出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話765 里見弴『愛と智と』

前回、『実業之日本社七十年史』における、昭和十年代半ばからの文芸書出版の隆盛の記述を引き、作家と書名を挙げておいた。だが名前だけで、書名にふれていない作家もあった。その一人が里見弴で、彼は昭和十六年に小説『愛と智と』を刊行している。
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 戦前の実業之日本社の小説として、これだけは手元にある。その巻末には前回挙げた小説を含めて二十三册並び、壮観といえる。しかも四六判、上製函入の『愛と智と』は美本といっていいし、その装幀は箱と本体の表紙絵が異なり、前者はモノクロで若い母親と赤ん坊、後者はカラーで、まだ未婚らしき女性が描かれ、この物語のありかを伝えているようだ。装幀は小磯良平によるもので、戦時下を感じさせない。恐らく『愛と智と』も『新女苑』に連載された小説と考えられる。それもあって、この作品はほとんど言及されず、筑摩書房の『里見弴全集』にも収録されていないので、ここで紹介してみたい。
里見弴伝

 『愛と智と』は土井家の食卓の場面から始まっている。それを囲んでいるのは主人の宏太郎、夫人の操子、長男の敏光、主人公である三女の久美子の四人だった。三女という訳は大正十二年に鎌倉の別荘で関東大震災に遭い、別荘もろとも押し流され、長女と次女、次男の三人が亡くなっていたからだ。これは「この物語に大した関係はもたない」との作者の断わりも入っているけれども、この小説が予定調和的に進んでいかないことを暗示しているように思える。

 二十三歳の久美子は女学校を終えてからの五年間、家事に従っていたが、明日は結婚を控えている。彼女が味わってきたこの五年間の長さと落ちつきの悪さは、家族にもまったくわかってもらえなかったし、その挙句の果てに「仲人口と、興信所の調査以外に、なんの予備知識ももちやうのない一人の男」と「たった一度の見合い」で、「明日は、もうその男の妻」となるのである。その中尾は法学士で柔道三段、大財閥系の銀行勤めで、当年三十歳の大男とされる。しかし久美子にとっては「好きも嫌ひも、どだいそのめやすさえつかない」し、彼女は「諦め」の心境にいるし、母のほうも「娘の結婚を、人身御供にでもあげるように」思っている。父も内心忸怩たるものがあり、これから先は「智恵」と「愛」に基づく「お前の領分だ」というしかない。

 学士会館での結婚式と熱海への新婚旅行を経ての結婚生活は、未亡人の義母との同居であり、当然のことながらうまくいくものではなかった。二人は夫の仲間たちと大勢で、スキー旅行に出かけたが、猥雑な雰囲気で、久美子は落胆し、のけ者にされている感じがし、持ってきた『田園交響楽』を開いたりしていた。これはいうまでもなくジイドで、久美子が本を読む女であることを表象する場面となり、これが伏線ともいえるし、後にトルストイの『アンナ・カレーニナ』も出てくる。夫の中尾は落ちつかない性格で、本を読むことはない。読書をめぐるハビトゥスの相違が浮かび上がってくる。

田園交響楽 アンナ・カレーニナ 女の学校

 そして久美子は夫が「尊敬できない」という理由で、離婚しようとする。母はそんなことをいい出せば、世間の夫婦はほとんど成立しないと反対する。それを受けて、兄はやはりジイドの『女の学校』を例に出し、姉をかばう。父も母の言い分を認めながらも、同様にいう。

 「(……)尊敬すべき地位の人を、―良人には限らない、学校の先生だらうと、会社や役所の上役だらうと、また一家内の、親とか兄とかの目上だらうと、いかに尊敬したくも尊敬できない場合に、不真面目な奴なら、下等な優越感で、すぐいゝ心持にのさばり返つて了ふだらうけれど、誠実のある人間にとつては、これは可なり辛いことだ。敏や久美子が、さういふ正しい感情をもつてゐてくれたことは、……あたりまへだと思ふが、併し俺は、やつぱり嬉しいよ」

