出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話972 ジェネップ『民俗学入門』

 本連載936のバーンの岡正雄訳『民俗学概論』に続いてとは言えないけれど、その五年後の昭和七年にヴァン・ジェネップの後藤興善訳『民俗学入門』が、郷土研究社から刊行されている。
 その第一章は「フォークロアの歴史」と題され、次のように始まっている。
f:id:OdaMitsuo:20191122175107j:plain:h120 (『民俗学入門』)

 フォークロアFolk‐Lore[日本では民俗学とか民間伝承学とか俚伝学と普通訳されてゐる]といふ語は英語からの借用語で、フォークfolk は民衆を意味し、ロアlore は知識、研究の義である。この学問の目的とする所は、即ち民衆を研究することである。この語はトムスW.J.Thomas によって一八四六年全く別々の語から作られた。彼はこの語を、民間古俗Popular antiquities (それは英国の農民の間の信仰と習俗を記述したブランドBrandt の名著の標題である。)という厄介な表現の代わりに使つたのである。

 後藤は「訳者小言」において、「この小冊子はフランスのフォークロリスとして令名のあるArnold Van Genep のLe Folk‐Lore といふ手引書のやゝ詳しい梗略であつて、精密な意味の翻訳からは幾分遠いものである」と述べている。しかしその言をふまえても、この書き出しは明らかにバーンの『民俗学概論』を範としているし、これはフランス版『民俗学概論』と見なせよう。

 それを示すように、この一三三ページの「小冊子」は第二章から四章までが「フォークロアの領域」「研究方法」「構図」、第五章から十章がそれぞれ「説話と伝説」「民謡と踊り」「遊戯と玩具」「儀式と信仰」「民家・家具・衣服」「民間工芸」という構成である。これもバーンの民間伝承の主要項目と亜項目とに照応していることになろう。

 ヴァン・ジェネップは『通過儀礼』(秋山さと子、彌永信美訳、思索社、昭和五十二年)の著者だと認識していた。そこで彼は諸文化に見られる様々な儀礼がその総合的機能からすると、年齢、身分、場所などの変化を伴い、分離、移行、合体というプロセスをたどるというイニシエーションを唱えたことでよく知られていたことも。だがこのような入門書を上梓していることは知らずにいた。それもあって、同書所収の「ヴァン・ジェネップ著作目録」を確認してみると、Le Folklore.Croyances et coutumes populaires françaises(Stock,1924)が見つかり、128pとあるので、おそらくこれが原本だと思われる。

通過儀礼

 ジェネップは『文化人類学事典』にファン・ヘネップとし立項されているので、それを要約してみる。彼はオランダ系の民俗学・民族誌学者で、西ドイツ生まれだが、幼児よりフランスで教育を受けた。東洋語学校でアラビア語、高等研究実習院では言語学、エジプト学、宗教学などを学び、外務省情報部などを経て、スイスのヌシャテル大学の民族誌学講座の教授となった。だが三年で辞職し、その後は寄稿、翻訳、講演で過ごし、デュルケムを中心とするフランス社会学を批判し続けたが、ジェネップの名を高らしめたのは一九〇九年に発表した『通過儀礼』によってだとされる。

文化人類学事典 

 これらの事実からすれば、『民俗学入門』は『通過儀礼』から十五年後に刊行された『民俗学手引き』といったもので、それこそ生活のために書かれたのであろうし、そのことを知ると、先の「著作目録」に見られる多岐にわたる大量の執筆や出版が理解できるように思われる。ただよくわからないのがデュルケムとの確執で、『通過儀礼』の「訳者あとがき」にもふれられている。それによれば、マルセル・モースも『社会学年報』で、『通過儀礼』に対して厳しい批判を唱えたゆえか、ジェネップはフランス民俗学の創始者の一人、社会、宗教学の理論家だったにもかかわらず、長きにわたって再版されることなく、「まぼろしの名著」として知られていたという。

 時代的にいえば、ジェネップは一九〇四年に高等研究実習院の卒論『タブーとマダガスカル島のトーテミズム』を上梓し、『通過儀礼』の出版当時、モースは高等研究実習院で「非文明民族の宗教史」講座を担当していたことから、交流はあったはずだと考えらえる。

 すでに本連載935で、『民族』をめぐっての岡正雄と柳田の確執にふれてきたし、あえて言及しなかったけれど、それは『柳田国男伝』も指摘しているように、岡と柳田の長女三穂との縁組が実らなかったことにも起因していたのである。それは他ならぬ『民俗学入門』を出版した郷土研究社の岡村千秋も、そうした柳田の雑誌と書籍出版の編集代行者だったし、彼を抜きにして柳田の出版道楽は成立しなかった。

 岡正雄は「岡村千秋さん」(『異人その他』所収、言叢社)で、岡村を通じて柳田に接し、民俗学に入った人も少なくなかったと記している。岡茂雄も『閑居漫筆』(論創社)で、郷土出版社の経営に苦しんでいるにもかかわらず、柳田は「その辺の消息には一向にお構いもなく、何かにつけて辛辣な小言を岡村氏に浴びせられるようで」「私は同情に堪えなかった」と書いている。なおこれらのことに関しては拙稿「出版者としての柳田国男」(『古本探究Ⅲ』所収)などを参照されたい。

