出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話760 保田与重郎『後鳥羽院』と思潮社

 前回はふれなかったが、「新ぐろりあ叢書」には保田与重郎の『エルテルは何故死んだか』も含まれていた。その「新ぐろりあ叢書」と併走するように出された一冊、それも同じく装幀を棟方志功とする、保田与重郎の『後鳥羽院』も取り上げておきたい。それは昭和十四年に小竹即一を発行者とする思潮社から刊行されている。

 小竹は本連載729や拙稿「日置昌一の『話の大事典』と萬里閣」(『古本探究』所収)で言及しているように、野依秀市の実業之世界社出身で、萬里閣の経営者である。その小竹がどうして思潮社を名乗り、保田の著書を出したのかがよくわからないからでもある。ちなみに思潮社の住所を記しておけば、芝区田村町で、巻末には「新刊書」として、浅野晃『岡倉天心論攷』、飯野哲二『おくのほそ道の基礎研究』、田中茂穂『随筆 魚と暮して』の三冊が掲載されている。
古本探究 おくのほそ道の基礎研究 (『おくのほそ道の基礎研究』)

『日本出版百年史年表』によれば、萬里閣は大正十五年に創業し、現在では岩波文庫収録の東京日日新聞社会部編『戊辰物語』などの出版から始まっている。それから十五年後に別会社としての思潮社も興したということなのだろうか。またおれは戦後の詩の出版社としての同名の思潮社と何らかのつながりがあるのだろうか。念のために『日本近代文学大事典』の磯田光一による保田与重郎の立項を見てみると、次のような著作の流れが示されていた。

 彼は昭和十一年の『日本の橋』(芝書店)と『英雄と詩人』(人文書院)における、特異にして卓抜な審美主義によって、文芸界の新進として注目された。だが昭和十三年の『戴冠詩人の御一人者』(東京堂)、『蒙彊』(生活社)、十四年の『後鳥羽院』に至ると、伝統主義、反近代主義、反進歩主義、アジア主義の色彩が強くなっていったとあり、『後鳥羽院』の増補新版が十七年に萬里閣から出されたことも付記されている。この事実は思潮社が閉じられ、萬里閣からの改版の刊行を意味しているように思われる。
後鳥羽院 (萬里閣版)

 この萬里閣版は未見だけれど、『保田与重郎選集』(講談社、昭和四十六年)の第二巻に『後鳥羽院』の「序」と「増補新版の初めに」の双方の収録がある。そこに出版社が変わった事情は記されていないが、両者を比べると、時代と状況が浮かび上がってくる。思潮社の「序」において、これは芸術と美に基づく「わが国文芸史上に於ける後鳥羽院の精神と位置を追慕する」ものとしての「文学史への一つの試み」であるとされている。
保田与重郎選集 (第二巻)

 しかし「増補新版の初めに」にあっては、次のような文言に行き当たる。

 初めに本書が上梓された頃を思へば、時勢は一変した感がある。著者は初版の序文に於て、わが皇紀の新世紀に、世界史の変革を期待し熱祷したが、正に皇軍は神のまにゝゝそれを顕現し、我々の伝統の神がたりこそ、日本の原理なる意味も一段と切実になつた。
 皇神の古の道は明らかに、御民総てがそれを奉じて己が声明をする日が来たのである。著者はその道を生命の原理としてきた近古以後の詩人の生成の理を語り、日本文学史観と詩人観を明らかならしめる為に著した本書が、此の日再版の機会を得たことを欣び、新しい増補によつて、本書の歴史観をさらに強め得たことを信ずるのである。

 「序」のほうの日付は「昭和十四年七月」とあるだけだが、こちらは「昭和十七年春の皇霊祭の佳き日に」と記され、支那事変から大東亜戦争下へと「時代は一変した感」をも伝えていよう。そうした時代の流れの中で、萬里閣の「此の日再版」も実現したことになる。