 ここに家庭小説にこめられたリベラリストとしての里見の戦時下体制批判が表出していると見るのは考え過ぎであろうか。

 しかしその後、娘の離婚話に反対していた母が敗血症にかかり、わずか一週間で亡くなってしまう。その見舞いに現れた中尾は、思いがけずに自らの輸血を申し出て、土井家の三人を感激させる。彼は「尊敬できない」夫から、「奇蹟によつて招き寄せられた人」に変身したようだった。だが母の通夜と葬儀も進み、「あの人にだつて、それア、いゝ面はあつてよ」との言ももれるけれど、復縁とはならず、父と兄と妹の三人暮しが始まり、父は娘と二人連れの関西への旅に出る。これは小津安二郎の『晩春』、また里見が『彼岸花』『秋日和』の原作者、また里見の息子の山内静夫が松竹の小津映画プロデューサーだったことを想起させる。この二作は『秋日和・彼岸花』(夏目書房、平成七年)として刊行されている。

晩春 彼岸花 秋日和 f:id:OdaMitsuo:20180219144530j:plain:h120 

 それらのことはともかく、久美子は旅の途中で悪阻を覚え、妊娠していることを知った。彼女は「出戻りになつてから、先夫の子を生むとは」という思いに対し、兄はフラアンジエリコの「聖母受胎」の絵を与え、彼女はそれを見つめて過ごし、男の子を分娩するに至り、父の名前にあやかって宏雄と名づけられた。土井家は四人に戻ったのである。そうした中で語られる父と兄の、硯友社から夏目漱石に関する文学談議は、孫と甥の宏雄がそのようなハビトゥスの中で育てられていくことを告げているかのようだ。それに最後の場面は、久美子が兄の恩師の仏文学者と再婚することになり、閉じられている。
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 しかしそれまで『愛と智と』には戦争の影響は希薄だったけれど、前夫の応召に続いて、兄の出征も近づきつつあり、「次第に一家の上に、何かしら灰色の霧でも立ち籠めたやうな」雰囲気に包まれていったのである。ここから『愛と智と』は、支那事変に兵士を送り出す背景を備える小説としての物語機能に覆われていく。

 それはおそらく実業日本社之が昭和十年代後半に刊行していた家庭小説や女性小説の強い色彩であり、そのことは同時代の小説にも共通し、それゆえにこそ多くの小説が書かれ、出され、読まれたといえるかもしれない。まさにいうなれば、本連載279の戸川貞雄『第二の感激』にも示しておいたように、これらの小説群は「銃後の共同体」を支えるものとして機能していたと思われる。

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古本夜話764 実業之日本社と保田与重郎『美の擁護』

 
 前回、本間久雄は保田与重郎に日本の美学を見出し、それゆえに東京堂に『戴冠詩人の御一人者』の出版を推奨したのではないかとの推測を述べておいた。そのことをタイトルが物語るように、保田は昭和十六年に『美の擁護』というエッセイ集を上梓している。
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 それは実業之日本社から刊行された一冊だが、所持するものは裸本で、しかも痛みが激しく、背文字もはがれ、著者名は消え、タイトルすらも読めない。だがその表紙はそのまま残り、その字体から、すぐに青山二郎の装幀だとわかるし、実際に本扉を繰ってみると、その名前が記されていた。これまで記してきたように、保田は装幀に関して、棟方志功とコラボレーションしてきているので、青山との組み合わせは意外であった。その事実は『美の擁護』の企画編集に『文学界』関係者が絡んでいることを示唆しているようにも思える。

 実際に巻末広告には多くの文芸書だけが並び、それだけを見れば、『実業之日本』というビジネス誌や経済書や実用書の印象が強い実業之日本社であるにもかかわらず、文芸出版社と錯覚してしまいそうになる。そこで『実業之日本社七十年史』を繰ってみると、そうした傾向は昭和十二年の『新女苑』の創刊がきっかけになったようである。同誌は『日本近代文学大事典』にも立項されているが、「若き女性の静かにして内に燃える教養の伴侶である」ことをめざして創刊され、主筆は『少女の友』の内山基が兼任し、それを神山裕一が引き継いでいる。

 そして神山が文芸書担当者となり、当初は『新女苑』の連載の作品を単行本として刊行し、その中でも横光利一の『実いまだ熟せず』はベストセラーになり、「昭和十四年ころからとみに活発になったのは出版部の文芸書出版である」とされ、『実業之日本社七十年史』は次のように述べている。

