出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1489 堀口大学訳詩集『空しき花束』

 これは古本屋で偶然に入手し、その「序」を読むまで知らなかったのだが、堀口大学訳詩集『空しき花束』『月下の一群』の続編として刊行されていたのである。それは大正十五年十一月で、前年九月の『月下の一群』に続く訳詩集であることからすれば、当然のように思われがちだけれど、手元にある。だが『月下の一群』(講談社文庫、平成八年)所収の堀口大学の「年譜」(作製・柳沢通博)を見ても、『空しき花束』出版の記載はない。やはり多大な影響を及ぼした名訳詩集『月下の一群』の背景にあって、埋もれてしまった気配が感じられる。

 堀口大学訳 月下の一群 1926年(大正15年)第一書房刊 函入り、背金箔押し革装、天金  

 しかし『空しき花束』にしても、判型は『月下の一群』と異なる四六判でありながら、紛れもない第一書房の詩集特有の豪華本に相当する『近代出版史探索』135の『三富朽葉詩集』の例から考えれば、函もあったと思われる。私はこの分野に関して、まったくの門外漢だけれども、その天金革背の造本、表紙の灰色の格子状に主として赤と青の花をあしらった装幀はエレガントな趣を呈し、愛でるにふさわしい一冊となっている。それに大学のいう「収むるところ二十九家の詩品長短二百篇」の「訳者の好み」による「仏蘭西近代詩の選集」は本文五二七ページで、読者をその世界へと誘うようにゆったりと組まれ、選ばれた用紙とともに、「テクストの快楽」をも喚起させてくれる。

 『空しき花束』は初版千五百部、定価は三円五十銭である。すでに昭和円本時代は始まっていたし、それに抗するように「豪華版」は出されたといえよう。「豪華版」とは長谷川巳之吉の造語で、未見だが、昭和三年の『萩原朔太郎全集』において、その「詩集の装幀美」は確立したとされる。『空しき花束』の巻末広告に同じ四六判「背皮金泥美本」として、『上田敏詩集』など四冊が掲載されている。それらも『空しき花束』に準じているはずだ。それならば、長谷川はそうした「装飾美」の範をどこに求めていたのであろうか。の範をどこに求めていたのであろうか。

 (『萩原朔太郎詩集』)

 気谷誠『愛書家のペル・エポック』(図書出版社、平成五年)などによって、同時代のフランスが「装幀美」を誇っていたことを知っている。だが長谷川は『第一書房長谷川巳之吉』所収の「年譜」で見る限り、ヨーロッパには出かけていない。とすれば、彼はそれらの「豪華版」を直接取り寄せていた、もしくは大正になって盛んになった洋書輸入専門書店を使っていたということになるのだが、それらの証言は残されていない。ただそれよりも確実に言えるのは、第一書房のパトロンである大田黒元雄の影響である。これは拙稿「第一書房と『セルパン』」(『古雑誌探究』所収)で林達夫の証言を引いておいたけれど、大田黒はロンドン留学時代に日本での出版を志していたと思えるほど造本などに詳しく、第一書房の初期の刊行本には大田黒好みが色濃く投影されていたとされる。

   第一書房長谷川巳之吉  古雑誌探究

 確かにその林の証言を肯うように、『空しき花束』の巻末広告には大田黒の『洋楽夜話』などの著者が八冊、『近世音楽の黎明』といった訳書が四冊並んでいる。残念ながらこれらは一冊も入手していないが、長谷川は大田黒が持ち帰ったイギリスの「豪華版」を範として、「装幀美」を学び、それを詩集へと応用していったのではないだろうか。大田黒のことも『日本近代文学大事典』から引いておこう。

(『洋楽夜話』)

