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古本夜話1525 平凡社『吉川英治全集』、『衆文』、『青年太陽』

 『近代出版史探索Ⅵ』1058などで続けて言及した新潮社の『昭和長篇小説全集』は、円本時代の大衆文学出版の系譜上に成立した企画だが、当初の予定と異なる収録作品の事実から考えても、それらの作家たちが人気を集め、よく読まれていたことを物語っていよう。

 (『昭和長篇小説全集』)

 その事実を示すように、同時代にそれぞれの個人全集が刊行されている。新潮社にしても、中村武羅夫、三上於菟吉、加藤武雄たちの『長篇三人全集』、林不忘、牧逸馬、谷譲次の三つのペンネームにちなんだ長谷川海太郎の『一人三人全集』、また『吉屋信子全集』を編み、『新潮社四十年』は「いずれも皆相当の成功を収め得た」と述べている。

(『長篇三人全集』)一人三人全集〈第2〉丹下左膳 (1970年) (『一人三人全集』)(『吉屋信子全集』) 『新潮社四十年』

 それは円本の『現代大衆文学全集』を出していた平凡社も同様で、詳細は拙稿「平凡社と円本」(『古本探究』所収)を見てほしいが、菊池寛、白井喬二、三上於菟吉、吉川英治、久米正雄の全集などを刊行している。『菊池寛全集』に関しては『近代出版史探索Ⅱ』387で取り上げているので、ここでは手元に端本がある『久米正雄全集』『吉川英治全集』にふれてみたい。

 (『現代大衆文学全集』)(『菊池寛全集』)

 先に『久米正雄全集』を挙げるのは、これが『平凡社六十年史』に昭和六年の倒産に際して、久米が登場しているからである。平凡社は『現代大衆文学全集』の成功を得て、昭和三年に国民雑誌をめざす『平凡』を創刊するが、売れ行きは悪く、返品の山を築き、翌年にわずか五号で廃刊になってしまう。そのために続けて出されていた全集類のいくつかの好調にもかかわらず、『平凡』の赤字を解消できず、百万円の不渡りを出し、休業に追いやられる。だが下中弥三郎は閉店ではなく臨時休業だとし、債権者会議で債務はすべて無利息一ヵ年据え置きなどの再建案を出していった。「今日只今賛成してもらえるなら諸君の債権は大部分生きると思うが、つぶれてしまつては二束三文になる」と。

(『久米正雄全集』) (『平凡』創刊号)

 『平凡社六十年史』はそれに続いて、次のように書いている。

 久米正雄君が立ち上つた。「諸君、社長の話を聞いて見ると、これは社長のいうことを信じて、社長に任してしまうほかに道がないと思うが」といつてくれた。ぱちぱちと手がなつて賛意が示された。(中略)
 久米正雄が債権者の一人として出席したのはその前年から『久米正雄全集』が刊行中だったためである。

 この全集は十三巻で、二万部刊行されたようだが、入手しているのは昭和五年一月刊行の第二巻『赤光』で、カラーの巻頭画は竹久夢二によるものだ。この作品は六三四ページに及び長編だが、ここでは立ち入らないことにする。

 さて『吉川英治全集』のほうだが、これは再建のための企画のひとつで、『江戸川乱歩全集』と合わせ、好調で急場を救ったとされる。前者は五、六万部、後者は十万部近い盛況だった。『平凡社六十年史』でも両者が言及されているが、前者のところを引いてみる。

(『吉川英治全集』) (『江戸川乱歩全集』)

 「吉川英治全集」では表紙の染色を毎巻変えたが、その第三回配本の色を言いあてた読者に、吉川英治の色紙、あるいは短冊を贈呈するという懸賞も行なっている。装幀は川端龍子だった。この全集の月報には著者自身も熱をいれ、書き下し長篇「無宿人国記」を連載したほか、「草紙堂漫筆」などを掲載している。吉川英治はこの月報を作者と読者をつなぐ媒体として活用したい考えだった。読者の側にも同様な欲求があり、やがて月報の読者を主体とした月刊 “衆文” が生まれ、それが「青年太陽」へと発展することになる。(中略)
 「吉川英治全集」の編集には吉川英治の実弟、晋も協力した。そして全集の月報が発展して雑誌形式にまとまった月刊「衆文」の編集も、ひきつづき晋が担当している。〈衆文〉という言葉は吉川英治の造語であり、〈新大衆文学〉あるいは〈大衆文学運動〉といった意味合いのものだった。小説ファン、作家志望者のために吉川英治を中心にして、膝をまじえた文芸研究を行なうことを目的とした会の機関雑誌として、「衆文」は刊行されたのだ。

 たまたま昭和六年発行の第三巻『牢獄花嫁』だけを所持していて、その表紙は青だが、残念ながら月報は付されていない。しかしこの部分をあらためて読み、吉川の「年譜」(『吉川英治全集』48所収、講談社)の疑問が氷解したのである。それには昭和七年のところに「大衆文学研究誌「衆文」を出す。約一年余にて廃刊」、九年には「雑誌『青年太陽』発行所をおく。倉田百三、白鳥省吾等と、地方文化に関心をよせ、各地に遊び、農村青年と語り、講演会などひらく」、十年には「青年太陽廃刊。始末に所持の書画古陶を美術倶楽部にて売る」とあった。

 つまりここでは平凡社の『平凡』と同様に『衆文』や『青年太陽』の失敗が語られているのである。だが平凡社の『吉川英治全集』、及び以前に興文社に在籍し、戦後に『近代出版史探索Ⅲ』586などの六興出版社に席を置くことになる弟の吉川晋にふれられていないので、吉川と『衆文』や『青年太陽』との関係が不明だったからだ。おそらくこの二誌の苦労はかなり大きく、それゆえに先述のような記載に終わるしかなかったように思われる。


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