出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話976『民間伝承』の流通と販売

 前回の柳田国男篇『海村生活の研究』が、民間伝承の会の後身である日本民俗学会から、昭和二十四年に刊行されたことを既述しておいた。姉妹篇ともいえる『山村生活の研究』は戦前の十二年に民間伝承の会から出されている。大東亜戦争と敗戦をはさんでいるけれど、両書は昭和十年に創刊され、二十七年の終刊まで一七五号を出した『民間伝承』と併走する企画だった。

f:id:OdaMitsuo:20191121150554j:plain:h115(『海村生活の研究』) f:id:OdaMitsuo:20191121152424j:plain:h120(『山村生活の研究』)f:id:OdaMitsuo:20191205172628j:plain:h120

 本連載973の『民間伝承論』としてまとまる、柳田の木曜会の講義に端を発する『民間伝承』については、拙稿「橋浦泰雄と『民間伝承』」(『古本探究Ⅲ』所収)で、実質的な編集長だった橋浦に焦点を当て、論じているが、その流通や販売に関してはふれてこなかったので、それらをここでたどってみたい。長きにわたる雑誌刊行は流通や販売を抜きにしては語れないし、それに『柳田国男伝』は『民間伝承』が「日本民俗会のシンボルでありつづけ」、「そのまま日本の民俗学発展の歴史でもあった」と述べているのだから、『民間伝承』の場合はどうなっていたのだろうか。幸いにして『民間伝承』は全冊が復刻され、国書刊行会から全十一巻が刊行されていることもあり、確認してみよう。

f:id:OdaMitsuo:20190805140653j:plain:h110  古本探究3  

 昭和十年九月の『民間伝承』は四六倍判の八ページ仕立てで、「非売品」と表記され、民伝承の会の目的は「組織的採集及び研究の為に会員相互の連絡を図ること」で、そのために『民間伝承』を毎月発行会員に無料配布すること」が謳われている。「編輯雑記」は「在京世話人」の橋浦と守随一の名前で記され、当初は実質的に守随が発行と編集を担ったとされる。

 だがここではそれらについての追跡は差し控え、『民間伝承』の流通と販売に言及したい。『民間伝承』は年を追うごとに、ページや会員数も増え、内容が充実していく様子がうかがわれるのだが、昭和十三年から「非売品」という表記は消え、最後の四六倍判の十七年三月号からは、これまでになかった奥付が設けられ、編輯兼発行者は橋浦、発行所は民間伝承の会と明記され、そこに出版文化協会々員との記載も見える。

 そして昭和十七年五月号からは、これまでの新聞的イメージからA5判、六四ページの表紙のある「柳田国男編輯」と銘打たれた『民間伝承』へと移行する。奥付の編輯兼発行者などは三月号と変わっていないが、「配給元 日本出版配給株式会社」が付け加えられている。これは何を意味するかというと、戦時下の出版統制によって、民間伝承の会も研究団体というよりも、出版社として分類され、必然的に国策取次の日配の雑誌流通販売に組みこまれたことを物語っている。

 それに加えて、次の六月号からは表紙裏に六人社の「民俗選書」の一ページ広告があり、発行所のところに事務分室として、六人社が記載されている。この事実から推測すれば、『民間伝承』の取次書店販売が六人社に委託されたことを伝えている。

 また『柳田国男伝』は昭和十九年に『民間伝承』が二千部を超える部数に達していたと述べ、それに注を付し、次のように記している。

 財政面では、発行部数増加にかかわらず、毎号三、四百円前後の赤字を出していたため、経営を外部に委託することになった。(中略)こうした折り、六人社社長の戸田謙介(一九〇三~一九八四)へ橋浦泰雄から「有意義な仕事だ」と話があり、戸田は「柳田国男編輯」と銘打つこと、三千部印刷して内千五百部は会員配布など、いくつかの協定事項を決めて引受け、普通雑誌の体裁に切り変えた。編集面ではこれまでどおり民間伝承の会が担当し、財政面は六人社が負担していくことになったのであった。

