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古本夜話1430 淡徳三郎訳『フランス大革命』と改造社『露和辞典』

 かつてクロポトキンの『フランス大革命』を淡徳三郎訳で読んだことがあった。それは昭和四十六年の新人物往来社版で、戦前の改造文庫版、戦後の青木文庫版の改訳であり、とてもリーダナブルだったことが記憶に残っている。それは今でも変わっていないと思われるし、『近代出版史探索Ⅶ』1328などでたどってきたように、この時代の人物往来社、新人物往来社の書籍は注視に値する。

 淡訳以前に日本でしか刊行されていないという『クロポトキン全集』(春陽堂、全十二巻)第十、十一巻の岩佐作太郎訳『フランス大革命史』上下を読んでいたけれど、戦前訳ゆえに伏字も多く、読み終えるのに苦労した思いがあったからだ。岩佐は同じ1298の片山潜の在米日本人社会主義団の一人でもあり、やはり『同Ⅶ』1290のエマ・ゴールドマンのアナキスト人脈に属していた。それもあって同じ戦前訳でも、英語版に基づく岩佐訳が先行していたのである。

 そうした経緯もあって、フランス語版による戦後の淡訳の新人物往来社版に触発されたことにふれたいのだが、それは別の機会に譲り、ここでは訳者の淡に言及してみたい。この『フランス大革命』には淡の経歴も紹介されておらず、大学の教授とばかり思いこんでいたのである。ところが高杉一郎の「淡徳三郎と露語辞典」(『ザメンホフの家族たち』所収)を読み、これまで知らなかった彼のプロフィルを教えられたことにもよっている。

 高杉は昭和八年に改造社に入ると、出版部にロシア語を解する編集者がいなかったこともあってか、『露語辞典』の担当者となった。この辞典は未見だったので、昭和十四年の『改造社図書総目録』を確認してみると、淡徳三郎、直井武夫共編『最新露和辞典』定価五円、特価四円が見出された。高杉が担当した時点で、すでに初稿ゲラが出ていたようで、彼はそれから半年にわたって、小石川の共同印刷に通い、二人と生活をともにすることになった。『近代出版史探索Ⅶ』1387で高杉がイルクーツクの本屋で『露英辞典』を購入したことを書いておいたが、日本での露和辞典の編集のことも想起されたにちがいない。

 改造社版『露和辞典』はソ連国立出版所の露和辞典、外来語事典などからの編纂、及びシュミット博士編『露英辞典』の翻訳の色彩が強かったようで、専門家からはどうして素人の二人に辞典編纂を任せたのかという声も上がったとされる。辞典編集顧問は大久保に住んでいたゴロフシチコフとブーブノワ夫妻だったが、淡も直井もロシア語を話せないので、日本語と片言の英語で補っていた。そこで高杉は『近代出版史探索Ⅲ』458のブルーの・タウトとも出会い、その後出版された翻訳はすべて読んだという。

 辞典は共編というかたちだったが、高杉によれば、「二人は、それまで二年間も、ときには合宿までして共同の仕事をしてきたというのに、おたがいにそれほど信頼しあっているようには思えなかった。しかし、仕事を推しすすめている組織者は、あきらかに淡さんの方で、そのエネルギーには驚嘆すべきものがあった」。その淡のプロフィルを『日本アナキズム運動人名事典』から引いてみる。

日本アナキズム運動人名事典

 淡徳三郎 だん・とくさぶろう1901(明34)8・15―1977(昭52)5・20 大阪市西区北堀江生まれ。別名・斎藤信三、馬込健之助 三高を経て京都大学哲学科へ。三高時代から学生運動のリーダーとなる。25年卒業後、京都無産者教育協会の結成に参加。26年学連事件で禁錮10ヵ月。28年共産党入党。三・一五事件でも懲役2年執行猶予5年。その後クロポトキン『仏蘭西革命史』(改造社1930)、クラウゼヴィッツ『戦争論』(南北書院1931・32)などを翻訳する。34年共産党除名。左翼運動への弾圧が激しくなった35年に思想犯保護団体大孝塾の海外派遣員として渡仏。のちに改造社の欧州特派員をつとめ、ナチス礼賛のルポが注目をあびる。48年に帰国。ナチ占領中の仏蘭西のレジスタンス運動についての多くの評論を執筆。共産党系の平和運動などに尽力する。
仏蘭西革命史〈上,下巻〉 (昭和6年) (改造文庫〈第1部 第59,60篇〉)

 ここに屈折した淡の軌跡が伝えられ、高杉が見ていた「世間で噂している皆川司法次官の大孝塾との関係がたえず頭をなやましているのかもしれない」、「鬱屈した表情」が浮かび上がってくるようだ。

 高杉は、淡が辞典刊行の翌年に渡仏したが、その印税が旅費となったのではないか、またパリで『近代出版史探索Ⅶ』1382の高田博厚とパリの日本人向けの小さな新聞を発行し、何とか生活しているという便りをもらったことなどにもふれている。それに加えて、先の立項には記されていいが、淡はパリからベルリンに向かい、その後満州に渡り、敗戦を迎えてソ連に抑留され、高杉と同じくシベリアで俘虜生活を送っていたのである。高杉がそれを知ったのはシベリアからの帰国後だったが、その後再会の機会には恵まれなかったとして、淡に関する一文を閉じている。だが高杉は『極光のかげに』を著し、ベストセラーになっていたのだから、淡も読んでいたにちがいなく、どうして高杉との再会を望まなかったのだろうか。そこにも淡の屈折した思いが秘められているのかもしれない。

 

 それは『露和辞典』共編者の直井武夫もどうようで、『近代日本社会運動史人物大事典』において、その立項は淡をはるかに上回る一ページ以上に及び、独学の翻訳者として、『近代出版史探索Ⅱ』213の左翼出版社から驚くほど多くの翻訳を刊行している。しかしその後語学力をかわれて軍参謀本部嘱託として対ソ戦略に協力し、戦後はやはり旺盛な翻訳活動によって、ソ連に通じた反共理論の先駆者のひとり、イデオローグとなっていったようだ。だがそれらは未見なので、いずれ入手したら考えてみたいと思う。

近代日本社会運動史人物大事典


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