出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話980 椋鳩十『鷲の唄』

 既述したように、前回の三角寛がサンカ小説「山窩お良」を発表したのは昭和七年だったが、ほぼ同時期に椋鳩十がやはり山窩小説を書いていた。椋に関しても、『日本近代文学大事典』の立項の前半を引いてみる。
日本近代文学大事典

 椋鳩十 むくはとじゅう 明治三八・一・二二~昭和六二・一二・二七(1905~1987)小説家、児童文学者。長野県下伊那郡喬木村に生る。本名久保田彦穂。父は牧場経営、少年時代父に伴われ、伊那、赤石山系を渉猟した体験が後年の山窩小説、動物文学への志向につらなる。法政大学国文科(中略)卒業後、浪漫的放浪詩人ふうに本州を南下し、種子島にいたり小学校の代用教員となる。ある県視学の世話により加治木高女の教師となった。この時期に、かねての山野渉猟の体験を生かして山窩小説をまとめる。短編集『山窩調』(昭和八・四私家版)で椋鳩十のペンネームを使用、『鷲の唄』(昭和八・一〇春秋社)を出版し、山窩小説家として注目され『山窩譚』(「毎日新聞」)『山の天幕』(「朝日新聞」)などを発表した。浪漫的で人間主義的な山窩生活を、自然と野生の動物と密着した一体感をもって描きあげた。やがて日華事変が起こり軍国主義の高潮につれて反時局的と目される山窩小説は、しだいに発表の場を失っていく。(後略)

 これを少しばかり補足すれば、『鷲の唄』は公共良俗に反するとして発禁処分を受けたが、講談社の『少年倶楽部』編集長の須藤憲三が椋の山窩小説を読み、少年物が書けると確信し、その依頼で椋は動物小説『山の太郎熊』を書き、児童文学者の道をたどっていくことになる。

f:id:OdaMitsuo:20191216111318j:plain:h118 

 椋のこれらの山窩小説は発禁処分や児童文学者というポジションもあってか、読むことができなかったが、昭和五十九年に理論社で『椋鳩十の本』(全三十四巻)が編まれ、「山窩物語」として、その第二巻に『鷲の唄』、第三巻に『山の恋』が収録され、ようやく容易に読むことが可能になった。ここではやはり『鷲の唄』にふれるべきだろう。これは昭和四十一年に雪華社から『山窩調』として刊行されたようだが、未見のままである。

f:id:OdaMitsuo:20191215231053j:plain:h120(第二巻) f:id:OdaMitsuo:20191215231547j:plain:h120(第三巻)f:id:OdaMitsuo:20191215232445j:plain:h120(『山窩調』)

 『鷲の唄』は私家版『山窩調』に新作を加えた作品集ゆえに、『山窩調』『鷲の唄』のふたつの「自序」が置かれ、それぞれ「私の祖父は世間で云う所謂山窩であった」、「祖父は、若い頃、山窩の群に投じていたと云う」と始まっている。しかし編者はそれらの「自序」に注釈を付し、これを読み、多くの読者も椋を山窩の子孫だと思いこんでいたけれど、「この序文そのものがフィクションなのである」という椋の証言を引いている。

 この『鷲の唄』には二十七編の作品が収録され、自然の中で野生の動物たちと共生する山窩の生活を「山の放浪民の物語」として描いている。その中の一遍「山の鮫」は次のように書き出されている。「山の仲間は移動する宿場だ。/絶えず二三十人群れていたが、仲間は絶えず変った」と。そうした中での仲間たちの関係や葛藤、男と女の絡み合い、獲物を分け合う、幕や穴における生活、それらは椋ならではの自然描写の中で展開されていく。

 これらの椋の作品群は三角の「犯罪実話」としてのサンカ小説の色彩とまったく異なり、自由な「山の放浪民の物語」であり、そこに『鷲の唄』のコアがあると見なすべきだろう。先の立項紹介では省略してしまったが、第一巻が「全詩集」としての『夕の花園』であるように、椋は学生時代に詩人として出発し、小説は豊島与志雄に学んでいる。つまり三角が新聞記者の実録的文体でサンカ小説を書いたことに対し、椋は詩人や小説家の視線で、山窩物語を提出したといえる。