異人その他  f:id:OdaMitsuo:20190804114900j:plain:h110 古本探究3

 この事実に言及したのは、デュルケムやモースの寡作な姿勢に対し、もちろん思想的なものも含め、ジェネップの広範囲に及ぶ多作ぶりは認められないもので、それも彼らの確執の一因になったのではないかとも考えられたからである。つまり執筆や出版をめぐっての確執であり、それは『民族』そのものが民俗学と民族学をめぐって体現していたからに他ならなかったのである。

 
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古本夜話971 三国書房、「女性叢書」、江馬三枝子『飛騨の女たち』

 前回の六人社の「民俗選書」として刊行されなかったが、江馬三枝子の『白川村の大家族』が挙げられていたことを既述しておいた。

 本連載489などで、江馬修が『山の民』を飛騨の郷土研究誌『ひだびと』に連載し、その編集や執筆を支えたのは妻の三枝子だったことにもふれた。そして彼女は『ひだびと』と『民間伝承』の関係から、江馬によって柳田国男のもとに送り込まれたと推測され、柳田の『木綿以前の事』(『柳田国男全集』17所収、ちくま文庫)の中に、「江馬夫人」として姿を見せている。
(冬芽書房版)木綿以前の事

 また『柳田国男伝』おいても、戦後を迎え、柳田が女性民俗学研究者の養成に力を傾け、それが女性民俗学研究会(通称「女の会」)で、その写真が掲載されているけれど、不鮮明なこともあり、江馬三枝子がいるのか確認できない。この女性民俗学研究会の前身は、昭和十六、七年頃に瀬川清子たちが始めていた柳田の著作をテキストとする読書会だった。その時代に「民俗選書」で、瀬川|『きもの』も出されていたことになる。

 やはり同時代に、こちらは三国書房から江馬三枝子の『飛騨の女たち』も刊行され、戦時下の母性問題に関して多くの論議を呼んだと、『柳田国男伝』でも書名が挙げられている。実は本連載489で、江馬の『飛騨の女たち』『白川村の大家族』の版元が三国書房であることを記しておいたが、実物は未見であった。ところがその後、『飛騨の女たち』と山川菊栄『武家の女性』を入手し、それらが「女性叢書」としての刊行であることを知った。

f:id:OdaMitsuo:20191123104839j:plain:h110(『白川村の大家族』)武家の女性

 この叢書は四六判上製、二五〇ページ前後のシリーズで、装幀は今純三、双方の巻末広告から、次のようなラインナップだとわかる。それらを挙げてみる。

1 柳田国男 『小さき者の声』
2 瀬川清子 『海女記』
3 江馬三枝子 『飛騨の女たち』
4 能田多代子 『村の女性』
5 今和次郎 『暮らしと住居』
6 西角井正慶 『村の遊び』
7 篠遠よし枝 『暮らしと衣服』
8 山川菊栄 『武家の女性』

f:id:OdaMitsuo:20191121174139j:plain:h110 

 またさらに10冊ほど続刊されているようだが、ここでは江馬の『飛騨の女たち』を取り上げておくべきだろうし、「著者に贈る言葉」を寄せているのは、まさに柳田でもあるからだ。彼は「この御本を拝見して」、明治四十年の飛騨の白川の旅を回想し、「それはそれは寂しい旅でありました。(中略)村の人たちは皆山畑に登つて働いて居たのか、どの家も森閑として居りました。細い街道の曲り目の端まで、誰もあるいて居ないといふ処が何度もありました。さうして雨が折々降つて来たのであります」と書いている。
f:id:OdaMitsuo:20191121113937j:plain:h115

 しかし大正時代になると、木曜会同人の橋浦泰雄や瀬川清子たちもこの山村を訪れるようになった。さらに「あなたのさまざまな理解ある批評者が、親しく白川の女たちと、何度でも心を語りかはす機会」を持つことができたことにより、「あなたの日和下駄の音が、この深い谷底に響くやう」だとまで、柳田はオマージュを贈っている。それはこの時代にあって、民俗学の視座から飛騨の山村が新たに見出され、その家や家族や生活が注目され始めたことと通底しているのだろう。

 それを物語るように、江馬もその「自序」で、「私も幾分のお手つだひをした」奥飛騨の山村の冬の生活を描いた文化映画『ひだびと』が公開され、「皆さんの中には御覧になつた方も少くない」と書いている。またこの映画を見せられ、飛騨出身の都会生活者は、他国の人々に、飛騨人が「あんな山奥の暮らし」をしているとの不平が伝わってくるということも。それらも飛騨の山村が全国的な注視の的になっていることを示していよう。

 その懸念も含めて、江馬は「飛騨山村の女たちの生活」を提出するが、それは飛騨高山に住み、『ひだびと』を編輯し、民俗を十年近く研究してきた「民俗学の一学徒として」だという断わりを述べている。そして白川村の大家族制における女たちの特異な位置と生活がレポートされていくのである。

