出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話861 『世界文学』、世界文学社、柴野方彦

 やはり本連載854などの『人間』と同じく、戦後の文芸雑誌としての『世界文学』がある。しかもこれはまったくの偶然だが、入手しているのは一冊だけだけれど、『人間』と同様の昭和二十一年十月号で、表紙には「6」とある。これは第6号を意味していると思われる。
f:id:OdaMitsuo:20190108172937j:plain:h120

 この号は翻訳を始めとする十一本の創作や評論などが掲載されているが、その内の表紙目次だけを示す。

創作 「水いらず」     J・P・サルトル
     「ある春の日に」    ポリス・ラスキン
評論 「歴史と文学」     鈴木成高
作品研究 「ボヴァリー夫人」   チィボーデ
       「ジュリアン・ソレル」 織田作之助
座談会 「近代文学の反省」    近代文学同人

 また表紙写真にはEUROPE=『ユーロップ』が使用され、これが『エヌ・エル・エフ』と並ぶパリとヨーロッパを代表する雑誌とされる。目次の裏の一ページはこれもサルトルの近影を付した「シャン・ポール・サルトルについて」で、「目下フランスの文学界思想界に大波紋を捲き起しつつある『エグジスタンシアリスム(実存主義)』の提唱者」と紹介されている。一九三八年に小説『嘔吐』に続き、『水いらず』や『壁』などを世に問い、戦時中は「共産党と結んで対独ゲリラ戦に参加」し、フランス解放後は哲学的大著『存在と無』、その他の小説戯曲によって、「実存主義」を説き、「昨冬はアメリカの諸大学に遊説すら試みた」ともある。ここに実存主義とレジスタンス神話をまとった世界的な第二次世界大戦後の文学思想のスターとしてのサルトルが登場していることになる。

 『日本近代文学大事典』における『世界文学』の解題によれば、世界文学社によって昭和二十一年から二十四年にかけて、全三十八冊が出され、外国文学の紹介、翻訳を主とし、それらをいち早く伝えたとされる。創刊号の編集者兼発行者は柴野方彦だが、第二号からは伊吹武彦が編集者、柴野が発行者である。この「水いらず」(吉村道夫訳)は戦後の最初のサルトルの邦訳で、その閨房シーンもあって、実存主義とは肉体文学だという誤解を呼んだようだ。だがその後も実存主義の紹介につとめ、サルトルの「唯物論と革命」も連載している。それに世界文学社は青磁社の『嘔吐』(白井浩司訳)に先駆けていたことになる。伊吹は戦後京大仏文科教授を務め、やはり昭和二十四年に世界文学社から『サルトル論』を刊行していること、またこれは『同事典』にふれられていないが、世界文学社が京都市下京区に置かれていたことからすれば、世界文学社のサルトル関係は人文書院に引き継がれ、『サルトル著作集』へと結果していったように思われる。
f:id:OdaMitsuo:20190107234508j:plain:h110

 それからサルトルの『水いらず・壁』や伊吹の『サルトル論』の確認はできないけれど、世界文学社は翻訳を中心とする「世界文学叢書」を刊行していて、やはり本連載826のゴンクール『宿命の女(ジュルミニ・ラセルトウ)』
(久保伊平治訳)もその一冊であり、五十点近くが出されていたはずだが、その明細は定かでない。この翻訳シリーズも伊吹の関係から京大人脈が動員され、刊行されたのではないだろうか。
 水いらず・壁 f:id:OdaMitsuo:20190108172456j:plain:h110(『サルトル論』)

 さて伊吹のほうはそのプロフィルとポジションがわかるが、発行者の柴野は『日本近代文学大事典』で立項されていない。しかし「人名索引」に名前は見えているので、確認してみると、昭和十年に青山光二や織田作之助たちが創刊した同人誌『海風』のメンバーだったと判明した。それでも他のことはわからず、柴野の名前に再び出会ったのは、『月の輪書林古書目録十七 特集・ぼくの青山光二』(二〇一四年)においてであった。
f:id:OdaMitsuo:20190108170138j:plain:h120

 『同古書目録』は各号ごとに一人の作家を中心とする特集形式を採用し、本人だけでなく、周辺の関係人物の著者なども掲載している。それゆえに青山の関係者として柴野も挙げられ、その翻訳『死刑囚』(サンケイ出版、昭和五十三年)、絵葉書、彼への言及がある富士正晴『軽みの死者』(編集工房ノア)、坪内祐三『雑読系』(晶文社)などもリストアップされていた。そしてその紹介として、大正二年高松市生れ、三高を経て東京帝大心理科卒、文芸春秋編集部員、昭和十八年応召、二十年世界文学社創設、二十四年同社解散、以後フリーの編集者として出版企画会社を主宰し、犯罪学研究を続けるとあった。
f:id:OdaMitsuo:20190108170852j:plain:h115 f:id:OdaMitsuo:20190108171618j:plain:h115 雑読系

 さらに巻末には「付録」として、中野務の、青山や柴野との交流記「富士正晴と『海風』同人たち」(『VIKING』第七五二号所収、二〇一三年)が収録され、そこには次のような一節があった。

 柴野方彦は、富士正晴、青山光二と同じ一九一三年生まれ。青山、織田作之助、白崎礼三と同じく、『海風』創立同人。戦前、文芸春秋社で雑誌編集にたずさわる。菊池寛の代作者でもあった。一九四五年秋、空襲をうけず印刷機械が無傷でのこっていた京都で、出版社・世界文学社を設立。舞鶴の海軍が放出した紙をいちはやく入手した柴野は、一九四六年春に雑誌『世界文学』を創刊。四八年雑誌『世界の子供』創刊。サルトル『水いらず・壁』その他、翻訳書を中心に活発な出版活動をつづけるが、復興してきた東京の出版資本におされ、いっきに衰退。一九五〇年三月、世界文学第三八号を出して廃刊(世界文学社終焉の年月については、不明)。

 それから昭和四十年代半ばに柴野が西麻布にシバノプレスを設け、実業之日本社の編集下請けをしていること、次男の横浜国大生の春彦が京浜安保共闘幹部で、板橋区の上赤塚交番を襲撃し、射殺されたこともふれられている。

 また英文学者の金関寿夫が世界文学社の編集者だったことなども語られ、昭和五十四年の柴野の急性心不全による死も伝えられている。『世界文学』廃刊から三十年後のことだった。柴野と『近代文学』同人たちとの関係については言及できなかったが、別の機会に譲ろう。


odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら