出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話833 生田長江『文学入門』

 前回、新潮社が大正時代に入って、本格的な外国文学の翻訳出版を企画し、「近代名著文庫」を創刊したことを既述しておいた。佐藤義亮は「出版おもひ出話」(『新潮社四十年』所収)で、次のように述べている。
f:id:OdaMitsuo:20210816114129j:plain:h120(「近代名著文庫」、『サフオ』)

 新潮社が翻訳出版として認められるに至つたのは、『近代名著文庫』を企て、その第一編としてダヌンツィオ『死の勝利』を出してからである。
『死の勝利』は元来、生田長江氏が『趣味』発行所の易風社から出す筈になつてゐたものだが、長江氏はまだ無名であり、訳文も生硬だから小栗風葉氏に文章を直して貰つて共訳にしようといふ発行所の希望から手間どつてゐたのである。長江氏は金が急ぐので、自分一人の名で出してくれないかと言つて原稿をもつて来られた。私は大して生硬だと思はないし、翻訳に外国語できない人の名を冠するなどは、却つてをかしいから、訳者は一人で結構だと言つたので、話は即座に決まり、すぐ印刷にかゝつた。出版したのは、大正二年の一月である。

 ところが当時、森田草平と平塚雷鳥が塩原の雪山に死に場所を求めての逃避行が『死の勝利』の影響、もしくはその実践だと喧伝されたことで、「翻訳物としては全く記録やぶりの売れ行き」となったのである。残念ながら、この『死の勝利』は入手していないが、それより前の明治四十年に、生田長江が新潮社から出した『文学入門』が手元にある。佐藤が新声社と『新声』を手離し、新潮社と『新潮』を立ち上げたのは明治三十七年という事情も反映されているはずで、その住所は麹町区土手三番町、発行者は佐藤の義弟中根駒十郎となっている。

 四六判並製、三〇〇ページほどの、タイトルも含めて地味というしかない一冊だけれど、ひとつだけ特色があり、それは夏目漱石が七ページに及ぶ「序」を書いていることだ。そこで漱石は、自分も「いろいろな意味に於て文学の研究者」だとして、次のようにいっている。「文学になると同じく学の字はついて居るが、理学化学動物植物の諸科学とは丸で趣を異にして極めて曖昧なものになつてゐる。学と云ふ名はあるがどこが学だか薩張り分らない」。それでも「此種の著書が払底の今日」の「日本に在つては非常に有益なものと信ずる」と。

 ここであらためて出版社・取次・書店という近代出版流通システムの成立についてふれておけば、それは明治二十年代で、ちょうど近代文学の誕生と軌を一にしているし、双方ともまだ広く成長の果実を味わう地点には至っていなかった。それをふまえて、生田は書いている。

 固より今日の処では、文学がまだ一般に社会上勢力を有すること少いからして、生活はなかゝゝ楽でない。小説家で流行児となつて居る二三の人などは例外として、まづ文学者は貧乏なものとしてある。小説でも二三流と下れば、韻文の作家や評論家と同様に、報酬は極めて少く、文壇知名の士百人の中、七十人、八十人までは、地方の中学校の先生よりも、苦しい生活をして居るものと思へば、太した間違いはないのである。(中略)
 かゝる次第であるからして、将来文学者として立たうと思ふ読者は、貧乏を覚悟してかゝらねばならぬ。一時の貧乏ではない。殆んど一生の貧乏を予期してかゝらねばならぬ、貧乏に堪へ得ない人、自分ひとりはどんな貧乏にも堪へ得るけれど、打つちやつて置けない繋累があると云ふ人、さう云ふ人は文学者にならうなどと思立つべからずだ。文学者の生活は二〇三高地よりも危い、決死の勇気あるものに非ずむば、到底飛込まれるとことではないのである。

 明治末期においても、文学者の生活はこのようなものだったから、漱石のいうように「此種の著書が払底」していたのも無理もない。「殆んど一生の貧乏」を覚悟することが文学者に求められていたし、それをコアとして『文学入門』も書かれたことになる。それは新潮社と生田も同様で、『新潮社四十年』所収の「同刊行図書年表」を見てもわかる。新潮社の前身で明治二十九年創業の新声社は三十六年に破綻し、三十七年に新潮社として再出発するのだが、生田も『新声』時代からの投書家で、『新潮』創刊時からの執筆者であり、佐藤とともに「甘言苦語」という匿名コラムも書いたとされる。