 そうした時代の飛騨に対する注目を証明するかのように、昭和十七年十二月の初版は五千部、翌年二月再版五千部はそれらの事実を告げている。発行者を花本秀夫とする三国書房は東京市小石川区指ヶ谷町にある。花本のプロフィルは判明していないけれど、著者の江馬、瀬川、能田が六人社の「民俗選書」と共通していることからすれば、六人社に関係の深い人物だったと考えられる。またこの三人に山川や篠藤を加えて、「女性叢書」というシリーズを企画した事実から推測すると、瀬川たちが戦時下で始めていた柳田の著作の読書会、後に女性民俗学研究会へと展開していった系譜に連なっていた人物なのかもしれない。私見としては、大東亜戦争下において、「女性叢書」を立ち上げているわけだから、後者のほうがふさわしいように思える。


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出版状況クロニクル139(2019年11月1日~11月30日)

 19年10月の書籍雑誌推定販売金額は938億円で、前年比5.3%減。
 書籍は470億円で、同3.2%減。
 雑誌は468億円で、同7.4%減。
 その内訳は月刊誌が380億円で、同6.0%減、週刊誌は87億円で、同12.9%減。
 返品率は書籍が37.0%、雑誌は43.3%で、月刊誌は43.5%、週刊誌は42.3%。
 実際の書店売上は消費税の10%増税と、台風19号とその後の豪雨などにより低調で、書籍は8%減、雑誌は定期誌5%減、ムック12%減、コミックスだけが『ONE PIECE』の新刊と『鬼滅の刃』の大ブレイクで4%増とされる。
10月で、書籍雑誌推定販売金額はようやく1兆円を超え、1兆293億円となっているが、4.3%マイナスで、下げ止まりの気配はまったくないままに、年末を迎えようとしている。

ONE PIECE 鬼滅の刃


1.上場企業の書店と関連小売業の株価をリストアップしてみる。
 

■上場企業の書店と関連小売業の株価
企業18年5月
高値
18年11月21日
終値
19年11月21日
終値
丸善CHI363348377
トップカルチャー498382345
ゲオHD1,8461,8401,326
ブックオフHD8398081,082
ヴィレッジV1,0231,0781,110
三洋堂HD1,008974829
ワンダーCO1,793660726
文教堂HD414239159
まんだらけ636630604
テイツー42

 同じリストを掲載したのは本クロニクル127だったので、早くも1年が過ぎてしまったことになる。
 全体として前年比は横ばいといっていいかもしれないが、文教堂を始めとして、来年は株価も厳しい状況へと追いやられていくだろう。
 それにしてもCCC=TSUTAYA が非上場化したこともあり、株価への影響が確認できないのは残念である。それゆえにここではCCC=TSUTAYAのFCとして最大のシェアを占めるトップカルチャーの株価の推移を注視すべきだろ。3年続きの赤字決算を避けられるだろうか。
 いずれにせよ、大型複合店も2020年はかつてない至難の年を迎えることになろう。

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2.『選択』(11月号)が「事業再生HOR成立の文教堂 無理筋の再建策を冷笑する書店業界」という記事を発信している。
それは「これで本当に再建できるか]との声がしきりで、一連の増資にしても、ちょっとした最終赤字を計上しただけで債務超過に逆戻りしてしまうし、アマゾンや電子書籍の普及により、書店ビジネスは逆風下にあるとし、次のように述べている。

「文教堂GHDは不採算店舗の閉鎖や、赤字のキャラクターグッズ販売事業のビッグカメラグループへの売却、利益率の高い文具販売の強化などで、20年8月期に1億円強の最終黒字(前期は40億円弱の赤字)復帰を目指すとしているが、業界筋は「画に描いた餅」として一蹴。「再建策ではなく延命策」と皮肉っている。」

 これは前回の本クロニクルで、文教堂GHDのADR手続きの成立とそのスキームにふれ、「先送り処置」に他ならないと指摘しておいたことをふまえているのだろう。だが業界紙も経済誌も、日販と文教堂への忖度からなのか、言及を見ていない。
 また文教堂の10月の閉店は6店、800坪近くに及んでおりそれは売上のマイナスと多大な閉店コストを積み上げていくはずだ。何のための事業再生ADRだったのかが問われる日もくると考えるしかない。



3.日販から出版社宛に「『令和元年台風第19号』による被災商品入帳及び被災書店様復興支援のお願い」が届いた。

 さて本年10月に発生しました「令和元年台風第19号」の影響により、東日本地域の広範囲で浸水が発生し、その結果、浸水が発生した書店様におきまして、泥水による汚破損商品が発生しております。
 今回の台風被害につきましては、商品の汚破損の度合いが非常に高いため、返品そのものができず、やむを得ず廃棄処理せざるを得ない状況となっており、これらの商品について、返品入帳の取扱いの問題が生じております。
 この問題につきましては、弊社において、台風で大きな被害を受けた被災書店様を支援するため、被災書店様の汚破損品を原則として、全品返品入帳することを決定し、被災書店様にお知らせ申し上げております。
この返品入帳対応におきましては、台風により被害を汚破損商品についての対応であり、汚破損の程度も著しいものがほとんどであることから、現品の返品は求めず、被災書店様において破棄していただき、被災書店様の在庫をベースとして行うことを予定しております。

 上記対応により汚破損等(期限切れとなった商品を含みます)で通常返品が不可能となった商品について、被災書店様のご負担がなくなり弊社がその負担を負うことになりますが、汚破損商品は台風という自然災害により発生したものであることから、出版様にも返品入帳に特別なお取り計らいを賜りたくお願い申し上げる次第です。