 しかも『山窩調』の「自序」には「四五年前」から書いてきたと記していることからすれば、三角の「サンカ小説」の影響や刺激を受けてのことではないと見なせよう。それに椋の長野県出身を考えれば、柳田国男の民俗学はその地に多大の影響を及ぼしていたはずだし、本連載935などの岡茂雄、正雄兄弟にしても、長野県生まれであることも、その事実を告げていよう。

 それゆえに椋もまた、前回挙げた柳田国男の「『イタカ』及び『サンカ』」を始めとする『被差別民とはなにか』にまとめられる一連の論稿を読み、それらに触発され、『鷲の唄』を書くに至ったのではないだろうか。そしてそれらは椋の詩人や小説家としての資質も作用し、必然的に故郷の山々にもいたと想定される「山の放浪民の物語」として提出されることになったと推測できる。

被差別民とはなにか

 そしてその「山窩物語」から動物記を独立させることによって、椋は動物たちを描く児童文学者へと転身していったことになろう。


odamitsuo.hatenablog.com


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話979 三角寛とサンカ小説

 本連載974の「山窩」の補注のようなものを何回か書いてみたい。
 「サンカ」という言葉を知ったのは昭和三十年代後半の中学時代だった。テレビで連続時代劇『三匹の侍』が放映されていて、谷川で女性が半裸になり、背中を見せるシーンがあった。現在では何の驚きもない画像でしかないが、当時としてはテレビでそのようなシーンが映ることはなかったので、いささか驚いてしまい、しかもその女性がサンカの娘とされていたのである。
三匹の侍

 『日本映画テレビ監督全集』(キネマ旬報社)などで確認してみると、フジテレビの五社英雄をディレクターとし、丹波哲郎、平幹二郎、長門勇共演の『三匹の侍』は昭和三十七年に放映が始まっている。テレビとしては初めての人を斬る音を入れたりするリアルな殺陣で人気番組になり、三十九年には松竹で、やはり五社監督、同共演により映画化もされ、こちらもリアルタイムで観ているが、テレビのほうの印象が強い。先のサンカの娘の半裸姿が強烈だったこともあり、他の記憶は残っていないけれど、そうしたエロティシズムとリアルな殺陣が五社ならではの特色だった。

f:id:OdaMitsuo:20191209123000j:plain:h115

 それでサンカという言葉を覚えた。また当時の書店には三角寛のサンカ小説が売られていて、まだサンカ小説の時代は終わっていなかったのである。戦後に彼はサンカ小説を書いておらず、学位論文『サンカ社会の研究』『サンカの社会 資料編』に取り組んでいたとされる。しかしたまたま最近、二冊の合本『瀬降の天女』(日本週報社、昭和三十五年)を入手し、読んでみると、これは敗戦占領下を背景とするサンカ小説というべきで、まだ三角の執筆は続いていたことになる。だがこの作品は平成十二年から刊行され始めた『三角寛サンカ選集』(全十五巻、現代書館)には収録されていない。また近年、水上準也の『山窩秘帖』(河出文庫、平成二十七年)も復刻されたが、この原本は昭和三十年の若潮社版によるとのことで、倶楽部雑誌や貸本屋ルートの時代小説を含めれば、サンカ小説は三角だけでなく、書き継がれていたことなり、それが『三匹の侍』にも流れこんでいたのかもしれない。

f:id:OdaMitsuo:20191209122315j:plain:h115 f:id:OdaMitsuo:20191209164945j:plain:h115 三角寛サンカ選集 山窩秘帖

 だがここでその本流たる三角を紹介しておくべきだろう。『日本近代文学大事典』の立項を引いてみる。

 三角寛 みすみかん 明治三六・七・二~昭和四六・一一・八(1903~1971)小説家。大分県生れ、本名三浦守。一〇歳で仏門に入る。日本大学法科卒。大正一五年三月、朝日新聞社に入社。社会部勤務で警視庁詰めとなった体験を生かし、犯罪実話ものを執筆することになった。昭和五年六月から六年八月にかけ「婦人サロン」に『昭和毒婦伝』を連載、文壇に進出(第一回のみは山村秋次郎の名前を用いた)。七年から独自の取材研究による山窩小説三部作『怪奇の山窩』『情炎の山窩』『純情の山窩』などを発表し、この分野では他の追随を許さぬ第一人者となった。一二年一二月、山窩ものの名作として名高い『山窩血笑記』(講談社)が書かれた。(後略)
f:id:OdaMitsuo:20191203140826j:plain:h115(『山窩血笑記』)

