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古本夜話1437 上田尚と洋々社『釣魚大全』

 前回の文化生活研究会の著書や実用書は昭和を迎えると、円本企画へとも結実していったのである。それを体現したのは『釣の呼吸』や『釣り方図解』の上田尚に他ならない。

 私はかつて「川漁師とアテネ書房の「『日本の釣』集成」(『古本探究』所収)を書き、アテネ書房という直販出版社の経営者だった山縣淳男にインタビューした上で、昭和五十四年刊行の復刻「『日本の釣』集成」に言及したことがあった。その際に大正から昭和戦前にかけての釣の古典ともいうべき全二十巻のリストも挙げておいた。

古本探究   (「『日本の釣』集成」)

 そこにも上田の『釣竿かついで』(富士書房発行、春陽堂発売、昭和四年)の一冊も含まれていた。またその第二十巻『解題 日本の釣集成』における金森直治「《釣り文献》刊行目録―明治から終戦時までの略年譜」によれば、上田は『釣の研究』(警醒社、大正十年)から始まり、前掲の『釣の呼吸』を刊行して以来、文化生活研究会との関係が深まったようで、『釣り方図解』だけでも八冊刊行し、大正時代の著者として第一人者の趣を伝えている。昭和に入ると、上田に続くのが『近代出版史探索Ⅵ』1154の「アカギ叢書」の訳編者村上静人であるのだが、これは『同Ⅱ』331の安谷寛一とも絡むので、稿をあらためることにしよう。

 (『釣竿かついで』)

 実はかなり前に浜松の典昭堂で、上田の『釣魚大全』第九巻の一冊だけを拾っている。これは昭和五年に洋々社から刊行されたもので、四六判上製の文化趣味にふさわしいシックな装幀である。その「くろだい(チヌ)釣」のところを拾い読みしてみると、次のような一節に出会う。
   

 鯛のうるはしさもなく、スズキほどくひ込みのよい魚でもなく、それでゐて、魔性の女と知りつゝ、つひ深入りして、手も足もでないやうに翻弄されるやうな思ひをしながら、さてこの魚を釣りかけると、もう頭にこびりついて、釣損ねると意地づくでも出かけたくなり、大きなのがまぐれ当たると、一層熱が高くなつてかけ出す。なぜ斯うもチヌ釣が面白いのか。

 このような語り口で、くろだい(チヌ)ばかりか、他の魚も俎上に載せられ、縦横に論じられ、それが上田をして釣書の分野でも第一人者たらしめた要因だと思われる。同書を入手したことで、著者の上田の住所が神戸市熊内町、版元の洋々社が大阪市北区絹笠町にあり、発行人が井上信明だと初めて知ったのである。その事実を知って、やはり神戸出身の淀川長治を連想し、上田が釣における淀長に当たるのではないか、また各種人名事典に立項が見当たらない理由なのではないかと思い至ったのである。

 また洋々社や井上の方も『近代出版史探索Ⅱ』の279、280の脇阪要太郎『大阪出版六十年のあゆみ』や湯川松次郎『上方の出版と文化』には見つけられず、これも何らかの事情が潜んでいるように思われるし、大阪において、『釣魚大全』という円本に類する全集を刊行したこととも関係しているはずだ。この『釣魚大全』『全集叢書総覧新訂版』に全十二巻の刊行が掲載されているし、先の「《釣り文献》刊行目録」に一冊ずつたどられているので、それをリストアップしてみる。
全集叢書総覧 (1983年)

 1 『釣百味』
 2 『釣百味』
 3 『川魚之釣』(鮎、ワカサギ、イワナ、ヤマメ)
 4 『川魚之釣』(こひ、にごい、まぶな、ひがい、いとを、もろこ、へらぶな)
 5 『川魚之釣』(なまづ、うぐひ、はす、はや、他数種)
 6 『海魚之釣』(はぜ、きす、べら、めばる、他二十余種)
 7 『海魚之釣』(たい、あぢ、さば、たこ、いか、ぼら、いしかれい、ひらめ、他数種)
 8 『海魚之釣』(すゝき、いしだい、えそ、いさぎ、他数種)
 9 『海魚之釣』(くろだい(チヌ)、さはら、ぶり、他数種)
 10 『海魚之釣』(まぐろ、かつを、しいら、他数種)
 11 『婦人子供の釣 釣の手引』
 12 『冬の釣及び釣百味』

 まさに釣の趣味の集成としての『釣魚大全』で、アテネ書房の「『日本の釣』集成」に半世紀先行する企画だったように思える。ただやはり気になるのは、この定価三円の『釣魚大全』が釣の実用書ではあるのだが、幻の歴史や考現学なども含んだ文化史の側面も付帯し、それなりの読者を得たのかということである。私が入手した一冊は「静岡県立水産試験場」の印が打たれているので、明らかにその廃棄本であることからすれば、『釣魚大全』は出版社・取次・書店という近代出版流通システムによるものではなく、これも『近代出版史探索Ⅵ』1173の書籍専門取次と外交販売によっていたとも考えられる。実際に「『日本の釣』集成」にしても、それに類したルートで二千セットを完売していた。

 そのように考えてみると、昭和二十八年に財団法人開国百年記念文化事業会の『明治文化史』全十四巻が、こちらは東京の洋々社で発行者は梅田道之として刊行されている。この『明治文化史』も洋々社のそうした外交販売ルートを主として企画されたのではないだろうか。


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