 出版社様におかれましても、台風によって一時的に多数の返品が発生するなど、多大な影響を受けていることは十分理解しておりますが、弊社としましては、被災書店様及び被災地域の復興のために全力で支援して参りますので、支援へのご協力をご検討いただきたく重ねてお願い申し上げます。
 大変恐縮なお願いではありますが、ぜひとも趣旨をご理解頂き、別紙回答書をご返送いただくようお願い申し上げます。
 尚、本お願いに対するご回答につきましては、貴社の任意のご判断にお任せ致します。ご回答の内容いかんによって貴社との間の通常の取引に影響を与えることはございませんので、念のため申し添えます。

 これに続いて、「蔦屋書店東松山店」の大雨浸水写真と、同店の「被災商品銘柄別一覧」と「被災品回答書」が添えられている。

 これも前回の本クロニクルでふれておいた、1.6メートルの浸水をこうむった蔦屋書店東松山店の返品問題が、早くも出版社へとはね返ってきたことになる。先に記しておけば、蔦屋書店東松山店はまさに
のトップカルチャーのチェーン店である。
 しかし取協によれば、台風19号による被害書店は全取次で56店に及んでいる。それにもかかわらず、日販が蔦屋書店東松山店だけのために、このような文書を出版社に出すこと自体が「忖度」を想起させる。それに法的に書店在庫は書店の資産とみなされているはずだし、上場企業であるからにはそれなりの災害保険に入っていると考えられる。
 それなのに日販が率先して「全品返品入帳」し、しかもそれが「被害書店様の在庫データをベース」とし、さらにそこに通常返品不能品も含まれるようだから、徳政令に近い。こうした台風に毎年見舞われるかもしれないとすれば、悪しき先例となる可能性もある。
 もちろん同様の処置が東日本大震災において実施されたことは承知しているけれど、このような書店のために文書が出されることはかつてなかったはずだ。
 小出版社と異なり、膨大な返品金額となる大手出版社は、この日販の「お願い」に応じるのであろうか。



4.日経BPと日本経済新聞出版社が2020年4月に経営統合、日経BPが持続会社として、売上規模400億円、社員800人の出版社になる。
 統合後の日経BPはデジタル、雑誌に加え、経済専門書、経営書、ビジネス書、技術・医療ムックなどを手がける日経グループの総合出版社に位置づけられる。

 日経BPは1969年にマグロウヒル社との合弁で設立され、売上高は368億円だが、日本経済新聞出版社は2007年に日経新聞社の出版局を分社化して設立され、売上高は36億円である。
 おそらく後者は分社化したものの、出版状況の凋落の中で、当初の予測に見合う売上高に到達せず、このような統合に至ったと思われる。
 各新聞社の分社化による出版局は黒字化も伝えられているけれど、内実はかなり苦しいのではないかと察せられる。



5.『月刊文藝春秋』はピースオブケイクが運営するプラットフォーム「note」で、月900円読み放題。『週刊文春』もニコニコチャンネルで運営している「週刊文春デジタル」をリニューアルし、月880円で読み放題となる。

 これはKADOKAWAの売上高のうちで、書籍・雑誌のシェアは25%を割りこみ、電子書籍はその半分以上の規模になっていること、もしくは講談社の今期決算が増収増益の見通しで、デジタル広告収入が広告収入の5割を超えるという近況などに対応する試みと判断される。
 ただ両社は続いて、KADOKAWAは「ところざわサクラタウン・角川武蔵野ミュージアム」事業、講談社は池袋での「LIVEエンターテインメントビル」の開設に向かっている。それらの行方の是非はともかく、文春などもそのような試みへと参画していくのであろうか。



6.自由国民社の『現代用語の基礎知識』が従来のB5判と異なる、B5判変型とコンパクトになり、ページ数も1000ページから300ページへとリニューアルされ、定価も従来の半分の1500円となった。

現代用語の基礎知識

『現代用語の基礎知識』の固定的イメージはその厚さにあり、それは婦人誌や少年少女誌の付録も含んだ厚さと共通していたし、長きにわたって、12月から1月にかけての書店の雑誌売り場の正月の風物詩のような平積み光景の立役者の位置にあった。
 しかし今回の平積みは数冊で、平台のよい場に置かれていたにもかかわらず、表紙が黄色であり、すぐにそれが『現代用語の基礎知識』だと認識できなかった。
 考えてみれば、『現代用語の基礎知識』が自由国民社の長谷川国雄によって、1948年に戦後の新事態を知りたいという読者の要望をコアとする新しいジャーナリズムをめざし、創刊されてから、すでに70年余が過ぎている。
 主婦を対象とする婦人誌の時代が終わってしまったように、『現代用語の基礎知識』のリニューアルは、戦後の読者の要望もドラスチックに変わってしまったことを物語っているのだろう。



7.鹿砦社創業50周年記念出版として、鹿砦社編集部編『一九六九年混沌と狂騒の時代』が出された。

混沌と狂騒の時代 書評紙と共に歩んだ五〇年 f:id:OdaMitsuo:20191126164230j:plain:h110(『マルクス主義軍事論』)f:id:OdaMitsuo:20191126165055j:plain:h110 マフノ叛乱軍史