 こうした実績から「実業之日本社の文芸書」の存在がひろく世間にも認められるに従って、わが社から作品の出版に理解を示す作家も多くなり、中でも林芙美子の『青春』や石川達三『若き日の論理』などはそろそろはじまった印刷用紙の欠乏に制約されながらも、いずれも十万部以上の売上を示した。
 その他にも世間の評判となった書名を挙げると室生犀星の『つくしこひしの歌』『美しからざれば哀しからんに』『王朝』、芹沢光治良の『眠られぬ夜』『男の生涯』、林芙美子『風琴と魚の町』『織女』『葡萄の岸』、森田たま『桃李の径』『石狩少女』、川端康成『乙女の港』、太宰治『東京八景』、井伏鱒二『シグレ島叙景』、中山義秀『風霜』、高見順『花さまざま』、その他丹羽文雄、里見弴、宇野浩二、佐藤春夫、正宗白鳥、武者小路実篤などまで、当時の文壇の主要作家の作品は概ね発行している。
 一方、日夏耿之介『鴎外文学』『輓近三大文学品題』、河上徹太郎『道徳と教養』、保田与重郎『美の擁護』、亀井勝一郎『芸術の運命』、中村光夫『戦争まで』等をはじめとして文芸評論集も数多く手がけている。

乙女の港

 これは実業之日本社の昭和十年代半ばの文芸書出版の動向であるけれど、支那事変以後の文芸書出版の隆盛の一端を伝えていて、とても興味深い。同時代において、様々な文芸書シリーズが刊行されていたことは本連載でも取り上げてきたし、これからも言及するつもりだが、このような出版状況の中で、保田の『美の擁護』などの一連の著作が刊行されてきたことになる。

 エッセイ集『美の擁護』には、たまたま昭和十四年十一月の日付入りの「文士の処生について」という一編が収録され、この時代の「国民の一員」としての「市井草莽の文士」の表明となっている。そこで彼は日本やドイツの勝利を祈念しながらも、現在の文化的宣伝や日本主義理論や国策文芸の流行には異を唱え、日本の文芸の源流と伝統とは滅びを意識し、美化するという視座を崩していない。それは『後鳥羽院』などに象徴される英雄と詩人と歌心に基づき、そのクロージングの一節に表象し、ひとつの現在の体制批判へとも結びついていく。

 権力をもち地位をもち、加へて勢力をもつ者が、しかもその至誠の信念と経綸を実現し得ないといふ事実を知つたとき(しかも一つの政治観からでなく人生観に上昇した点から知つたとき)さういふ高次の絶望の自覚ののちに(ある人生観の敗退を意識して)志ある者の文芸のみちはそもゝゝ始まつたものではなかつたか。

 ここに保田の特異にしてアンビヴァレンツなポジション、すなわちイロニイが示されていることになろう。


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古本夜話763 東京堂、本間久雄、『日本文学全史』

 前回ふれた芝書店の内情はともかく、保田与重郎にしても中村光夫にしても、印税はまとに得られなかったけれど、いずれも芝書店から最初の著書を出し、ともに第一回池谷信三郎賞を受賞したことによって、それなりのデビューを飾ったといっていいだろう。

 さらに保田の場合、前回その名前を挙げておいた、芝書店のアンドレ・ジイド『文芸評論』の訳者の一人である辻野久憲の導きによって、『日本の橋』の上梓に至ったと推測される。辻野は東京帝大文学部仏文科在学中に、昭和五年に武蔵野書院から創刊された『詩・現実』の同人となり、伊藤整、永松定と共訳でジョイスの『ユリシイズ』第一部を連載し、その後第一書房の『セルパン』編集長を務めたが、昭和十二年に二十八歳で若死している。

ちなみにこの編集同人は北川冬彦、飯島正、淀野隆三たちで、同誌のジイドの訳者であり、それが芝書店の『文芸評論』として刊行され、同様に中島健蔵、佐藤正彰共訳『ボオドレエル芸術論集』も同誌掲載だった。それも芝書店から出されたことからすれば、『詩・現実』と芝書店の関係は密接で、芝隆一はその近傍にあったのかもしれない。またシエストフの訳者の河上徹太郎や阿部六郎は、小林秀雄とともに『山繭』の同人であり、ジイドの訳者の飯島正や秋田滋が芝書店の『小説(ロマン)』の編集者だったので、前回挙げた『文学界』に加え、これらの三誌の延長線上に、芝書店の出版物は生み出されたと思われる。

