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古本夜話1074 「有朋堂文庫」、魯山人、岡本かの子「食魔」

 前回の『骨董集・燕石雑志・用捨箱』を取り上げるに当たって、「有朋堂文庫」は、同じく昭和円本時代に刊行された興文社の類似企画『日本名著全集』と比べ、入手した巻が少ないと思っていた。だが実際は逆で、古本屋で一冊ずつ拾っているうちに、いつの間にか増えてしまったことになる。「有朋堂文庫」が十一冊、に対し、『日本名著全集』は八冊で、それは前者が全百二十一巻、後者が三十一巻であることの反映と見なせよう。なお『日本名著全集』に関しては『近代出版史探索Ⅲ』423で既述している。

f:id:OdaMitsuo:20200915115255j:plain f:id:OdaMitsuo:20200914115859j:plain:h103(「有朋堂文庫」)f:id:OdaMitsuo:20200916193111j:plain:h108 f:id:OdaMitsuo:20200916192824j:plain:h108(『日本名著全集』)近代出版史探索Ⅲ

 この際だから、『骨董集・燕石雑志・用捨箱』以外の「有朋堂文庫」のナンバーとタイトルも示しておこう。それらは第1輯の39、40、41『近松浄瑠璃』上中下、42『海音半二・山村宗輔傑作集』、54『東海道中膝栗毛』、第2輯の1『古事記・祝詞・風土記』、4、5『宇津保物語』上下、27『名家俳句集』、28『風俗文選・和漢文藻・鶉衣』である。

 これらの「有朋堂文庫」は新書版よりも少し小さい三六判といっていいかもしれないが、藍色の上製で、表紙と背に金の箔押しのタイトルと花模様をあしらった絵が描かれ、古典叢書としての「有朋堂文庫」のイメージを印象づけている。函入は見たことがないけれど。それを最初に見たのは高校の図書室だったはずで、確か一本の棚が埋められていたことから考えると、全冊が揃っていたのかもしれない。だがそれは半世紀以上前のことだから、すでに廃棄処分されてしまったであろう。そのようにして、社会の風景と同じく、小中高の図書室の蔵書も変わってしまったはずだ。

 それもあって、あらためてこの十一冊を立て並べてみると、出版された時代を表象する風格が感じられ、その背に書かれた金色のタイトルが別の意味合いもこめて迫ってくるようにも思われた。それはまったく偶然だが、白崎秀雄の『北大路魯山人』(上下、中公文庫)を読み、次のような記述に出会ったからだ。
北大路魯山人

 「有朋堂文庫の題簽の字は、あれは俺が書いたんだ」
と、後年魯山人は側近に語ったことがある。有朋堂文庫は、今日の新書判に魁けた小型の日本古典全集ともいうべきもの。紺のクロースの装幀で、その背の金文字や大扉の題字は、すべて篆気の濃い隷書で書かれている。当時可亭の嘱された版下書きを、病臥中の彼に代わって房次郎の潤筆した一例であろう。
 なお、有朋堂文庫は終始題簽の筆者名を記さない。

 これには若干の補足と検証が必要であろう。巻末の「北大路魯山人晩年譜」を照合しながら、白崎の魯山人伝を読むと、書家志望の房次郎=後の魯山人は明治三十六年に京都から上京し、翌年に日本美術展覧会において、隷書の千字文で一等賞を受ける。三十八年には著名な版下書家の岡本可亭の内弟子となり、それから二年間を京橋区南伝馬町の岡本家で過ごした。顔真卿を宗とする書家の可亭は、『近代出版史探索Ⅱ』365の岡本一平の父で、妻と三女があった。一平は三十九年に東京美術学校に入学しており、彼も魯山人と生活をともにしていたし、それは娘たちも同様で、末子の篁は、後に画家の池部釣と結婚し、俳優池部良の母となるのである。
近代出版史探索Ⅱ

 可亭の家では家人が一週間交代で炊事に当たることになっていたが、「すでに六歳の頃から煮炊きに使われ、料理に異常な熱情を懐いていた房次郎には、かえって幸であった。彼の調える惣菜料理を可亭は少からずよろこんだ」と白崎は記している。一平が大貫かの子と結婚するのは明治四十三年で、かの子も房次郎と接していたはずであり、彼をモデルとする「食魔」を書いている。この中編は初出発表紙未詳とされ、創作集『鮨』(改造社、昭和十六年)、後に冬樹社の『岡本かの子全集』第五巻に収録される。

 f:id:OdaMitsuo:20200916114343j:plain:h110(『鮨』)f:id:OdaMitsuo:20200916114801j:plain:h110

 この作品は「素人の家にしては道具万端整つてゐる料理部屋」での「若い料理教師」の鼈四郎とその家の姉妹のお千代とお絹が菊萵苣(アンディーヴ)の調理をしている場面から始まっている。姉妹はそれに「ほんとうにおいしい」という嘆声をもらし、この青年は「身体全体が舌の代表となつてゐて、料理の所作の順序、運び、拍子、そんなものゝカンから味の調不調の結果がひとりでに見分けられるらしい。食欲だけ取立てられて人類の文化に寄与すべく運命付けられた畸形な天才」だと思うのだ。

 「食魔」は岡本一平の回想によれば、外遊直後に書いたようなので、おそらく昭和五年の執筆となろう。そのシノプスから考えて、岡本の三姉妹からの聞き書きも入っているにしても、やはりかの子が実際に房次郎と一緒に料理体験を持ったことがベースになっていると推測される。房次郎は料理だけでなく、版下書きの技術らも練達し、「巧みに可亭の書体を模し、可亭と彼自身以外の者には、ほとんどその差異を見分け難くした」という。

 しかし留意すべきは「有朋堂文庫」のことで、白崎は円本時代のものを想定していると思われるが、それは明治四十五年に着手され、大正四年に完結した第一期「有朋堂文庫」である。先の「年譜」によれば、房次郎は明治四十年に可亭の家を辞し、独立し、四十二年には実業之日本社の増田義一に認められ、その看板や『実業之日本』『日本少年』『少女の友』の題字を書いたとされる。それらに関して『実業之日本社七十年史』には何も記されていないけれど、口絵写真に見られる「実業之日本」の看板と雑誌の題字はまさに魯山人の書を彷彿とさせる。

 そうした出版社との関係を考えると、「有朋堂文庫」の刊行時において、可亭は病臥中で晩年にあたり、大正八年に鬼籍に入っていることから、魯山人がその版下書きを代行したと想像するに難くない。ただ残念なのは第一期「有朋堂文庫」を見ていないので、円本時代とまったく同じ題字なのか確認がとれていない。

 またこれも白崎の『北大路魯山人』に教えられたのだが、魯山人の星岡茶寮の共同経営者の中村竹四郎は、『近代出版史探索Ⅱ』363などの有楽社の創業者中村彌二郎の弟で、そのカメラマンを務めていたという。その他にも魯山人には出版をめぐるエピソードがあるけれど、それは別の機会に譲ろう。


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