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古本夜話960 柳田国男と『山島民譚集』

 前回ふれておいたように、金田一京助の『北蝦夷古謡遺篇』は「甲寅叢書」、知里幸恵の『アイヌ神謡集』は「爐辺叢書」の一冊として、それぞれ郷土研究社から刊行されたのである。

北蝦夷古謡遺篇 (『北蝦夷古謡遺篇』) f:id:OdaMitsuo:20191001112507j:plain:h115 (『アイヌ神謡集』)

 「甲寅叢書」に関しては、拙稿「出版者としての柳田国男」(『古本探究Ⅲ』所収)で既述しておいたが、大正二年に柳田が郷土研究社を設立し、『郷土研究』を創刊するかたわらで、「甲寅叢書」の企画を進めていたのである。そのスポンサーは友人の西園寺八郎と実業家の赤星鉄馬で、彼らが三千円を用意してくれたので、その第一冊目として金田一の著作、第三冊目は自らの『山島民譚集』を出した。いずれも五百部だった。企画には二十点近くが挙げられていたようだが、六冊で中絶してしまった。その理由は不明である。
古本探究3  f:id:OdaMitsuo:20191001103118j:plain:h115 (『山島民譚集』、創元社版)

 これも平凡社の東洋文庫に関敬吾、大藤時彦編『増補 山島民譚集』として、昭和四十四年に刊行されている。同書には「甲寅叢書」版の「河童駒引」と「馬蹄石」に加えて、「大太法師」を始めとする「初稿草案」や「新発見副本原稿」などの十一編、「付録」の一編が「増補」され、柳田民俗学の原初のイメージを浮かび上がらせている。初版「小序」の「横ヤマノ 峯ノタヲリニ/フル里ノ 野辺トホ白ク 行ク方モ 遥々見ユル」、あるいは「永キ代ニ コゝニ 塚アレ/イニシヘノ神 ヨリマシ」「此フミハ ソノ塚ドコロ 我ハソノ 旅ノ山伏」は柳田の新体詩輯『野辺のゆきゝ』の「夕ぐれに眠のさめし時」(『柳田国男全集』32所収、ちくま文庫)を彷彿とさせる。

増補 山島民譚集 柳田国男全集

 それは「うたて此世はをぐらきを/何しにわれはさめつらむ、/いざ今いち度かへらばや、/うつくしかりし夢の世に、」とういものだ。先の「小序」とこの詩は民俗学者以前の松岡国男の顔を表出させ、『石神問答』 『遠野物語』のみならず、『山島民譚集』まで続いていた抒情詩人としての柳田のコアの在り処を伝えていよう。
が想起されたからだと思われる。またアチック・ミューゼアムは昭和十七年に日本常民文化研究所と改称され、澁澤も亡くなっているので、写真などの権利がそちらに引き継がれたことを伝えている。

』『柳田国男全集』15 遠野物語

 このことを自覚してか、昭和十七年の「再版序」で、柳田は次のように始めている。

 山島民譚集を珍本と呼ぶことは、著者に於いても異存がない。それは今から三十年も昔に、たつた五百部印刷して知友動向に頒つたといふ以上に、この文章が又頗る変つて居るからである。斯んな文章は統制には無論通じないのみならず、明治以前にも決して御手本があつたわけでは無い。大げさな名を付けるならば苦悶時代、(中略)一つの過渡期に、何とかして腹一ぱい書いて見たいといふ念願が、ちやうど是に近い色色の形を以て表示せられたので、言はばその数多ひ失敗した試みの一例なのである。

 さらに続けて、「この文体を採用した者は無いのみか、筆者自らも是を限りにして罷めてしまつた」と述べているけれど、付け足しのように「ほんの片端だけ、故南方熊楠氏の文に近いやうな処」もあると書いている。

 だが鼇頭に置かれた見出しに当たる表記、及び漢字と仮名を混在させた「この文体」は『石神問答』の共著者ともいうべき山中共古の書法であり、それが他ならぬ「爐辺叢書」の共古の『甲斐の落葉』にも採用されていた。それゆえにこの書法は江戸時代の文人や好事家、その系譜を引き継いだ集古会やその会誌『集古』にも見られるもので、『山島民譚集』再版時にはすでに柳田民俗学が確立されつつあっただけに、「再版序」においてはそれらの痕跡を韜晦し、隠蔽しようとしたように思われる。

 例えば、最初に置かれた「河童駒引」を見てみると、柳田は河童伝説をたどるために、まず石川鴻斎の『夜窻鬼談』を挙げ、その奇抜な挿画に「立派ナル若衆ガ奥方ノ前ニ低頭シテ一本ノ手ヲ頂戴スルノ図」があり、「此少年ヨソハ即チ河童ノ姿ヲ変ヘタル者ニシテ、奥方ノ為ニ斯取ラレタル自分ノ片手ヲ返却シテ貰フ処ナリ」と注釈を加えている。

夜窻鬼談

 そしてこの河童が「強勇ナル奥様」に無礼を働き、手を斬られ、泣いてあやまり、手を返してもらうという話、もしくは異伝と覚しきものが九州の『博多細記』や『笈埃随筆』に見えるとし、それらの例も引いている。これらの「三書ノ伝フル所、果シテ何レヲ真トスベキカ可知ラザルモ」、「九州ノ南半ニ於テハ河童ノ別名ヲ水神ト謂ヒ或ハ又『ヒヤウスヘ』ト謂フ」かたちで、柳田の河童探索は続いていくのである。

 このような書法に関して、やはり柳田は「再版序」で、「此本を書いた頃、私は千代田文庫の番人」で、「色々の写本類を、勝手に出し入れ見ることができた」ので、「斯んなにまで沢山の記録を引用」したと書いている。これは明治末期の法制局参事官としての記録課への出向で、内閣文庫での蔵書を読んだことをさしていると思われる。

 しかしこれも韜晦と見なしていいだろうし、柳田民俗学の情報ネットワークはまだ成立しておらず、このような江戸文人や好事家、集古会などに見られた民俗随筆の手法にのっとり、『山島民譚集』を書いたと考えるべきであろう。ちなみに柳田の集古会の会員であり、その名前は会員名簿の『千里相識』にも掲載されているのである。


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