 そうした中で、『詩・現実』同人だった辻野が保田を芝書店へとつなげたことによって、保田の『日本の橋』の処女出版は実現したのではないだろうか。それは保田の三冊目の『戴冠詩人の御一人者』も同様で、その「緒言」における保田の次のような言に見えている。

 本書の上梓については総べて、本間久雄氏、増山新一氏の好意の結果になる。深く感謝する次第である。故人辻野久憲は生前この書のなることを常に鞭撻してくれた。既にその日より一年を経て、漸く一書となる形を与へられた。私は故人の霊にこの一部を献じたく思ひ、いつか感傷の言を弄するのである。

 保田と辻野の関係は詳らかにされていないと思われるけれども、このような既述からその親密さがうかがわれるであろう。

 それから他の本間久雄と増山新一だが、増山は昭和初年に、『東京堂月報』などの雑誌の他に単行本も刊行するようになった東京堂出版部の責任者である。その増山の手になる『東京堂の八十五年』によれば、昭和八年から西村真次『日本古代経済(交換編)』全五冊などの「大物出版」を始め、十年には「東京堂が出版を復興して以来、最も本格的な予約全集」として、『日本文学全史』全十二巻を発表した。
東京堂の八十五年  

 この企画は前年の春から着手したもので、日本文学史のたよるべき大著に欠けているところから、上代から明治まで、時代別の文学史を刊行して、研究者ばかりでなく、一般読書人の渇望をいやそうという意図であった。それには、一時代を一人の著者が執筆すること、文献的研究に止るところなく、各作品の内容梗概を述べて、原典を味わせること、図版挿図を豊富に入れて理解を助けること等の特色を出して魅力ある文学史を作ろうという編集方針を決めた。

 それに沿って、上代文学史は佐佐木信綱、平安期文学史は五十嵐力、鎌倉、室町文学史は吉沢義則、江戸文学史は高野辰之、明治文学史は本間久雄という「五博士」「各時代の最高権威者」に依頼し、難航したけれど、「この全史に対する本間博士の熱意は並々ならぬもの」があり、昭和十年五月に第一回配本の、高野の『江戸文学史』上巻を発行した。その初版四千部はすぐになくなり、重版が続き、十六年には全十二巻が完結となった。
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 『東京堂の八十五年』には、『日本文学全史』の編集会議における「五博士」の写真、またその書影の下に次の一文が置かれている。「この『日本文学全史』は、国文学の画期的な名著として、久しく版を重ねたが、同時に、出版界における東京堂出版部の地位を高めることが出来た」と。

 その本間の『明治文学史』上巻だけが手元にあるが、確かに図版も豊富で、装幀も優れ、索引も付され、奥付を見ると、昭和十年七月発行、十二年一月再版となっているので、『東京堂の八十五年』の記述を裏づけている。また『日本近代文学大事典』は、その後全五巻に及んだ『明治文学史』について、「最初の日本近代文学史」と位置づけている。さらに本間はそれに先駆け、昭和九年にやはり東京堂から『英国近世唯美主義の研究』という大著を刊行し、これは未見だが、日本芸術が英国唯美主義に与えた影響を指摘した前人未踏の研究だとされる。
f:id:OdaMitsuo:20180214200214j:plain:h120(『英国近世唯美主義の研究』)

 このような東京堂出版部における本間の立場、及び『日本文学全史』刊行に当っての尽力と功績を背景にして、彼は日本の美学、もしくは唯美主義を保田に見出し、それゆえに増山に『戴冠詩人の御一人者』の刊行を推奨し、上梓の運びとなったように思われる。

 保田が『戴冠詩人の御一人者』の「緒言」において、本間と増山に謝意を述べる前に、「我らの歴史と民族との英雄と詩人に描かれた、日本の美の理想は、今こそ我らの少年少女の心にうつされなければならない」と記しているのは、そのことを言外に伝えているのではないだろうか。