 大田黒元雄 おおたぐろもとお 明治二六・一・一一~昭和五四・一・二三(1893~1979)音楽評論家。東京生れ。明治四五年イギリスにわたりロンドン大学に学ぶ。大正四年『バッハよりシェーンベルヒ』を処女出版、翌年小林愛雄とともに雑誌「音楽と文学」を発刊して、文学との関りにおいて西欧近代、現代音楽の紹介につくし、国際演劇協会常任理事をつとめた。主要著訳書に『洋楽夜話』『歌劇大観』、ロラン『近世音楽の黎明』、ストラヴィンスキー『自伝』などがある。

 しかしこの立項には著訳者の版元名もなく、第一書房との関係がまったくふれられていないし、画竜点晴を欠くの感を否めない。文学事典は出版に冷たいといった山本夏彦の言を思い出す。

 それから最後になってしまったけれど、『空しき花束』『月下の一群』以上に口訳自由詩訳の色彩が強く、それは昭和に入っての翻訳にも大きな影響を与えたのではないだろうか。その典型は『近代出版史探索Ⅱ』のボードレール、矢野文夫訳『悪の華』だったと推測される。堀口の口語自由詩訳は冒頭のマラルメ「扇子」にも顕著なので、それをそのまま全文引いてみる。

  とざされて
  私は
  あなたの
  指のあひだで
  王の笏。

  美しい女あるじよ
  この王位に安んじて
  どうか
  私をひらかずに
  おいて下さい

  もしも
  私が
  このたびごとに
  あなたの微笑を
  かくさねばならぬなら。

 これがマラルメのどの詩に当たるのかを筑摩書房の『マラルメ全集』Ⅰの『詩・イジチュール』を繰ってみた。すると『詩集』に「扇 マラルメ夫人の」(松室三郎他訳)と「別の扇 マラルメ嬢の」と「扇 メリーローランの」の三編は見つかるものの、堀口訳「扇」に照応する詩句には出会えない。それはこの一巻を通読しても同様である。堀口は何をテキストとして「扇」を訳したのであろうか。

マラルメ全集I 詩・イジチュール


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古本夜話1488 岡田正三、田中秀吉、全国書房『プラトン全集』

 これは後述するつもりだが、第一書房の『土田杏村全集』の全巻校正は岡田正三が担っていた。ただ彼は『日本近代文学大事典』などには見えていない。ところが『第一書房長谷川巳之吉』所収の「第一書房刊行図書目録」にはふたつの『プラトン全集』の訳者として目にすることができる。これらの『プラトン全集』は昭和八年の小型版全五冊、同十七年からのA5判全十二冊であり、前者の『メノン編』は浜松の時代舎で入手している。

  第一書房長谷川巳之吉   

 先の一冊に池田圭「私と第一書房本」という回想が寄せられ、この『プラトン全集』に関するくだりがあり、私などでは書けない言及が示されているので、それを引いてみよう。

 最近は装釘のやわらかく軽い本を選ぶことの方が多い。例えば背皮、丸背袖珍の天金本、天漉き和紙の『プラトン全集』などである。如何に難解な書物と雖も、カバー函を眺め、背を撫で、バンドに蝕り、ひらの壁紙に眼をうつし、コーネル皮に指先を置く。そして見返し、数枚の余白を通って、クローム・グリーンの丸みを持ったアンティック活字、木版画の鳩の姿のある扉を開くとプラトンの世界である。
 本文は明朝8ポ、11行30字詰で対話者はアンティック活字で綴られ、それが行間に点在して第一書房本特有の階調をなしている。のどに寄せた下段のノンブルの打ち方、下欄のテキスト本のページの□の中の筋も程よい位置を保っている。ギリシヤ文字が絵模様のように鏤められ、七号の*約物も眼を楽しませて呉れる。

 まさに愛書家らしき、『プラトン全集』小型版に関する装幀、造本、活字、印刷などのすべてにわたる穿った言及で、私などはとても真似のできない記述である。池田の他に野田宇太郎が第一書房廃業に際し、河出書房に移籍するに当たって、長谷川から土産として『プラトン全集』出版権を挙げようといわれたエピソードを語っているだけだ。訳者の岡田については誰もふれていないが、「出版目録」からは昭和八年に岡田訳『詩経』が刊行され、それが『プラトン全集』へとリンクしていったと推定できる。