 おそらくそれまでの毎号の赤字は澁澤敬三によって支えられたのであろう。しかし昭和十九年五月号からは事務分室が、これも本連載でお馴染みの生活社へと移され、同年七・八月合併号の休刊まで続いていく。

 そして昭和二十一年八月に『民間伝承』は復刊され、民間伝承の会の常任委員、及び評議員として戸田謙介も挙げられ、事務分室は六人社へと戻され、戦後も始まっていく。

 また昭和二十四年に民間伝承の会は日本民俗学会と改称されるが、そのまま同学会の機関誌として継続刊行されていた。だが二十七年十二月号で終刊となり、新たに翌年から『日本民俗学』として誌名変更となった。『民間伝承』はそのまま六人社に委ねられ、昭和五十八年六月まで刊行されたようだが、こちらは未見である。

 なお以前に「探偵小説、民俗学、横溝正史『悪魔の毛毬歌』」「六人社版『真珠郎』と『民間伝承』」(『近代出版史探索』所収)なども書いているので、ぜひ参照されたい。

近代出版史探索

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古本夜話975 日本民俗学会『海村生活の研究』と戦後の柳田国男

 前回の後藤興善の『又鬼と山窩』に収録されている「豊後水道への旅」と「萬弘寺の市」は、昭和十二年に柳田国男の木曜会メンバーを中心とする全国海村調査に対し、日本学術振興会の補助金が出されたことで実現した記録である。また「恠音・恠人」「神仏の恩寵冥護」「前兆予示と卜占」は、同じく昭和九年からの全国山村調査の記録で、これらは昭和十二年刊行の『山村生活の研究』にも収録されている。

f:id:OdaMitsuo:20191203141400j:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20191121152424j:plain:h120 (『山村生活の研究』)

 この二つの調査は日本民俗学が始めて全国規模で行なった同時調査で、画期的試みとされる。しかし『山村生活の研究』の上梓はほぼリアルタイムで実現したけれど、『海村生活の研究』は昭和十四年に終了したこともあってか、戦後まで持ちこされてしまい、民間伝承の会の後身の日本民俗学会から刊行されたのは昭和二十四年になってからのことだった。A5判上製、索引も含めて四七二ページに及び、一〇〇の「海村生活調査項目」も挙げられ、二五の調査報告は木曜会メンバーの最上孝敬、橋浦泰雄、桜田勝徳、瀬川清子、大間知篤三、大藤時彦などの十一人によるものだ。

f:id:OdaMitsuo:20191121150554j:plain:h115 (『海村生活の研究』)

 だが残念なことに、後藤は戦後になって何らかの事情で柳田から離れていたのか、先の二編に加え、念願の「宇和の大島」の民俗誌の収録は実現しなかったことになる。『柳田国男伝』においても、後藤の戦後の消息はたどられていないし、没年の記載もない。これまでも本連載756で富永菫や北野博美や地平社書房にふれてきたが、彼らも柳田の出版代行者や口述筆記者であったけれど、いつの間にか柳田の周辺から姿を消している。柳田民俗学はそうした人々によって支えられていたことも事実だし、後藤にしても同様だったのではないだろうか。

 それらはともかく、柳田国男は編者として「海村調査の前途」という「序文」を寄せ、次のように書き出している。

 待ちに待つた海村報告の一部が、やつと出るやうになつた喜びを記念するため、今思つて居ることを其まゝに、如何に我々の為し遂げたことが小さく、之に反して将来の希望が今に於てのなお如何に楽しいかといふことを、一つ書きのやうにして書き残して置かうと思ふ。

 遅延したけれども、戦後を迎えての『海村生活の研究』の出版に心を躍らせている柳田の姿が、この文章から浮かび上がってくるようだ。昭和二十年十月に臼井吉見は雑誌『展望』の創刊の相談をするために、柳田を訪問し、それを『蛙のうた』(筑摩書房)に書きつけている。「敗戦直後、僕が会った多くの人たちのなかで、七十歳を越えた柳田にくらべられるほど、いきいきした感覚と気力にはずんだ人をついぞ見かけなかった」と。そのような高揚がまだ続いていたのだろう。

