前回の山口廣編『郊外住宅地の系譜』(一九八七年)がサブタイトル「東京の田園ユートピア」に示されているように、東京の郊外住宅地を対象とするものだったことに対し、同じく鹿島出版会から出された片木篤・藤谷陽悦・角野幸博編『近代日本の郊外住宅地』は東京を含んでいるけれども、明治から戦前にかけての全国各地の郊外住宅地の実態と歴史を集成する一冊となっている。
それらは二十六人の建築史研究者によるもので、北海道、関東、中部、京阪神、中国/四国、九州、さらには台湾、ソウル、大連などの植民地にまで及んでいるが、当然のことながらすべてをフォローするわけにはいかない。それゆえにここでは京阪神に関する吉田高子「池田室町/池田―小林一三の住宅地経営と模範的郊外生活」を取り上げたい。その理由として、前回小原国芳の成城学園プロジェクトが、同時代における堤康次郎の大泉・小平・国立学園都市開発などを参照、競合しているのではないかと既述しておいたが、それらよりも大阪での小林一三の鉄道と住宅地開発が先行しているからだ。
そればかりか、西武や東急による鉄道、住宅開発、遊園地の設置、ターミナルにおける百貨店の開設などは、小林の事業手法を踏襲、模倣しているといっても過言ではない。それに小林が堤や五島慶太と異なっているのは、小林が明治末の不況期に鉄道会社を興したために、先んじて住宅開発に取り組まなければならなかったことだ。そこに小林の先人としての独創性を見出すことができる。
まず吉田の論考においてもメイン資料として使われている小林一三の、自らの号を付した『逸翁自叙伝』をたどってみる。私の所持するのは一九八〇年の阪急電鉄版である。一九〇七年に小林は三井銀行を退職し、阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)の監査役となる。当時関西の私鉄が相次いで創業されていく中で、大阪梅田から箕面、池田、宝塚、西宮に至る箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の設立計画が進められていた。それは阪鶴鉄道が国鉄に買収されるに当たって、重役たちが代わりに箕有電鉄の創立を意図したものだった。阪鶴鉄道の大株主が三井物産だったことから、小林が入社し、箕有電鉄創立の追加発起人となり、専務取締役に就任したのである。
ところがそこに至るまでは様々な経緯と事情があった。箕有電鉄は他の計画線と異なり、有馬温泉や箕面公園があるだけの貧弱な沿線ゆえに成功する見込みがないと目され、株式五万株余の引受人が現われず、会社設立が困難になっていた。といってすでに二万円を超える創立費を使ってしまっていることもあり、解散するしかない状況に追いやられていた。そこで小林は大阪から池田までの計画路線敷地を歩き、会社の設立難と信用の無さを逆に利用した「沿道に於ける住宅経営新案」を提出する。それは次のようなものだった。
「 (……)それを幸ひに沿線で住宅地として最も適正な土地―沿線には住宅地として理想的なところが沢山あります―仮に一坪一円で買ふ、五十万坪買ふとすれば開業後一坪に就いて二円五十銭利益があるとして、毎半期五万坪売って十二万五千円まうかる。五万坪が果して売れるかどうか、これは勿論判らないけれど、電車が開通せば一坪五円くらゐの値打はあると思ふ。さういふ副業を当初から考へて、電車がまうからなくとも、この点が株主を安心せしむることも一案だと思ひます。ただ問題は果して何十万坪といふような土地が、計画通りに買収が出来るかどうか(……)」
この「夢のやうな空想的の住宅経営」を背景にして、小林は株式引受人となり、箕面電鉄は設立され、一〇年に梅田、宝塚間、梅田、箕面間の開業を迎えた。その一方で、池田、豊中、桜井の順序を立て、電車開通後の新たな市街地建設をめざし、〇九年に「如何なる土地を選ぶべきか、如何なる家庭に住むべきか」という「住宅地御案内」パンフレットを発行した。それは小林自身も断っているように、「やや文学的に美辞麗句をならべ」たものだ。「如何なる土地を選ぶべきか」の最初の部分を引用してみる。
美しき水の都は昔の夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ!
出産率十人に対し死亡率十一人強に当る、大阪市民の衛生状態に注意する諸君は、慄然として都会生活の心細きを感じ給ふべし、同時に田園趣味に高める楽しき郊外生活を懐ふの念や切なるべし。
郊外生活に伴ふ最初の条件は、交通機関の便なるに在りとす、今や、大阪市内電車の縦横に開通せんとするに際し、(中略)この時において箕面有馬電車たるものは、風光明媚なる其沿道住宅地を説明し(中略)提供すべき義務あるを信ぜんとす、何となれば、最も適当なる場所に三十余万坪の土地を所有し、自由に諸君の選択に委し得べきは、各電鉄会社中、独り当会社あるのみなればなり。
わずか数年で五十万坪は無理だったようだが、それでも三十万坪の土地買収がなされていたことになる。それらは田や畑、山林や原野だった土地で、駅のある付近には必ず存在する「理想的郊外生活の新住宅地」とされる。
引用した文言から明らかなのはやはりハワードの田園都市のコンセプトで、内務省地方局有志による『田園都市と日本人』が出されたのは一九〇七年であるから、それがちょうど箕有電鉄の創立と同年だったことは偶然ではないように思われる。最初に見える「空暗き煙の都」とは、そこで使われていた「煤煙に黒ずめる」ロンドンといった比喩のようでもあり、それに象徴される「都会生活」に対して、「田園趣味に富める楽しき郊外生活」が提案される。それに不可欠なのはまず何よりも「交通機関の便利なる」ことで、ハワードの田園都市プランにおいては鉄道会社との提携の必要性が述べられていたが、ここではそれを箕有電鉄自らが開発、分譲、建設も三位一体となってバックアップし、「田園的趣味ある生活」と「理想的住宅」を提供するといっているのだ。
その最初の住宅地が大阪より二三分、三万三千坪の「池田新市街」、すなわち吉田によって論じられている「池田室町/池田」ということになる。ここは第八区に当たり、一一年に室町と改称されている。吉田は販売用に作成された「池田新市街平面図」と「初期分譲住宅基本4タイプ住宅復原図」を示し、これが大阪船場の町割、道路形式を模倣しながらも、道幅を広くし、敷地は町家に見られる短冊形ではなく、間口が広い正方形で、住宅に庭園を配し、門から玄関にアプローチをとり、サラリーマンの郊外住宅地に見合う転換がなされていると述べている。
また画期的だったのは十年にわたる月賦販売で、これは現在の住宅ローンに相当するものだった。これに関してもう少し『逸翁自叙伝』から具体的に拾えば、池田室町は敷地百坪、家は二階建て、六室、二、三十坪、それで土地家屋、庭園施設一式にて二千五百円から三千円、頭金を二割として、残金は十年賦、一ヵ月二十四円となる。このローン販売の導入でほぼ完売したこともあり、これが阪急沿線を「理想の住宅地」ならしめた大きな要因だったと考えられる。
それに加えて様々な施設も用意され、倶楽部建物や幼稚園も設置された。池田室町の住民は大阪市内へ通うサラリーマンが多く、郊外ベッドタウンの先駆けともなったことから、昼間は妻たちが残されてしまったが、倶楽部を利用しての購買や社交や催しも盛んになり、そのような女性たちの活動が町を特徴づけるものだったという。小林は倶楽部や購買組合に関して長続きせず、これらの設置は失敗だと語っているが、池田室町を始めとして、それなりに当初の役割は果たしていたのではないだろうか。
そしてさらに小林は沿線の発展のために、続けて箕面動物園を開演し、宝塚新温泉の営業を開始し、その中に新館パラダイスも開設する。また宝塚唱歌隊(後に少女歌劇、さらに歌劇団と改称)を組織し、パラダイス劇場で、宝塚少女歌劇第一回公演を開いている。これらは一〇年から一四年にかけてであり、箕有電鉄の開通と池田新市街の住宅地販売とほぼパラレルに進行していたとわかる。いってみれば、小林は線としての鉄道、面としての住宅地販売、点としての様々な娯楽施設などを複眼で同時に捉えるような思考方法によって、新たな郊外沿線を多彩に活性化していったことになろう。
一九一八年を迎え、箕有電鉄は阪急電車と社名を変更し、宝塚音楽歌劇学校創立認可も得て、小林はその校長に就任する。翌年には梅田に阪急ビルディングを竣工し、これが二五年に日本で最初のターミナルデパート、後の阪急百貨店の始まりだが、これらのすべてがわずか十年間でなされていることにあらためて驚きを覚える。鉄道から始まって、住宅地開発分譲、建設を三位一体で兼ね、それらに加えて郊外のエンターテインメントインフラともいうべき動物園、温泉、劇場という装置をも設け、その仕上げのようにターミナルデパートの開業へと至ったことになる。小林こそが田園都市のコンセプトをベースにして、その周辺に様々な装置を散種することを実現させた特筆すべき人物だったのである。それをアレンジして学校も加えれば、学園都市になるわけだし、時代的に考えても小林がそれらの先駆者であり、関東における西武や東急の試みにしても、阪急と小林の模倣であることに気づく。
渋沢栄一は一八年に田園都市株式会社を設立して、田園調布の開発を始めるのだが、二一年にその会社の後見人だった第一生命の矢野恒太が小林に重役会への出席を依頼する。そして小林の紹介で目黒蒲田電鉄の五島慶太が加わり、鉄道敷設が急速に進み、ようやく二二年から洗足の造成地を売り出すに至る。そうして関東大震災を一ヵ月後に控えた二三年八月に田園調布の分譲となり、田園調布が誕生していく。しかしこれも小林の鉄道と田園都市経営の才覚と人脈なくしては、もっと遅れていたかもしれないし、ひょっとしたら実現に至らなかった可能性もある。
そうした小林の様々な業績とその果たした役割を考えると、彼のことを日本のハワードと呼んでいいようにも思われる。
なお『近代日本の郊外住宅地』において、片木は私の『〈郊外〉の誕生と死』が戦前の郊外住宅地を等閑視していると述べていたが、拙著はテーマを戦後の郊外、それも主として七〇年代以後にしぼったために、そのような印象を与えただけで、アウトラインにはふれていることを付記しておく。