 その岡田は漢文研究者にしてギリシア哲学にも通じ、土田杏村が第一書房の顧問的立場にあり、彼もその近傍にいたと思われる。それが『土田杏村全集』の校正の仕事へとつながっているのであろう。

 しかし戦後になって岡田訳『プラトン全集』が刊行されたのは河出書房ではなく、全国書房からだった。全国書房版は買い求めていないけれど、古本屋で何度も見ているし、どうして第一書房の『プラトン全集』が全国書房から出版されるようになったのかは不明であった。
 
 (全国書房版)

 ところが意外なところにそれを見出したのである。拙稿「岩谷書店と『別冊宝石』」(『古雑誌探究』所収)において、岩谷書店は明治半ばの有名な岩谷天狗煙草の孫である岩谷満によって、昭和二十一年に設立され、城昌幸を編集長として、『宝石』を創刊したことにふれている。またそこで「探偵小説の一大宝庫」である「岩谷選書」の横溝正史『本陣殺人事件』、城昌幸『若さま侍捕物手帖』、高木彬光『刺青殺人事件』などのラインナップも示しておいた。

 古雑誌探究

 しかし戦後の出版社の御多分に洩れず、昭和三十年代に入ると、『宝石』の発行所は岩谷書店から宝石社へと代わり、岩谷一族は身を引いたようだ。だが『宝石』創刊間もない頃には、岩谷の親族に当たる杉山信夫が岩谷書店と『宝石』の販売を手伝い、京都に帰って、昭和二十三年に出版社を興すことになる。それはミネルヴァ書房である。

 その杉田が全国書房と『プラトン全集』に関して証言している。全国書房の創業社田中秀吉は税務関係者で、第一書房の著者でもあり、それで『プラトン全集』の出版権を得て、戦後数次にわたって刊行したが、結局のところ、出版社としては立ち行かなかったと。そこで「第一書房刊行図書目録」をたどってみると、昭和十二年六月のところに田中秀吉『印紙税法の起源と其史的展開』が見つかった。第一書房としても異色な一冊といえるだろうし、おそらく田中は、長谷川が第一書房の社業が好調ゆえに、税に関係の助言を求めて知り合った人物で、その関係から第一書房の出版物からは逸脱する一冊を刊行するに及んだのではないだろうか。

 そして田中は戦後の出版ブームの中で、長谷川から『プラトン全集』の出版権を得て、数次の出版を試みる。『全集叢書総覧新訂版』を見ると、昭和二十三年だけでも、いずれも十二巻の『プラトン全集』と『プラトーン全集』の二種類が出ているし、昭和四十六年にも『プラトーン全集』が再刊されている。それゆえに、私も何度も古本屋で見かけているのだろう。しかし昭和二十九年には弘文堂の『プラトーン著作集』などの新訳も出始めていて、戦前の岡田訳は苦戦を強いられたと想像するしかない。

全集叢書総覧 (1983年)  (全国書房版) (弘文堂版)


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古本夜話1487 大阪毎日新聞社校正部編『校正の研究』

 もう一冊、浜松の時代舎で、所謂「業界本」を見つけているので、これも続けて紹介しておこう。

 それは大阪毎日新聞社校正部編『校正の研究』で、昭和三年に大阪毎日新聞社と東京日々新聞社から刊行されている。四六判函入、六三六ページ、索引付の堂々たる一冊である。前回の『出版事業とその仕事の仕方』で、書評のための献本先として、まずこの両新聞が挙げられていたことからすれば、当時二千を数えたとされる新聞の代表的存在と見なせよう。そうした事実と「序」を寄せているのが大阪毎日新聞社社長の本山彦一などであることを考えると、隆盛を迎えつつあった新聞業界が初めて刊行に至った校正のための一冊といえるかもしれない。