 三角の新聞記者時代における昭和初期の「説教強盗」に端を発するサンカとの邂逅から犯罪実話の書き手を経て、サンカ小説へと至る経緯は『山窩が世に出るまで』(『三角寛サンカ選集』第八巻所収)などに詳しい。また同巻には立項に見える山村名での「昭和毒婦伝」も収録され、それを読むと、紀州の村にあって「淫欲の匂い」を撒き散らす美しい「姉は、勇敢な猛獣のように、進んで男の中に餌を漁った」し、「妹は、姉の虐げた男ばかりを好むようになって行った」という姉妹の犯罪とを死刑判決までを描いている。それは扇情的な筆致で語られる犯罪実話に他ならず、姉妹は村の娘でサンカではないけれど、そのイメージは後のサンカ小説における女性像へとリンクしていくものだ。

山窩が世に出るまで

 それは初めてのサンカ小説「山窩お良」へと継承され、十九世紀西洋文学の謎めいた出生と生い立ちという宿命の女に加えて、サンカ特有の土蔵破り、「ウメガイ(双刃の凶器)」「セブリ」などのサンカの隠語や符牒を散りばめ、処刑に至る物語はまさに「犯罪実話」にふさわしい色彩に覆われている。

 その「犯罪実話」の成立を考えてみれば、昭和円本時代における探偵小説も含めた西洋文学とアメリカ文化の流入、新聞と雑誌ジャーナリズムの隆盛、映画などに表象されるエロ・グロ・ナンセンス時代の到来が挙げられる。それらに加えて本連載でたどってきたように、大正時代からの『民族』を始めとする民俗学や民族学の展開も挙げられるのではないだろうか。そこでは「山人」「まれびと」「異人」が見出されているように、「犯罪実話」にあっても、「サンカ」が発見、造型されたのではないだろうか。

 それに先駆けて、柳田国男は『被差別民とはなにか』(河出書房新社、平成二十九年)として一本にまとめられるほどの、「非常民の民俗学」ともいうべき論稿を発表していたのである。それを伝えるかのように、「山窩お良」の後の「毒婦・妖女」シリーズは、「山窩奇譚/日本怪種族実記」のサブタイトルが付されるようになったという。それは三角が戦後になって『サンカ社会の研究』『サンカの社会 資料編』に取り組んだことにも示されているのではないだろうか。

被差別民とはなにか

 そうした『民族』などとのコレスポンダンスは、『三角寛サンカ選集』の表紙カバーのサンカの娘らしき絵にもうかがわれる。それは松野一夫によるもので、松野は『民族』(第一巻第六号)の表紙画を担当している。また東洋大学に提出した『サンカ社会の研究』を支持したのは、これも『民族』編集委員だった田辺寿利だと伝えられている。

 それに吉本隆明が『共同幻想論』(角川文庫)で同書を参照し、サンカ伝承に基づく『古事記』解釈に言及しているのも、三角がサンカを大和朝廷と異なる出雲系の人々ではないかとの注視に及んでいるからで、そこには「サンカ小説」や「犯罪実話」から離れた三角の一面が投影されているように思える。

共同幻想論

 さらに付け加えれば、今井照容が「昭和四年の三角寛を起点として」(『サンカ 』所収、「KAWADE 道の手帖」)で指摘しているように、昭和四年の説教強盗事件は三角のサンカ小説のみならず、梶井基次郎の「闇の絵巻」も生み出したのである。


odamitsuo.hatenablog.com

 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話978 和歌森太郎『修験道史研究』

 前回、堀一郎との関係から、和歌森太郎が『民間伝承』に寄稿するようになり、昭和二十四年には編集委員、二十六年から翌年十二月号の終刊まで、編集兼発行者を務めていたことを既述しておいた。
f:id:OdaMitsuo:20191205172628j:plain:h120

