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古本夜話320 香蘭社と木村萩村『自己の為めに精神修養』

前々回の尚栄堂のように東京書籍商組合員『書籍総目録』に姿を見せていれば、出版物を通じてその時代における出版社のイメージとアウトラインをつかめるのだが、特価本業界の出版社は東京書籍商組合に加盟していないところも多い。その一方で『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』にもその痕跡をわずかしか残していない出版社も多々あり、そのような一社が香蘭社である。

香蘭社『三十年の歩み』において、昭和九年の「全国見切本数物卸商一覧」の中に「東京下谷区西町一一 香蘭社」、同十年頃の回想のところで、下谷・外神田方面の「八千代書院―香蘭社名で図案、カットの本を出版していました」との言が見つかるだけだと思われる。

その香蘭社の本が一冊ある。それは昭和八年に出された木村萩月を著者とする『自己の為めに精神修養』と題されたもので、発行者を竹之内米太郎としている。しかし留意しなければならないのは、発行者と発行所の住所が本郷区根津須賀町と記載されていることで、前述の場所と異なっているけれども、出版部門の住所と考えるべきだろう。

『自己の為めに精神修養』は三六判上製、四百ページを超えるもので、造本や活字の組み方、社名などのレイアウトに、ある種のセンスを覚える。裸本であるのが残念だが、カバー表紙がついていれば、それはさらにはっきりしたと思われてならないし、見返しに示された「韓信の股くぐり」の絵もコミック調で、ユーモアをも感じさせる。

それに加えて、著者の木村萩村については国会図書館の蔵書に『現代名家詩集』『趣味の童話』シリーズなどが見えるが、詳細なプロフィルは不明である。だが、その文体はシンプルにして明快で、新しい自己啓発書の趣もある。そのサンプルとして、書き出しを示す。これもルビは省略する。

 世の中に、迂愚(ばか)と無欲と、聖人と、よほどの偉大なる人格者でない限り、立身出世を願はぬ者は一人もあるまい。立身出世と云う事は良い者(ママ)に相違ない。学問をした者がそれぞれ志す方面の博士となる事も学究と云ふ上の立身出世である。商店の小僧さんが漸時世の信用を得て大なる店舗を有する事を(ママ)無論立身出世である。褌かつぎなどゝ世に冷評せられても後世に天下の関取として名をなすも又立身出世である。其他軍人が大将となり、船員が船長となるのも大か小か、重か軽かの相違はあつても均しく是れ世の所謂立身出世であるのだ。

ここに表われているのは立身出世における万人の平等といった視座で、学問をした者、商店の小僧、褌かつぎ、軍人、船員が同等に扱われていることであろう。そしてだからこそ立身出世が望まれるのも「人情で、各人が又努力するのも実にここにある」し、「青年諸君が当然に夢み、若しくば望むのは必然の法則」だと畳み掛け、次に具体的に立身出世の道や方法を示していく。

それらは健康と努力、正直勤勉、機会を逃さぬこと、大胆さと忍耐などが述べられ、その仕上げとして、名士の処世観と修養一夕訓が挙げられていく。これらはすべて通俗的な立身出世の物語を一歩もはみ出すものではないのだが、『自己の為めに精神修養』がそれらと一線を画しているのは、ひとえに著者の木村の軽みのある文体というよりも、話体によっていると思われる。

それを評して、「序」を寄せている福士末之助が「夫れ言々句々著者自奮の志気に由るを似て、世の著述を業とする者の浄辞に比すべきもあらず文に気あり、意に力あり。真に恰好の修養書なり」と述べているのだろう。だがこの福士なる人物も不明である。新しい書き手の出現を告げる木村のような著者が登場したことは特価本業界の、量ではなく質の進化を示しているのであろうか。なおその後の調べによれば、福士は長崎高等師範学校長で、木村の恩師であるのかもしれない。

巻末広告には二十冊の「香蘭社の新刊図書」が並び、そのうちの六冊が特価本業界の出版社らしい定番の辞典類で、一冊は本連載227でふれた久保天随編『詳細漢和大辞典』、三冊が手紙や書翰の辞典となっている。それに習字、ペン字が半分近くを占めているので、香蘭社は手紙や書翰、習字やペン字といった文章の書き方を中心とする出版社だったとも考えられる。『ABCから会話まで』や『図解説明自動車講義録』といった英会話や運転免許のための本も混じっているけれども。

ただ残念なことに、『三十年の歩み』で述べられている図案、カット本は見当らない。しかしこれは『自己の為めに精神修養』の造本、活字の組み方、レイアウトの斬新さについて前述したが、それらの図案、カット本で培われたセンスは、「香蘭社の新刊図書」にも反映されているのではないかと思える。判型だけでも見ていくと、三五判、四六判だけでなく、菊判、菊半裁判とバラエティに富み、これは編集の手間と製作はコストがかかることを表わしているし、そこに編集者のアイデンティティもこめられていたようにも感じられる。これもまた特価本業界における編集の進化の表われなのかもしれない。

その起源と由来を考えていると、もうひとつの同名の交蘭社という出版社が思い出されたが、こちらは本連載で後述するつもりだ。

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