校正の研究 (1929年)  

『校正の研究』は大阪毎日新聞社校正部編とされているけれど、本山の「序」はそれが長年同新聞の編輯、整理部を担い、現在は校正部長の職にある平野岑一によると記している。それに加えて、平野は「校正に関する実地の研究を積み、また広く彼我の著者を渉猟して、その文献を明かにする」ことをめざし、この研究を著したのである。それは平野自身の「序」に記されているように、「校正の研究に関して、これまで、わが国で公刊せられた書籍はない」し、本文中の言葉を借りれば、「わが国に前例のない書物」、つまり校正に関する嚆矢の一冊として刊行されたことになる。

 そのために新聞における校正の歴史もたどられ、明治三十年代後半に『東京日日新聞』において、論陣を張っていた福地源一郎の「懐往事談、付新聞紙実歴」(『福地桜痴集』所収、『明治文学全集』11)の「校正可畏」(校正畏るべし)のエピソードが引かれている。ここでそのよく知られた言葉が福地に由来し、それが『論語』の「子曰後生可畏」に基づくことを教えられた。

 また新聞において黒岩涙香は校正をよく理解し、『万朝報』編集局においても校正部門を独立させ、その信頼する校正者中川毅に破格の月給一万円を与えていたこと、『近代出版史探索』102の涙香『天人論』にはその中川の名前が明記され、「書籍に校正者自身が名を記して、責任を明かにした」のは『天人論』が最初だと伝えている。また当時の雑誌として校正の厳密さを語っていたのは、高浜虚子の『ホトトギス』、佐佐木信綱の『心の花』、与謝野寛夫妻の『明星』などだったという。

 これらも知らなかった事実だけれど、最も興味深かったのは出版が昭和円本時代だったこともあって、「書籍校正」のところで、「全集校正」が例として挙げられていることだ。「この円本の大流行」は「自然校正上にも、正確完全をはかるといふことに、期せずして一致し、それゞゝ老練な校正者や、文学者や、学殖のゆたかな教育家などを聘して、一時一句の誤をもおそれる有様」となったのである。実際にそれらの例として、『近代出版史探索Ⅵ』1116の国民図書『校註日本文学大系』『同Ⅵ』1062の改造社『現代日本文学全集』『同Ⅵ』1098の春陽堂『明治大正文学全集』『同Ⅲ』427の平凡社『現代大衆文学全集』、新潮社『世界文学全集』、春秋社『世界大思想全集』などが語られている。これらは新聞らしく実際に取材したり、書簡での取い合わせ調査によっているようだ。

    現代大衆文学全集第22巻平山蘆江集  弟子/アンドレ・コルネリス/附三篇 息子・手引をする女・脅迫 ブールジェ著 山内義雄訳 世界文学全集 第2期第2巻新潮社  1930年  

 そのためにこれらの全集の構成事情がそれぞれ具体的にレポートされ、編集と校正の肉声が聞こえてくる。だからすべてを紹介したいが、それは許されないし、ここでは続けて第一書房に言及していることもあり、『近代劇全集』の例を引いてみよう。

(『近代劇全集』25)

 この全集は普通の印刷でなく、単式印刷といふ方式によつてゐるから、一般の植字、差替とは趣を異にしてゐる。まづタイプライターで打つた原稿を写真にとり、誤字はその個所に切りばりをする。校正者は四人で、漱石全集の編纂と校正にあづかつた石原氏と、もと中学校長であつた博学の人物がゐる。日本女子大出の婦人を聘してゐる点もかはつてゐる。初校はかならず詰合せ、再校三枚は単独。四校で校了とする。日本における上演用台本とする心組みから、翻訳者もすこぶる熱心で、加筆訂正は一般の創造のほかであると。

