出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話320 香蘭社と木村萩村『自己の為めに精神修養』

前々回の尚栄堂のように東京書籍商組合員『書籍総目録』に姿を見せていれば、出版物を通じてその時代における出版社のイメージとアウトラインをつかめるのだが、特価本業界の出版社は東京書籍商組合に加盟していないところも多い。その一方で『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』にもその痕跡をわずかしか残していない出版社も多々あり、そのような一社が香蘭社である。

香蘭社『三十年の歩み』において、昭和九年の「全国見切本数物卸商一覧」の中に「東京下谷区西町一一 香蘭社」、同十年頃の回想のところで、下谷・外神田方面の「八千代書院―香蘭社名で図案、カットの本を出版していました」との言が見つかるだけだと思われる。

その香蘭社の本が一冊ある。それは昭和八年に出された木村萩月を著者とする『自己の為めに精神修養』と題されたもので、発行者を竹之内米太郎としている。しかし留意しなければならないのは、発行者と発行所の住所が本郷区根津須賀町と記載されていることで、前述の場所と異なっているけれども、出版部門の住所と考えるべきだろう。

『自己の為めに精神修養』は三六判上製、四百ページを超えるもので、造本や活字の組み方、社名などのレイアウトに、ある種のセンスを覚える。裸本であるのが残念だが、カバー表紙がついていれば、それはさらにはっきりしたと思われてならないし、見返しに示された「韓信の股くぐり」の絵もコミック調で、ユーモアをも感じさせる。

それに加えて、著者の木村萩村については国会図書館の蔵書に『現代名家詩集』『趣味の童話』シリーズなどが見えるが、詳細なプロフィルは不明である。だが、その文体はシンプルにして明快で、新しい自己啓発書の趣もある。そのサンプルとして、書き出しを示す。これもルビは省略する。

 世の中に、迂愚(ばか)と無欲と、聖人と、よほどの偉大なる人格者でない限り、立身出世を願はぬ者は一人もあるまい。立身出世と云う事は良い者(ママ)に相違ない。学問をした者がそれぞれ志す方面の博士となる事も学究と云ふ上の立身出世である。商店の小僧さんが漸時世の信用を得て大なる店舗を有する事を(ママ)無論立身出世である。褌かつぎなどゝ世に冷評せられても後世に天下の関取として名をなすも又立身出世である。其他軍人が大将となり、船員が船長となるのも大か小か、重か軽かの相違はあつても均しく是れ世の所謂立身出世であるのだ。

ここに表われているのは立身出世における万人の平等といった視座で、学問をした者、商店の小僧、褌かつぎ、軍人、船員が同等に扱われていることであろう。そしてだからこそ立身出世が望まれるのも「人情で、各人が又努力するのも実にここにある」し、「青年諸君が当然に夢み、若しくば望むのは必然の法則」だと畳み掛け、次に具体的に立身出世の道や方法を示していく。

それらは健康と努力、正直勤勉、機会を逃さぬこと、大胆さと忍耐などが述べられ、その仕上げとして、名士の処世観と修養一夕訓が挙げられていく。これらはすべて通俗的な立身出世の物語を一歩もはみ出すものではないのだが、『自己の為めに精神修養』がそれらと一線を画しているのは、ひとえに著者の木村の軽みのある文体というよりも、話体によっていると思われる。

それを評して、「序」を寄せている福士末之助が「夫れ言々句々著者自奮の志気に由るを似て、世の著述を業とする者の浄辞に比すべきもあらず文に気あり、意に力あり。真に恰好の修養書なり」と述べているのだろう。だがこの福士なる人物も不明である。新しい書き手の出現を告げる木村のような著者が登場したことは特価本業界の、量ではなく質の進化を示しているのであろうか。なおその後の調べによれば、福士は長崎高等師範学校長で、木村の恩師であるのかもしれない。

巻末広告には二十冊の「香蘭社の新刊図書」が並び、そのうちの六冊が特価本業界の出版社らしい定番の辞典類で、一冊は本連載227でふれた久保天随編『詳細漢和大辞典』、三冊が手紙や書翰の辞典となっている。それに習字、ペン字が半分近くを占めているので、香蘭社は手紙や書翰、習字やペン字といった文章の書き方を中心とする出版社だったとも考えられる。『ABCから会話まで』や『図解説明自動車講義録』といった英会話や運転免許のための本も混じっているけれども。