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 『[別冊]柳田国男伝』の「年譜」を確認してみると、二十年九月には、十九年に一時中止していた木曜会を再開し、翌年には三百回ほど続いた木曜会を発展解消し、書斎を民俗学研究所として開放し、『民間伝承』も復刊する。その一方で、枢密顧問官、帝国芸術員会委員となり、二十三年には民俗学研究所は財団法人化され、二十四年には民間伝承の会を日本民俗学会として改称し、その会長となり、その直後に『海村生活の研究』が出されたわけだから、柳田の高揚が了解できるのである。

 それだけでなく、柳田は『先祖の話』(筑摩書房、昭和二十一年)、「新国学談」三部作としての『祭日考』『山宮考』『氏神と氏子』(いずれも小山書店、二十一、二十三年)も次々と上梓している。それらと併走するように、『海村生活の研究』も出されたのであり、先の書き出しに続いて、柳田はこの海村調査計画に関して、昭和十一、二年頃に立てられたが、戦争が進み、経費が続かず、また地方の人心が険しくなり、予定の三分の二に達したところで中断したことにより、「大きな期待を繋げて居た南方の諸島」などが後回しになってしまった。そして「それらの島々が、其後の僅かな年月のうちに、殆ど根こそげの変質変貌してしまったこと」が、「たとへ様も無く残念なこと」だったと語っている。これは沖縄諸島をさしていることはいうまでもあるまい。

f:id:OdaMitsuo:20191205170256j:plain:h115(「新国学談」)

 それに加えて、島の事情は「意外」なことに、農山村における類推がほとんど望まれず、近くの二島でも生活様式が異なり、また同じ島であっても言葉がちがったりする。また逆に遠く相隔った島や岬の端に習俗の一致が見られたりする。「大体に住民の移動が比較的新らしく、且つ水上の交通を支配した法則には、よほど陸上のそれとはちがうものがあつたからと、解しなければならぬ現象が海村には多かつた」のであり、そのことに気づいていなかった。そして柳田は「新手帖を豊かに供給して、自由に其見聞を採録し、かつは其所得を以て汎く総図の開悟に役立たせるやうにしたい。是が我々の生涯の志である」と結んでいる。

 なおここでいう「新手帖」とは海村調査のための新たな採集手帖をさしている。この「採集手帖」の様々な例に関しては書影を含め、拙稿「橋浦泰雄と『民間伝承』」及びその「資料5・6」(『古本探究Ⅲ』所収)を参照されたい。
古本探究3

 柳田は『海村生活の研究』の出版の翌年に「宝貝のこと」や「海神宮考」を書き、二十六年には「みろくの舟」、二十七年には「海上の道」などを発表し、それらは三十六年に出版された『海上の道』(筑摩書房、岩波文庫)としてまとめられていく。それこそこの柳田の『海上の道』は、沖縄諸島への追悼と敗戦、及び各報告にまったく言及していないけれど、『海村生活の研究』をスプリングボードとして、構想されたといえるのではないだろうか。

海上の道


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古本夜話974 後藤興善『又鬼と山窩』

 ジェネップ『民俗学入門』の訳者、柳田国男『民間伝承論』の講義筆記者兼構成者としての後藤興善に続けてふれてきた。だがその後藤のプロフィルは明確につかめず、『柳田国男伝』の記述からたどってみると、明治三十三年兵庫県生まれ、国文学専攻で、昭和八年に民間伝承論講義に参加し、それが柳田の『民間伝承論』へと結実する。この講義は木曜日に行なわれていたことから、それにちなんで木曜会として、講義参加者を中心とする民間伝承研究のための新たな会がスタートした。後藤もそのメンバーであり、その後の民間伝承の会設立と『民間伝承』創刊などにも寄り添っていた。柳田との関係の始まりは不明だが、ジェネップの翻訳のことを考えれば、『民族』の寄稿者として名前は見当らないけれど、やはり『民族』を通じて生じたのではないかと推測される。

f:id:OdaMitsuo:20191122175107j:plain:h120 (『民俗学入門』) f:id:OdaMitsuo:20190805140653j:plain:h110 

