は明るい黄色の表裏に橙色が重ねられ、その上に黒で古代の支那人の男女と子ども、鳥や獣や花などが描かれている。それらは表裏見返しでも使われている。その背にも黒い文字で、タイトル、編者、出版社名が記され、それらは本連載553の「雪岱文字」に他ならず、装幀が小村雪岱であることを告げていよう。本体は鮮やかな黄色の造本で、表には橙色の幕がかかり、その中央には果実をもぎとろうとしている若い女性の姿を描いた絵が額縁仕立てのように置かれ、裏には一匹の黒猫が目を光らせ、尻尾を伸ばし、座っている。背文字もそれらに合わせ、函とちがってカラフルだ。函にしても、装幀や造本にしても、雪岱のシノワズリを表象しているのだろう。それは本扉の図柄、レイアウト、色彩も同様である。

 その本扉をめくると、水島爾保布、初山滋画、小村雪岱装との表記が目に入る。本連載994の「模範家庭文庫」の明細では水島、初山、小村の三人の画とされていたが、実際には表紙と装幀を雪岱、本文の挿画を水島と初山が担っていたことになる。ちなみに書いていると本が出てくること、また現物を目にしないと詳細が判明しないことを実感してしまう。

 それらに続いて池田大伍による「はしがき」が置かれ、西洋文化と異なり、「支那には、童話といふものが一つもありません」と始まるが、続いて次のように書きつけられている。

 しかし翻つてみると、支那の物語類は、その奇想天外な着想といひ、夢幻的な趣きに富んでゐるところといひ、一切みなどうわだといつてもいいくらゐなものです。この意味からいへば、支那は、又童話の宝庫でもあります。たゞ、それが、飽くまでも、大人の読物になつてゐて、そのまゝで、持つてこられないことは、かのアラビヤン、ナイトと同じであります。
 この支那童話集といふのは、かういふ物語のなかから、有名な代表的な話をあつめてきて、なるべく原案にちかく、新らしく書きなほしてみました。

 そのような意図によって、「太古史話」「英雄史話」「歴代小話」「列仙伝」「聊斎の話」からなる『支那童話集』が編まれたことになる。それらに寄り添う水島と初山の原色版八点を含めた二十四枚の挿絵は、これまた二人のシノワズリを浮かび上がらせ、「模範家庭文庫」にふさわしいイメージを醸し出している。

 ところで編者の池田はここで初めて目にするが、『日本近代文学大事典』を確認してみると、一ページ以上にわたって、しかも写真入りで立項されていたのである。それを要約してみる。池田は劇作家で、明治十八年に現座の天ぷら屋「天金」の次男として生まれ、池田弥三郎の伯父に当たる。早大英文科に進み、同窓に秋田雨雀、中村星湖、一年先輩に楠山正雄がいた。師である坪内逍遥の信頼を受け、後期文芸協会では幹事を務め、大正二年の解散後には新劇団無名会を立ち上げ、劇作家として『滝口時頼』を執筆し、有楽座で公演する。昭和三年に病気の小山内薫の代わりで、市川左団次の一座のソビエトでの歌舞伎公演に文芸部長として同行し、成功裡に終わったのち、ヨーロッパ諸国を巡歴して帰国する。それから中国文学への研究を深め、元曲五編の翻訳、中国を題材とする戯曲などを書いた。

 この立項によって、池田が楠山正雄によって、『支那童話集』のために「模範家庭文庫」へ招聘されたとわかる。もちろんそこには坪内が介在していたのかもしれない。それと同時に意外だったのは、池田の『滝口時頼』を始めとする五編の戯曲の立項解題も掲載されていたことで、それらは大正十三年の『現代戯曲全集』に収録とのことだった。この全集に関しては、かつて「中塚英次郎と国民図書株式会社」(『古本探究』所収)で取り上げているし、たまたま全巻を架蔵している。

f:id:OdaMitsuo:20200303211530j:plain:h110(『現代戯曲全集』)古本探究

 そこで『現代戯曲全集』を繰ってみると、第十六巻が池田、額田六福、関口次郎、岡栄一郎、金子洋文の作品集成に当たり、池田はその筆頭として、先の戯曲の他に『茨木屋幸斎』などの五編が収録され、その巻の半分を占めている。これらの戯曲家たちの組み合わせ、さらに全二十巻の『現代戯曲全集』のラインナップを見ると、あらためて大正時代が神話、伝説、童話だけでなく、「現代戯曲」の時代であったことも想起されるのである。


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古本夜話1003 弘道閣と『博物辞典』

 前回の実質的な培風館の創業者である川村理助の『自由人になるまで』において、気になるエピソードが記されていたので、それに関しても言及してみたい。

 明治二十年に森有礼が文部大臣となり、師範教育の改善を経て、東京師範学校を高等師範学校と改め、各府県知事に一人、もしくは数人の入学生を選抜推薦させ、各地の師範学校長級の教育者を養成することになった。茨城県では川村一人が選ばれ、東京遊学の機会を得たのである。ところが入学するまで、「どんな学科を修めるのだか一向知らなかつた。来てみると博物学を専修するのだといふ」。水戸の天下国家論の風潮からして、博物学はほとんど没交渉な学科だったが、それでも面白くなり、「一生を苔や虫の研究に没頭してもよいと思つた」のである。

 この事実は明治時代に博物学が師範学校でも必修科目だったことを伝えているし、実際に大正六年の『日本百科大辞典』(同完成会)においても、「はくぶつがく(博物学)[Natural History]」は二ページ近く立項されていて、博物学の時代が続いていたことを意味していよう。

 だが私たちが博物学に注視するようになったのは、荒俣宏が続けて『大博物学時代』(工作舎、昭和五十七年)、『図鑑の博物誌』(リブロポート、同五十九年)を上梓したことによっている。前者において、彼は「博物学という、今はすっかり忘れ去られた学問と、その歴史について語」り、後者ではそれが動植物図鑑を伴うものだったことを教示してくれた。その後、実際に荒俣はその図鑑学の集成として、平凡社から『世界大博物図鑑』シリーズを刊行していったのである。そういえば、先の日本で最初の『日本百科大辞典』にしても、多くのカラーページ図版を収録し、博物学的な図鑑の色彩に覆われていた。

f:id:OdaMitsuo:20200215120123j:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20200215120506j:plain:h120 世界大博物図鑑

 確かその頃、どこの古本屋で見つけたのか失念してしまったけれど、一冊の『博物辞典』を入手している。もちろん荒俣が本郷の自然科学、博物学系の専門古書店で見つけて購入した欧米のすばらしい図鑑と異なり、B6判千二百ページ余の辞典にすぎなかったのだが。それを取り出して確認してみると、昭和七年に編集人代表を伊藤武夫、発行人を服部英雄として、神田区錦町の弘道閣から刊行されていた。

 その「序」を寄せているのは、『牧野植物図鑑』の牧野富太郎で、「我ガ博物ノ方面ニハ従来便利ナ良イ辞書ハ無カツタ」ので、「今此珍重スベキ便利ナル博物辞典ノ出現ヲ祝」すと述べている。もうひとつの「序」は京都帝大動物学教室の牧茂市郎の名前で記されている。それによれば、監修者の伊藤武夫は植物学者で、かつて台湾において机を並べた研究仲間だった。伊藤は自分の研究を大衆のための科学知識、科学教育の普及に役立てようとして、『台湾植物図説』『続台湾植物図説』『台湾高山植物図説』『三重縣植物誌』をすでに刊行し、『博物辞典』もまた同様であると。

牧野植物図鑑  f:id:OdaMitsuo:20200216105703j:plain:h115(『台湾植物図説』) f:id:OdaMitsuo:20200216110207j:plain:h125 (『三重縣植物誌』)

 編者の伊藤の「はしがき」にはやはり「綜合的の博物辞典は、また世に出て居ないので、植物、生理、遺伝、雑を村林仁八、鉱物を富岡武義、動物を武岡又吉が分担」し、「爾来三星霜、漸く稿成つた」と述べている。そして同じく編者による「凡例」には「本書は小学校、中等学校に於ける博物科の教授参考及び中等学生、文検受験者の参考指針たらしめる目的で編纂した」との言も見え、昭和に入っても博物学の時代がまだ続いていたことを示唆していよう。

 弘道閣の服部英雄のプロフィルは『日本出版大観』(出版タイムス社、昭和五年、金沢文圃閣復刻)に見出すことができる。服部は明治十四年伊賀生まれで、大正四年弘道閣を創立している。出版人であるばかりでなく、『三重新聞』も経営し、教育界方面にもよく知られ、さらには三千ページにわたる『三重縣史』を編述し、これを自ら刊行しているという。

f:id:OdaMitsuo:20200216111509j:plain:h120

 これによって伊藤武夫と服部の関係が推測される。先に伊藤の著書として『三重縣植物誌』を挙げたが、服部の『三重新聞』『三重縣史』をリンクさせれば、彼らは三重県出身ということで結びついたのではないだろうか。伊藤の三冊の『図説』が『博物辞典』の巻末広告に掲載されているように、弘道閣から出されているし、『三重縣植物誌』も同じく弘道閣から刊行されたと考えていい。