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古本夜話762 芝書店、ヴェルレエヌ『叡智』、中村光夫

 あらためて『保田与重郎選集』(講談社、昭和四十六年)の第二巻を読み、彼の著書『日本の橋』が昭和十一年に芝書店から出され、その改版が十四年に東京堂から刊行されたことを教えられた。後者は棟方志功装幀の帙入小型本で、『東京堂の八十五年』に書影を見ることができる。十三年の同じく棟方装幀、北村透谷賞受賞の『戴冠詩人の御一人者』に続く、「日本浪曼派の俊鋭保田与重郎の二点は、文壇の問題作」であったと記されている。それはおそらく「日本浪曼派の時代」ばかりでなく、保田の時代を迎えていたことを告げているのだろうし、棟方とのコラボレーションは、本連載759の「新ぐろりあ叢書」などへと引き継がれていったと考えられる。
保田与重郎選集 (第二巻)

 しかしその始まりが芝書店だとは認識していなかった。芝書店といえば、昭和文学史で必ず言及される、三木清がいうところの「シェストフ的不安」の根源たる河上徹太郎、阿部六郎共訳『悲劇の哲学』、河上訳『虚無よりの創造』(いずれも昭和九年)が想起される。シェストフはロシア革命後にパリに亡命し、ドストエフスキーとニーチェ論である『悲劇の哲学』において、科学的理性や精神的理念主義などの普遍的価値観が崩壊してしまっても、人間は生きるに値するかを問い、正宗白鳥と小林秀雄からの絶賛を受けた。それはマルクス主義運動崩壊後の思想的なエアーポケットを埋めるものとして受容されたという。

悲劇の哲学 (『悲劇の哲学』、芝書店)

 ただ私たち戦後世代にとって、シェストフの『悲劇の哲学』(近田友一訳、昭和四十三年)は現代思潮社の「古典文庫」の一冊として出されていたけれど、もはやそのようなインパクトを秘めたものとして受容されていなかったと判断していい。そのこともあって、芝書店版の『悲劇の哲学』と『虚無よりの創造』を入手していない。

悲劇の哲学 (『悲劇の哲学』、現代思潮社)

 その代わりにというわけではないけれど、やはり阿部訳のニィチェ『物質と悲劇』(昭和九年)、同様に河上訳のヴェルレエヌ詩集『叡智』(同十年)は手元にあり、これらが菊判で、またその巻末広告から『悲劇の哲学』も同じだとわかる。それから後者に「芝書店刊行書」リストが掲載されているので、既述の四冊を除き、挙げてみる。正宗白鳥小説集『異境と故郷』、河上徹太郎文芸評論集『自然と純粋』『思想の秋』、小林秀雄『続々文芸評論』、アンドレ・ジイド『文芸評論』『続文芸評論』『ドストエフスキー論』、ジャック・リヴィエール『エチュード』、中島健蔵、佐藤正彰訳『ボオドレエル芸術論集』、神西清訳『チエーホフの手帖』、平岡昇、秋田滋訳『テーヌ・作家論』などである。ジイドやリヴイエールは「分担翻訳」での訳書が多数なために、省略したのだが、すでに挙げた訳者以外だけでも、記載しておくべきだと思い直したので、重ならないようにアトランダムに示しておく。

 それらは富永宗一、小林秀雄、秋田滋、飯島正、辻野久憲、今日出海、山内義雄、鈴木健郎、桑原武夫、大岡昇平、小西茂也たちで、これらのメンバーから見て、芝書店は昭和八年に創刊された『文学界』の小林と河上を中心とし、それにフランス文学者たちが合流し、出版企画が進められたように推測される。それらのことから考えても、保田与重郎の『日本の橋』の出版は組み合わせからしても意外だというしかない。

 またそれに加えて、もうひとつ特筆すべきは『エチュード』の装幀が小林秀雄となっていることだ。これは未見だが、装幀家としての小林に関する言及は目にしていないので、どのようなものなのか、一度見てみたいと思う。

 『叡智』などの奥付を見ると、芝書店は刊行者を芝隆一とし、その住所は品川区上大崎となっている。だがこのような芝書店であっても、『日本出版百年史年表』にも記載はないし、『出版人物事典』などにも立項されていない。柳田国男ほどではないにしても、本連載462でも示しておいたように、小林秀雄たちの近傍にあったはずの小出版社は、意外に思われるほどその姿をとどめていない。

 それでもかろうじてその芝書店への言及を見出したのは、中村光夫の「ある文学的回想」としての『今はむかし』(中公文庫)においてだった。中村は小林に認められ、『文学界』に「二葉亭四迷論」を連載し、昭和十一年に最初の著書として芝書店から『二葉亭四迷論』を上梓し、同じく『日本の橋』を出した保田とともに、第一回池谷信三郎賞を受賞している。その出版に至る経緯に関して、中村は芝書店から二葉亭論を中心とした本を出したいといってきたので、承諾し、装丁を青山二郎に依頼していると、すぐに校正刷が出てきた。続けてその事情を述べている。
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 仕事がちょっと早すぎるのは、出版社の金ぐりが苦しいためで、自転車の輪を回すために、なんでも本の形をしたものをだす必要から、僕の本などを出版しようとしたことは、もとより知りませんでした。
 芝書店といえば、主として仏文関係の清新な良書をいくつか出版していただけでなく、正宗氏の「異郷(ママ)と故郷」などの版元でもあり、そこからだしてもらえるのは、光栄と思っていました。それでなくても最初の著書の出版の話をきいて、その裏を勘ぐれる人は、よほどの傑物でしょう。
 僕などは校正をせかされ、いい加減に校了にされたのも(おかげで誤植だらけの本がでてしまいましたが)相手の熱意と考えるほどいい気になっていました。
 さて、内容はともかく、装釘はなかなか凝った菊半截の「二葉亭論」ができあがりました。発行部数はたしか五百部でした。

 さらに中村の言及は続き、検印紙がないので、本に直接判を押してくれといわれ、そのために作った判を持っていくと、芝書店が取次からせかされ、勝手に三文判を押して出してしまったこと、「芝書店の内情が苦しい」と聞いたこと、印税を何度も催促し、やっと半分もらったこと、それもあって芝書店からは「折角新人をひきたててやったのに、印税まで催促するとは生意気な奴」と思われたらしいことなどを書いている。確かに『叡智』の奥付の河上の判は直接押されているし、中村の証言を裏づけていよう。

 おそらく保田の『日本の橋』の出版経緯と事情も同じだったのではないだろうか。そしてほどなく芝書店は破綻し、それを受け、東京堂から改版が出されるにいたったにちがいない。
f:id:OdaMitsuo:20180213161428j:plain:h110(『日本の橋』、東京堂)


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古本夜話761 斎藤瀏『獄中の記』と『東京堂月報』

 前回、保田与重郎の『戴冠詩人の御一人者』が昭和十三年に東京堂から刊行されていることを既述しておいた。

 それを探していた際に、同じく東京堂刊行の斎藤瀏『獄中の記』『防人の歌』が出てきた。前者は昭和十五年十二月発行、十六年五月四十九刷とあり、当時のベストセラーだったことがわかる。後者は十七年の出版で、巻末にはもう一冊、『歌集四天雲晴』が見え、斎藤が東京堂から続けて三冊出していたことになる。彼に関しては、それらの著書も挙げられている『日本近代文学大事典』の立項を引いてみる。
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 斎藤瀏 さいとうりゅう 明治一二・四・一六~昭和二八・七・五(1879~1953)歌人。長野県北安曇軍七貫村の生れ。旧姓三宅。陸大卒。軍人となる。昭和三年済南事件に旅団長として革命軍と交戦した咎で待命となる。二・二六事件に叛乱幇助で入獄、一三年仮出獄後は待望の戦争中ゆえ軍国主義のイデオローグとして言論界に活躍した。獄中の心境をつづった随筆『獄中の記』(昭和一五・一二 東京堂)がある。作歌は日露従軍中にはじめ、佐佐木信綱に師事して、「心の花」同人だったが、一五年「短歌人」を主宰、歌風は粗大な武人的感慨であった。代表歌集に『四天雲晴』(昭和緒一七・五 東京堂)などがある。史は娘。

 『獄中の記』には昭和十一年の渋谷の衛戌刑務所拘置から豊多摩刑務所を経て、十三年の出獄までの生活が、多くの短歌をまじえて綴られている。そこには立項に見える済南事件や二・二六事件への言及もあり、斎藤が軍人にして歌人だった特異な立ち位置がうかがえるし、それが二・二六事件への対応と連関しているように察せられる。そこから二・二六事件の「歌人将軍」なる呼称が付されたと思われるが、それよりも私が注視したのは、番外ともいえる「追憶篇」に収められた「軍事探偵挿話」である。これはシベリア出兵前のことで、斎藤は満州駐在中に対ロシア作戦計画実施に当たって、軍事探偵として三菱物産の豆売商人に変装し、ロシア軍が駐屯する南松花江の河川、鉄橋、兵力、警備状況などを探る旅に出て、その体験を回想したものである。当時の商事会社員に扮する軍事探偵とその実態、それに絡む中国人、ロシア兵、日本人も登場し、獄中記以上にとても興味深い一編を形成している。

 ところでこの斎藤と東京堂の関係だが、『東京堂の八十五年』を繰ってみると、支那事変以後の昭和十三年から出版界で、ベストセラーが続出したことにふれている。その中で東京堂も「この時期に話題をよむ二冊のベストセラーを出版した」とし、ポール・ブールジェ、広瀬哲士訳『死』『獄中の記』が挙げられ、両者とも短期間に二十万部に達したとされる。また『獄中の記』も書影が掲載され、出版経緯も次のように述べられていた。

東京堂の八十五年  f:id:OdaMitsuo:20180213151634j:plain:h112

 斎藤は(中略)二・二六事件の時、青年将校に同情して罪を負い、獄に投ぜられた。出版後、たまたま「東京堂月報」の昭和十五年一月号に随筆を依頼したところ、獄中における歌日記ともいうべき「獄中記」を書いてくれた。獄中の読書生活をつづったものだが、見方、感じ方に、同感をよぶものがあった。
 「これはいける!」この調子で一冊の本を書いてくれれば、必ず売れる、と考えて、早速依頼することにした。
 著者は快諾して、すぐ執筆にかかり、数ヵ月後に原稿が完成した。書名は「獄中記」では余韻がないので『獄中の記』とすることにした。

 『獄中の記』はB6判並製の三二〇ページ、表紙には斎藤の自筆の獄中の食器スケッチをあしらい、出版され、一年足らずで二十万部近くに達したという。ここでその発端となった『東京堂月報』にもふれておくべきだろう。これは出版と読書をめぐる重要なメディアと考えられるけれど、取次の雑誌と見なされ、『日本近代文学大事典』でも立項されていないからだ。

 東京堂は明治二十三年に博文館の出版物をメインとする書店として始まり、翌年に取次も兼ね、大正時代には四大取次の筆頭を占めるようになり、まさに東京堂の歩みこそは日本の書店と取次の歴史を象徴するものだった。そうした中で東京堂は書店として雑誌だけでなく、書籍の販売を強化するために、大正三年に『新刊図書雑誌月報』を創刊する。それは新刊図書目録を主体としていたが、次第に刊行図書の著者名、出版社、定価などに加え、内容説明も掲載し、さらに出版界消息、新刊批評、読者の声、出版広告といった記事も広範に収録されるに至り、大正十五年には『東京堂月報』と改題される。

『東京堂月報』はすでに書店から取次の機関誌としての役割も有していたけれど、それを機として、昭和二年から取次としての東京堂は、全国各地書店用リーフレットである『新刊案内』を発行する。それに合わせ『東京堂月報』は「読書人の雑誌」というサブタイトルが付され、大正を一般読書人とし、巻頭記事を充実させ、新館案内、随筆、書評を掲載し、多くの読者を獲得していったのである。そうした意味において、書評誌の先駆けといっていいし、そこに斎藤の随筆が寄せられたことで、『獄中の記』の出版となり、ベストセラー化したのも、『東京堂月報』のアクチュアリティによるものと考えられる。だが斎藤に随筆を依頼した編集者は誰だったのだろうか。

 しかしこの『東京堂月報』も、『獄中の記』刊行の翌年の昭和十六年に、国策取次の日配の発足とともに廃刊となり、書評雑誌『読書人』と改められた。これは戦時下の十九年に休刊を余儀なくされたが、戦後を迎え、昭和三十三年に書協の『週刊読書人』へと継承されていったのである。


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