 その後藤の著書として、昭和十五年に斎藤昌三の書物展望社から『又鬼と山窩』が刊行されている。「はしがき」によれば、「山窩や又鬼のやうな特殊な生活者を調査研究の対象とすること」も「総体的民俗学を進展せしめるために当然研究しなければならない」という視座から編まれている。しかしタイトルに加え、サンカとマタギを口絵写真としているにもかかわらず、二十三編の収録論考の中で、「サンカ」に関するものは五編、「マタギ」は四編と合わせて九編でしかなく、いささか羊頭狗肉の感を否めない。

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 それは冒頭の「山窩記」が「猟奇的な大衆小説によつて、荒唐なサンカ概念(それは「山窩」なる字面にもふさわしいものであらう)を作り上げてゐる人は多からう」と始められていることからうかがわれるように、昭和十二年には三角寛の『山窩血笑記』(講談社)が発表され、所謂「サンカブーム」が起きていたのである。そうした中で、この『又鬼と山窩』は刊行され、それが「猟奇的な大衆小説」に抗する民俗学的「サンカ調査」として提出されていることになる。
f:id:OdaMitsuo:20191203140826j:plain:h120 (『山窩血笑記』)

 後藤は「サンカの概念」を次のように示す。

 サンカは西洋のジプシーを連想させる生活者で、わが中古の傀儡子と深い関係のある漂泊民だと屡々説かれる。彼等は定住して農を業とせず、山裾や川原に小屋を掛け、テントを張つて、箕・籠・簓・風車などの竹細工をなし、下駄表或ひは棕櫚箒などを作り、河川の魚を漁し、山の自然薯を掘り、猟をもし、その手細工品や獲物を近くの村や町に売り鬻いで生活してゐる。彼等と同系の生活者は、今日定住してゐる者の中にも多く見られる。全国的に散在してゐるともいへよう。

 その生活態度は本連載939でふれた大江匡房の『傀儡子記』がいうところの「不耕一畝田、不採一枝桑」にそのまま合致するし、次の「山窩談義」においては「中世の傀儡子の後裔」にして、「放浪のアナーキスト」と定義されるに至る。そして実際に後藤は故郷の播州のサンカに取材し、その生活と隠語などに言及している。

 これらは柳田国男の「『イタカ』及『サンカ』」(『柳田国男全集』4所収、ちくま文庫)、また資料として挙げられている本連載452の鷹野弥三郎『山窩の生活』などの影響下にあることは明白である。だがここでは後藤とジェネップと『民族』の関係を推察すれば、岡正雄『異人その他』(第三巻第六号)の投影を想像してみたい。柳田たちの論稿において、サンカは「放浪のアナーキスト」という色彩を帯びていないけれど、岡の「異人」はそれにふさわしいようにも思えるからだ。
 岡は書いている。
柳田国男全集4

 自分の属する社会以外のものを異人視して様々な呼称を与へ、畏敬と侮蔑との混合した心態を似つて、之を表象し、之に接触することは、吾国民間伝承に極めて豊富に見受けられる事実である。山人、山姥、山童、天狗、巨人、鬼、その他遊行祝言師に与へた称呼の民間伝承的表象は、今も尚我々の生活に実感的に結合し、社会生活や行事の構成に参加して居る。

 岡がこの「異人」に、柳田の「山人」や折口信夫の「まれびと」を幻視していることはいうまでもないけれど、ここに後藤の「サンカ」を想定することもできよう。

 それに比べて、東北のマタギのほうは熊を狩る勇敢なる猟師として、その出自、系譜、生活なども具体的に描かれ、「異人」というイメージは後退している。それなのにどうして、ここではタイトルでは「又鬼」として表象され、しかも『山窩と又鬼』であればともかく、「又鬼」のほうが先に示されているのだろうか。それは書物展望社の斎藤の何らかの思惑が絡んでいるのかもしれない。

