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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話459 明治書房、版画荘、石川淳『白描』

前回、明治書房から出されたブル−ノ・タウトの『ニッポン』『日本文化私観』の二冊のタイトルを挙げておいたが、私の所持するのは前者が昭和十年六月第三刷、後者は同十五年十一月第八刷である。なぜこのことにふれるかというと、酒井道夫の「戦前昭和ヴィジュアル時代の『ニッポン』」(酒井、沢良子編『タウトが撮ったニッポン』所収、武蔵野美術大学出版局)によれば、『ニッポン』は版を追うごとに初版時の二三五点の写真が減らされ、第三刷では一七五点、昭和十六年に訳者が平居均から森儁郎に改められた際にはさらに削減され、五八点になっていて、それが現在の講談社学術文庫版に関しても踏襲されているからだ。ただ酒井は『日本文化私観』にはふれていないが、同様の処理が施されているとも考えらえる。

(昭和十六年版) タウトが撮ったニッポンニッポン

『ニッポン』『日本文化私観』は両書ともA5変型判箱入の堅固な装丁で、前者に至ってはまだ時代に余裕があったことを示すかのように、天金アート紙使用で、前述した一七五点の写真も収録され、タウトにふさわしい造本に仕上がっている。版元の明治書房と発行者の高村鍵造についてはまとまった記述を見出せないけれど、高村が丸善出身で、明治書房が駿河台上杏雲堂病院の正面にあり、戦後まで存続していたことだけはつかんでいる。おそらく『日本文化私観』の奥付住所の神田駿河台二ノ四がそれにあたるのだろう。その後、出版物に関する明治書房のHPを見出している。

さてここで言及したいのは『ニッポン』と『日本文化私観』の訳者平居均と森儁郎についてである。『ニッポン』は昭和十六年以後、訳者名が平居均から森儁郎へと代わり、新版となっていて森はドイツ文学専攻で、後の早大教授である。平居のほうに関してだが、『日本 タウトの日記1934年』(岩波書店)に平居と平井の双方が出てくるし、確証的ではないとの説も出されているけれど、これも記述から同一人物と判断できるように思われる。『日本オルタナ出版史1923−1945 ほんとうに美しい本』(『アイデア』354、誠文堂新光社)や桑原規子の『恩地孝四郎研究』(せりか書房)に立項、言及がなされているので、両書を参照し、そのプロフィルを描いてみる。

日本 タウトの日記1934年日本オルタナ出版史1923−1945 ほんとうに美しい本 恩地孝四郎研究 [f:id:OdaMitsuo:20140823171818j:image:h120](ポスター)

明治三十一年に平井は商館支配人の四男として生まれ、弁護士の叔父の養子となる。大正九年東京外国語学校ドイツ語科を卒業後、ドイツ光学機器輸入販売店カールツァイス社に勤務し、部長まで務めているが、その一方で文学美術に関するディレッタントであった。女優北林谷栄はその姪で、彼女は平井の蔵書『近代劇全集』などを耽読し、新劇を志すことになったという。昭和七年に養父の遺産を得たことで、銀座並木通りに日本初の創作版画画廊である版画荘を開き、貧しい版画家たちのパトロンとなる。版画荘が販売していた版画家とその作品、価格は世田谷文学館編『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』所収の「創作版画観即売目録」に見ることができる。私も本ブログの「混住社会論」77でそれにふれている。

またソビエトから亡命した画家のワルフーラ・ブブノワと親交を結び、同じく来日したタウトと同行し、通訳も兼ねながら、恩地孝四郎やブブノワの版画本の出版を手がけていくことになる。そして昭和十年には本連載54で言及した秋朱之介、及び詩人の城左門の企画協力を得て、文芸出版にも乗り出していく。後に城左門は城昌幸の名前で「若さま侍捕物手帖」シリーズを書き継ぐことになる。

版画荘の出版物は『全輯百輭随筆』の端本しか入手していないが、『アイデア』には萩原朔太郎『猫町』『定本青猫』、春山行夫『花花』、丸山薫『一日集』などの詩集、版画荘文庫として、伊藤永之助『春遠し』、坪内譲治『お化けの世界』といった作品の書影が掲載されている。そういえば、先日浜松の時代舎で、『青猫』と『定本青猫』の初版が揃って売られているのを見た。
[f:id:OdaMitsuo:20141122230142j:image:h120](版画荘文庫3、『お化けの世界』)[f:id:OdaMitsuo:20141123161145j:image:h120](版画荘文庫25、尾崎一雄『おしやベリ』)

そうした版画荘の単行本で特筆すべきは、十二年に刊行した石川淳の『普賢』で、石川はこの作品によって第四回芥川賞を受賞し、賞金五百円を得ている。この時代の石川の置かれた社会状況と文学、出版環境に関しては詳らかでないのだが、十四年から三笠書房の『長篇文庫』に『白描』を連載し始め、翌年にやはり三笠書房から出版されている。この『白描』は明らかに版画荘、平井、ブブノワ、タウトをモデルとしていて、版画荘における石川と登場人物たちの関係を想起させ、さらに十六年には同じく三笠書房から『渡辺崋山』と『森鴎外』を続けて刊行し、石川が版画荘から三笠書房へとシフトしていった軌跡をうかがわせている。
[f:id:OdaMitsuo:20141122230755j:image:h120](『普賢』)白描

それらとパラレルに版画荘は倒産へと追いこまれていたのである。昭和十三年に版画荘文庫三十巻を出したあたりで、版画荘は銀座の画廊も含めて消滅へと向かったようだ。『ニッポン』の訳者の交代もこのことと関係しているのだろう。そのために平井はタウトも訪れた田園調布の自宅などもすべて失い『アイデア』に引かれている斎藤昌三の証言によれば、戦後は浪々として茅ヶ崎に住んでいたけれど、窮乏の果てに書店で万引きすることを繰り返し、同情を禁じ得なかったが、その後の生死はまったく不明だということである。ここにも出版の悲劇の典型が見られるといえよう。

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