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古本夜話782 井伏鱒二『多甚古村』、河出書房、「書きおろし長編小説叢書」

 本連載771の『日本語録』で、保田与重郎の著作への言及はひとまず終えるし、しかもそれが「新潮叢書」収録でもあり、これから戦時下の小説叢書類を取り上げてみたい。  
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 本連載767の河上徹太郎の『道徳と教養』において、彼が『東大新聞』(昭和十四年十一月八日)に寄せた井伏鱒二『多甚古村』の書評が収録されている。そこで河上は寒村の若い巡査の駐在日記である『多甚古村』を、「此の作者の近来の傑作」と評し、井伏のセンスについて、「その古風な無学な田舎者めいた扮装にも関らず、都会的で、文学的で、近代人の感覚」を有しているとし、日本的というよりもチェーホフやフィリップと同じ資質を見ている。
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 この『多甚古村』の単行本が手元にあり、裸本だが、『日本近代文学大事典』の書影には、その本扉が掲載されているので、確認してみると、まったく同じだった。昭和十四年七月発行、十一月七版で、毎月のように版を重ねていたとわかる。その下には「外地二円/定価一円八十銭」との記載も並び、昭和十年代にあって、あらためて現代小説も「外地」を流通販売市場としていた事実を喚起させてくれる。

 これは本連載775で少しばかりふれておいたが、『東京堂の八十五年』によれば、ほとんどが東京堂を取次とする満洲書籍雑誌商組合の組合員数は昭和三年に五六店、八年には一一〇店、十五年には二二八店を数え、それらの出版物販売額は日本の全売上高の七、八パーセントを占めたとされる。昭和七年に満州国が誕生してから、ハルピンだけでも日本人の市民人口は昭和十年を境として急増し、十万人を数えるに至り、その他にも軍隊の存在から考えても、昭和十年代には絶好の出版物市場となっていたとわかる。

東京堂の八十五年  

 そのことはさておき、これは奥付を見て知ったのだが、鈴木信太郎の装幀による裸本表紙に版元名が記されていなかったことから、『多甚古村』は新潮社刊行だと思いこんでいた。ところがそれは河出書房で、巻末広告にあるように、井伏はやはり河出書房から昭和十二年に『ジョン万次郎漂流記』、十三年に『さざなみ軍記』を出し、前者で第六回直木賞を受賞している。いってみれば、この時代に井伏は河出書房と併走していたと見なしていい。それに先の河上の絶賛に値する井伏の小説が、多くの「外地」の読者を得たことは想像に難くないし、『多甚古村』のほぼ毎月の増刷はその事実を示しているようにも思える。

 河出書房が社史も全出版物目録も刊行していないために、それらの戦前の文芸書出版に関する具体的な言及を見出せないでいるが、昭和二十年代の『現代日本小説大系』全六十五巻の成立にしても、改造社からの『文芸』を引き継いでいたことに加え、そうした戦前の文芸書出版の蓄積を抜きにして語れないだろう。それも戦前は多くのシリーズや叢書によって支えられていたようで、『多甚古村』の巻末広告にも、「書きおろし長編小説叢書」として、『日本近代文学大事典』に解題と明細がリストアップされているが、その明細は依拠する資料によって異同が生じてしまうし、叢書ナンバーもふられていない。したがってここでのナンバーも便宜的なものである。
現代日本小説大系 日本近代文学大事典

1 島木健作 『生活の探求』
2   〃   『続・生活の探求』
3 阿部知二 『幸福』
4 伊藤整 『青春』
5 林房雄 『太陽と薔薇』
6 村上知義 『新選組』
7 立野信之 『恋愛綱領』
8 室生犀星 『作家の日記』
9 丹羽文雄 『豹の女』
10 葉山嘉樹 『海と山と』
11 石川達三 『ろまんの残党』
12 川端康成 『南海孤島』
13 豊島与志雄 『歴史のない男』
14 武田麟太郎 『空模様』
15 高見順 『肢体』

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 11以後は近刊とされているけれど、刊行されていない。また井伏と同じく「題未定」として、岸田国士、坪内譲治、伊藤永之介、伊藤整、尾崎士郎、石坂川洋次郎の名前も挙がっている。しかし『日本近代文学大事典』にはこの「叢書」に連なるものとして、二十余点が続けてリストアップされているけれど、そこにも伊藤の『典子の生きかた』が見えるだけである。それらはともかく、小説の内容に関して、1と2は本連載141、11は同468で論じていることを付記しておく。

 たまたまやはり河出書房の昭和十五年の和田伝『草原』を入手していて、その巻末には「書き下ろし長篇小説叢書」として、先の十冊の他に、深田久弥『知と愛』、里村欣三『第二の人生』、山本和夫『青衣の姑娘』が挙げられている。確かにナンバーもふられず、装幀も統一されていないので、どこまで「同叢書」に数えるのか難しいと思われる。それに『日本近代文学大事典』にしても、昭和五十年代になっての刊行であり、すでに三十年以上が経過していたことも影響しているのだろう。

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 それらのことを考えると、河出書房が社史と全出版目録を残してくれなかったことを残念に思うしかない。


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