 ここで述べられている「単式印刷」は補足説明を必要とする。『出版事典』(出版ニュース社)によれば、写真平版の一種で、特殊なタイプライターによって印字し、これを版下として卵白平版をつくり、オフセット印刷機で印刷する方式をさす。この定義によって、続く「タイプライター云々」という説明が理解できよう。昭和六年の平凡社『大百科事典』もこの方式によっているという。

  

 さらに「漫談」と題する最終章は四五ページに及ぶもので、大正から昭和にかけての新聞、雑誌、書籍の校正の実際と内幕までも明かされ、近代出版界にしても、校正の歴史とともに歩んできたことを示唆してくれる。


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古本夜話1486 志水松太郎『出版事業とその仕事の仕方』

 十年ほど前に『日本古書通信』の樽見博編集長からクリスマスプレゼントとして、『出版事業とその仕事の仕方』を恵送されたことがあたった。この本は知らなかったが、元版はかなり売れたようで、写真が豊富だし、何らかの参考になればという添え書きとともに。それもあって、いつか書かなければと思っていたにもかかわらず、時が流れてしまった。本探索1483で『編輯著述便覧』を取り上げているので、ここで続けて言及してみたい。

 『出版事業とその仕事の仕方』は著者兼発行者を志水松太郎として、昭和十三年に豊島区雑司谷町の大日本出版社峯文荘から刊行されている。発売所は取次の栗田書店と東京堂で、その事実は『編輯著述便覧』が「非売品」扱いだったことに比べれば、多少異なるにしても、所謂「業界本」として刊行されたと考えられる。菊半裁判、三九三ページの一冊である。

 志水と大日本出版社峯文荘はここで初めて目にするが、巻末広告を観ると、市川源三『母の書』の他に、「新刊」として市川盛雄『新時代の広告文学』、松本清『日本倉庫史』、後藤朝太郎『茶道支那行脚』、豊田実『戦争と株式と人物』を刊行しているとわかる。何ともとりとめがないといっていいラインナップなので、これらの書影を通じて、志水とその版元のプロフィルは掴めない。著者の口絵写真は見ることができるけれども。

 それは『出版事業とその仕事の仕方』を読むことで、浮かび上がらせていくしかないだろう。志水は「序」において、同書の上梓理由を次のように語っている。大規模出版社であれば、編集、営業、宣伝といった分業的な仕事、小規模出版社においてはそこの主人がすべての任に当っているので、「一般出版事業に従事の諸君」はそれらをひととおり心得ていないし、自分もそうだった。「其処で本書が出来た事になつた訳である」と。ところがそれが予想外に売れてしまったようだ。

 本書は囊に四六判二百二十七頁九十五銭の小冊として提供した処、忽ち一千部売切れの歓迎を受け、其の後改定増補の筆を加へて、本書と同版を上製四六判一円八十銭として売出した処、之亦一千二百部が非常な歓迎を受けたのであつた。本書の内容は、勿論それだけ歓迎を受けるだけの必要な事柄と話してあるのだが、それでも筆者として、斯くまで広く読まれる事を、意外とも思ひ、光栄とも感じて居る所である。其処で前書の残り幾何も無い今日、奉仕廉価として茲に普及版を提供する事にした。

 そして志水は「前書を刊行した頃は、東京の某出版社に勤務の身であつたが、其後理想に向つて躍進努力すべく、今出版の道に自から総てを手掛けて行くべき立場になつた」と述べている。それが巻末広告の各「新刊」書籍のことが了承される。またさらに読者に向け、「諸君、大いに共に出版界に活動しようではないか」と呼び掛けている。それならば、同書の内容と「歓迎を受けるだけの必要な事柄」がどのようなものであるのかをたどってみなければならないだろう。