 それとともに、『文学入門』に続き、『英語独習法』や『文学新語小辞典』や編著『新叙景文範』や共著『近代思想十六講』を出す一方で、翻訳としてのニイチエ『ツアラトウストラ』、トルストイ『我が宗教』や『死の勝利』なども翻訳していく。それらの延長線上に、昭和円本時代を迎え、『世界文学全集』のうちのダンテ『神曲』、ルソオ『懺悔録』(大杉栄共訳)、ダヌンツイオなどの『死の勝利他』の三冊を受け持つことで、ようやく生田も「金が急ぐ」ことから逃れたと思われる。
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 私見によれば、明治四十年の『文学入門』刊行時には文学市場はまだ成立しておらず、それは山本芳明が『カネと文学』(新潮選書)で立証しているように、大正時代における総合雑誌の相次いでの創刊などを待たなければならなかった。そして昭和に入り、円本や岩波文庫の出現に象徴されるように、ようやく文学市場が成立したのである。それは翻訳も同様で、『世界文学全集』が、それまでの買切から訳者の印税システムをも確立させたことにも寄っている。このような意味において、生田もそうした過渡期を体現した文学者だったといえよう。
新潮選書)の続編に当たる。
カネと文学


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古本夜話832 新潮社「近代名著文庫」、昇曙夢、ドストエーフスキイ『虐げられし人々』

 続けて新潮社の『世界文学全集』などに言及してきたが、それは大正時代の「近代名著文庫」に起源が求められる。だが「近代名著文庫」は『日本近代文学大事典』に明細が掲載されていないので、『新潮社四十年』からリストアップしてみる。
  

1 ダンヌンツイオ 『死の勝利』(生田長江訳)
2 ドオデエ 『サフオ』(武林無想庵訳)
3 ウイルド 『遊蕩児』(本間久雄訳)
4 ツルゲエネフ 『煙』(大貫晶川訳)
5 アルチバアゼフ 『サアニン』(中島清訳)
6 ドストエーフスキイ 『虐げられし人々』(昇曙夢訳)
7 ロチ 『郷愁』(後藤末雄訳)
8 ハムズン 『世紀病』(杉井豊訳)

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 この「近代名著文庫」はそのように銘打たれていないけれど、実質的に明治四十二年のツルゲーネフ『父と子』(相馬御風訳)から始まり、翌年の同『貴族の巣』(同前)、四十五年のロシア近代作家短篇集『毒の園』を引き継いでいるので、それらも含めれば、十一冊が出されたことになる。そしてこの企画が新潮社の翻訳出版の名を高め、その延長線上に大正九年の『世界文芸全集』や昭和二年の『世界文学全集』が成立したことは明白であろう。

f:id:OdaMitsuo:20180911113032j:plain:h120(『世界文芸全集』)f:id:OdaMitsuo:20180911142905j:plain:h120(『世界文学全集』)

 残念ながら「近代名著文庫」は入手していないが、2の昭和十四年の新潮文庫版と6の大正十年の『ドストエーフスキイ全集』版が手元にある。『サフオ』の訳者武林無想庵のことは山本夏彦の『無想庵物語』(文芸春秋)によって、その数奇といっていい生涯がたどられているが、、『虐げられし人々』の昇曙夢のほうはそうした評伝類も出されていないと思われるので、こちらを取り上げてみたい。それはこの『ドストエーフスキイ全集』全九巻の第二編に『虐げられし人々』が大正七年初版発行、同十年十七版とあり、大正三年の「近代名著文庫」版から数えれば、驚くほど版を重ねていたことになり、大正時代におけるロシア文学とドストエフスキーブームを迎え、その主要な訳者としての昇の存在を告げているからである。
無想庵物語

 それに加えて、昭和四十年代まではその余燼が古本屋の店頭に残っていて、昇によるロシア文学の翻訳をよく見かけたものである。その頃買い求めた昇の訳書として、メレジュコーフスキイ『トルストイとドストエーフスキイ』(東京堂、昭和十七年)の一冊があり、その奥付の訳者名が表紙と異なる昇直隆となっていたことから、曙夢のほうがペンネームとわかったという記憶も理由のひとつとして挙げられる。
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 しかし現在では一般的に忘れられた翻訳者と考えられるので、まずは『日本近代文学大事典』の立項を見てみると、半ページに及ぶ。そこで他のデータも加え、要約してみる。明治十一年鹿児島県奄美大島生れで、鹿児島正教会で受洗し、二十九年に神田駿河台のニコライ堂の正教神学校に入学し、三十六年に卒業後、その講師となる。明治四十年代を迎えると、ロシア文学の翻訳がブームとなり、易風社の『趣味』に二葉亭四迷と並んで、翻訳や紹介を寄せる。

 それもあって、明治四十三年にやはり易風社からロシアの新しい作家たちの翻訳小説集『六人集』、続けて先述の『毒の園』を刊行し、当時の日本の文学状況に大きな影響を与えたとされる。この二冊は昭和十四年の昇の還暦記念として、合本復刊され、巻末に四十三名の文学者たちがそれらを読んだ回想を寄せ、明治末から大正にかけてのロシア文学の熱狂的な受容を語っているとされるが、これは未見である。そうして昇は二葉亭の死後、米川正夫や中村白葉の先達として、翻訳は二百冊近く、研究書も六十冊に及び、ロシア文学の権威として、その全般にわたって書き続け、昭和三十三年に亡くなっている。また戦後は故郷奄美の日本復帰運動にも尽力し、確か奄美の民俗誌の一冊も刊行している。

 このような昇のプロフィルを確認した後で、『虐げられし人々』を繰ってみると、その巻頭には「此訳本を恩師故ニコライ太主教の霊前に献げまつる」という献辞が置かれ、昇があの正教神学校出身であることを想起させる。それに続く「序」もドストエーフスキイと『虐げられし人々』を語ってあまりある筆致を伝え、「ドストエーフスキイは人生の貧苦、窮迫、悪夢の様を如実に描きつつ、同時に作中人物の心を残る隈なく詮索して、其の底に潜んでるやうな秘密の感情までも容赦なく残念なほど解剖して居る」と述べ、次のように結んでいる。

 斯様に都会の隠れた一角を描いたといふ題材の点に於て、次に描写の様式が純写実的である点に於て、また人間の悲痛に対する深い沈痛な同情に於て『虐げられし人々』は同じ作者の処女作『貧しき人々』と共にロシヤ文学に於ける新らしい現象であつた。既に流刑以前に此の方向に傾いてゐた作者は流刑中自から人生の暗い、恐ろしい、悲惨な方面を経験して、それからは人生を観る眼が一層広く、深く、細かになつたのである。それと同時に其後は人間の天性の奥深く宿つて居る光明な分子と周囲の暗い残酷な境遇との戦闘が彼の有ゆる創作の基調を為して居る。そして作者の創作的生活に於ける此の新しい一時期に太い鮮やかな一線を画した最初の傑作が実に此の『虐げられし人々』である。

 この「序」を読んだ読者は矢も楯もたまらず、この一冊を買い求めたのではないだろうか。それは、『虐げられし人々』の驚くほどの版の重ね方が証明しているように思われる。


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古本夜話831 今日の問題社「ノーベル賞文学叢書」、『新鋭文学選集』

 やはり昭和十年代半ばに「ノーベル賞文学叢書」が刊行されている。これはマルタン・デュ・ガールの『ジャン・バロアの生涯』しか入手していないし、その巻末に三冊の既刊が記載されているのを見ているだけだが、最終的に全十八巻で完結したようだ。
f:id:OdaMitsuo:20180916115045p:plain:h120(『ジャン・ バロアの生涯』、本の友社復刻)

 この版元は今日の問題社で、その古本はよく見かけるけれども、『日本出版百年史年表』には名前を見出すことができない。実はデュ・ガールの小説の他にも、今日の問題社の単行本が手元にあり、それは昭和十八年刊行の平田禿木序文、和田芳恵解説、樋口悦編纂『一葉に与へた手紙』である。この一冊は半井桃水の手紙十通なども含み、和田がいうように、「今までの一葉論に根本的な変革を要求するであらう」ことがうかがわれ、興味深いのだが、ここではそれだけにとどめたい。
f:id:OdaMitsuo:20180917144312j:plain:h120(『一葉に与へた手紙』)

 今回ふれたいのは、その巻末広告にあるからだ。そこには「ノーベル賞文学叢書全十八巻完結」として、その明細が挙げられているし、これは『日本近代文学大事典』でも言及されていないので、それを示す。なお受賞年度は省く。
 

