筧克彦『神ながらの道』に続いて、やはり大正十五年に至文堂から、平泉澄の『中世に於ける社寺と社会の関係』も出版されている。後に平泉も筧と並ぶ皇国史観のイデオローグとして知られていくが、大正時代には新進の日本中世研究者であり、その特異な視線はアジールに向けられていた。
たまたま新刊の、これも日本中世の政治と宗教を主幹とする伊藤正敏『アジールと国家』(筑摩書房、令和二年)を読んでいたら、そのアジールは網野善彦の『増補 無縁・公界・楽』(平凡社、昭和六十二年)から始められていた。それにオルトヴィン・ヘンスラー『アジール―その歴史と諸形態』(舟木徹男訳、国書刊行会、平成二十二年)が古典として挙げられている。それからいささか唐突に、戦前に平泉の『中世に於ける社寺と社会の関係』によって、西欧のアジールが紹介されているが、「これはヘンスラー以前の法学者やロマニストの研究が未整理のまま紹介されているだけであり、古典と見なすことはできない」との指摘がなされている。
それゆえに伊藤は、網野や阿部謹也も含め、従来のアジール論の根拠は不確かなので、「日本史の史実からアジール論を構築するのが本筋ではないか」という目論見のもとに、主としてヘンスラーに依拠し、中世の寺社勢力を題材とし、アジールとは何かを問うていく。そうした視座もあって、その後平泉の名前は一度だけ挙げられているけれど、『中世に於ける社寺と社会の関係』への言及はまったく見られない。そこであらためて平泉の著作を読み直してみようと思ったのである。その前に筧克彦と同様に『[現代日本]朝日人物事典』における平泉の立項を示しておこう。
平泉澄 ひらいずみ・きよし 1895・2・5-1984・2・18 日本史学者。福井県生まれ。1,918(大7)年東大国史学科卒。大学院で日本中世史を専攻、23年に講師となり、中世に於ける精神生活を講じた。26年助教授。学位論文『中世に於ける社寺と社会の関係』(26年)は、中世における経済生活と社会組織、とくにアジールの研究に深い洞察を示している。30年(昭5)ヨーロッパに留学、ドイツ、フランスの代表的歴史家を歴訪し、「歴史学の原動力は偉大なる精神の活動」との所信を確認して帰国した。35年教授。このころから国粋主義に傾き、皇国史観の主導者となった。45年8月15日の敗戦にともなって官を辞し、郷里に帰った。主著に『中世に於ける精神生活』(26年)、『国史学の骨髄』(32年)、『建武中興の本義』(34年)、『万物流転』(36年)などがある。
(『建武中興の本義』)
ここにも記され、また平泉の「発刊の辞」にも述べられているように、『中世に於ける社寺と社会の関係』は彼の大学院の学位論文に当たるもので、「稿本」は関東大震災で焼失したけれど、「清書本」は大学の火難を免れ、それによって公刊できたという。その際にアジールに関しては新たに増補したとされてもいる。そのアジールへの言及部分は、同書全六章三七四ページのうちの第三章「社会組織」(一〇四ページ)、全体の三分の一近くを占めていることになる。
(復刻、国書刊行会)
それは単行本としての上梓に伴う増補にも起因していると同時に、平泉のいうところの「中世に於ける社寺が、その社会組織の上に占めた特色ある位置を、アジールの研究によって闡明しよう」とする意図的視座を物語っていよう。したがって、先に引いた伊藤のヘンスラー以前の研究が「未整理のまま紹介されているだけであり、古典と見なすことはできない」との言は不当だと思われる。確かにヘンスラーは参照されていないが、ギリシャに起源を発するアジール(ドイツ語はAsyl、フランス語はAsyle、もしくはAsile,英語ではAsylum)注目し、それによって、日本の中世の社寺の研究を志向したのは平泉のオリジナルであり、そうした意味において、日本のアジール研究の「古典」に位置付けることに躊躇しない。
しかも平泉は西洋史ではなく、日本中世史専攻で、まだヨーロッパ留学を経ていないにもかかわらず、西洋の文献資料を渉猟し、「我国に於ては厳密なる意味に於いて之に相当する語」がないアジールに注目したのは、歴史家としての平泉のインスピレーションとアナロジーの才能を伝えて余りあるように思われる。そしてアジールの実例は西洋諸国から始まり、日本中世においても見出され、アジールの権利を認められた寺社が多くなっていったことが指摘されていく。それが上代と異なる中世の現象であり、近世に入ると衰微し、天下統一と中央集権を目ざした信長、秀吉によってアジールは廃棄されてしまったと。そして平泉は結論づける。
かくてアジールは中世と共に起り、中世と共に亡びた。こゝに中世に於ける社寺の社会組織上の位置は極めて明白である。即ち中世に於ては、社寺は往々にして殆んど治外法権を有し、社会に於て全く特殊の位置を占めて居つた。それは蓋し中世が宗教の栄えた時代であり、又中世の文化が僧侶によつて指導せられたといふ一面の理由と共に、他面また政府の威力の不十分であつた事に原因するものであらう。(中略)室町時代幕府の衰微と共に社寺の台頭し来つた事はいふまでもない。中世に於けるアジール盛行の意義はこの点に存する。
このようなアジールに注視した平泉が、どのようにして中央集権の至上形態と目せる皇国史観へと転回していったのかは詳らかでない。立項に挙げられた著作をたどっていけば、それらは判明するだろうが、私にしてみれば、平泉は『中世に於ける社寺と社会の関係』に封じこめておきたい気にもさせられる。「敗戦にともなって官を辞し、郷里に帰った」とされるのは、敗戦後のアジールを求めての帰郷だったかもしれないからだ。
なお平泉の初期の著作は『中世に於ける精神生活』や『我が歴史観』も含め、いずれも大正三年創業の佐藤正叟の至文堂から刊行されている。そのことにもふれるつもりだったが、またの機会にしよう。
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