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古本夜話1447 上海のツァイトーガイスト書店

 ここでスメドレーに戻る。本探索1433のスメドレーの『女一人大地を行く』の尾崎秀実による「アグネス・スメドレー女史の旅」という序文において、ドイツ版の表紙に彼女の「複雑な表情が大写し」で使われていることへの言及がある。それに関して、尾崎が通っていた上海の「ドイツ人の本屋のおかみさん」のいうところの、その写真は「実物よりもうんとひどい、こんな写真を出して気の毒だと同情」するエピソードが記されている。酣燈社版の扉にもスメドレーの写真は掲載されているけれど、「実物よりもうんとひどい」感じはしないので、『中国の歌ごえ』のカバー写真に似たものが使われていたのではないだろうか。

 (改造社版) (酣燈社版)  

 このエピソードはよくありがちな、女性からの単なるスメドレーの写真への寸評のようにも受け取られるし、私もそのように読んだ。だが風間道太郎は『尾崎秀実伝』において、尾崎の「検事訊問調書」から、このドイツ人の「本屋のおかみさん」=ワイテマイヤーを通じて、スメドレーと出会ったことが語られ、次のように続いている。

 尾崎秀実伝 (教養選書)

 上海の蘇州河のほとりに「ツァイトーガイストという書店があった。東亜同文書院の学生や満鉄の若い社員、それに新聞記者たちが、左翼の洋書をあさりに、よくこの店に行っていた。
 「ツァイトーガイスト」書店の経営者はワイテマイヤーというドイツ婦人で、その妹とふたり、いつも愛想のいい顔を店先にならべていた。妹のほうはまだ無邪気な、ういういしい少女であった。尾崎は一九二九年の夏ごろに、初めてこの店に足を踏みいれたが、やがてこの店の常連のひとりとなり、ワイテマイヤー姉妹と遠慮のない口をききあう間柄となった。(中略)
 女主人ワイテマイヤーは、一九二五年に中国人で共産主義者の呉少国と結婚してのち、モスクワに留学して、孫逸山大学でアジア革命運動の原理を学んだ経歴の持ち主であったが、このことを知っているひとは少なかった。
 この書店は“特別の任務”をもって経営されていたらしい。おそらく国際的な運動の同志の連絡所になっていたのではないだろうか、また女主人と妹は、店に来る客の読書傾向を伺い見ながら話かけて、同志獲得の役割をつとめていたと思われる。
 尾崎はたびたびこの店を訪れるうちに、ワイテマイヤーからその思想傾向を見ぬかれ、尾崎のほうでも、うすうすこの書店の使命を察しながら、あえてこの姉妹に近づき、やがてその年(一九二九)の春ごろに、スメドレーを紹介されることになったのであろう。

 このツァイトーガイスト書店に関して、少しばかり長く引用したのは、拙稿「上海の内山書店」(『書店の近代』所収)とはまた異なる、もうひとつの時代のトポスとしての書店が存在したことを浮かび上がらせようとしたからだ。そうした時代を象徴する書店は上海だけでなく、一九二〇年代には北京や香港、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリンにもあったにちがいない。パリのことは拙著『ヨーロッパ本と書店の物語』で、オデオン通りの本の友社や『近代出版史探索Ⅶ』1290のシェイクスピア・アンド・カンパニイ書店にふれている。まさに書店が輝いていた時代もあったのだ。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)  ヨーロッパ 本と書店の物語 (平凡社新書)

 風間の記述は「注」に示されているように、『上海週報』記者で、尾崎やスメドレーの近傍にいた川合定吉の『ある革命家の回想』(新人物往来社、後に徳間文庫)に多くをよっている。だが高杉一郎はスメドレーの『中国の夜明け前』(中理子訳、東邦出版社)の書き出しの「中国にたどりついたとき、私はもう半世紀のあいだも中国に住みついている多くの外国人を通じて、中国の文化運動や政治文学にふれることが出来るだろうと思った」を引き、ワイテマイヤーをイレーネ・ウェーデマイヤーとして、彼女が多くの「ニュース・ソース」の紹介者だったと記している。
 
(新人物往来社) ある革命家の回想 (徳間文庫) (徳間文庫) 中国の夜明け前 (1966年)

 そうしてスメドレーは多くの中国共産党員を知り、尾崎も紹介されたのである。尾崎は魯迅たちをスメドレーに紹介する。その一方で、スメドレーはゾルゲを対面させた。つまりイレーネのツァイトーガイスト書店が上海の決定的なトポスだったことを知るのである。もしこの書店がなかったならば、ゾルゲ事件は別のかたちで展開されていたかもしれないのだ。

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