ただ残念なことに、『三十年の歩み』で述べられている図案、カット本は見当らない。しかしこれは『自己の為めに精神修養』の造本、活字の組み方、レイアウトの斬新さについて前述したが、それらの図案、カット本で培われたセンスは、「香蘭社の新刊図書」にも反映されているのではないかと思える。判型だけでも見ていくと、三五判、四六判だけでなく、菊判、菊半裁判とバラエティに富み、これは編集の手間と製作はコストがかかることを表わしているし、そこに編集者のアイデンティティもこめられていたようにも感じられる。これもまた特価本業界における編集の進化の表われなのかもしれない。

その起源と由来を考えていると、もうひとつの同名の交蘭社という出版社が思い出されたが、こちらは本連載で後述するつもりだ。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話319 共楽館『名人遺跡囲碁独案内』と丁未会出版部『囲碁定石集』

前回 吉田俊男の『奇美談碁』やその他の囲碁書にもふれたが、それこそ囲碁に関する出版物は実用書を一つの柱とする特価本業界の定番商品であり、明治時代から多くの刊行を見ていたと思われる。たまたまそのことを示す囲碁書を二冊入手したので、それを書いておきたい。

その一冊は二宮秀快先生見閲、永井忠敬先生編輯『名人遺跡囲碁独案内』で、私は囲碁を解さないし、理解が行き届かないかもしれないが、表紙には東京共楽館発行と謳われている。編者の「読言」として、次のような文章が置かれている。

 近頃囲碁ノ流行セル貴賎ノ別ナシ、是遊器ノ第一トモ賞スベキカ、又囲碁ノ書ニ於ケル、古ヘヨリ数巻ニシテ、悉ク名人上手ノ著セシ書ニ非ラザルハナシ、然レドモ皆区々ノ別有テ便ナラズ、余ハ囲碁ニ巧ナラザレドモ、常ニ一書ヲ以テ他ニ亘ルノ良書ナキヲ悱ム、(後略)

それゆえに古書を渉猟し、「秡抄(ママ)シテ一巻トナシ」たと述べ、二百に及ぶ「名人遺跡」の棋譜を編み、ここに一冊を送り出したことになる。

しかしここで注目しなければならないのは奥付表記である。初版は明治二十二年、同三十九年二十七版と記載され、編輯人は永井忠敬のままだが、発行人は青野友三郎、発行所は青野文魁堂となっていて、検印のところにも青野文魁堂の判が押されている。これは共楽館から青野文魁堂へと版権が移ったこと、すなわちこれが譲受出版だったことを物語っている。それとともに、この囲碁書が二十年近くにわたるロングセラーであり、しかも巻末の七点の囲碁書の掲載から判断すると、「囲碁ノ流行セル」は明治後半になって、さらに隆盛を迎えたようにも思われる。

もう一冊はその明治四十年のもので、こちらは和本仕立てであり、本扉には玄々斎編集『囲碁定石集』、丁未会出版部との表記がある。「意をのぶ」という序文にあたるところを読むと「書肆(ほんや)青藜閣の主人なる者来りて」云々と見えるので、最初はこの『囲碁定石集』が青藜閣という出版社から刊行されたとわかる。だがこれも奥付に至ると、発行所は丁未会出版部となっているけれど、編集兼発行者は酒井久三郎と記されている。これが本連載313でふれた酒井淡海堂であることはあらためていうまでもないだろう。

そして巻末には「大販売所」として十四の名前が掲載されている。これが主要な取次と書店だと見なしていいし、全国出版物卸商業協同組合の前身の、明治末期における東京地本彫画営業組合の流通と販売の配置図だと考えられるので、それらを住所も含め、リストアップしてみる。

* 日本橋区若松町 /湯浅春江堂
* 下谷区車坂町 /法令館支店
* 本郷区春木町 /菁莪堂
* 浅草区須賀 /吉田書店
* 本郷区春木町 /浅野書店
* 下谷区御徒士町 /河野書店
* 神田区多町 /日進堂
* 下谷区仲徒町 /得策堂
* 日本橋区蛎殻町 /磯部甲陽堂
* 本郷区菊坂町 /井上正確堂
* 本郷区根津須賀町 /土井成器閣
* 神田区裏神保町 /大屋書店
* 日本橋区矢ノ倉町 /板橋書店
* 日本橋区馬喰町 /酒井淡海堂

例えば、出版流通販売史をたどった清水文吉の『本は流れる』(日本エディタースクール出版部)のような著書であっても、このような出版の流通と販売に関しては語られていない。通常の出版史は明治四十年代が東京堂、北隆館、東海堂、良明堂、上田屋、至誠堂、文林堂の七取次時代で、実業之日本社がそれまで買切だった雑誌に返品自由な委託制を導入した時期だと記しているが、それらは近代出版流通システムから見られた視点であって、『囲碁定石集』に記された近世出版流通システムと特価本業界がクロスした流通販売に関しては、まったく言及されていないといっていいだろう。

本は流れる

しかしこのようなリストにうかがわれるように、近代出版流通システムとは異なる、オルタナティヴな流通と販売が存在したことを忘れてはならないし、それは『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』が示しているように、戦後になっても存続し、それを揺籃の地として貸本マンガが生まれ、現在のコミックの隆盛を導くことになったのである。

それからもうひとつ忘れてならないのは、特価本業界が果たしてきた譲受出版の役割で、これは紙型を安く利用したいかがわしい出版のイメージが強いが、著作権や本のリサイクル、近代読者史の視点から見れば、重要な問題を孕んでいるように思える。

ここで取り上げた『名人遺跡囲碁独案内』にしても、『囲碁定石集』にしても、前者は共楽館、後者は青藜閣、丁未会出版部が元版で、それぞれ青野文魁堂と酒井淡海堂がその後を引き受けたことになる。青野文魁堂は『三十年の歩み』に登場してこないけれど、社名から考えても特価本業界の近傍にいたと思われる。

そして『名人遺跡囲碁独案内』に見られるように、ロングセラーとして長きにわたり、版が途絶えることなく、読者に届けられていたのである。この二冊は古典でも名著でもないし、ほとんど知られていない本に属するけれど、そのような生産、流通、販売があったことを忘れてはならないと思う。

なお青野友三郎については、最近出た稲岡勝監修『出版文化人物事典』(日外アソシエーツ)に立項があることを付記しておく。
出版文化人物事典

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話318 小川寅松、尚栄堂、吉田俊男『奇美談碁』

前回、小川菊松が大洋堂出身であり、その大洋堂からは多くの出版人たちが誕生したことを既述しておいた。それに関連して小川がどうして言及しなかったのか、やはり何らかの事情が潜んでいると思われる人物と出版社がある。その人物とは小川寅松、出版社は尚栄堂で、小川菊松とは本当に一字違い、社名も堂がついていることからすれば、小川が知らなかったはずもないし、誠文堂とも取引や関係もあったにちがいない。

しかも尚栄堂の本は二冊入手しているが、その一冊の杉本文太郎『図解我家の飾り方』は大洋堂と尚栄堂の共同出版で、発行者は小川寅松と大塚周吉であるから、小川寅松も大洋堂出身だと考えていい。たが小川菊松と名前は似通っていても、縁戚関係とも思われないし、ここではとりあえず偶然の一致という見解を下しておくことにする。

さらにこの大正元年に刊行された『図解我家の飾り方』に関して付け加えておけば、本扉に貳書房なる版元名が記載され、検印のところに尚栄堂の出版社印が押されていることから判断して、二つの出版社を意味するものではなく、元版は貳書房で、その譲受出版、あるいは買切原稿と見なせるし、これも尚栄堂のルーツをうかがわせるものである。したがって大洋堂との共同出版表記はそうした事情が絡んでいるか、もしくは独立に際しての便宜的処置だったのかもしれない。

この図版二十三枚を収めた菊判二百ページほどの一冊は、本連載308でふれた『花道全書』と通じるところが多々あり、主として花器と花による室内装飾法を説き、その筋のテキストのように見受けられる。しかしそれよりも興味深いのは巻末広告で、「文部省選定書籍標準目録に当選したる名誉のお伽噺」として、四冊が挙げられ、そのうちの二冊が和田垣博士、星野久成共訳のグリーム原著『家庭お伽噺』、アンダーセン原著『教育お伽噺』で、それに付せられた紹介から、きわめて早い時期におけるグリムとアンデルセン童話の翻訳だとわかる。だが国立国会図書館編『明治・大正・昭和翻訳文学目録』には収録されていないけれど、和田垣博士とは経済学者で法学博士にして、英文学に通じ、東京商業学校や日本女子商業学校の校長も歴任した和田垣健三であり、星野久成はそれらの学校の英語教師、翻訳もまた英語からの重訳ではないだろうか。

明治・大正・昭和翻訳文学目録

さてもう一冊は吉田俊男の『奇美談碁』と題する文庫本サイズの和本で、こちらは大正四年に共同出版ではなく、尚栄堂だけを発行所として刊行されている。著者の吉田はその「序辞」を次のように始めている。

 余近時忙中閑を得、依而尚栄堂主小川君に請ふに碁書出版を以てす。君快諾せらる。茲に於て余は人口に膾炙する碁洒落並に伝聞せし珍談奇話を集め、飾るに、或は囲碁十訣を以てし或は詩歌を以てし且付するに言論を以てし「奇美談碁」名けて本書を公にせり。

つまり『奇美談碁』の一冊は囲碁をめぐる珍談を集めて編んだもので、それに対して頭山満が題字の揮毫とともに「抱腹絶倒」なる一句を巻首に贈った。また吉備公が支那から碁技を伝来したことにちなむタイトル命名及び、装丁と口絵などは北沢楽天によっている。それらへの謝辞も含んで、吉田は前口上で次のように述べている。「是れ日本一の吉備団子」にして「尚栄堂一手販売の名物」で、「此談碁(団子)は何時まで置いても腐りませんし、又年中品も切らせませんから、続々御註文賜はらん事を書肆に代わりて切望を致します」と。吉田の詳細は定かでないが、頭山と北沢の組み合わせ、それにウィットに富んだ語り口から、ただ者のようには思われない、いかなる人物なのだろうか。

その後判明したことを記せば、彼は江戸、明治期の囲碁棋士吉田半十郎の孫に当たり、『ジャパンタイムス』の記者だったようだ。

さらにこの遊び心に充ちた一冊を送り出した尚栄堂を求めて、大正七年の東京書籍商組合員『図書総目録』を繰ってみると、京橋区南紺屋町に位置する小川寅松の出版社が古文、漢文、英語英文の学習参考書やサブテキスト、女子教育のための教科書をメインとし、それに様々な実用書が混じり、すでに二百点ほどを刊行しているとわかる。その他にシリーズとして「工学叢書」「講談叢書」、ホワイトという著者による『忠臣蔵』などの英文講談、『ホッケー術』に始まるスポーツ書、また国木田独歩『自然の心』、小川未明『あの山越へて』泉鏡花『遊行車』といった文芸書も目に入る。

だがこれらの文芸書は散見するにしても、基本的に尚栄堂は和田垣の紹介で挙げた、学校の教科書や学参をベースとし、それに実用書を加えた出版社だと判断できる。著者たちの名前を見ていくと、グリムやアンデルセンの訳者の星野久成が『英文難句詳解』や『定石手合詰物将棋必勝』の編者だとわかり、どのようにして尚栄堂の出版物が企画されていったのかを推測できる。また星野は他社からも多くの学習参考書を刊行している。 

また吉田菊子編として、『名家囲碁妙手競』『囲碁の栞』『囲碁之口伝』の三冊があり、これは『奇美談碁』の吉田俊男の近親者だと思われる。女子もすなる囲碁の時代を迎えていたということなのだろうか。こちらも吉田俊男を調べていくと、他ならぬその母親であった。

このような、おそらく大洋堂を出自とする尚栄堂の出版物とその点数からすれば、『同目録』の小川菊松の誠文堂はまだ二十点ほどであり、誠文堂にとって範となったと考えられるし、名前から考えても意識しなかったはずもない。どうして一度も言及しなかったのか、そこにも何らかの出版をめぐる二人の小川の関係と事情が潜んでいるのだろう。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話317 大洋堂、小川菊松、加藤美倫『世界に於ける珍しい話と面白い噺』

本連載で『出版興亡五十年』を始めとする誠文堂新光社小川菊松の著作を拳々服膺してきたが、彼のルーツも特価本業界の系譜上にあると考えていいだろう。小川の出版人生は十六歳で上京し、大洋堂に入ったことから始まっている。小川のことも含んで、大洋堂の大塚周吉が『出版人物事典』に立項されているので、まずそれを引く。

出版興亡五十年 出版人物事典

 大塚周吉[おおつか・しゅうきち] 一九六八〜一九三三(明治元〜昭和八)大洋堂創業者。大阪生まれ。(中略)二五歳で状況、浅草で大洋堂を創業、古本屋をはじめ、のち、日本橋室町に移り、新刊書籍・雑誌を扱い、ついで雑誌の取次もはじめた。また、『座敷と庭のつくり方』などの実用書をはじめ、黒岩涙香なども出版した。関東大震災後小売専業となった。(中略)同店から多くの出版人・書店人が誕生したが、誠文堂新光社小川菊松もその一人。

その大塚の写真と「序」が掲げられている小川の最初の著書『商戦三十年』(誠文堂、昭和七年)において、明治三十年代後半の大洋堂は小売りの他に市内の貸本屋に講談本や村井弦斉、村上浪六などの新小説を卸し、自分がその仕事についていたことを証言している。

また『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』の中で、大正時代には文林堂、大川屋、春祥堂、大洋堂、至誠堂による共同仕入れも盛んだったことを記している。これらは全版の前身にして、江戸時代の地本草紙問屋仲間に連なる東京地本彫画営業組合(後の東京書籍商懇話会)に属する取次と見なしていい。したがって明治二十年代から博文館を中心とする出版社・取次・書店という近代出版流通システムが成長していくのだが、それとは異なる、多様な流通販売をベースとする近世出版流通システムもまだ健在であり、双方が補うようなかたちで出版業界そのものが稼働していたと考えられる。

二年勤めた大洋堂を辞めた小川が次に入ったのも至誠堂だったことは、彼もまた近世出版流通システムの出版業態の影響を受けていることを自ずと物語っている。それは後に創業した誠文堂の出版物や企画にも表われている。実際に彼はそれを自覚し、『出版興亡五十年』で、「他店で発行した絶版本の古紙型などを安く買って、手当たり次第に発行したりしたので、誠文堂の出版は、八百屋式の赤本屋式であるのとまで、評せられたこともある」と書いてもいる。

しかし小川の「絶版本の古紙型」云々というのはその一齣で、彼の新光社などの他社買収はともかく、譲受出版の内幕はほとんど語られていないし、疑問も生じてしまう。ただ誠文堂の出発におけるエピソードからも、そうした手法が導入され、それが小川と誠文堂を成功へと導いたことは間違いないと思われる。最近になって創業期の出版物を入手しているので、それらを検討してみる。

前述したように、小川は大洋堂を経て至誠堂に九年間勤め、明治四十五年に「取次仲買(一名セドリといふ)」の誠文堂として独立した。これは簡単に述べれば、特約出版社から安い正味で仕入れ、また新刊書も入銀という低正味を利用し、大取次、書店、古本屋などで午前中に注文を受け、午後に卸すことを日課とする仕事で、入銀の新刊書は東京市内一円で五、六百部の買切注文があり、口銭は売上の五分平均に及ぶので、立派に生活できたという。

そして大正二年に澁川玄耳の『わがまゝ』を処女出版したことから、本連載247などでふれた有楽社の中村有楽と親しくなり、そのほとんどの版権を譲り受け、その中の澁川の『日本見物』『世界見物』を藪野椋十名義の縮刷版で刊行し、広告を駆使し、六万部を売り上げた。次にこれもまた澁川の斡旋で、米窪太刀雄の『海のロマンス』本連載203などの中興館矢島一三と共同出版し、一万数千部を売る。これは菊判六百ページ近くに及ぶ大冊だが、私の所持するのは大正三年二月発行、三月三版とあるので、世界航海日記の内容、及びコンラッドに比すとある夏目漱石の序文などの相乗効果で話題をよんだのだろう。奥付には発行者として矢島と小川、発売元として誠文堂と中興館が記され、共同出版の事実を裏づけている。共同出版が近世出版流通システムに基づいていることはいうまでもないだろう。

海のロマンス

だが小川がいうように「誠文堂中興の基礎を築かしめた」のは十六冊刊行し、百二十万部を売った加藤美倫の「是丈は心得おくべし」シリーズだった。「ありし日の加藤美侖(ママ)君とその友人」なる鮮明な写真の収録もある『商戦三十年』において、小川はその出会いを次のように述べている。ルビは省略する。なお加藤のことは本連載60でも取り上げているし、「原田三夫の『思い出の七十年』」(『古本探究』所収)でもふれている。
古本探究

 大正七年十一月五日の事であつた。店で仕事をして居ると、上下黒羽二重の揃ひの着物に仙台平の袴を穿き、漆の如き長い髪の毛を丁寧に後ろに櫛づき、一見神官かさもなくば大本教の幹部どころと云つた格の男がやつて来て「御主人は?」と声をかけるのだつた。見れば仲々どうして、眉目秀麗、一寸お羽打ち枯らして居るが、一と癖も二た癖もあり気な男である。

この場面を読むたびに、私はいつも特価本業界のプロフィルの定かでない著者や作家や編集者、言葉を換えていえば、謎めいた人々を想い浮かべてしまう。小川の文章はそうしたイメージを喚起させるし、実際に誠文堂にベストセラーをもたらしたのだから。まさにこれは加藤が「是丈は心得おくべし」の原稿を持ちこんできた場面に他ならないのだが、誠文堂から出された加藤の著書を入手してみると、この回想が思い違い、もしくは意図した脚色ではないかという事実に突き当ってしまう。

それは加藤を編著者とする『世界に於ける珍しい話と面白い噺』で、大正七年十一月十九日に刊行されている。したがって小川と加藤の出会いはこの一冊だけ見ても、それ以前であることは明らかだし、加藤の検印がないことからすれば、これは買切原稿だと推測される。おそらく小川と加藤の出会いはそのような前史があり、そこから「是丈は心得おくべし」の企画が始まったのではないだろうか。そして明かすことができない何らかの事情があり、このような回想が偽史的に仕立て上げられたのではないだろうか。

なおその後の大正十年に、小川と加藤は衝突して別れ、加藤は興文社の石川寅吉と親しくなり、円本の『日本名著全集』を企画し、『小学生全集』もそのブレインだったようだ。しかし後者の大宣伝が行われている昭和二年四月に、中耳炎のために三十八歳で亡くなったという。

小川は加藤が病床から誠文堂の円本『大日本百科全集』に寄せて送ってきた手紙を引用し、「思へば此の人も、あたらあり余る才を抱いて居りながら、惜しい一生を終つた仁であつた」と結んでいる。『大日本百科全集』については本連載162で取り上げているし、加藤に関してはこれからも追跡するつもりでいる。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話316 金竜堂と原浩三『日本好色美術史』

前回、また坂東恭吾に登場してもらったので、再びもう少し彼のことをたどってみる。『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』における「坂東恭吾の足跡」によれば、月遅れ雑誌の販売から始まり、大正十年頃から三星社として「造り本」の出版と特価本の卸に転じ、昭和初期に帝国図書普及会と改称し、円本を始めとする特価本の通販を主として手がけるようになる。そして有楽町に進出し、新聞広告による通信販売で地方の読者を多く獲得し、朝鮮や台湾でも販売に及んだが、昭和九年の室戸台風で、大量の商品が水びたしになり、倒産してしまう。これらは私も本連載や『書店の近代』平凡社新書)などで書いてきたことでもある。