1 F・E・シツランパア 『しとやかなる天性』(鶴田智也訳)
2 シンクレーア・ルイス 『妖聖・ガントリー』(前田河広一郎訳)
3 マルタン・デュ・ガール 『ジャン・バロアの生涯』(青柳瑞穂訳)
4 デレツダ 『沙漠の中』(岩崎純孝訳)
5 パール・バック 『ありのまゝの貴女』(新居格訳)
6 ビヨルンソン 『日向丘の少女』(宮原晃一郎訳)
7 パウル・ハイゼ 『カプリ島の結婚』(舟木重信訳)
8 ロマン・ロオラン 『姉と妹』(高橋広江訳)
9 アナトル・フランス 『火の娘』(吉川静雄訳)
10 レイモント 『祖国に告ぐ』(三宅史平訳)
11 ロザモンド・レエマン 『舞踏への勧誘』(本田顕彰訳)
12 クヌウト・ハムスン 『白夜の牧歌』(宮原晃一郎訳)
13 ラドヤード・キプリング 『印度物語』(佐久間原・渡鶴一訳)
14 トーマス・マン 『主人と犬』(江間道助訳)
15 ルイーヂ・ピランデル 『或る映画技師の手記』(岩崎純孝訳)
16 ゲルハルト・ハウプトマン 『女人島の奇蹟』(逸見広訳)
17 イワン・ブーニン 『村』(中村白葉訳)
18 セルマ・ラーゲンレーフ 『エルサレム』(前田晃訳)

f:id:OdaMitsuo:20180917143647j:plain:h120(『主人と犬』)

 これらは3の『ジャン・バロアの生涯』がそうであるように、B6判フランス装、裕伊之助装幀、定価一円八十銭とされている。ただし3は二円二十銭だから、ページ数によって異同があるはずで、刊行は昭和十五年から十七年にかけてと推測され、いわば大東亜戦争下における外国文学全集と見なせるし、版権を含めて、どのようにして企画編集が進められたのか、気になるところだが、それらの手がかりはつかめない。

 それでも「ノーベル賞文学叢書」というコンセプトから、先に挙げたように、翻訳陣を広く集めなければならないことは明瞭で、『ジャン・バロアの生涯』にしても、青柳の「序」によれば、第二部は高橋広江、第三部は佐藤朔によるとある。それゆえに奥付に見える今日の問題社の発行者の伊藤隆文がそれ以前に、外国文学を発行する出版社に関係していたことは確実であると思われる。

 そればかりか、『一葉に与へた手紙』の巻末には同様に、『新鋭文学選集』全十五巻の掲載があり、既刊として、野村尚吾『旅情の華』、中島敦『南島譚』、南川潤『白鳥』が挙がっている。これには「全篇書下し長篇を主とし何れも近来の力作を輯めて日本文学に新世代の息吹きを与へんとした野心的傑作ばかりであります」とのコピーが付されている。この『新鋭文学選集』のほうは幸いにして、『日本近代文学大事典』に立項され、昭和十九年にかけて第十二巻までが刊行されたようだ。

 先の三人に続いて、それらの「現文壇に特異な性格を放つ新鋭作家」と作品も挙げておこう。井上友一郎『雁の宿』、野口富士男『黄昏運河』、長谷健『新星座』、福田定吉『風眠る』、高木卓『復讐譚』、牧屋善三『新生』、和田芳恵『離愁記』、田中英光『端艇漕手』、白川渥『山々落暉』で新たに福田が加わっている。予定されていたのに刊行されなかったのは宮内寒弥、牧野吉晴、丸岡明、織田作之助である。

 これらはやはりB6判、鈴木信太郎装幀の美本とされるが、残念ながらすべて未見で、『日本近代文学大事典』によれば、刊行者は伊藤彰となっている。それは『一葉に与へた手紙』と同じで、東京市芝区田村町に位置する今日の問題社が、伊藤隆文と伊藤彰という、おそらくは兄弟によって、昭和十年代半ばに立ち上げられたことを示唆しているのだろう。このような大東亜戦争下における出版社の設立は想像する以上に活発で、用紙配給の割当権をもつ出版文協=日本出版協会加盟出版社数は十六年には千七百社、十八年四千七百社、十九年千二百社となっていた。それに十八年からは一元配給の日配は買切制に移行したことで、用紙の割当を獲得すれば、皮肉なことに戦時下において出版ビジネスはかつてない好況を見出していたのかもしれないし、岩波書店の買切制もその時代の恩恵ともいっていい。そうした例を本連載786などで見ている。

