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古本夜話279 脇坂要太郎『大阪出版六十年のあゆみ』と戸川貞雄『第二の感激』

前々回資料として『大阪出版六十年のあゆみ』を使用したこともあり、その著者の脇坂要太郎についても書いておこう。彼は全国出版物卸商業協同組合とダイレクトな関係を持っていないけれど、大阪の出版社は大正期の「文庫合戦」に見られたように、同組合に関連する東京の出版社と無縁でなかったし、戦後を迎えての貸本マンガをめぐる東京の「上野畑」と大阪の「松屋町」のつながりは無視できないので、この際、脇坂を通じて大阪の出版業界についてもふれておくべきだと考えたからだ。

彼は鈴木徹造『出版人物事典』に立項されているので、まずそれを引いてみる。
出版人物事典

[脇坂要太郎 わきさかようたろう]一八九〇〜一九七五(明治二三〜昭和五〇)日本出版社創業者。大阪市生れ。秋田屋宋栄堂に入社、一九二二年(大正一一)退社して日本出版社を創業。まず『地理の研究』『国史の研究』など小学生用学参書を出版して基礎を築き、また、『日本産有尾類総説』『動物解剖図説』や『日タイ会話』『日タイ語辞典』なども出版、次第に大阪の出版社として発展した。大阪図書出版業組合評議員大阪書籍雑誌商組合法議員などをつとめ、大阪生えぬきの出版業者として、地元業界の推移、時代の変遷をつぶさに体験、それを『大阪出版六十年のあゆみ』(大阪出版協同組合発行・昭和三一・非売品)として出版、貴重な資料となっている。

確かに脇坂の同書は、大阪出版業界の明治から昭和にかけての貴重な証言といえる。しかし惜しむらくは出版目録も兼ねた『京都出版史』のような構成であれば、大阪の近代出版史の全貌を俯瞰できたと思うけれど、それは無い物ねだりであろう。同書によって大阪特有の赤本も入り乱れる混沌とした出版状況を知ると、出版目録の作成がほとんど不可能だとわかるからだ。

脇坂が入った秋田(田中)屋宋栄堂はやはり心斎橋筋にあった書林仲間時代からの老舗で、明治三十年代には習字文や地図帖を手がけ、共同で教科書会社を設け、小学教科書を刊行していた。これを母体にして、後に大阪書籍が創立されるのだが、近年の同社の民事再生法申請は長い時代の流れを実感させる。

それはさておき、大正時代に入り、秋田屋宋栄堂は事典、小学歴史附図、地理附図、地図帖、中学参考書の「国文叢書」を次々と出版した。このような出版状況を拝啓にして、脇坂は十七年勤めた秋田屋宋栄堂から独立し、日本出版社を立ち上げ、一人で編集や装丁から販売や集金までを担う『地理の研究』と『国史の研究』を処女出版した。小学参考書の新機軸を打ち出した企画だった。彼はその成功を数字も示し、述べている。

 この書は全国各地の小学校に採用され、年間各十数万冊という売行があり、数年間に類似出版が多く出され、また内容編集形態を模倣したものも出て、小学参考書界の核心となり、業者間ではこの種のものを「研究もの」と称ぶに至ったほどであった。

同時期に湯川弘文社や創元社も創業し、大阪出版業界は長足の進歩を遂げたという。昭和に入って、日本出版社は日記を刊行する国民出版社への参画、中学教科書への進出に至った。だが昭和十六年に日配の設立と出版事業整備令により、日本出版社は国民出版社を統合した。その間に『出版人物事典』に記載された図鑑や辞典なども刊行している。そして戦後も昭和三十年代までは存続していたと思われるが、その後の消息はつかめない。東京にある最近廃業した日本出版社はまったく別の会社である。

『大阪出版六十年のあゆみ』を通じて、日本出版社の刊行物や関連事業を追いかけてきたけれど、これらはわずかな一角であって、かなり広範な出版活動を展開していたようなのだ。私の手元に一冊だけ日本出版社の本があり、それは戸川貞雄の『第二の感激』という長編小説で、日本出版社が文芸書まで手がけていたとわかる。戸川貞雄といってもすでに忘れられてしまった戦前の作家であり、戦後は平塚市長を三期務めた人物で、政治評論家戸川猪佐武や作家菊村到の父と呼んだほうがいいいかもしれない。作家としての戸川貞雄は大正末期に上梓した作品集『蠢く』(「新進作家叢書」所収、新潮社)や『春昼』(文芸日本社)で、堅実な作風を持った新進作家として評価されたが、昭和に入ってからは通俗的家庭小説に向かったとされている。この『第二の感激』も明らかにその分野に属するだろう。それはこのタイトル自体が菊池寛『第二の接吻』を意識してつけられていることからもうかがえる。その書き出しは次のようなものだ。
第二の接吻

 ビル街、正午のラッシュ・アワー。
官衙から、オフィスから、お店から、銀座へ、丸ビル地帯へ、洪水のやうに流れ出る若いひとの群れ。
 この豊かな、のびやかな、銃後の生活姿態。
 「わーッ、素敵!」
 「見ちがえたわよ、多ァ坊」

この小説は昭和十七年刊行なので、おそらく前年に新聞か雑誌に連載されていたのであろう。冒頭の文章はモダニズム的だが、物語はまさに銃後の二組の男女の恋愛模様を、時代状況と絡み合わせて描いている。すべてを戦争が呪縛し、感情の転倒が行なわれ、夫の戦死も「感激」でしかない。「何といふ晴れがましい思ひで迎へるわが良人の遺骨であらう!」。そして「第二の感激」とは英霊となった夫の代わりのように、危篤状態にあった子供が助かったことなのだ。それこそ「銃後」の家庭小説の規範を示していよう。『第二の感激』だけでなく、同種の家庭小説が多く出版されたのではないだろうか。

奥付によれば、初版一万部となっていて、日配を通じて全国へと配給されていったのだ。また奥付には大阪に加え、日本出版社神田神保町の住所も記され、東京にも進出していたことを示している。さらにその裏にはパピィニ作、三浦逸雄訳『二十四の脳髄』を始めとする「イタリア文化選書」九冊の掲載がある。東京事務所、家庭小説、「イタリア文化選書」の発行などに脇坂はまったくふれていない。その意味で、大阪の出版業界もまた様々な謎に包まれているといえるだろう。

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