 その他の弘道閣の出版物は入手していないが、『日本出版百年史年表』を繰ってみると、大正一年十月のところに、「育生社(弘道閣)創業(服部英雄、1982・12-生)[昭和11・11・3合資会社に改組]」とあった。弘道閣は本連載703の育生社だったことになり、合資会社に改組した際に社名を変更したのかもしれない。それも含めて、前回の培風館だけでなく、出版社の創業年にしても、出版社の生年月日や経歴にしても、事実の追跡は難しいことを示していよう。それは確かに先のプロフィルが伝えているように、服部の「性格が多岐にして、趣味性が余りに広い」し、「教育界及び官途を多年游泳し、此方面に亦多く知られてゐる」ことによっているのだろう。
 
 
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古本夜話1002 培風館、山本慶治、川村理助『自由人となるまで』

 本連載999の松村武雄の『神話学原論』 を始めとして、彼の著作の大半が戦前戦後を通じて、培風館から刊行されていることを既述しておいた。それは未見であるけれど、同992で挙げた森鴎外、鈴木三重吉、馬淵冷佑とともに編纂した「標準お伽文庫」全六巻に端を発していると思われる。「同文庫」は大正九年から翌年にかけて培風館から出版され、そして同998でふれた『童話及児童書の研究』が同十一年、『児童教育と児童文芸』が十二年と続けて出されているからだ。

f:id:OdaMitsuo:20200212153040j:plain:h115(『神話学原論』)

 しかしこの培風館の創業と成立は謎めいたところも見受けられるので、そのことに言及してみたい。培風館の創業者の山本慶治は『出版人物事典』にも立項され、彼が戦前の松村の著作の発行者だし、戦後の『日本神話の研究』全四巻の完結に当たって、松村は「培風館主山本慶治氏に恵心からの感謝をささげる。自分の為事に対する氏の聡明な理解と深甚の同情とがなかつたら、恐らく本書は陽の目を見ずに終わつたであらう」と述べている。これは松村と山本の関係の深さを自ずと物語り、長きにわたる山本という出版者の支えが松村にとっても不可欠であったことを伝えていよう。
出版人物事典
 まずはその山本の立項を引いてみる。

 [山本慶治 やまもと・けいじ]一八八一~一九六三(明治一四~昭和三八)培風館創業者。兵庫県生れ。東京商業師範学校英語科ならびに教育研究科卒。奈良女子高等師範教諭をつとめたが、一九二四年(大正一三)、神田錦町に培風館を創業。当初は東京高師の教育科教科書などで発足、続いて中学生参考書、高等学校、専門学校の教科書・参考書へと発展した。二六年初版の岩切晴二の“岩切の代数”で通る『代数学精義』は長く版を重ねた。四二年(昭和一七)戦時企業整備で設立された中等学校教科書株式会社の社長もつとめた。戦後は数学・自然科学・人文科学に関する専門書・教科書・参考書など幅広く出版を続けた。

 しかしここに大正十一年に培風館から刊行の川村理助『自由人となるまで』を置いてみると、そこに記されていない培風館の前史が浮かび上がってくる。ちなみに私が時代舎で入手した同書は大正十三年七月の十版で、奥付発行者は京橋区銀座の株式会社岡本洋行出版部培風館、代表者山本慶治とある。

 『自由人となるまで』は川村の言葉を借りるならば、「心の自画像」、すなわち五十五年の自伝と見なしてかまわないだろう。それをたどってみると、川村は明治初年に茨城県土浦近郊の草深い田舎に生まれ、十六年に水戸師範に進学し、卒業後はその付属小学校の訓導となるが、二十年には東京に出て高等師範に入る。そして女子高等師範助教諭を経て、和歌山師範に教授兼舎艦として移り、後に校長も務める。三十二年には帝都に戻り、高等師範の教授兼舎艦に就任するのだが、校長と折り合いが悪く、文部省が引き止めたにもかかわらず、三十三年に辞表を出してしまう。