書店の近代
その後 三弘社を興し、また木村小舟の発案で『興国少年』を創刊したところまではたどっているが、戦後の混乱を経て、浅草地下街に坂東書店を開いたことには言及していなかった。もちろん『三十年の歩み』には坂東書店と彼の姿を捉えた写真が掲載されている。その開店は昭和三十四年だったようだから、その時代の写真であろうが、彼は四十八年に亡くなったと伝えられている。それらのことはともかく、坂東書店の開店は、当時浅草地下街は金竜堂が管理していて、その好意によるものだったという。

『三十年の歩み』に、この金竜堂の紹介があるので、それを引いてみる。

 昭和七年、浅草にて建築、囲碁関係を中心とする出版業金竜堂を設立。出版物の五〇%強を通信販売、他を全国出版組合の前身である市会に販売。戦時中は日本出版配給(株)竹町販売所として図書配給事業に専念する。戦災により、家屋、紙型、その他すべてを焼失。そのため戦後、現在の上野に古本屋を開業する。
 昭和二十六年ごろより、昔の自社出版物を買い集め、紙型を興し、徐々に出版を再興。三十年により出版を本業とする。
 先代武藤平重郎の死去により、有限会社金竜堂と改称。建築図書専門の出版社として現在に至る。

この武藤平重郎を発行者とする戦前の本が一冊あり、それは原浩三の『日本好色美術史』で、昭和十一年に刊行されている。しかしこれは城市郎『発禁本』(「別冊太陽」)で書影をすでに見ていて、昭和五年に竹内道之助の風俗資料刊行会が五百部限定で出版し、発禁処分を受けたものだ。原浩三は原比露志と同一人物で、後に三笠書房を創業する竹内の盟友だったと考えられ、風俗資料刊行会だけでなく、戦後になっても、紫書房や展望社から発禁本を出していて、昭和初期ポルノグラフィ出版の人脈に属すると見ていい。原についてのこれ以上のことは本連載で後述するつもりである。

  発禁本

しかし再び『日本好色美術史』に言及する機会を持てないかもしれないので、ここで少しでも内容を見ておくべきだろう。これは日本美術史を考古学時代、仏教文化時代、浮世絵時代、明治時代の四時代に分け、それぞれの時代における好色の露出度などが述べられていくのだが、その半分近いスペースと多くの図版は浮世絵時代の章に割かれていて、「序」にある原の言葉がこの章に向けられていることを了解することになる。原は書いている。

 我国の美術史に於ては、抹殺し得ざる価値を自らに持ち乍ら、好色なるが故に其儘意識下に退けられたものが甚だ尠くないのであつた。我々は明日の美術史を創るに先立つて、怯懦なる過去の美術史家に依つて設けられたこの黒幕を撤することが、して、再び改めて真のその価値を検覈することが、当然必要なことでなければなるまいと思ふ。

これが原の意図するところであり、それは本連載49でもふれた尾崎久弥の『江戸軟派雑考』などと併走している感もうかがわれるが、それより顕著なのはこれも本連載150で取り上げたシュトラッツの著作を始めとする、多くの海外文献の引用から判断すると、西洋によってあらためて発見された浮世絵の考察といった色彩が強いようにも思える。それを反映してか、これも本連載149で上げておいた川崎安の『人體美論』の発禁をも俎上に乗せてもいる。しかし『日本好色美術史』は発禁に成るほどの内容でもなく、そのような写真も掲載されていないことからしても、どうして発禁になったのか、よくわからない。内容的には尾崎の著作とそれほど変わらないからだ。それはやはり風俗資料刊行会なる版元とダイレクトなタイトルが作用したとしか考えられない。

さてその発禁は昭和五年だから、金竜堂版はその六年後の出版となる。もはや発禁問題はうやむやとなったのだろうか。ただ奥付に原の検印は見られないことから考えて、これは「造り本」の譲受出版ということになるが、どのようなプロセスを経て出版の運びとなったのかが気にかかるにしても、もはや真相を突き止めることは困難である。

それは巻末広告の「金竜堂出版実用品目録」を見ての印象からくるもので、オリジナルと目される建築書などが並び、原の本との組み合わせは何かちぐはぐな感じもするからだ。もっとも出版物のアンバランスと多様性が特価本業界の特色であることはわきまえているけれど、そのような一言を付け加えておきたいと思う。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら