前回ふれたように、吉本隆明は『共同幻想論』(角川文庫)の「対幻想論」において、典型的な家族小説として、夏目漱石の『道草』を挙げているが、それに加えて森鴎外の「半日」も論じられている。そしてどちらの場合も、そこに表出している家族が「当事者の一個人にとらえられた悲劇」であることに変わりはないと記し、次のように述べている。これは近代家族と知識を積み重ねた個人の織りなす関係の問題についての重要な部分なので、そのまま引用してみる。
(「半日」所収)
漱石が『道草』をかき、鴎外が「半日」をかいたとき、かれらが当面した問題は、大学教師や作家や軍人としての自分と〈家族〉のなかの自分とが、それぞれちがった貌の面をさらしているという意識であった。かれらは大学教師や作家や軍人という社会的な貌として、ひとりの個人である。だが〈家族〉の一員としては、ひとりの個人ではありえない。その中心にはじぶんと細君の関係があり、親があり、子供があり、親族がとりまいている。そして細君はひとりの個人であるという場面をもたないから、ときとして〈家族〉の一員でありながらひとりの個人だといった矛盾をやってのける。そしてそのとき、じぶんもまた細君に対応して、ひとりの個人という矛盾を夫婦の関係のなかで強行する。もしそういうことが悲劇ならば、悲劇は〈家族〉と〈社会〉との関係の本質のなかにあったのである。
『道草』は一九一四年、「半日」は一九〇九年に書かれ、それからすでに一世紀余を経ているし、社会も大きく変容し、妻や主婦の立場の法的位置づけの変化とパートタイム就業、また女性の高学歴化と仕事における男女雇用均等法や総合職などの導入も進み、表面的には「細君はひとりの個人であるという場面をもたない」ことがもはや前提ではなくなっている。その実例を本連載でも、小島信夫『抱擁家族』から近藤ようこ『ルームメイツ』に至るまで見てきたばかりだが、まだ家族の悲劇は終っておらず、それは依然として「〈家族〉と〈社会〉との関係の本質のなかにあった」ままのように思える。それゆえに家族は永遠に問われていく問題としてあり続けている。そして社会もまた。
『中央公論』に連載され、一九八三年に刊行された黒岩重吾の『現代家族』はその象徴的タイトルと相俟って、現代の「半日」のような家族問題、それに社会問題がダイレクトに反映され、家族が社会との危ういバランスシートの上に成立していることを、黒岩は練達のストーリーテーラーとして巧みに描いている。またこれは蛇足かもしれないが、「半日」は嫁、姑問題に対する妻の執拗な言動とそれに悩まされる大学教授のまさに半日を描いたもので、鴎外夫人の意向によって、戦前は単行本にも全集にも収録されなかった作品である。
その鴎外の「半日」が都心の官吏や学者の多い高級住宅地の本郷区駒込西片町の屋敷だったことに対し、黒岩の昭和の「半日」というべき『現代家族』は東京都下の「新興都市」M市である。このM市は武蔵野市をモデルとしているのだろう。M市は駅の近くに戦後すぐに建てられたが、今にも壊れそうな市営住宅、その傍には古い文化住宅があり、やはり古い時期に建設された公団住宅も多い。現在でもキャベツ畑が消え、そこが建売住宅に変わり、また土地を売った農家の昔の御殿のような家が並んでいたりする。典型的な郊外の混住社会の風景に他ならず、まだ開発は続いているのである。『現代家族』の主人公の松田木勇作、洋子夫婦の家も建売住宅を購入したものであった。
勇作の家は十年前に買った建売住宅だった。M市の駅からバスで十五分ほどの距離にある。勇作と洋子が学校の共済組合から資金を借り、当時千三百万だった家を手に入れたのだった。土地が三十五坪あるから、現在では四千万はする。借りた資金は毎月給料から差し引かれるが、勇作、洋子とも二万ずつ、計四万ほど返済している。返済は今年で終わる。二人で共同で買ったので、土地の名義は勇作、家の名義は洋子になっていた。
その頃は、勇作、洋子とも、土地がこんなに騰るとは思わなかった。洋子は今頃になって、土地の名義を自分の方にすれば良かった、と悔しがっている。
このような記述は一九七〇年代から八〇年代にかけての家と土地の入手事情とその価格を示していて興味深い。黒岩のことだから、これらの数字は取材に裏づけられているはずだ。そうした数字だけでなく、「買った建売住宅」という一節はすでに「家」が建てるものではなく、買うことが一般的になっていた事実をも伝えている。「建売住宅」という用語は一九六〇年代半ばから普及してきたとされるが、七〇年代を迎え、それを購入することがマイホーム入手とほぼ同義語となっていたと考えられる。そのような状況は郊外の地価の高騰ともパラレルで、その時代特有のインフレによる上昇があったにしても、松田木家のマイホームは十年間で何と三倍となっているのだ。こうしたマイホームのインフレが、七〇年代以後に90%以上を占めるようになった中流意識の増加を下支えしたものだったにちがいない。
この家に住む勇作は三十九歳で、都心の公立高校の日本史の教師だが、組合問題に巻きこまれ、ノイローゼ状態になったことから、高校教師の足を洗い、大学の助教授となることをめざしていた。そのために論文も書き、政治力のある国立大学文学部長のところへも出入りしていた。妻の洋子も三十八歳の英語の教師で、彼女は都下の高校だったが、英語の実力もあり、受験生相手の家庭教師も務め、その収入を合わせると、勇作の二十七万円の手取りに比べ、五十万円近く稼いでいた。そのアルバイトは、勇作の母親の美智枝と顔を合わせる時間を少なくするために始められたのではあるけれど、今では金銭に対する欲もからんでいた。中学二年生で十四歳の一人娘の真理子とのショッピング、及び夫の本や資料代や車の維持費などにも金がかかるようになってきたからだ。
母親の美智枝は六十八歳で、五年前に父親が亡くなり、三年前に長男の勇作が仕方なく引き取ったのだが、夫の遺産に加え、勝気で自己主張も強く、引き取られたという気持は持っていなかったので、洋子ともよく衝突した。それに週二回、近くのコミュニティセンターで茶華道を教えていたし、様々な老人のための会にも出席し、食事代として毎月一万五千円を勇作に渡していた。美智枝が同居するようになったのは真理子が小学六年生の頃だった。しかし真理子は祖母の性格や言動に反発し、洋子と真理子が二階で、勇作と母親が一階で寝るようになった。「だが、寝る場所を変えたくらいで、家の中が旨く治まる筈はなかった。美智枝と、洋子、真理子の関係は今でも険悪である。勇作は、母親と、女房、娘の間に立ち、遣り切れない思いをすることがしばしばだった」。
ただ誰に訊いても、嫁と姑がうまくいっているケースはなく、子供たちにしても感覚的に早熟で自我意識が強く、母親と同調して感覚がずれている祖母を軽蔑することが多くなっているようだった。そうした家庭状況や妻の収入のことで圧迫感を覚えていたこともあり、勇作は東京の教育専門の大学院を出ていたし、高校教師とはやはり格がちがう大学の助教授になって、「一家の主人としての権威を取り戻すこと」を願っていた。
これらの『現代家族』の物語設定と家族構成は鴎外の「半日」を彷彿とさせる。しかし時代と住む場所が変わっているように、「半日」の主人公は大学教授だったけれど、勇作は大学教授になりたい高校教師、妻は彼よりも稼ぎのいい有能な英語教師、その娘は成長した中学生であり、母親は夫の遺産を確保し、地域のコミュニティセンターで茶華道を教えていた。つまり勇作を除いて、『現代家族』の登場人物たちは「半日」の女性たちよりこ、それぞれがはるかに自立し、成長していることになる。その意味において、嫁と姑と娘も「ひとりの個人であるという場面」をもつ存在として描かれているし、夫もまた絶えず「ひとりの個人」と「「〈家族〉の一員」であることのバランスシートを考える人物として設定されている。つまり社会にあっては「ひとりの個人」=高校教師、家庭においては「〈家族〉の一員」=夫、息子、父の立場を使い分け、それに照応するように、『現代家族』の物語は展開されていく。そこに家族小説であるにしても、黒岩重吾ならではのビルドゥングスロマン性をうかがうことができるし、それは同時に豊かな消費社会を迎え、多くが中流意識を共有するに至った戦後の日本人の成熟を浮かび上がらせているかのようだ。
実際に母の美智枝に対し、エリートサラリーマンでマンション住まいの弟の勇二郎と美人で虚栄心の強い妻は、勇作一家の代わりを務めることができない。それは弟一家がいってみれば、勇作の体現する「抱擁家族」を演出することが不可能だからだ。勇作は絶えず母親のことばかりでなく、妻や娘に関しても、「やり切れない思い」を抱いている。それは母も妻も娘もいきなり理解できない人種へと変身してしたような思いであり、「参ったなあ、弱ったなあ、一体どうすれば良いのか」と胸の中で呟き、それでも「計算」や「演技」も行使し、そのような繰り返される散文的な日常を乗り越えていくのである。
そうした家族問題が繰り返される中にあっても、否応なく社会問題も生じていく。それは事件とし「ひとりの個人」=高校教師にも押し寄せ、勇作が生活指導部員を引き受けたことから、非行生徒問題に巻きこまれ、家族の間にも波紋を及ぼしていくのだが、妻と母と娘が「ひとりの個人」=「〈家族〉の一員」として対応することによって、事件は収拾へと向かっていくのである。そうした意味において、黒岩の『現代家族』は鴎外の「半日」の家族の悲劇的色彩は薄れ、それよりも成熟した地平まで進んできたように思える。『現代家族』の「著者のことば」が帯裏に書かれているので、それを引いて、本稿を閉じることにしよう。
(……)私や妻には教師の経験はないが、私の家庭も、この小説の家族と同じく、母・妻・娘の三世代によって成り立っている。そういう意味で、この小説の主人公は私自身で、登場する家族の一人一人は、母や妻、そして数年前の娘の分身といえるかもしれない。
もちろん「現代家族」は小説であり、ノンフィクションではない。(中略)私の家庭がモデルだ、と誤解されては困るのだが、連載中、私は、私自身を、そして母、妻、娘を切り刻んだ。「現代家族」は、私が血を流して描いた数少ない作品の一つである。