 これは『紙の爆弾』の11月号増刊で、たまたま書店で見つけ、購入してきた一冊である。
 その理由は特集コンセプトよりも、そこに前田利男への「一九六九年、鹿砦社創業のころ」という14ページに及ぶインタビューが掲載されていたことによっている。
 この前田は井出彰『書評紙と共に歩んだ五〇年』(「出版人に聞く」シリーズ9)に出てくる人物で、井出の『日本読書新聞』での同僚であった。それもあって、このインタビューは井出の回想の補足、その後の『日本読書新聞』人脈と出版史となっている。

 前田によれば、鹿砦社は『日本読書新聞』の労働組合メンバーの天野洋一、高岡武志、大河内徹、前田の四人が関わり、1969年に中村丈夫編『マルクス主義軍事論』を刊行してから始まっている。
 私も70年代に『左翼エス・エル戦闘史』『マフノ叛乱軍史』を読み、鹿砦社の名前を知った。前田は当時の出版社設立と出版状況について語っている。
「みんなボコボコ作ってね。せりか書房や、似たようなのが十や二十もあった。運動の夢が破れかかった時に出版社がたくさん生まれた。鹿砦社も初版千部刷るとすぐに売れて、初期のものはたいてい増刷になりました。」
 ところが50年後の現在は出版社も書店も消え、ほとんど増刷もできない出版状況になってしまった。
 この鹿砦社を発売元として、77年に松岡利康のエスエル出版会が発足し、88年には彼が鹿砦社を引き継ぎ、現在に至るのである。



8.シーロック出版社が自己破産。
 同社は1994年に設立され、スポーツ、ギャンブル書を中心とする書籍の企画、製作を手がけてきた。
 2013年には年商5億1500万円を計上していたが、18年には4億6500万円に減少し、その間に赤字決算が重なり、債務超過となっていた。関連会社のデジタルビューも自己破産。

 この出版社は寡聞にして知らないが、設立時期と出版物、企画内容を考えると、バブル時代の余波を受けて立ち上げられた出版社のように思われる。
 1990年代では出版社もかなり設立されていたが、それらの多くが退場してしまったことを知っている。それだけでなく、現在は中小出版社の清算の時期でもあるのかもしれない。
 このシーロック出版の自己破産に伴い、親会社に当たる出版社も苦境に陥り、印刷所は多額の負債が生じたようだ。



9.横田増生『潜入ルポamazon帝国』(小学館)を読了。

潜入ルポamazon帝国 潜入ルポ アマゾン・ドット・コム

 この最初の部分は『週刊ポスト』に発表され、本クロニクル136で取り上げておいた。そのことやタイトルからして、彼の前著『潜入ルポ アマゾン・ドット・コム』(朝日文庫)の続編かと思っていたが、「潜入」というよりも、広範な取材を通じてのアマゾンの全体像に迫る好著で、教えられることが多かった。
 とりわけマーケットプレイス、フェイクレビューを扱った章は、当事者たちの取材も含め、とても参考になる。アマゾンは多くのパラサイトたちも生み出し、それもエキスとして成長していること、それに対して、出版業界はそうしたエネルギーを失っていることが実感される。
 増田にはさらなるアマゾン密着レポートを期待したい。

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10.中森明夫『青い秋』(光文社)が刊行された。

青い秋  本の雑誌 f:id:OdaMitsuo:20191128120758j:plain:h115 f:id:OdaMitsuo:20191128125134j:plain:h115

 1980年代の出版業界において、オタク、新人類、アイドルが三位一体のかたちで、ブーム、もしくはトレンドとなっていた。彼ら彼女らが「神々の時代」であり、それはバブルの時代でもあった。そして宮崎勤事件が起きてもいた。
 「オタク」の命名者である中森はその中心人物に他ならず、この時代を描いた短編集『青い秋』は誰がモデルなのか、すぐわかるので、中森ならではのゴシップ小説集として楽しく読める。
 それに加えて、出版流通販売史から見れば、1980年代は地方・小出版流通センターを取次とするリトルマガジンの時代でもあった。『本の雑誌』『広告批評』だけでなく、多くの雑誌が同センターを経由して流通販売され、中森もまた『東京おとなクラブ』に携わっていたし、それも描かれている。いずれ、それらの雑誌にも言及してみたいと思う。



11.元小学館国際室長の金平聖之助が91歳で亡くなった。

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 金平には今世紀の初めに会って以来、手紙は何度かもらっているけれど、再会していなかった。彼のことで思い出されるのは著書『世界のペーパーバック』である。これは1970年前半に出版同人という版元から出された一冊だったが、当時としては先駆的な世界のペーパーバックに関する幅広い紹介を兼ねていて、まだ定かでなかったその全体像を垣間見る思いを味わわせてくれた。
 