 これは推測するしかないのだが、萬里閣の小竹は支那事変以後の出版界において、日本浪曼派に属する保田、及び先に挙げた『岡倉天心論攷』の浅野との関係が生じ、そのことから新たな出版社としての思潮社を立ち上げる必要に迫られたのではないだろうか。それは先の磯田による立項がいうように、保田の反近代とアジア主義の色彩が強まっていった時期に当たる。その代表的著書として、『後鳥羽院』の他に、『戴冠詩人の御一人者』や『蒙彊』が挙げられている。

 これも偶然ながら、『戴冠詩人の御一人者』は手元にあるが、その「緒言」において、「去る晩春より初夏にかけて大陸を蒙古に旅した私は、この世界の変革を招ふ曙の思ひに感動を新しくした」と述べている。それこそは『蒙彊』に書かれていようし、『後鳥羽院』の初版や再版にも投影されているのではないだろうか。残念ながら『蒙彊』は入手に至っていないし、『保田与重郎選集』にも収録されていないので、まだ読めずにいる。おまけに版元は本連載でもお馴染みの生活社であり、想像する以上に生活社は満鉄調査部やアカデミズムだけでなく、文学界や大政翼賛会にまで大きな影響をもたらし、それが出版物として結実していたように見える。ここでも保田と生活社の関係を否応なく想像してしまう。大東亜戦争下の出版社として、日本浪曼派とのつながりにも注視すべきようにも思われる。


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古本夜話759 伊藤長蔵、「新ぐろりあ叢書」、田中克己『楊貴妃とクレオパトラ』

 本連載757の田遊びではないけれど、早川孝太郎が昭和十七年に、『農と祭』をぐろりあ・そさえてから刊行している。手元にあるのは四六判の裸本で、表紙や箱装は見られないが、口絵写真に武田久吉による二葉の「道祖神祭りの御幣」が掲載されていることから推測すると、それらにちなんだものだったのではないかと思われるし、実際に「道祖神のこと」という一編の収録も見ている。

 早川に関しては本連載574で、三河地方の祭礼をトータルに論じた『花祭』の著者で、この大著が柳田国男や折口信夫にも大きな影響を与えたことを既述しておいた。だからここでは早川と『農と祭』ではなく、その版元のぐろりあ・そさえてにふれてみたい。それは『農と祭』の出版社としては意外な感も伴っているからである。
 花祭

 『出版人物事典』においても、ぐろりあ・そさえての伊藤長蔵は次のように立項されている。

 [伊藤長蔵 いとう・ちょうぞう]一八八七~一九五〇(明治二〇~昭和二五)ぐろりあ・そさえて創立者。兵庫県生れ。神戸商高校卒。貿易商として活躍したが、昭和の初め、書物好きがこうじて美書の発行を志し、一五世紀の大蔵卿で愛書家、「グロリエ式装丁」で知られるジャン・グロリエ(Jean Grolier)の名にあやかり、伊藤が中心になって神戸に「ぐろりあ・そさえて」と名づけた愛書家の集まりが出版社を始めた。独白、特殊の書誌的研究雑誌『書物の趣味』創刊、また、庄司浅水『書物装釘の歴史と実際』、寿岳文章『ヰルヤム・ブレイク書誌』、柳宗悦『工芸の道』、藤井紫影『江戸文学図録』などの著書、美本を出版した。

 ここに挙げられた美本類は、今でも限定本や書物史などを扱った雑誌特集などで見ることができる。しかしこの立項はぐろりあ・そさえての前半の出版活動を示し、その後半には及んでいない。どのような経緯があってなのかは詳らかにしないが、昭和十年代になって、伊藤は麹町区内幸町の大阪ビルの一室に株式会社ぐろりあ・そさえてを置き、一般的な文芸書や学術書の出版に参入している。早川の『農と祭』もそのような一冊と考えられるし、奥付発行者は伊藤で、発行所も住所も先に挙げたとおりである。

 なお本連載752で『芥川賞全集』の発行所の新陽社の住所を記しておいたが、それは同じく大阪ビルに措かれていたことも付記しておこう。

 そうしたぐろりあ・そさえての出版物で、近代文学史に記憶されているのは「新ぐろりあ叢書」だと思われる。これは昭和十四年から十七年にかけて、全二十四冊が刊行され、その明細は『日本近代文学大事典』第六巻に掲載されているので、ここではリストアップしない。そのうちの一冊だけを入手していて、それは『農と祭』と同じ昭和十七年の再版で、本扉に「東京ぐろりあ・そさえて刊」と記された22の田中克己『楊貴妃とクレオパトラ』である。これは四六判並製二六〇ページ、「新ぐろりあ叢書」の共通するフォーマットと考えられるが、何よりの特色は各冊別装の棟方志功装幀と銘打たれていることだろう。
f:id:OdaMitsuo:20180209174040j:plain:h120(『楊貴妃とクレオパトラ』)

 田中は『日本近代文学大事典』』に立項があり、明治四十四年大阪府生まれ、東大東洋史科卒、詩人、東洋学者とある。それで『楊貴妃とクレオパトラ』の詩文集としての構成を了承するのだが、これによって北村透谷賞を受賞していたことを教えられる。それに「あとがき」から、所収の「楊貴妃伝」が『コギト』に連載されていたのも、田中が保田与重郎たちと同様に、その創刊メンバーだったからだとわかる。また昭和七年創刊の『コギト』は保田を通じて、これも昭和十年創刊の『日本浪曼派』同人たちともクロスしていた。

 『楊貴妃とクレオパトラ』の巻末広告に、「新ぐろりあ叢書」の1から22までのラインナップとその紹介が掲載されている。1の伊藤佐喜雄の長篇小説『花の宴』の紹介は次のようになされている。
f:id:OdaMitsuo:20180212115143j:plain:h120(『花の宴』)

 「花の宴」は日本浪曼派運動の生んだ最大の傑作である。これは華麗な恋愛小説であり又可憐な抒情文学である。我国に近代文学が生まれぬといふことは久しく人々の口にされた事実であるが、こゝに我々は本書を得て、初めて日本人の手になる近代小説を発見した。

 この『花の宴』は未見だが、かつて伊藤の『日本浪曼派』を読んだことを思い出した。それはもはや半世紀近く前で、潮出版社が創刊した潮新書の一冊としてだった。同書を再読してみると、高見順が『楊貴妃とクレオパトラ』を読みたいけれど、版元が品切のようなので、伊藤に貸してくれないかと頼む場面が出てきた。そればかりか、高見に貸したままになっているのを催促して返却させ、疎開先に持っていったところ、行李ごと盗まれてしまい、戦後になっても古本屋で探しているが、発行部数が少なかったために、入手に至っていないとも書かれていた。

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 ちなみに伊藤によれば、「新ぐろりあ叢書」の初版部数は千二百部ほどだったようで、ぐろりあ・そさえての伊藤長蔵は儲からない出版と著者たちへの饗応によって、家産を傾けていると噂されていたという。実際に本連載465の、戦後に新生社を興す青山虎之助への身売り話のエピソードも書かれている。

 またぐろりあ・そさえての編集者が『コギト』の同人だった長尾良、山田新之輔、若林つやたちだったとの証言も見える。それらの事実からすればぐろりあ・そさえての伊藤長蔵は保田与重郎を通じて、『コギト』や『日本浪曼派』とリンクし、主としてそれらの同人を著者とすることで、出版活動を併走させていたことになろう。


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古本夜話758 南江二郎『原始民俗仮面考』とレヴィ=ストロース『仮面の道』

 本連載756や前回と同じ地平社書房の「民俗芸術叢書」がもう一冊出てきたので、これも付け加えておきたい。それは南江二郎『原始民俗仮面考』で、やはり以前に浜松の時代舎で購入したのだが、これが「民俗芸術叢書」の一冊だと思っていなかったのである。巻末を見て、そのことに気づいた次第だ。

 そこには同書が柳田国男『民謡の今と昔』、小寺融吉『芸術としての神楽の研究』、中山太郎『祭礼と風俗』に続く四冊目として挙がっていて、「以下続刊」とあるけれど、それを確認していない。またその横には昭和四年六月の日付で、「民俗芸術叢書刊行の言葉」も掲載されているので、それを引いてみる。

f:id:OdaMitsuo:20180207174232j:plain:h120(『民謡の今と昔』)

 民俗学が、他の学問から独立したのは、そう古いことではありません。西欧に於ても、僅々半世紀を遡り得るに過ぎないのであります。然るに、今や此学問はかなりの隆盛を極めるやうになりました。民俗学の主眼とするところは、従来の、人類学・考古学のやうに、単に物質方面の探究に基礎を置かず、それらの事物を発生せしめた民族の精神生活を闡明するにあると言つていゝでありませう。それを探る方法としては、古く書き残された書物に拠るの外、或は神事として、或は芸能となり、乃至は民間のしきたり風習となつて残つてゐるものに就いて、これらを分析し考証して行くが其一つだと思ひます。恐らくは、雑誌『民俗芸術』の刊行せられる目的が、やはりそこにあるのだと信じます。私共は、過去一年有半、此雑誌によつて学び得たことの実に甚大であつたを喜ぶと同時に、更に一歩を進めたものが欲しくなりました。かくして此叢書は計画せられたのであります。(後略)

 これはまさに「同叢書」の企画編集者である北野博美の「言葉」と見なしていいだろうし、『民俗芸術』刊行のモチベーションも語られていることになる。

 それはともかく、南江二郎の『原始民俗仮面考』の「序」を読むと、彼は『人形劇の研究』をすでに上梓し、その姉妹編としての『演劇仮面・隈取の研究』への着手が述べられているそこで「その一大源泉とも云ふべき原始的民俗仮面・隈取の研究」が必要とされるので、この一冊をまとめたとある。また「日本に於いて一冊の書物としてまとまつたのはこの拙著が初めてではないかと思ふ」とも付け加えている。確かに同時代の出版物において、類書を見ていない。

 内容にしても、第一章が「原始民俗仮面概論」で、バーン編著『原始民俗概論』に基づき、「原始民俗仮面」とは未開、野蛮の民族に生じたる民間伝承の発生進化に伴うところの「その心理表現の一具象物として、おのづから作られたる最も原始的なる仮面を総称するものである」とする。それからタイラーの『原始文化』、フレイザー『金枝篇』、フロイト『トーテムとタブー』などの参照を通じ、民間伝承と信仰、仮面の始源と使用の意義が論じられていく。

金枝篇 (『金枝篇』) トーテムとタブー (「トーテムとタブー」所収)

 だが同書の圧巻は第二章の「各種原始民俗仮面考」にあり、そこには「狩猟仮面」や「トーテム仮面」から始まって、十二項目に及ぶ様々な仮面が列挙され、しかもそれぞれに実物の仮面の写真、及び挿画が添えられている。ただ著者は「可成多くの参考原書」を列記しているけれども、仮面の写真の出典を示していない。これらの様々な「原始民俗仮面」は何から引かれているのだろうか。それとも「舞踊・演劇研究家」の言として、「この仮面の各種を出来る限り古今東西にもとめて」と語っているように、自らの収集によるものであろうか。類書がないだけに、それが不明なのは残念な気がする。

 この『原始民俗仮面考』を読みながら想起されたのは、時代も造本もまったく異なるが、レヴィ=ストロース『仮面の道』(山口昌男、渡辺守章訳、「叢書創造の小径」、新潮社、昭和五十二年)であった。このアメリカ北西岸のインディアンの仮面の神話や呪術にまつわる起源を論じた、仮面の文化人類学ともいうべき一冊は、ヴォリュームにしても、思考の深さにしても、『原始民俗仮面考』が及ぶところではないけれど、仮面に関する根本的視座は共通している。しかも『原始民俗仮面考』が、半世紀以上も『仮面の道』に先駆けていることは特筆すべきことのように思われる。
仮面の道

 レヴィ=ストロースは『仮面の道』をアメリカ自然史博物館の仮面などの収蔵品のことから始めている。・そしてこの収集品に関しての不満から、マックス・エルンストやアンドレ・ブルトンたちと手分けして、当時の個人の資力の許すかぎり、ニューヨークの骨董商の出物を漁り、小規模のコレクションをなしたというエピソードを語っている。それは一九四〇年代のことで、それらはほとんど収集品の対象にもなっていなかったという。この言は南江二郎のそれと共通している。

 この南江二郎のプロフィルははっきりつかめないが、早大中退後、NHKに勤めていたようだ。『民族』の広告欄を見ると、昭和四年四月号の『民俗芸術』の「人形芝居研究」特集に、柳田国男、折口信夫、小寺融吉と並び、「我偶人劇の世界的地位とその特色」、及び「人形芝居に関する東西の文献」などを寄稿している。それらや先述した南江二郎の著書や研究からして、彼が人形芝居に関する第一人者で、「後記」にある小寺に対する出版の謝辞を踏まえると、小寺の誘いで『民俗芸術』の寄稿者、「民俗芸術叢書」の著者となっていったように思われる。


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古本夜話757 柳田国男『民謡の今と昔』と新井恒易『農と田遊びの研究』

 前回、柳田国男の『民謡の今と昔』の内容にふれなかったので、それをここで書いておきたい。柳田は明治以降の民謡の主たる発祥は村の小さな子守娘の「口すさび」、すなわち子守唄にあったと推察している。それに影響を与えたのは、労働と祭が融合した田植唄などで、「村の少女は悉く新しい笠と襷とを用意して、さゞめいて田植の日の来るのを待ち兼ねた」のである。
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 それから盆や祭礼も挙げられ、柳田は書いている。

 盆の三日を一年の最も嬉しい日としたのも、(中略)年寄りにもずっと小さい子供にも、此日はやはり面白くてたまらなかつた。(中略)盆や祭礼には漏れる者が無く、何人も鮮明なる意識を以て、静かな陶酔の中に入つて行くことが出来た。それが大部分は歌に由つて指導統率せられて居たことは、村に住んだ人ならばよく今でもまだ知つて居るであらう。
 盆よゝゝと待つのが盆だ盆が過ぎれば夢のよだ
 盆よゝゝもけふあすばかり明けりや野山で草刈りだ
 斯んなウタを歌ひつゝ、やはり村の人は他念も無く踊つて居たのである。

 このような記述を読んで、新井恒易の『農と田遊びの研究』(上下、明治書院、昭和五十六年)を想起した。著者は在野の研究者として、四十余年にわたるライフワークに取り組み、上梓に至っている。これはA5判、二冊合わせて千六百ページに及ぶ浩瀚な著作で、これもまた浜松の時代舎で入手したものの、大冊ゆえにまだ読了に至っていなかった。購入したのは、かつてどこかで塚本邦雄が田植歌に言及していたこと、私にとっても身近な東海地方の田遊びが多く紹介されていたことによっている。
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 あらためて新井の「序」から読んでいくと、彼が初めて田遊びを見たのは昭和十年で、それは東京の板橋の田遊びだった。しかも「すでに亡き先達の北野博美のみちびき」によると述べられていたのである。そして序章の「田遊びの研究」において、その田楽と異なる研究史もたどられている。