 そのような事情もあってか、昭和六十四年に、後藤の『又鬼と山窩』が復刻され、三一書房の谷川健一編『日本民俗文化資料集成』1に所収の際に、『サンカとマタギ』というタイトルの変更へと投影されたようにも思える。
日本民俗文化資料集成 1
 なおこの一文はやはり同年復刻の批評社版によっていることを付記しておく。
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古本夜話973 柳田国男『民間伝承論』、共立社『現代史学大系』、後藤興善

 バーンの『民俗学概論』やジェネップの『民俗学入門』の翻訳出版は、柳田国男にとっても自らの手で概論書をという意欲を駆り立てたにちがいない。それは昭和九年に『民間伝承論』として結実し、日本民俗学の立場を規定し、『柳田国男伝』にしたがえば、「日本民俗学にとって、歴史的な意味をもつ書物」となる。

f:id:OdaMitsuo:20191122175107j:plain:h120 (『民俗学入門』) f:id:OdaMitsuo:20190805140653j:plain:h110 

 それは共立社が『現代史学大系』全十五巻を企画し、その中の一冊を柳田に依頼したことによって実現したのである。この企画は国学院大学教授、東洋史専攻の松井等、東北帝大教授、西洋史専攻の大類伸の編輯によるもので、『民間伝承論』の巻末広告のラインナップを示してみる。

1 大類伸 『史学概論』
2(未定) 『史学史及歴史哲学』
3 大森義太郎 『史的唯物論』
4 瀧川政次郎 『歴史と社会組織』
  石濱知行 『歴史と経済組織』
5 赤松智城 『宗教史方法論』
  尾佐竹猛 『近世日本の国際観念の発達』
6 西田直二郎 『国史の研究と其発達』
7 柳田国男 『民間伝承論』
8 石田幹之助 『欧人の支那研究』
9 村岡典嗣 『神道思想史編』
  谷川徹三 『歴史と芸術』
10 松本信広 『古代文化論』
  古川竹二 『血液型と民族性』
11 松本彦次郎 『日本史精粹』
12 松井等 『東洋史精粹』
13 原随園 『西洋史精粹』
14 時野谷常三郎 『現代の世界史』
15 松本彦次郎、松井等、千代田謙 『史学名著解題』

 ちなみにこの共立社とは現在の共立出版であり、発行者の南條初五郎は『出版人物事典』にも立項されている。

出版人物事典

 [南條初五郎 なんじょうはつごろう]一八九六~一九七四(明治二九~昭和四九)共立出版創業者。東京生れ。一九一九年(大正八)早稲田泰林館を創業、さらに二六年(大正十五)共立社を創業、文学書を中心に出版を行ったが、二八年(昭和三)高木貞治博士をはじめ、日本数学界権威の協力で、『輓近高等数学講座』全一八巻を出版、会社の基礎を固めた。四二年(昭和一七)共立出版株式会社と改称、自然科学・理工学関係書の出版に力を注いだ。(後略)

 この共立社の初期の文学書出版に関しては明らかになっていないし、柳田との関係も不明であるが、『現代史学大系』の著者たちが石田幹之助、赤松智城、松本信広などの『民族』編集委員や寄稿者だったことからすれば、彼らと『同大系』の編輯の松井等や大類伸が企画に携わり、柳田の『民間伝承論』もその中に含まれることになったのかもしれない。

 『柳田国男伝』はその成立過程に関して、講義形式での執筆とし、民間伝承論の会を発足させたと述べている。それは柳田の書斎で、昭和八年九月から十二月まで十二回行われ、出席者は後藤興善、比嘉春潮、大藤時彦、杉浦健一、大間知篤三たちだった。その筆記を担ったのは前年ジェネップ『民俗学入門』を翻訳したばかりの後藤で、構成は別の講演会で柳田が配布したパンフレットを「序」とし、それに「一国民俗学」「殊俗誌学の新使命」「書契以前」「郷土研究の意義」「生活諸相」「文庫作業の用意」「採集と分類」「言語芸術」「伝説と説話」「心意諸現象」の十章仕立てになっている。