 その内訳を示せば、三部仕立てで、第一は「仕事(市場へ出すまでの話)」である。それは出版の定義と種類から始まり、編輯者の心得、著者との関わりとその問題、原稿の整理とその方法、原価計算、印刷と用紙、校正、製本、広告などにも及び、出版社における編輯者の立場から見た、主として書籍の生産の実際といえるであろう。この第一だけで三〇〇ページ近くが占められているので、志水がその時代の大手出版社の現役の書籍編集者だと推定できる。

 第一も多くの現場の写真や図版、表などを配置し、リアルなレポートとなっているのだが、それ以上に興味深いのは第二の「取引(売行成績の実例談)」である。それは昭和十年の『出版事業とその仕事の仕方』の初版、つまり第一版の流通と販売の実際を語っているからである。その第一版は共同印刷で製作され、当初はすべてを無償頒布するつもりでいたが、負担が重すぎたので、勤務先の社長の許可を得て、書店での販売も試みることにした。取次は栗田書店で、当時の四大取次店は、それに東京堂、東海堂、大東館、北隆館であった。そのために第二版から東京堂にも口座を設けたことになろう。

 ここでは栗田書店の写真も掲載され、その委託正味が七半掛け、つまり定価一円であれば七十五銭、三カ月後の精算となる。これも色々と細部まで言及していけば、専門的になりすぎてしまうので、これ以上立ち入らないが、現在の小出版社の取引条件は実質的に六掛け、六ヵ月後の精算であることを考えると、昭和十年代はまだ取次との取引条件は恵まれていたことになろう。

 志水にとっても、栗田書店からの最初の支払い、それは百円の小切手であったけれど、記念すべきもので、栗田雄也の自筆署名入りの第一銀行丸之内支店の峯文荘宛小切手の写真を掲載している。

 取次口座開設と書店販売に伴う新聞広告、注文と売れ行きの実際、書評なども転載され、峯文荘と『出版事業とその仕事の仕方』のデビューをリアルに伝えていよう。すでに支那事変は起きていたが、同書の売れ行きからすれば、昭和十年代には出版事業を志す人々が多く存在していたことになるし、本探索で取り上げてきた文芸書の小出版社なども、そのようなトレンドの中で創業されていったと思われる。


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古本夜話1485 竹柏会と「心の花叢書」

 本探索1481の片山廣子の歌集『翡翠』を入手し、そこに収録された「ゆめもなく寝ざめ寂しきあかつきを魔よしのび来て我に物いへ」という一首を示し、彼女に言及したことがあった。

(『翡翠』)

 その際に片山の『翡翠』の他に二冊の歌集も拾っていたことを思い出し、探してみると、九条武子『金鈴』と石井衣子『波にかたる』が出てきたので、これらも書いておきたい。ちなみに前者は大正九年初版、昭和四年十版、鮮やかなクロムイエローがまた保たれている函入り、後者は大正十四年初版の裸本、いずれもB6判上製である。『翡翠』と同じく、両書の発行所は竹柏会、発売所は東京堂書店となっている。それは竹柏会が発売と取次を東京堂に委託していることを物語っている。

(『金鈴』)(『波にかたる』)

 竹柏会は明治三十二年に設立されている。それは歌人佐佐木弘綱の号である竹柏園(なぎその)にちなみ、息子の信綱もその号を継承し、竹柏会を主宰することになった。その前年に創刊された『心の花』は単なる短歌雑誌というよりも多彩な文芸雑誌の趣があったが、三十七年に石樽千亦が編集に専従し、竹柏会の機関誌へと移行した。

 『心の花』発行だけでなく、竹柏会は主として大正時代に多くの歌集を収録した「心の花叢書」を刊行している。残念ながら、歌集ということもあってか、紅野敏郎『大正期の文芸叢書』には見出せないけれど、『金鈴』の巻末広告に「竹柏会同人著作著目」として「歌集」がリストアップされているので、それらが「心の花叢書」と見なせよう。それを引いてみる。なお番号は便宜的にふったものである。

