高杉一郎の翻訳はフィリッパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』(岩波書店)などの児童文学も含め、多岐にわたっているが、アグネス・スメドレーの『中国の歌ごえ』(みすず書房、昭和三十二年初版、同四十七年改版)は記念碑的な翻訳のようにも思える。
アメリカのクノップ社から『中国の歌ごえ』(原題Battle Hymn of China)が出版されたのは大戦下の一九四三年だが、中国のみならず、戦後のアメリカや日本において、時代的にも歴史的にも大きな影響と波紋をもたらした著作であり、それらは様々な意味で、看過できないものだったと考えられる。それは高杉にとっても同様であり、初版の序文といえる「アグネス・スメドレーの人と作品について」で、「この本は鳥瞰的であり、全体的であり、叙事詩的」にして「展望のひろい」、「アジアの歴史を主題にした『戦争と平和』である」と述べ、それは改版「あとがき」でも繰り返されている。
そして高杉は『盲目の詩人エロシェンコ』(新潮社、昭和三十年、後岩波書店、同四十年)に続いてスメドレー伝『大地の娘』(岩波書店、同六十三年)を上梓に至る。実は私の場合、この『大地の娘』のほうを先に読み、それから『中国の歌ごえ』や石垣綾子『回想のスメドレー』(みすず書房)などを読んでいったのである。それは『近代出版史探索Ⅶ』1289の『エマ・ゴールドマン自伝』の翻訳に関連してで、彼女たちと年齢は異なるけれど、一九一〇年代のニューヨークの同じ社会主義人脈に属していたと目されるからだ。実際に高杉も書いていたのである。<
一九四〇
あるとき、エマ・ゴールドマン(一八六九―一九四〇)というロシア生れの婦人アナーキストが社会劇について講演するために町にやってくるという発表があった。町の実業家たちは、この講演を禁止した。スメドレーがその婦人はどんな人ですかと聞くと、おそろしい社会主義者だということだった。講演が禁止されると、ほかの町からIWW(世界産業労働組合)のメンバーや知識人の社会主義者たちが汽車でつぎつぎに乗りこんできた。豚箱は労働者や社会主義者で一杯になった。それを町へ見にいったスメドレーは、街頭で集まってくる人たちが警官に棍棒でなぐられたり、ホースの水をかけられたり、血を流している労働者が警官にひきずられていくところなどを目撃した。(後略)
これは一九一二年に展開されていたエマの言論自由闘争講演旅行におけるサンディエーゴの出来事であるが、このような事件はエマにとって日常茶飯事であったはずで、『エマ・ゴールドマン自伝』でも特に言及はない。それにエマは一九一九年にアメリカ国外追放となり、二〇年からソヴエトロシアでの生活が始まっている。またスメドレーも十九年にドイツへと向かっているので、『中国の歌ごえ』におけるアメリカ前史は短く、同様である。
それゆえに『エマ・ゴールドマン自伝』の記述に従えば、ロシアにおいて初めて会ったことになる。次の証言は『中国の歌ごえ』の成立にも影響を及ぼしたと推測されるので、そのまま引用してみる。
二人のアメリカ人が会いに来た。アグネス・スメドレーと彼女のヒンドゥー人の友人 チャトだった。私はヒンドゥー人の活動に関係するアメリカでのアグネスについてよい評判を聞かされていたが、実際に会っていなかった。彼女は印象的な女性で、熱意あふれる真の反逆者であり、インドで抑圧されている人々の問題を除いて、人生には関心がまったくないように見えた。チャトは知的で機智にとんでいたが、なにかずるい男のような印象を受けた。彼はアナキストだと自称したが、全面的に打ちこんでいるのは明らかにヒンドゥーのナショナリズムだった。
この後半の部分はジャニス・マッキンノン、スティーヴン・マッキンノン『アグネス・スメドレー 炎の生涯』(石垣綾子、坂本ひとみ訳、筑摩書房、平成五年)にも引用されている。
『中国の歌ごえ』をたどってみると、チャトのほうが先にモスクワに向かい、レニングラード科学アカデミーと関係を持つようになり、二一年にインド代表のひとりとしてスメドレーがソヴエトを訪れ、六ヵ月間滞在する。エマが書いているのはその際の出会いで、この後には二カ所、二人が出てくる。そのひとつはエマの五十四歳の誕生日パーティの席、もうひとつは眼科医ヴィザ―伯爵の治療を受けていることに関してで、それはロシアを脱出した二三年のドイツのリーベンシュタインにおいてのことだった。
このチャトとは『中国の歌ごえ』で記されているように、スメドレーがベルリンで出会ったインドの革命指導者チャトパジャーナのことで、彼女は実質的に八年間に及ぶ彼の妻だった。エマの記述に抗うように、スメドレーはチャトがインド名門出身の革命運動家だったことに多くのページを費やしているが、エマは登場していない。
『エマ・ゴールドマン自伝』が『中国の歌ごえ』と同じアルフレッド・クノップ社から刊行されたのは後者に先んずる一九三一年のことで、当然のことながらスメドレーはエマの自伝を読んでいたはずだ。ところがそこに先に引用した部分があり、エマが自分の夫を誹謗したと想像するに難くない。それゆえにスメドレーはエマを登場させることを拒否したのではないだろうか。
二十世紀の戦争と革命の時代にあって、社会主義人脈の自伝や叙事詩的作品においても、そのような女性たちの闘争が繰り拡げられていたと感じるのは私だけだろうか。
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