 現在のアマゾン全盛状況からは考えられないだろうが、半世紀前の1970年代はペーパーバックを自由に買うことも困難で、注文しても3ヵ月は待たされたものだ。ちなみに出版同人はその頃の翻訳出版の啓蒙を図ろうとして、翻訳エージェンシーとその関係者、翻訳書を刊行する出版社などの肝いりで設立されたと思われる。
 そのメンバーのひとりが金平だったのだろう。金平の他に、赤石正『アメリカの出版界』、J・W・トンプソン、箕輪成男訳『出版産業の起源と発達―フランクフルト・ブックフェアの歴史』などが出されていたが、70年代で出版同人は閉じられたのではないだろうか。これも金平に聞いておけばよかったと悔やまれる。
『世界のペーパーバック』を再読することで追悼に代えよう。



12.『ニューズウィーク日本版』(11/5)に、アメリカの出版社ビズメディアから10月に楳図かずおの『漂流教室』第1巻744ページが出版され、好調であることを伝えている。これはシェルドン・ドルヅカによる新訳で、来年の2月には第2巻が刊行される。

ニューズウィーク日本版 漂流教室The Driftting Classroom)

 楳図かずおの『漂流教室』が『週刊少年サンデー』で連載され始めたのは1972年で、当時はどこの喫茶店や酒場でも『週刊少年サンデー』が置いてあったので、ほとんど欠かさず読んでいた。
 80年代になって、息子たちのために「少年サンデーコミックス」版全11巻を買い、それが今でも書棚に残っている。今になって考えてみると、私は同じく楳図の『イアラ』のほうに愛着を覚えていたけれど、実作者たちも含め、大きな影響を与えたのは『漂流教室』だとわかる。
 さいとうたかお『サバイバル』、望月峯太郎『ドラゴンヘッド』、伊藤潤二『うずまき』など、近年の花沢健吾『アイアムヒーロー』に至るまで、『漂流教室』を抜きにしては語れないだろう。
 押井守のアニメ『攻殻機動隊』がアメリカ映画に大いなる刺激となったように、『漂流教室』もあらためてアメリカで受容されていくのかもしれない。
 現在注文中なので、届くのを楽しみに待っている。
f:id:OdaMitsuo:20191128145412j:plain:h115 イアラ サバイバル ドラゴンヘッド うずまき アイアムヒーロー 攻殻機動隊



13.折付桂子『東北の古本屋』(日本古書通信社)が届いた。

f:id:OdaMitsuo:20191126173820j:plain:h110 震災に負けない古書ふみくら

 これは東日本大震災以後の東北全体の古本屋の実態、すなわち岩手、宮城、山形、青森、秋田、福島県の古本屋を訪ね、地域と店の新たな案内となるように仕上げられた一冊である。
 古本屋の写真も含め、収録写真はすべてカラーで、このようにまとめて東北の古本屋がカラー写真で紹介されるのは初めてではないだろうか。
 それこそ故佐藤周一『震災に負けない古書ふみくら』(「出版人に聞く」シリーズ6)のその後も語られ、店が健在なのを知ってうれしい。



14.拙著『近代出版史探索』は「日本の古本屋メールマガジン」に「自著を語る」を書いています。

近代出版史探索

  今月の論創社HP「本を読む」㊻は>「月刊ペン社『妖精文庫』と創土社『ブックス・メタモルファス』」です。

古本夜話970 六人社、「民俗選書」、橋浦泰雄『民俗採訪』

『近代出版史探索』で、六人社と『民間伝承』にふれているが、『民間伝承』が六人社から発売される昭和十五年五月号から、六人社の出版広告が掲載されるようになり、そのひとつが「民俗学文庫」で、実際には「民俗選書」として刊行されるに至る。
近代出版史探索

 その「近刊予告」には「柳田国男先生を煩はし、郷土生活研究所同人その他の御協力を仰ぎ、『民俗学選集』の刊行を企て」とある。「郷土生活研究所」とは昭和九年に創設され、全国山村調査、漁村調査のために用いられた名称で、それらの完了後、解散に至っている。そのことは六人社が『民間伝承』の発売所となったけれども、その関連の単行本出版に関してはまだ合意に至っておらず、それで断わりとして郷土生活研究所が挙げられているのだろう。それらの「第一期刊行」のラインナップを示す。

1 柳田国男 『国史と民俗学』
2 瀬川清子 『きもの』
3 桜田勝徳 『漁人』
4 橋浦泰雄 『民俗採訪』
5 倉田一郎 『山の夢』
6 関 敬吾 『雨乞』
7 宮本常一 『民間暦』

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これらは昭和十八年までに1、2、3、4、7が出され、その他に山口弥一郎『二戸聞書』、山口貞夫『地理と民俗』の二冊が刊行されている。また続刊として、5、6以外に、大藤時彦『村の祭』、最上孝敬『妖怪』、堀一郎『お寺』、能田多代子『化粧』、平山敏治郎『民謡』、比嘉春潮『沖縄の話』、宮本声太郎『履物』、江間三枝子『白川村の大家族』が挙げられている。
f:id:OdaMitsuo:20191123104839j:plain:h110(『白川村の大家族』)

 これらの中で、4の橋浦の『民俗採訪』だけは手元にある。発行者は戸田謙介、発行所の六人社の住所は東京都小石川区大塚窪町と大阪市西京町のふたつが記載されている。この大阪の住所は六人社と戸田の出自が、桜田勝徳や宮本常一たちの大阪民俗談話会(後の近畿民俗談話会)の近傍にあったことを伝えているのかもしれない。
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 それはさておき、『民俗採訪』は昭和十八年八月に四六判、軽装二四六ページ、初版三千部として刊行されている。その「自序」において、橋浦は日本民俗学の研究者にとって、最初に獲得しなければならないのは、「適当なる場所に於て、直接に採集と探究との事業に参与し、その生々しき体験を身につけること」を通じ、「自らの思索力」を成長させていく必要であると述べ、次のように記している。

 蓋し日本民俗学は、今日やうやくにして、その学道へと発足したばかりであつて、その資料と学説とは尚幾多の検討と補充と是正を必要として居るのであり、加ふるに之等の基本資料は、殆ど文書による記録をなさずして、現在の人々の心身と事物の中に、不文のまゝ伝承保有せられて居り、是を誤りなく採集し探求するには、まず直接それに接触して、その真理真相を確把することが必要であつた。此の修練と体験を積まずしては、折角同志の採集所得せし資料も、その真価を活用することが出来ず、のみならず屢ゝ誤用する弊を生ずるからであつた。

 ここでいわれている日本民俗学理念と方法論こそが、『山村生活の研究』『海村生活の研究』において実践されたもの、また長きにわたって編集に携わった『民間伝承』を貫くモチーフであったことはいうまでもあるまい。この『民俗採訪』にしても、橋浦が大正十四年から柳田国男に師事し、民俗学を志して以来、「約二十年間に沍る之等の小記録」「採訪の旅の折々に、その体験した処を筆録したもの」だが、それらの体現に他ならない。巻末に「採訪要領十項」が収録されていることも、同書が民俗学の手引書たらんことを望んでいるからであろう。

f:id:OdaMitsuo:20191121152424j:plain:h120(『山村生活の研究』)f:id:OdaMitsuo:20191121150554j:plain:h120 (『海村生活の研究』)

『民俗採訪』には「採訪要領十項」以外に、十六編の「採訪の旅の」の「小記録」が並び、いずれも興味深いのだが、最初の「笑へぬ山」は静岡県周智郡気多村のレポートで、この気多村はかつておとずれたことがあるので、これを取り上げてみたい。この信遠山脈の南端に位置する山村にはよくないことの起きる山の「クセ山」があり、働き盛りの青年が猅々に出会ったといって寝込んだり、四歳の幼児が行方不明になったり、怪異なものが通過したらしい一直線の筋を見つけたりした。村の人々はこれらを天狗の仕態、狐狸の悪戯、大蛇、猅々のわざかもと考え、まだ神秘が生活と密接していた。また作業中に死人が出た山は「トシ山」と称され、この山を買うと何らかの災厄があるので、どんなに安くても村の人は買わなかった。ところが東海道筋の皮革商が安いといって現金で買い、その後死んでしまった。これは山の祟りで「トシ山」は禁忌の念を象徴していた。

 これらの「クセ山」や「トシ山」の神秘や禁忌は山での仕事の順列などに多くの約束を生じさせ、そのことが自然の作法となり、それを混乱させると災厄を招くとされた。それゆえに個人の所有でも、山の売買は村人の協議と承認を必要とし、古来からの因縁の深い山の所有主の変動を好まなかった。

 ところが明治二十八、九年にこの山村にも時世の波が押し寄せ、「クセ山」や「トシ山」などの問題を解決することなく、製紙会社の誘惑の甘い言葉が降ってきた。「放つて置けば腐朽て舞ふ木ぢやないですか、此処から奥の澤百円なら良い値でせう。亦伐採や流木には村の衆をお願ひするので、その方でも村に大金が落ちることですし……」と。いうまでもなく、神秘と禁忌の山の大木も含め二束三文であった。

 然しそれにも拘らず、村の人々は古来未だ見た事も、持つた事もない大金と、日々の労銀とを現実に握つて、老も若きもひたすら時世と会社に感激し、感謝するの念で一杯であつた。そしてかうした境遇に置かれてゐることが、何か世間に対しても自ら誇らしいことのやうに思へたのであつた。

 だが大正十三年頃に製紙会社が大山郷の木を食い尽くし、この土地を引きあげると、村の人々は愕然としてしまった。村はこの三十年間で、「トシ山」「クセ山」を含め、神秘や禁忌もその影響をなくし、住むべき山を失い、山から得ていた衣食生活も成立しなくなり、苦しさと淋しさの中にある。これは戦後の高度成長期においても各地で起きていただろうし、現在のグロバリゼーション化によって、アジア各国でも生じている問題であろう。橋浦は村の人々が古くからの村の共同生活や自治生活に覚醒しつつあるようだと結んでいる。

 橋浦に関しては、かつて「橋浦泰雄と『民間伝承』」(『古本探究Ⅲ』所収)を書いていることを付記しておく。

古本探究3


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古本夜話969 岩田準一『志摩の海女』

 前々回の田中梅治『粒々辛苦・流汗一滴』の他にもう一冊、「アチック・ミューゼアム彙報」として出された著作を持っている。ただそれは原本ではなく、戦後になって復刻された岩田準一の『志摩の海女』である。これは「同彙報 第38」の『志摩の蜑女』として、昭和十四年に刊行されている。
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『近代出版史探索』で、岩田準一が江戸川乱歩の友人にして、ともに同性愛文献収集家『南方熊楠男色談義』(八坂書房)の書簡相手、『本朝男色考 男色文献書志』 (原書房)の著者、古典文庫版『男色文献書志』は乱歩が自費出版したものであることを既述しておいた。そして昭和四十八年に岩田の嫡子の貞雄が私家版で『男色文献書志』 『本朝男色考』 を復刻し、孫の岩田準子が乱歩と準一を主人公とする『二青年図』 (新潮社)を書いたことも。