1 佐佐木信綱 『改訂おもひ草』
2   〃   『新月』
3   〃   『常盤樹』
4 石樽千亦 『鷗』
5 白蓮 『踏絵』
6 津軽照子 『野の道』
7 釈宗演 『楞伽窟歌集』
8 木下利玄 『一路』
9 福原俊丸 『雲』
10 富岡冬野 『微風』
11 石井衣子 『波にかたる』
12 小金井素子 『窓』
13 安廣花子 『ひなげし』
14 秋元松子 『黄水仙』

(『一路』)

 また別刷一ページに九条武子歌集『薫染』がその諸感随筆集『無憂華』と並んでいるし、その裏ページには佐佐木信綱博士編『九条武子夫人書簡集』も挙がっている。当然のことながら『金鈴』にしても、『薫染』にしても、「心の花叢書」に含まれるものであろうが、『無憂華』二百版、『九条武子夫人書簡集』十五版との記載は彼女が歌集とは別に、竹柏会にとってのベストセラー歌人であったことを示唆していよう。彼女が『近代出版史探索Ⅶ』1377の大谷光瑞の妹であることは承知しているが、あらためて『日本近代文学大事典』を確認してみる。

 (『薫染』)(『無憂華』)(『九条武子夫人書簡集』)

 九条武子くじょう・たけこ 明治二〇・一〇・二〇~昭和三・二・七(1857~1928)歌人。京都西本願寺に大谷光尊の次女として生れ、明治四二年男爵九条良致と結婚。ともに渡欧したが翌年単身帰国、以来十年余独居生活。幼児から歌を習い大正五年佐佐木信綱に師事、憂愁にみちた作品は世の同情を集めた。歌集『金鈴』(大九・六 竹柏会)『薫染』(昭三・一一 実業之日本社)『白孔雀』(昭和五・一 太白社)、書簡集『無憂華』(昭二・七 実業之日本社)、戯曲『洛北の秋』などのほか、改造社版『九条武子集』、信綱編『九条武子書簡集』などがある。

 この立項を読んで、あらためて『金鈴』を繰ってみると、扉には「心の花叢書」と赤く銘打たれ、彼女の深窓の令嬢的なものから、現在の「面影」に至るまでのポートレートが収録され、彼女へのオマージュ的な佐佐木の序文が続いている。それは彼女の「単身帰国、以来十年余独居生活」にふれたもので、「泰西に研学にいそしまる背の君を待ちつつ」、「その折々の思ひはあふれて、数百首のうた」となった。「この金鈴一巻よ、世にうつくしき貴人(あてひと)の心のうつくしさ、物もひしづめる麗人(かたりびと)の胸のそこひの響を、とこしへに伝ふるなるべし」と結んでいる。

 おそらく九条は先の立項に象徴されているように、西本願寺の娘として生まれ、男爵と結婚して渡欧し、夫の研学のために単身帰国し、長きにわたってその帰還を待ちわびているというイメージによって、時代のアイコンになったのではないだろうか。彼女の歌を一首だけ引いてみる。「みわたせば西も東も霞むなり君はかへらずまた春や来し」。

 先の立項は彼女の昭和三年の死を知らせているけれど、夫と再会できたのであろうか。竹柏会の二百版『無憂華』の惹句は「麗人逝いてまた帰らず、されど夫人の霊は厳として我等がうつし世に残されたり」とある。

 またさらに石井衣子の『波にかたる』にもふれるつもりでいたが、九条のことだけで紙幅がなくなってしまった。だが石井のほうも『日本近代文学大事典』には立項され、やはり早くから佐佐木に師事し、歌集として『波にかたる』が挙げられている。彼女のほうは貿易商の夫とともに長くアルゼンチンに在住し、戦後になってかの地で没したようだ。こちらも「心の花叢書」印が打たれ、佐佐木の序文が寄せられているので、石井のアルゼンチンの風景を詠んだ一首を引いておこう。

 「ミモサの花黄にうちけむり/春の陽の/照り曇らへる果なき大野」


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