 だがそれらについて、『[現代日本]朝日人物事典』の和歌森太郎の次のような立項には記されていない。それはどうしても、編集や出版への関わりは当人の業績からすれば、立項担当者にとって単なる寄り道的エピソードに過ぎないからだが、とりあえず引いてみる。

[現代日本]朝日人物事典

 和歌森太郎 わかもりたろう 1915・6・13~77・4・7 日本史学者、民俗学者。千葉県生まれ。1939(明14)年東京文理大助手となり46年助教授、50~76年教授。76~77年都留文科大学長。日本宗教社会史を専攻し、中世修験道の研究から民俗学に近づき、日本の社会史について民俗学と歴史学を結びつけた幅広い研究を行った。歴史学の研究成果の普及にも務め、多くの啓蒙的歴史書を著し、また建国記念日問題についても歴史家の立場から積極的に発言した。(後略)

 私たち戦後世代にとって、ここに示されているように、和歌森は『日本史の虚像と実像』 (毎日新聞社、昭和四十七年)などの啓蒙的な日本史家の印象が強いが、中世修験道の研究から始まっていたのである。それは数年前に古本屋で、和歌森の『修験道史研究』を見つけ、彼の原点を知らされたことになる。この河出書房の菊判上製三六〇ページの一冊は無地のカバーに黒い活字のタイトルと著者名だけが縦書きで記され、あたかも山伏の姿が浮かんでくるようなイメージをもたらしてくれた。

f:id:OdaMitsuo:20191209113428j:plain:h115 f:id:OdaMitsuo:20191208150032j:plain:h115

 奥付を見ると、定価四円五十銭、昭和十八年一月初版、五月二版で、その部数は千部とあった。とすれば、初版は二、三千部と推測され、大東亜戦争下にあっても、このような専門書が刊行され、順調に売れていた事実を伝えている。ただそれらの詳細は判明していないので、そうした意味においても、これまた戦前を含めた河出書房の全出版目録が出されていないことが惜しまれる。

 そのような近代出版史の問題はともかく、和歌森はその「序」において、「山伏といふものは、昔話や伝説を通じて、私にとつては幼いときから親しいものでありました」と始めている。それが「或時には天狗妖怪の如くうす気味悪く、或時には神仏にもまして頼もしいもの」で、「殊に不思議としたことは、落人や密使が身を隠してわびしい旅をなすとき、きまつてといつてよいほど山伏の姿に変装すること」だったと続けている。ここに提出された山伏のイメージは、戦後になっても時代劇や映画を通じて変わっていなかったし、私たちもそのように受容してきたといえよう。

 和歌森はそれから長じて東京高師で歴史を専攻するに至り、このようなイメージの山伏と吉野山と朝廷の関係を通じ、あらためて修験道と山岳宗教の問題に行き当たる。そして山伏の姿は、現在でもよく見られる白装束の行者姿での敬虔な登山者、遭難するアルピニストなどへとリンクしていく。そのきっかけは和歌森が京都の本屋で購入した本連載945など山窩山窩の宇野円空の修験道に関する論文であり、それは当時の「修験道研究の最高段階」に位置づけられるものだったという。これは後の記述によって、「神道講座」(宮地真一編、昭和六年)所収の「修験道の発生と組織」、「日本宗教大講座」(東京書院、同四年)所収の「修験道」、「郷土史研究講座」(雄山閣、同六年)所収の「修験道と郷土」のいずれかだったと思われる。この三つの「講座」は未見だが、これらに寄稿された宇野の論文はほぼ同様だったとされる。

 それらの影響に加え、その後の和歌森の『民間伝承』寄稿者、及び編輯兼発行者となることを考えれば、どうしても堀一郎や柳田国男との関係を想起せざるを得ない。和歌森はやはり「序」において、堀の『大東亜文化建設研究―東亜宗教の課題』(国民精神文化研究所、昭和十七年)にふれ、そこで堀のいう日本仏教における「惟神道の仏教的展開」が修験道にそのまま当てはまるものだと述べている。