 明治時代において、出自からしても川村は教育界の立身出世を果たしたと思われるにもかかわらず、依頼免官となり、水戸師範の元校長が経営していた機械製造会社に取締役として入り、教育界から実業界へと転身したのである。しかし社長が急死し、支払手形と債権者の問題に悩まされ、一始末がついたのは明治三十七年で、大日本図書株式会社の取締役へと転任することになった。

 大日本図書は中等教科書の発行を専業としていたので、そこで出版業の筋道を学んだ。その一方で、支那の教育の分野に手をつけ、その教科書の発行を企画し、四十年に旧知の人々と泰東同文局を設立し、常務取締役となり、当初は相当の売れ行きだったが、排日の気運の勃興などから行き詰まり、四十三年には解散に至る。次に試みたのは鉛筆製造業であったけれど、これも挫折してしまった。川村にとって実業界は不成功ばかりだった。

 だが川村にしても、「何かやらなくては第一生計に困る。色々考慮の末、小さな出版業を経営しようと決心した」のである。それは大正五年四月のことで、培風館という看板を挙げ、「培風館は館主川村理助が出版業を営む為の機関である。出版業と云へば固より一種の営利事業であるが、館主の本館を経営する趣旨は単純なる営利の為めではない。実に社会国家の為めに一種の貢献をしようといふのである」と始まる七ページに及ぶ趣旨と館則を発表した。すると多くの賛同者を得て子供雑誌『幼年園』を創刊し、中等学校教科書も発行した。

f:id:OdaMitsuo:20200214235035j:plain:h120

 教科書は多大の売れ行きを示したが、わずかの私財で始めたこともあり、資金不足に悩まされ、借金も重なり、ついに行き詰まりとなった。そこに岡本米蔵から、自分も多くの著書があり、出版業に関係したいという申し出があり、資金の関係による共同経営というかたちで、培風館を株式会社化した。その後岡本は岡本洋行を設立し、そこに培風館を合併してしまった。そのために岡本洋行出版部培風館として出版事業は継続され、川村はその専務取締役に就任したが、どうも「万止むを得ない事情」で、身を引くことになったように察せられる。

 これらが『自由人となるまで』の奥付に記された発行者表記の真相で、おそらく山本慶治は岡本と培風館の近傍にいて、岡本洋行との合併状況の中で、川村の身代わりとなり、発行者も務めることになったのではないだろうか。それもあって、川村に報いるために『自由人になるまで』、また続いて大正十人江にも川村の『体験生活』を刊行したように推測される。先の立項にあった山本による大正十三年の培風館創業は、彼が岡本洋行から株を買い取り、新たな培風館として再出発したことを意味しているのだろう。

f:id:OdaMitsuo:20200214234209j:plain:h120

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古本夜話1001 南の会『ニューギニア土俗品図集』

 前回のレヴィ=ブリュルの『原始神話学』は主としてニューギニアのマリンド族、ドブ族、マリンド=アニム族などの諸部族と神話をテーマにしていた。

f:id:OdaMitsuo:20200212211833j:plain:h115 (弘文堂版)

 そのことで想起されたのは、南洋興発株式会社蒐集『ニューギニア土俗品図集』という一冊である。これは四六倍判、函入上製、アート紙使用、本文一三三ページ、それに図版六三枚が付され、昭和十二年に出版されている。発行者、発行所は麹町区内山下町の東洋ビル内の南洋興発株式会社、著作者は芝区白金台町の藤山工業図書館内の南の会とある。同じく奥付には「非売品」と明記されているので、取次や書店を通じて流通販売された書籍ではない。それでも印刷は精巧社、図版は大塚巧芸社が担っていることからすれば、印刷や造本が同時代の学術書に見合うレベルでの出版であると推測できる。ただ私の入手した一冊はこの上巻だけであり、その三年後に出たらしい下巻は未見なので、上巻の印刷や造本と同じなのかは確認できていないことを付記しておく。

f:id:OdaMitsuo:20200213122208j:plain:h120

 その本体の扉には南の会の同人として岡正雄、小林和生、杉浦健一、中野朝明、松本信広、八幡一郎が名を連ね、彼らが編集を担ったとわかる。本連載936や941などで、岡や松本に言及してきたが、ここに彼らの昭和十年代のポジションの一端が垣間見えていることになろう。この『ニューギニア土俗品図集』の「序」は南洋興発株式会社社長松江春次によって記されている。それによってニューギニアの当時の社会状況と自然と「奥地の土人は今尚ほ石器時代の夢を遂うている有様で地上に於ける最原始境」の詳細、この会社の発端と実像が浮かび上がってくるので、その部分を引いてみる。

 (前略)私は内南洋開拓の進展と共にニュー・ギニアに着目し、昭和六年蘭領ニュー・ギニアに於て三万余町歩のダマル樹脂林其他の権利を買収し、昭和七年初めて此の神秘境に渡り、北部海岸を周航して実地踏査を行つたのであるが、ニュー・ギニア全土は鬱蒼たる大森林を以て蔽はれ、地は豊沃、土民は柔順、殊に驚くべきは其の気候であつて、海岸地帯に於てすら何等酷暑と云ふが如きものを感ずることなく、(中略)それで大いにニュー・ギニア開発に確信を得、其後ダマル、棉花、緬業等の諸事業を起す(後略)。

 さらに続けて近年の金鉱や石油資源の発見にもふれ、「神秘の扉も今後は急速に開かれて行くのではないか」と予測している。その記述は本連載872の高橋鐵の南方小説を彷彿させ、それが昭和十年代の南洋幻想と表象だったことを教えてくれる。またこれらのニューギニア土俗品はそこで「勇名を馳せた故小嶺磯吉氏の蒐集に係る貴重な土俗品を譲受」したものであり、その「整理研究」を松本を始めとする南の会に依頼し、ここに刊行の運びとなったとも述べられている。

 「凡例」によれば、本書は図録と標本目録の刊行を目的とし、上巻には利器、武器、舟檝、舞踏、信仰などに関係するものだけを掲載し、その他のものは下巻に回すとある。その内容はニューギニア島の他にビスマルク群島、ソロモン諸島よりの蒐集も含むもので、次のような内容となっている。槍、弓矢、楯、短刀、斧、杖、漁具、舟、舞踏用具、木偶・護符及呪物、鼓に分けられ、松本が槍、短刀、杖、舟、舞踏用具、木偶・護符及呪物と最も多岐にわたって執筆しており、そのために彼が南の会の代表者となっているのだろう。

 写真図版の中で最も私の関心を引くのは、プロフィルはわからないけれど、小林知生が担当している11の鼓である。私が鼓に注視するのは、そこに挙げられている3つの鼓に似たものをふたつほど所持しているからだ。まず小林の註釈を聞いてみよう。「南洋諸島嶼の土民が祭礼時は勿論のこと常時も頗る舞踏を好むことは広く知られてゐるところであるが、その伴奏としての楽器中最も重要なものは鼓である」と始まり、それらは木材を刳り抜き、その一面には皮を張り、他面は筒抜けになっているのが特色であると続いている。そして胴部に一個の把手がつくられ、そこに人面鳥獣などの彫刻がほどこされ、表皮は蜥の皮が最も多い。

 まさにこのような鼓を以前にリサイクルショップで見つけ、『古本屋散策』のカバー写真の女神像と同様に、玄関の置物にしているのである。こうした鼓はオセアニアから遠くアフリカにも拡がり、また中国における六朝以後の遺物、もしくは文献上で知られる「腰鼓及荅臘鼓」と形態上は同じだとされる。とすれば、私の入手したふたつの鼓はどこからもたらされたものなのであろうか。ニューギニアや中国というよりもひろく東南アジアを想定したほうが正しいようにも思われる。

古本屋散策

 その鼓ばかりでなく、ここに挙げられた多くの写真図版は南洋興発一同と小嶺磯吉が撮ったニューギニアとビスマルク群島周辺の風景、人物写真ともに、私たちの出自をも問うているようで、見入って止まないことを記しておこう。
 なおこの『ニューギニア土俗品図集』に関する言及は管見の限り、山口昌男の『回想の人類学』(聞き手 川村伸英、晶文社)に見出されるだけで、そこで山口は岡正雄にふれ、次のように語っている。それを牽いてこの稿を閉じる。

回想の人類学

 これは世間の人は全然知らないんだけど、パプア・ニューギニアに親子で熱中してね、オセアニアの事物を集めていたんだよ。(中略)それについてのカタログが二冊出ているんだけど、それは全然知られていないんだよ(中略)。松本信広(神話学)とかそういう人物が関わっていてね。(中略)岡氏はどれくらいオセアニアにコミットしたのか判らないけど、カタログそのものは相当細かい編集をやっているんだ。戦後、それについても語らなかったね。


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