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古本夜話1380 徳田秋声『縮図』と小山書店

 徳田秋声の『縮図』は昭和十六年六月から『都新聞』で連載が始まったが、九月までの八十日で中断し、秋声は十八年十一月十八日に七十三歳で亡くなり、未完のままになってしまった。

 (『縮図』)

 だがその一周忌がすみ、帝都の空襲が激しくなる中で、小山書店によって少部数の印刷がなされたけれど、製本前に灰燼と化してしまった。それにもかかわらず、見本として残された一冊によって、敗戦後の昭和二十一年七月に出版の運びとなったのである。その一冊を入手している。

 同年七月の第二刷で、菊判並製だが、杏色の表紙のフランス装で、連載の挿絵を担当した内田巌のスケッチがあしらわれ、用紙や挿絵も含めて敗戦翌年の出版物と思えないほどの仕上がりになっている。さすがに『近代出版史探索Ⅱ』359などの小山書店だとオマージュを捧げたくなるし、この版元に関しては拙稿「小山書店と『八雲』」(『古雑誌探究』所収)を参照されたい。

古雑誌探究

 徳田秋声のことはこれも『近代出版史探索Ⅱ』264で、『仮装人物』と愛人の山田順子が書いた『女弟子』を取り上げ、それらのモデルにも言及しているが、あらためて小山書店の単行本で『縮図』を読むと、秋声の小説技法が隅々まで張りめぐらされた傑作であり、未完に終わったことが悔やまれる思いがする。そうした部分を抜き書きで紹介するつもりでいたけれど、『日本近代文学大事典』には『縮図』の書影も挙げられ、その解題も見え、この小説のコアと傑作たる所以を簡潔に伝えているので、それを引いておくべきだと判断したのである。

 

 [縮図]しゅくず 長編小説。「都新聞」昭和一六・六・二八~九・一五。昭和二一・七、小山書店刊。日中戦争下の世相を背景として、主人公三村均平とその妻死後の愛人である芸妓置屋の女主人銀子との現在の生活にはじまり、やがてこの作者独特の時間的な倒叙法にしたがって、筆がひとたび銀子の過去に向けられるや、それは薄暗い日本の庶民社会の片隅にくりひろげられる一人の女の客観的な生活史として、多彩なそれぞれの断層をとめどもなく掘進めていったのがこの長編である。七一歳の老作家の筆とも思われぬみずみずしさをもって、水もしたたらんばかりの妙齢の芸妓の姿を浮かび上がらせ、その心理のかげりを追い、あるいは陋巷に胸を病む少女の純情を描きあげてゆく。ここではその舞台も東京は江東の細民街から芳町、白山、そして千葉や石巻へと広範囲にわたって、その庶民的な階層の無数の男女が登場し、それぞれがいわゆる「自然主義の荘厳さ」(『一つの好み』)の極致を示す現実諦視の態度でみごとに書きわけられている。未完とはいえ、日本近代小説の一角を代表する傑作である。

 これに付け加えれば、最初の章「日蔭に居りて」において、「晩飯時間の銀座の資生堂は、いつに変らず上も下も一杯であつた」と始まっている。まさに『縮図』の均平と銀子の物語は「戦争も足かけ五年つづ」いている中で、パンとスープの出る「いくらかの贅沢」としての「少し上等の方の定食」を注文し、ナイフとスプーンを使いながら食べていくのである。そして窓の下の大通りの車の喧騒ぶりが描かれ、裏通りの花柳界の軍需景気による繁盛も言及されていく。

 このような『縮図』の始まりとその後の展開が軍情報局の意向にかなっていなかったことは想像に難くない。息子の徳田一穂が昭和十九年十一月の「跋」として、秋声が『都新聞』に『縮図』を連載する前の「作者の言葉」を引いている。それは「都新聞の作品への註文が、商売意識を離れた芸術本位なものなので、私にも多少の感激があり、時代の許す範囲で書きたいと思ふ」というものであった。ところが一穂は「或る事情のため中断される」と述べていたが、二十年の「追記」において、それは「当局の文芸に対する干渉によつての事」で、実際に秋声が一穂に残した手紙を引いている。『都新聞』の担当者と話したが、「少しくらゐ妥協してみたところでダメのやうです。妥協すれば作品は腑ぬけになる。遽に立場を崩すわけにも行かないから、この際潔く筆を絶たうと思」うという断念の言であった。

 結局のところ、八十回の連載に新聞社から原稿のまま戻ってきた八十一回、それに八十二回の書きかけの原稿を加え、先述したように『縮図』は昭和十九年に刊行予定だったが、戦後の昭和二十一年まで持ちこされてしまったのである。秋声は「この戦争の結末は見られさうもない……」と語っていたようだが、それは『縮図』の出版も同様で、戦争と文学のリアルな関係を伝えていよう。

 なお和田芳恵の『おもかげの人々』(講談社、後に光風社書店)所収の「徳田秋声作『縮図』の銀子」はその後の彼女の証言を引き、秋声の娘を生んだことを告白している。秋声の死はその二年後ということなので、「戦争の結末」と『縮図』の出版と異なり、娘の誕生は見ていたことになろう。

 


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