 また「緒論」において、柳田の『山の人生』(岩波文庫)が引かれ、柳田が提出した日本特有の山のイメージと物語から、和歌森が大いなるインスピレーションを受け、山伏と修験道研究に向かったと推測できよう。ただ『山の人生』にはダイレクトな山伏や修験道への言及はないけれど、本連載960の『山島民譚集』から始まる柳田民俗学における山のイメージや伝説のエンサイクロペディアとでもよぶべき著作である。これは大正十五年に郷土出版社から刊行されている。

山の人生

 これらを背景、ベースにし、『修験道史研究』の第一章「修験道の由来」と第二章「修験道成立と特権」も書かれたと見なせよう。そして修験道の「理想的祖師」として、役小角が挙げられる。それに関しても思い出されるのは、空海を高野山へと誘った狩場明神(高野明神)のことで、彼らは水の神や山の神とも称されている。和歌森が修験道の由来を役小角から始めているのも、そうした伝説をふまえているからだ。

 続いて和歌森は第三章「教派修験道の形成と特性」、第四章「中世修験道の近世的変質」へと進めていく。そしてその「結語」において、「宗教意識から超然としつつ、しかし、いろいろな派の趣、傾向を併せ含んでゐるといふ点に特異性を帯びてゐる修験道の特色は、実に日本民族のもつ特色と互いに触発し得る関係において意義をもつた」と述べているのは、戦時下での和歌森の修験道研究の位相を物語っているように思える。

 それもあってか、平成十二年の久保田展弘監修山の『山の宗教―修験道とは何か』(「別冊太陽」)の「主な参考文献」の筆頭に挙げられ、それを受けてか、昭和四十七年には平凡社の東洋文庫でも復刻されるに至っている。またそれらに先駈け、昭和五十三年には和歌森を編者の一人とする「山岳宗教大研究叢書」(全十八巻、名著出版)が刊行され始めていたのである。そうした修験道研究史の発端こそは、和歌森の『修験道史研究』を抜きにして語れないことを意味しているのだろう。

山の宗教―修験道とは何か 修験道史研究 (東洋文庫版)


odamitsuo.hatenablog.com 

odamitsuo.hatenablog.com 

古本夜話977『民間伝承』、堀一郎、和歌森太郎

 前回は『民間伝承』の戦時下における流通販売の六人社と生活社への委託、及び戦後の六人社との再びのコラボレーションをたどってきたが、編集兼発行人に関しては守随一と橋浦泰雄にふれただけだった。
f:id:OdaMitsuo:20191205172628j:plain:h120

 守随も木曜会同人で、東大新人会のメンバーだった。しかも亡父は柳田の一高時代の同級生で、エスペラント語に通じ、そのことでも柳田と結びついていた。また『山村生活の研究』でも四項目を担当し、『民間伝承』創刊に当たって、橋浦とともに編集をまかされることになったのである。しかしその守随も昭和十三年には満鉄調査部に職を得て渡満し、新京支社で経済調査に従事する。そして十八年に学者や研究者を弾圧する満鉄事件に巻きこまれ、十九年に四十一歳の若さで、獄中でかかったチフスにより死去している。

 f:id:OdaMitsuo:20191121152424j:plain:h120 

 そのために昭和十三年から橋浦が引き継ぎ、戦後の二十三年まで編集兼発行人を担ってきたわけだが、『民間伝承』の昭和二十三年七月号に「緊急会告」が出された。それは「本会の編集並に一般事務を担当してゐた橋浦泰雄より健康不勝の理由により、右担当の辞任の申出がありました」というものである。そして柳田国男自らがそれらを総括し、新たに堀一郎を始めとする四人の編集部委員が発表され、民間伝承の会の出版物の「刊行配布及びその経営の責務は一切戸田謙介これを担当」との一節も同様だった。

 そして同号から奥付には編集兼発行者として堀一郎の名前が記載されることになる。私が最初に堀を知ったのは半世紀近く前で、ミルチャ・エリアーデの『永遠回帰の神話』(未来社)や『生と再生』(東大出版会)や『シャーマニズム』(冬樹社)の訳者としてであり、それからしばらくして、彼が柳田の女婿だとわかった。彼は柳田の次女三千と結婚している。あらためて確認すると、堀は昭和四十九年に亡くなっているので、私がそれらを読んでから数年後に没したことになる。

永遠回帰の神話 - 祖型と反復  f:id:OdaMitsuo:20191207112626j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20191207113218j:plain:h120

 それでも堀は木曜会や『民間伝承』に関する回想を残し、それは「紆余曲折―私の学問遍歴」と題され、『聖と俗の葛藤』(平凡社ライブラリー)で読むことができる。そこで彼は語っている。

聖と俗の葛藤

 私たちが結婚したのは昭和一二年でしたけれど、柳田さんの書斎で、「木曜会」が隔週の日曜の午後に催されていた、これはアカデミック・サロンともいうべきものでした。つまり、大学の講義とか講座というものじゃなくて、ひじょうに自然の形で出来上がった、アカデミズムというか、独特のものでした。発端は『民間伝承論』の口述のために木曜日とごとに後藤興善さんをはじめ多くの人々が集まってきて出来たもので、それが第二と第四の日曜の午後の集まりになっても木曜会といっていました。柳田民俗学の大先輩の人たち―橋浦泰雄、大藤時彦、大間知篤三、瀬川清子、関敬吾、最上孝敬、桜田勝徳、倉田一郎、守随一さんといった人々が柳田さんを囲んで並んでいる。私なんかは隅のほうへいって、そこでいろんな人たちの調査報告や研究発表を聞いてたわけです。その頃はのちに『海村生活の研究』という本にまとめられました海村の調査が行なわれていて、この会のメンバーが調べてきた報告を順番にしているわけですね。それを先生が聞いていて、批評や質問がある。そこはまだ調べ足りない、とか、そこはどうなっているか、とか、こういう問題があるといわれる。集まった人からも意見や質問が出る。

 長い引用になってしまったが、実際に木曜会なるもののイメージが浮かび上がってくるし、『海村生活の研究』だけでなく、柳田と『民間伝承』のあり方の関係をも伝えているからだ。このようなディテールを重ねることで、柳田民俗学は構築され、展開されていったのである。また『海村生活の研究』が挙げられているのも、堀自身が発行者として刊行されたことへの感慨も含まれているように思われる。

f:id:OdaMitsuo:20191121150554j:plain:h115 

 それから堀は当時、本連載124の国民精神文化研究所の助手を務めていたと述べ、そこで神社の祭の調査を始め、文理科大学の助手だった和歌森太郎にも加わってもらい、これが和歌森とのつき合い始めだったと語っている。実は堀が『民間伝承』の編輯兼発行者になってから、和歌森の「神島の村落構成と神事」や「社会生活の理解と民族学」(昭和二十三年十一・十二月号)などの寄稿が始まり、二十四年一月号には編集部委員としての名前も挙がっている。そして二十六年十一月号からは和歌森が編輯兼発行者となり、それを二十七年十二月号の終刊まで務めている。

 『柳田国男伝』でも国民精神文化研究所における堀と和歌森の関係にふれられ、和歌森が昭和十六年頃から木曜会に出席するようになったとあるが、それは堀を通じてであろう。そして橋浦泰雄の引退を受け、堀が編集のアシストを依頼したことから、最後には『民間伝承』の編輯兼発行者を引き受けざるを得なかったと推測される。そうした意味では橋浦がそうあったように、堀も和歌森も柳田の出版代行者だったことになろう。


odamitsuo.hatenablog.com


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話976『民間伝承』の流通と販売

 前回の柳田国男篇『海村生活の研究』が、民間伝承の会の後身である日本民俗学会から、昭和二十四年に刊行されたことを既述しておいた。姉妹篇ともいえる『山村生活の研究』は戦前の十二年に民間伝承の会から出されている。大東亜戦争と敗戦をはさんでいるけれど、両書は昭和十年に創刊され、二十七年の終刊まで一七五号を出した『民間伝承』と併走する企画だった。

f:id:OdaMitsuo:20191121150554j:plain:h115(『海村生活の研究』) f:id:OdaMitsuo:20191121152424j:plain:h120(『山村生活の研究』)f:id:OdaMitsuo:20191205172628j:plain:h120