 それが学問としての研究の対象となるのは、二〇世紀に入ってからの郷土研究や民俗研究の成長を見るようになってからである。その一つの画期的な契機となったのは小寺融吉・北野博美の編集による雑誌「民俗芸術」が、一九二九年(昭和四)九月号(二巻九号)に「田遊び祭りの研究」を特集したことにある。(中略)
 「民俗芸術」の特集では、一九二九年六月の国学院大学の郷土研究会による下赤塚の田遊びの実験の記録(文は図師嘉彦・本田安次の協力で北野博美がまとめたもの。挿画は竹内芳太郎ほか)と、同催しのさいの折口信夫博士の講演の筆記「田遊び祭りの概念」(北野博士の筆記)、小寺融吉の「演劇史からみた田植の神事」ほか、下赤塚の田遊びについての二人の小論を載せている。

 ここで北野は柳田のみならず、折口の口述筆記者としての姿も見せている。ただ残念なことに、『民族』は昭和四年四月の第四巻第三号で休刊となっているので、『民俗芸術』の広告も、四月号の「人形芝居研究」特輯までで、九月号の「田遊び祭りの研究」の内容を見ることができない。また同じく折口の「田遊び祭りの概念」も、中公文庫版『折口信夫全集』には収録されておらず、それに代わる「日本芸能史」(第十八巻所収)「日本芸能史序説」や「古代演劇論」(いずれも第十七巻所収)の中での田遊びにふれた部分、及び新井の要約を参照するしかない。なお前者の筆記は新井自身が担ったようだ。
f:id:OdaMitsuo:20180209095958j:plain:h120  『折口信夫全集』第十七巻

 それらによれば、日本における田に関わる演芸は田遊び、田儛、田楽が挙げられる。田遊びは田の精霊をしずめるための鎮魂呪術で、当時の民俗芸能の影響を受け、宮廷に入り、田儛、田楽として園芸化していった。それは正月の初め、多くは多くは小正月、及び五月の田植の際に行なわれ、神楽が神遊びと呼ばれたように、田遊びでも田楽として分化し、平安朝中期以後、田遊びと田楽の双方が文献上に盛んに出てくるようになる。

 このような折口の田遊び論は新井も含めて多くの人々に影響を与えたが、新井は長年の田遊び研究者としての立場から、折口「独特の鋭い想像力と構想力による立論」では理解し難いところも少なくないし、証明もなされていないと指摘している。また柳田国男が農村や農業史に深い関心を寄せていたのに、どうして田遊び論を展開されなかったのか、不思議であるとも述べている。私は先に柳田の民謡にリンクする田植歌と祭への注視を見たが、それ以上の言及は他でも見られないということなのだろうか。

 折口の「田遊び論」に対し、新井は全国的な田遊びのフィールドワークをベースに置き、自らの「田遊び論」」を提出している。それを簡略に示せば、田遊びは農耕儀礼に胚胎し、芸能として成長するに至った。それは稲作りを中心とする春の耕作始めの儀礼、つまり年乞いの儀礼である。その田遊びが仏教の伝来とともに、寺院の正月行事としての修法結願の日に宴を張り、夜を明かす法楽を伴う修正会と結びつく。それは新しい社会基盤たる荘園制を背景とし、呪師が介在し、その呪師芸、呪法が舞楽や散楽とともに芸能化し、田遊びの芸能化を形成していったとされる。

 折口の「田遊び論」は実見した三河や遠江を中心とする西浦などの呪師、田楽、猿楽、田遊びからなる集合形態の芸能からイメージされているが、修正会のことはその思考に組み入れられていない。本連載574で、折口が実見した早川孝太郎『花祭』や須藤功『西浦のまつり』を挙げておいたが、あらためて後者の写真集を見ると、確かに田遊びと修正会の系譜を引く芸能が展開されているように思える。この遠江の西浦も過疎になって久しいと聞いている。今や祭はどうなっているのだろうか。
花祭f:id:OdaMitsuo:20180209093429j:plain:h110


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