近代出版史探索 f:id:OdaMitsuo:20191119150920j:plain:h110 本朝男色考 男色文献書志 二青年図

 『志摩の海女』も岩田貞雄による昭和四十六年の刊行であるから、それらは『男色文献書志』 などに先駆けていたことになる。その「風俗研究家」としての岩田準一の「略歴」が写真とともに巻末に紹介されているので、それを引いておくべきだろう。

 明治33年 三重県鳥羽市に生る。第四中学校、神宮皇学館、文化学院絵画科卒業。
 中学在学中に竹久夢二の弟子となり、夢二風の絵をよくす。
 ライフ・ワークは、本朝男色史の研究であったが、傍ら民俗学を手懸け、渋沢敬三氏主宰のアチック・ミューゼアムの同人となり、志摩を担当し、島の民俗調査に最初の鍬を入れた。
 江戸川乱歩とは親交を結び、大衆小説も草した。
 昭和20年2月、46才にて病没。

 この岩田の「病没」とはこれも同様に既述しておいたように、アチック・ミューゼアムの仕事のために上京し、そのまま東京で胃潰瘍の出血によって急死してしまったことをさしている。
 
 佐野眞一は『旅する巨人』の中で、戸谷敏之という、学生運動から離れ、アチックに入所した、イギリスの独立自営農民であるヨーマン研究者に言及している。それは「アチック・ミューゼアム彙報」ではないけれど、「アチック・ミューゼアムノート」と「日本常民文化研究所ノート」として、戸谷の『徳川時代に於ける農業経営の諸類型』と『明治前期に於ける肥料技術』を刊行し、圧倒的な評価を得たと述べている。昭和十九年四月、この戸谷のところに召集令状が届き、フィリピン戦線に送られ、二十年八月にルソン北方で戦死したという。この戸谷と逆に、ほぼ同時期に岩田はアチックに向かい、亡くなったことになる。二人は面識があったのだろうか。

旅する巨人

 それはともかく、『志摩の海女』に戻ると、これは「海女作業の今昔」、「海女の神事」、「海女の伝説と歌謡」、「海の魔」、「海女に関する語彙」の五章からなり、本文挿絵も岩田の手になるものである。こちらは新仮名づかい、四六判での復刻だけれど、「アチック・ミューゼアム彙報」にふさわしい一冊だったことはただちに了解できる。また岩田貞雄の「後記」によれば、昭和初年頃の志摩は民俗伝承の宝庫で、幕末期の民俗がまだ花開き、準一は昭和四年頃に民俗調査を始め、その無尽蔵さに驚いたのではないか、それは志摩が辺陬  の地で、閉鎖社会だったからではないかとされている。またその最初の調査の「志摩郡鳥羽町の方言集」を柳田国男の『郷土研究』に寄稿しているという。

 それに関連してであろうが、『志摩の海女』には「志摩の漁夫の昔がたり」と「私の採集話」が付け加えられ、これらは昭和十五、六年に『民間伝承』に掲載されたと述べられている。そこで『民間伝承』を確認してみると、昭和十五年三月号に岩田名での「志摩の呪禁と禁忌」、同九月号に「消火屋」が、いずれも「資料」のところに見出される。だが先の二編が見えないのは、おそらくこれらは『民間伝承』に寄稿予定のものが、そのまま原稿で残されていたことによっているのではないだろうか。最後に「稿」が示されているのはその事実を伝えているように思われる。だがいずれにしも、岩田もまた『民間伝承』の会員であったことになろう。

 それを示すように、同十月号には岩田の自費出版『志摩のはしりがね』、十二月号には『志摩の蜑女』の「新刊紹介」が掲載されている。後者の書評は『民間伝承』の編集の中心にいた瀬川清子によるもので、「蜑女の神事信仰の民俗」「潜水労働に生きて来た一群の民俗はやがて他の生活群の民俗研究にも尊い示唆を与へるもの」と評している。

f:id:OdaMitsuo:20191124084143j:plain:h115(復刻版)

 これを読んで、後述する『海村生活の研究』において、瀬川が「海村婦人の労働」「蜑人の生活」「海辺聖地」「海上禁忌」「血の忌」という最多の五つの報告を提出していることがわかるように思われた。つまり瀬川の研究もまた岩田の『志摩の蜑女』と併走していたのだし、それゆえに「蜑人」という言葉が使われていたのである。瀬川は「蜑人の生活」で、海人、漁人、蜑人を「アマ」と訓ぶが、ここでは潜水漁業者を「アマ」とし、日本ではその数が世界有数で、しかも女子が参加しているのが特色だとしている。それゆえに「蜑女」という言葉が成立したのであろう。

f:id:OdaMitsuo:20191121150554j:plain:h120 (『海村生活の研究』)


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