 「序」はプロローグにふさわしい28の短い覚書の集積といってよく、「民間伝承論は明日の学問である」から始まり、それに対する柳田のオリジナルな民間伝承論、すなわち「一国民俗学」の確立へのスタート台のような趣がある。またそこでは岡正雄訳のバーン『民俗学概論』への言及も見えるし、各章のタイトルからしても、バーンの民俗学に対して、柳田の「一国民俗学」をめざすアレンジが浮かび上がってくるように思われる。

 後藤は「巻末小記」において、「序」と第一章、第二章の半分は柳田自らが書き、第三章以下は柳田の講義ノートに基づき、その多くの著作を渉猟し、援用し、まとめ上げたものだが、各章タイトルは柳田によると述べている。「従つて厳密な意味の先生の御著述とは言へないもの」だが、「今までかふいふ概論書を持つてゐなかつた日本の民俗学が、今後益々発展するであらうことを望んでやまない」し、「本書は親切な概論書として、又最も手頃な手引書として役立つやうに講述せられてゐる」との言も付記されている。私もそれに同感である。

 しかし柳田はこの初めての概論書が好評だったにもかかわらず、再版を拒否し、筑摩書房の『定本柳田国男集』にも、自らの手になる「序」と第一章の「一国民俗学」しか収録を許さなかった。その理由として、『柳田国男伝』は筆記のさせ方が悪く、誤りが多かったこと、日本民俗学と外国民俗学の相違の違いがはっきりしていないことなどを挙げているが、これも例によって、柳田と出版代行者ならぬ編集、執筆代行たる後藤との確執に起因しているように思われる。

 最初の概論書を後藤にまかせ、それが「厳密な意味の先生の御著述とは言へないもの」にもかかわらず、大きな反響を呼び、好評だったことが柳田には気にいらなかったのではないだろうか。

 それゆえに、その再版は昭和五十五年の伝統と現代社版を待たなければならなかったのである。

f:id:OdaMitsuo:20191202201526j:plain:h110(伝統と現代社版)


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古本夜話972 ジェネップ『民俗学入門』

 本連載936のバーンの岡正雄訳『民俗学概論』に続いてとは言えないけれど、その五年後の昭和七年にヴァン・ジェネップの後藤興善訳『民俗学入門』が、郷土研究社から刊行されている。
 その第一章は「フォークロアの歴史」と題され、次のように始まっている。
f:id:OdaMitsuo:20191122175107j:plain:h120 (『民俗学入門』)

 フォークロアFolk‐Lore[日本では民俗学とか民間伝承学とか俚伝学と普通訳されてゐる]といふ語は英語からの借用語で、フォークfolk は民衆を意味し、ロアlore は知識、研究の義である。この学問の目的とする所は、即ち民衆を研究することである。この語はトムスW.J.Thomas によって一八四六年全く別々の語から作られた。彼はこの語を、民間古俗Popular antiquities (それは英国の農民の間の信仰と習俗を記述したブランドBrandt の名著の標題である。)という厄介な表現の代わりに使つたのである。

 後藤は「訳者小言」において、「この小冊子はフランスのフォークロリスとして令名のあるArnold Van Genep のLe Folk‐Lore といふ手引書のやゝ詳しい梗略であつて、精密な意味の翻訳からは幾分遠いものである」と述べている。しかしその言をふまえても、この書き出しは明らかにバーンの『民俗学概論』を範としているし、これはフランス版『民俗学概論』と見なせよう。

 それを示すように、この一三三ページの「小冊子」は第二章から四章までが「フォークロアの領域」「研究方法」「構図」、第五章から十章がそれぞれ「説話と伝説」「民謡と踊り」「遊戯と玩具」「儀式と信仰」「民家・家具・衣服」「民間工芸」という構成である。これもバーンの民間伝承の主要項目と亜項目とに照応していることになろう。

 ヴァン・ジェネップは『通過儀礼』(秋山さと子、彌永信美訳、思索社、昭和五十二年)の著者だと認識していた。そこで彼は諸文化に見られる様々な儀礼がその総合的機能からすると、年齢、身分、場所などの変化を伴い、分離、移行、合体というプロセスをたどるというイニシエーションを唱えたことでよく知られていたことも。だがこのような入門書を上梓していることは知らずにいた。それもあって、同書所収の「ヴァン・ジェネップ著作目録」を確認してみると、Le Folklore.Croyances et coutumes populaires françaises(Stock,1924)が見つかり、128pとあるので、おそらくこれが原本だと思われる。

通過儀礼

 ジェネップは『文化人類学事典』にファン・ヘネップとし立項されているので、それを要約してみる。彼はオランダ系の民俗学・民族誌学者で、西ドイツ生まれだが、幼児よりフランスで教育を受けた。東洋語学校でアラビア語、高等研究実習院では言語学、エジプト学、宗教学などを学び、外務省情報部などを経て、スイスのヌシャテル大学の民族誌学講座の教授となった。だが三年で辞職し、その後は寄稿、翻訳、講演で過ごし、デュルケムを中心とするフランス社会学を批判し続けたが、ジェネップの名を高らしめたのは一九〇九年に発表した『通過儀礼』によってだとされる。

文化人類学事典 

 これらの事実からすれば、『民俗学入門』は『通過儀礼』から十五年後に刊行された『民俗学手引き』といったもので、それこそ生活のために書かれたのであろうし、そのことを知ると、先の「著作目録」に見られる多岐にわたる大量の執筆や出版が理解できるように思われる。ただよくわからないのがデュルケムとの確執で、『通過儀礼』の「訳者あとがき」にもふれられている。それによれば、マルセル・モースも『社会学年報』で、『通過儀礼』に対して厳しい批判を唱えたゆえか、ジェネップはフランス民俗学の創始者の一人、社会、宗教学の理論家だったにもかかわらず、長きにわたって再版されることなく、「まぼろしの名著」として知られていたという。

 時代的にいえば、ジェネップは一九〇四年に高等研究実習院の卒論『タブーとマダガスカル島のトーテミズム』を上梓し、『通過儀礼』の出版当時、モースは高等研究実習院で「非文明民族の宗教史」講座を担当していたことから、交流はあったはずだと考えらえる。

 すでに本連載935で、『民族』をめぐっての岡正雄と柳田の確執にふれてきたし、あえて言及しなかったけれど、それは『柳田国男伝』も指摘しているように、岡と柳田の長女三穂との縁組が実らなかったことにも起因していたのである。それは他ならぬ『民俗学入門』を出版した郷土研究社の岡村千秋も、そうした柳田の雑誌と書籍出版の編集代行者だったし、彼を抜きにして柳田の出版道楽は成立しなかった。

 岡正雄は「岡村千秋さん」(『異人その他』所収、言叢社)で、岡村を通じて柳田に接し、民俗学に入った人も少なくなかったと記している。岡茂雄も『閑居漫筆』(論創社)で、郷土出版社の経営に苦しんでいるにもかかわらず、柳田は「その辺の消息には一向にお構いもなく、何かにつけて辛辣な小言を岡村氏に浴びせられるようで」「私は同情に堪えなかった」と書いている。なおこれらのことに関しては拙稿「出版者としての柳田国男」(『古本探究Ⅲ』所収)などを参照されたい。

異人その他  f:id:OdaMitsuo:20190804114900j:plain:h110 古本探究3

 この事実に言及したのは、デュルケムやモースの寡作な姿勢に対し、もちろん思想的なものも含め、ジェネップの広範囲に及ぶ多作ぶりは認められないもので、それも彼らの確執の一因になったのではないかとも考えられたからである。つまり執筆や出版をめぐっての確執であり、それは『民族』そのものが民俗学と民族学をめぐって体現していたからに他ならなかったのである。

 
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