 本連載973の『民間伝承論』としてまとまる、柳田の木曜会の講義に端を発する『民間伝承』については、拙稿「橋浦泰雄と『民間伝承』」(『古本探究Ⅲ』所収)で、実質的な編集長だった橋浦に焦点を当て、論じているが、その流通や販売に関してはふれてこなかったので、それらをここでたどってみたい。長きにわたる雑誌刊行は流通や販売を抜きにしては語れないし、それに『柳田国男伝』は『民間伝承』が「日本民俗会のシンボルでありつづけ」、「そのまま日本の民俗学発展の歴史でもあった」と述べているのだから、『民間伝承』の場合はどうなっていたのだろうか。幸いにして『民間伝承』は全冊が復刻され、国書刊行会から全十一巻が刊行されていることもあり、確認してみよう。

f:id:OdaMitsuo:20190805140653j:plain:h110  古本探究3  

 昭和十年九月の『民間伝承』は四六倍判の八ページ仕立てで、「非売品」と表記され、民伝承の会の目的は「組織的採集及び研究の為に会員相互の連絡を図ること」で、そのために『民間伝承』を毎月発行会員に無料配布すること」が謳われている。「編輯雑記」は「在京世話人」の橋浦と守随一の名前で記され、当初は実質的に守随が発行と編集を担ったとされる。

 だがここではそれらについての追跡は差し控え、『民間伝承』の流通と販売に言及したい。『民間伝承』は年を追うごとに、ページや会員数も増え、内容が充実していく様子がうかがわれるのだが、昭和十三年から「非売品」という表記は消え、最後の四六倍判の十七年三月号からは、これまでになかった奥付が設けられ、編輯兼発行者は橋浦、発行所は民間伝承の会と明記され、そこに出版文化協会々員との記載も見える。

 そして昭和十七年五月号からは、これまでの新聞的イメージからA5判、六四ページの表紙のある「柳田国男編輯」と銘打たれた『民間伝承』へと移行する。奥付の編輯兼発行者などは三月号と変わっていないが、「配給元 日本出版配給株式会社」が付け加えられている。これは何を意味するかというと、戦時下の出版統制によって、民間伝承の会も研究団体というよりも、出版社として分類され、必然的に国策取次の日配の雑誌流通販売に組みこまれたことを物語っている。

 それに加えて、次の六月号からは表紙裏に六人社の「民俗選書」の一ページ広告があり、発行所のところに事務分室として、六人社が記載されている。この事実から推測すれば、『民間伝承』の取次書店販売が六人社に委託されたことを伝えている。

 また『柳田国男伝』は昭和十九年に『民間伝承』が二千部を超える部数に達していたと述べ、それに注を付し、次のように記している。

 財政面では、発行部数増加にかかわらず、毎号三、四百円前後の赤字を出していたため、経営を外部に委託することになった。(中略)こうした折り、六人社社長の戸田謙介(一九〇三~一九八四)へ橋浦泰雄から「有意義な仕事だ」と話があり、戸田は「柳田国男編輯」と銘打つこと、三千部印刷して内千五百部は会員配布など、いくつかの協定事項を決めて引受け、普通雑誌の体裁に切り変えた。編集面ではこれまでどおり民間伝承の会が担当し、財政面は六人社が負担していくことになったのであった。

 おそらくそれまでの毎号の赤字は澁澤敬三によって支えられたのであろう。しかし昭和十九年五月号からは事務分室が、これも本連載でお馴染みの生活社へと移され、同年七・八月合併号の休刊まで続いていく。

 そして昭和二十一年八月に『民間伝承』は復刊され、民間伝承の会の常任委員、及び評議員として戸田謙介も挙げられ、事務分室は六人社へと戻され、戦後も始まっていく。

 また昭和二十四年に民間伝承の会は日本民俗学会と改称されるが、そのまま同学会の機関誌として継続刊行されていた。だが二十七年十二月号で終刊となり、新たに翌年から『日本民俗学』として誌名変更となった。『民間伝承』はそのまま六人社に委ねられ、昭和五十八年六月まで刊行されたようだが、こちらは未見である。

 なお以前に「探偵小説、民俗学、横溝正史『悪魔の毛毬歌』」「六人社版『真珠郎』と『民間伝承』」(『近代出版史探索』所収)なども書いているので、ぜひ参照されたい。

近代出版史探索

odamitsuo.hatenablog.com
 

 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら