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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1236 再びの聚英閣と聚芳閣

 これは何度もふれているが、以前に「聚英閣と聚芳閣」(『古本屋散策』所収)を書き、他にも『近代出版史探索Ⅵ』1179などで、聚英閣がゾラの井上勇訳『制作』を刊行していたこと、また『同Ⅵ』116で聚英閣に井伏鱒二が編集者として在籍していたことを取り上げておいた

古本屋散策 f:id:OdaMitsuo:20220125133358j:plain:h120

 ところがその後、聚英閣の『俳聖蕪村全集』、聚芳閣の野口援太郎『新教育の原理としての自然と理性』を拾っているので、それらも書いておきたい。いずれも大正十五年の出版で、発行者は前者が後藤誠雄、後者は足立欽一のままである。そうした事実は関東大震災に遭遇しても、それをくぐり抜け、まだ両閣が出版活動を続けていたとわかる。

f:id:OdaMitsuo:20220125132732j:plain (『俳聖蕪村全集』) f:id:OdaMitsuo:20220125174057j:plain:h120(『新教育の原理としての自然と理性』)

 『俳聖蕪村全集』は藤村作の「序」、水島重治校訂の一冊本で、藤村によれば、水島は弟子に当たり、「君はこの全集編纂のために諸家の秘庫に就いて捜索蒐集して、未だ世に出た事のない書簡や文章を多く得られたといふ」ので、「本書は少なくとも既刊の蕪村集中の最優なものとなるであらう」と述べている。それは大正十年三月付で記されているけれど、私の手元にある同書奥付には、大正十三年改版、同十五年十四版と記載されているので、ロングセラーになったとも考えられる。

 戦後になって創元社から『蕪村全集』全二巻が出されるのは昭和二十三年のことだから、この『俳聖蕪村全集』は重宝な一巻本だったのかもしれない。私も『近代出版史探索Ⅱ』370で、萩原朔太郎の『郷愁の詩人与謝野蕪村』にふれているが、朔太郎にしても同書を参考にしていたのではないだろうか。またこれも拙稿「聚英閣と聚芳閣」において、聚英閣が大冊の勝峯晋風編『其角全集』を刊行していることを既述しておいた。おそらく菊判と四六判の相違はあるけれど、この『其角全集』と『俳聖蕪村全集』の編集者は同じだったように思われる。

f:id:OdaMitsuo:20220126161008j:plain:h125(『郷愁の詩人与謝野蕪村』)

 それに対して、聚芳閣の『新教育の原理としての自然と理性』は著者の野口援太郎監修「新教育叢書」全十二巻の第三篇として出されたもので、巻末広告によれば、第一篇の野村芳兵衛『新教育に於ける学級経営』、第二篇の峯地光重『新教育と国定教科書』、第四篇の栗山周一『綜合科学教育の新生』が既刊となっている。

 野口は帝国教育会理事、児童の村小学校の肩書が付され、次のような「新教育叢書」のための文言が函にしたためられている。最後の一節は奥付裏のものを補足した。

 その制度、組織、方法、精神のすべてにわたつて世の教育の現状は真に行きつまりの状態にある。この時に当たつて、我教育界に新しき血路を打開するものは実に新教育そのものである。新教育の指標は云ふまでもなく、子供の内的想像力の発展と人類協調の精神との一致にある。今やこの精神を標語とする新教育運動は世界各地に若々しく大地を破つて新生して来た。この運動こそは、真に人類教育に於ける唯一のパイロツトである。
 この新教育の思潮を民衆化し、国民教育の向上を期するため、日本新教育の第一線に立つて奮闘しつゝある士に執筆を乞ふて本叢書の完成を期する次第である。

 ここで述べられているように、「新教育」とは「子供の内的想像力の発展と人類協調の精神との一致」を目標とするもので、「世界各地に若々しく大地を破つて新生して来た」とされる。『近代出版史探索Ⅳ』627の玉川学園の「全人教育論」ではないけれど、この時代には多くの新しい教育論が唱えられ、野口はその「新教育」のイデオローグだったようだし、彼の『新教育の原理としての自然と理性』の「自序」には「児童の村開設以来二ヶ年余の経験に基いた思索の結果」とある。戦後の『教育学大事典』(第一法規)によれば、野口は東京高等師範を卒業後、新設の姫路師範の校長を長く務め。その自律と自治を求める実践は日本師範史の上でも高く評価され、新教育の先駆となった。そして大正十三年に池袋に児童の村小学校を創設し、民間教育運動の拠点になったという。それに聚芳閣も寄り添っていたことになる。

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 これまで聚芳閣の出版シリーズとして、『近代出版史探索Ⅵ』1158で、『院本正本日本戯曲名作大観』、同1159で「海外芸術論叢書」、同1160で外国文学翻訳書、同1161で「新作家叢書」を紹介してきたけれど、それらに「新教育叢書」も加えられる。ただ留意すべきはこの「叢書」が聚芳閣教育部の出版となっていることだろう。つまりそれは先に挙げた四つの文学、戯曲、外国文学、芸術翻訳書の売れ行きが芳しくなかった。そこで広く売れ、学校採用も期待できる企画と「新教育叢書」が持ち込まれたことで、聚芳閣教育部を立ち上げ、教育書出版へと向かったではないだろうか。

 しかし先の文学、戯曲、外国文学、芸術翻訳書などのシリーズが未完に終わったように、「新教育叢書」も『全集叢書総覧新訂版』に見えていないし、同じだったと思われる。おそらく聚芳閣はかろうじて大正十五年までは持ちこたえてきたが、この時代に終わったのではないだろうか。

 だが戦後になって、聚芳閣の足立欽一が鎌倉アカデミアに迎えられたのはこれらの出版実績と、それに培われた人脈によっているように思われる。


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