 もはや現在となってはその時代のことはほとんど記録として残されておらず、時代の証人にしても大半が鬼籍に入ってしまい、その詳細をリアルに浮かび上がらせることができない。ただそれを抜きにして、戦時下における外国文学や文芸書出版の隆盛を語ることはできないように思われる。


odamitsuo.hatenablog.com


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古本夜話830 新潮社『世界新名作選集』とウィルダア『運命の橋』

 昭和十年代半ばに、新潮社も新たな外国文学シリーズを立ち上げている。それは『世界新名作選集』で、まずそのラインナップを挙げてみる。

1 ヘルマン・ヘッセ 『放浪と懐郷』(高橋健二訳)
2 ドリュ・ラ・ロッシェル 『夢見るブルジョア娘』(堀口大學訳)
3 フランク・スウィナトン 『ノクターン』(織田正信訳)
4 ソーントン・ウィルダア 『運命の橋』(伊藤整訳)
5トーマス・マン 『混乱と若き悩み』(竹山道雄訳)
6 フランソワ・モーリアック 『夜の終り』(杉捷夫訳)
7 ハロルド・ニコルソン 『美しい海』(阿部知二訳)
8 シヤーウッド・アンダスン 『懊悩する魂の群』(高垣松雄訳)
9 ジヤン・ジオノ 『愛情の力』(片山敏彦訳)
10 アンドレ・モロア 『母と娘』(河盛好蔵訳)
11 ロザモンド・レエマン 『舞踏への勧誘』(本田顕彰訳)
12 ウイラ・キヤザー 『別れの歌』(滝口直太郎訳)
13 アンドレ・ジイド 『窄き門』(山内義雄訳)
14ノーマン・ダグラス 『夜風』(中野好夫訳)
15 ジュリアン・グリーン 『深夜』(新庄嘉章訳)

 f:id:OdaMitsuo:20180914144541j:plain:h120(『運命の橋』) f:id:OdaMitsuo:20180916164708j:plain:h120(新潮文庫版)

 この中の4の『運命の橋』だけを入手していて、これはその巻末に掲載されたリストを転載してものである。実際に『新潮社七十年』では言及されていないし、「新潮社刊行図書年表」を確認すると、昭和十五年に4に加え、1、2の上、3、5、12が出ただけで、中絶してしまったとわかる。しかし『運命の橋』の奥付を見る限り、昭和十五年八月初版発行、同十月廿二版とある。このような奥付記載の信憑性の問題は承知していても、売れ行きはきわめて好調だったと見なせよう。

 それに本連載でもずっとふれてきたように、フランス文学を始めとする訳者たちも揃っているし、刊行を続けてもそれなりの売れ行きは保証されていたはずで、やはり大東亜戦争の進行に伴う新潮社の事情による中絶と考えていいのかもしれない。先の「同年表」を見ても、昭和十六年以後はセルヴァンテスの『ドン・キホーテ』(片山伸訳)全四巻が目立つくらいで、所謂「世界新名作」は見当らなくなっている。

 それならば、この時代に「世界新名作」として選ばれた『運命の橋』のソーントン・ウィルダアとはどのような文学者なのか。『増訂新版英米文学辞典』(研究社)にその立項を見出せるし、伊藤整の「訳者後記」の著者紹介と少し異なっているので、こちらの前半を引いてみる。

増訂新版英米文学辞典

 Wilder Thornton Niven(1897~1975)アメリカの小説家・劇作家。Wisconsin 州生まれ。父が香港総領事の時8年ほど中国で少年時代をおくり、のちYale 大学を卒業して New Jersey州のLawrenceville school (1921-8)やChicago 大学(1930-6)で教鞭をとった。その間文筆をとり、ローマ近くで高踏的な生活を営む一団の人々を風刺的に描いた最初の小説The Cabala(1926)を発表。また戯曲The Trumpet Shall Sound を小劇場で上演したりしたが、第18世紀ペルーを舞台にしたThe bridge of San Luis Rey(1928;Pulitzer 賞受賞)で一躍著名になった。(後略)

 このThe bridge of San Luis Rey が『運命の橋』の原書タイトルで、戦後になって岩波文庫から出されたワイルダー『サン・ルイス・レイ橋』(松村達雄訳、昭和二十六年)が同じ原著によるとわかる。

The bridge of San Luis Rey サン・ルイス・レイ橋

 これがピューリツア賞を受賞したのは昭和三年であるわけだから、確かに「世界新名作」に当たるだろうし、日米関係が緊迫している中にあっても、ヴェルヌ条約十年留保によって、翻訳も可能とされたのであろう。ただ戦前の場合、宮田昇の『昭和の翻訳出版事件簿』(創元社)などによって、それらの翻訳出版事情も明らかにされつつあるけれど、出版社固有の処置も生じているだろうし、その個々のケーススタディを把握することは難しい。それは『運命の橋』だけでなく、『世界新名作選集』にしても、様々なケースがあると思われる。
昭和の翻訳出版事件簿

 それらはともかく、この『運命の橋』は「一七一四年の七月二十日、金曜日の正午に、ペルウで最も美しい橋が壊れた、その上を歩いてゐた五人の人間は深い谷底の淵に落ちた」と始まっている。このフランス王聖ルイにちなんだサイ・ルイス・レイ橋は百年以上前にインカ人たちが柳條でつくったもので、リマの遊覧客だけでなく、総督や大僧正も渡り、永久にその姿を保っていくものとされていた。ところが壊れるという椿事が起きたのだ。

 それを目撃したフニペル神父はどうしてあの五人にだけ災難がふりかかったのか、それは偶然なのか、それとも神の心によって死んだのかと思った。そして彼は死んだ五人、つまり侯爵夫人ドナ・ユリアとその女中ペピタ、秘密の言語を話す双生児の片われエステパン、ピオ小父さんと歌姫の息子ハイメの内密の生活を探求し、その本当の理由をつかもうと決心するに至る。その調査はとても分厚い本になったが、大広場の民衆を前にしての梵書となってしまった。しかしそれは秘かに書きうつされ、何十年後にサン・マルコ大学図書館で見つかり、五人に神の英知が訪れたとの結論が書かれていたのである。それゆえに「私」は神父が気づかなかった五人の「生活の中心となった情熱の根源」に迫ろうとする。それが『運命の橋』ということになろう。

 伊藤整の「訳書後書」から伝わってくるのは、日米関係の緊迫化の中での「運命の橋」の行方への透視であるように思われる。それが『サイ・ルイス・レイ橋』を『運命の橋』へとタイトルを変えた理由だったのではないだろうか。


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古本夜話829 『新潮社七十年』と山内義雄訳『モンテ・クリスト伯』

 河盛好蔵は『新潮社七十年』において、創業者の佐藤義亮の企画編集による『世界文学全集』の成功が、大出版社としての基礎を固めたと述べている。これは昭和二年から七年にかけての第一期全三十八巻、第二期全十九巻に及ぶ六年間にわたる出版であった。この第一期の古典的「昨日の世界文学」と第二期の新たな「今日の世界文学」の内容明細は『日本近代文学大事典』に掲載されているので、必要であれば、ぜひ参照してほしい。

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 この完結によって、『世界文学全集』のコンセプトが確立されると同時に、世界文学の広範な読者層が発見されたことになる。それは河盛も指摘しているように、新潮社の『世界文学全集』が従来の生硬な翻訳を克服し、「読んで分る翻訳」「美しい日本語になっている翻訳」を作り出すという功績に支えられていた。そのことに関して、河盛は具体的に例を挙げ、佐藤義亮がどのように校正に取り組んだかに言及している。

 この全集で『モンテ・クリスト伯』の翻訳を担当した山内義雄の思い出によれば、義亮は初校から三校四校にいたるまで丹念に目を通し、校正刷には、いたるところに、訳文についての仮借のない批評や注文や助言や激励の言葉が書きこまれていたという。義亮は外国語の全然読めない人であったが、彼が意味不明として指摘した個所は必ず誤訳や読みちがいをした個所であったという。山内に向って「あなたの翻訳はまだ鷗外や上田敏の亡霊に取りつかれている」と忠告し、『モンテ・クリスト伯』のような大衆小説はいかに翻訳すべきかについて、さまざまの貴重な助言を与えてくれたそうである。これは他の訳者に対しても同じであったにちがいない。

 ここで山内義雄訳のデュマ『モンテ・クリスト伯』(『世界文学全集』第十五、十六巻)の例を挙げたのは、これも前々回の『レ・ミゼラブル』と同様に、初めてのフランス語原書からの全訳であるからだ。新潮社は大正八年に「泰西伝奇小説叢書」として、谷崎精二、三上於菟吉訳『モントクリスト伯爵』全二冊を刊行している。これは未見だが、本連載402、435で、三上の翻訳にふれているように、英訳からの重訳なのは明らかで、やはり『レ・ミゼラブル』の『世界文学全集』への収録とも関連して、原書からの全訳が試みられることになったのだろう。
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 佐藤が山内に対して、「上田敏の亡霊」だといっているのは、明治二十七年生まれの山内が東京外語学校仏語科を経て、京都帝大に進み、上田の薫陶を得たことをさしている。上田の死後、東京帝大仏文科選科に進み、大正十二年に新潮社から「現代仏蘭西文芸叢書」の一冊として、ジイドの『狭き門』を翻訳し、その翌年にやはりジイドの石川淳訳『背徳者』が続いている。山内と新潮社の関係はジイドの翻訳を通じて始まり、『モンテ・クリスト伯』へとリンクしていったと推測される。

f:id:OdaMitsuo:20180914135721j:plain(『背徳者』)

 いうまでもなく、『モンテ・クリスト伯』は黒岩涙香によって『巌窟王』として翻訳紹介され、山田はその「序」において、「これを読んで誰か、その大いなる息吹に触れて胸を高鳴らさなかつたものがあつたろうか」と始め、次のように続けている。

 デュマがこの書を成したのは一八四五年、彼が四十二歳の時であつた。戯曲を以て一世を風靡した彼が、更に筆を転じて小説に向ひ、往くとして可ならざるなき偉大なる才腕を示したが、特にその異常な精力を傾倒したものは、彼が、畢生の大作たる『モンテ・クリスト伯』一部である。結構の雄大と、変幻怪奇を極めた着想とは、古今にその類例甚だ少なく、真にデュマ一代の傑作を似て許さるべきものであると共に、主人公ダンテス、後にモンテ・クリスト伯の一身を通じて、作者がそこに描き来つた、純真王の如き青年の思慕と、後に冷厳氷の如き理性に包んだ燃えあがる理想感とは、共に世に対し、人に対する作者自身のあらゆる感懐を現せるものとして、読む人の肺腑に徹せしめずには措かない。

 そしてさらに山内はその「序」の後記に、「本書の上梓にあたり、校正その他の点に関し新潮社佐藤義亮氏をはじめ、調査部の諸氏から異常な尽力にあづかつたことを特記して」いる。それは先の河盛の記述を裏づけるものである。これをあらためて読み、佐藤の意図はこれまでの黒岩訳『巌窟王』を、原書からの山内の翻訳によって、『モンテ・クリスト伯』として、新潮社のもとへと奪還することにあったように思えてくる。

 ちょうど前々回の『レ・ミゼラブル』もまた黒岩訳『噫無情』として読まれていたことからすれば、この大衆文学の物語祖型ともいうべき二作を、新潮社は『世界文学全集』への収録によって、囲い込むことに成功したといえよう。それゆえに、この二つの作品はさらに岩波文庫化され、現在でも読むことができるのではないだろうか。
f:id:OdaMitsuo:20180914153617j:plain:h120(『噫無情』)

 とりわけ『モンテ・クリスト伯』こそは、無実の罪での牢獄生活、そこから脱出帰還、そして始まる復讐の物語は、本連載483の村雨退二郎『明治巌窟王』ではないけれど、日本においても広範に同様の物語祖型を伴う無数の小説、映画、ドラマ、コミックを生み出していったのである。そのような例として、私はやはりユゴーの松本泰訳『ノートルダムのせむし男』にふれ、「講談社版『世界名作全集』について」、及び「松本泰と松本恵子」(いずれも『古本探究』所収)で、その長きにわたる児童文学分野での使い回しを追跡している。おそらく『モンテ・クリスト伯』はそれどころではないはずだし、船戸与一の『猛き箱舟』(集英社)にまで及んでいるはずだ。これもよろしければ、拙著『船戸与一と叛史のクロニクル』(青弓社)を参照されたい。

古本探究 猛き箱舟船戸与一と叛史のクロニクル

 また訳者の山内といえば、本連載816でもふれておいたように、昭和十三年からのマルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』 の翻訳とその戦後のロングセラー化によって知られているが、むしろこの『モンテ・クリスト伯』の翻訳のほうが、その後の様々な物語に対して、広範な影響を及ぼしたこと確実である。それらのことを考えると、山内の『モンテ・クリスト伯』の翻訳のほうがその功績として、格段に大きいように思われる。

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