出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

出版状況クロニクル138(2019年10月1日~10月31日)

 19年9月の書籍雑誌推定販売金額は1177億円で、前年比3%減。
 書籍は683億円で、同0.2%増。
 雑誌は494億円で、同7.3%減。その内訳は月刊誌が409億円で、同8.4%減、週刊誌は85億円で、同1.5%減。
 書籍のプラスは4.7%という出回り平均価格の大幅な上昇によるもので、消費増税を前にした駆け込み需要などに基づくものではない。
 返品率は書籍が32.8%、雑誌は40.3%で、月刊誌は40.0%、週刊誌は41.8%。
 10月はその消費増税と台風19号などの影響が相乗し、どのような流通販売状況を招来しているのだろうか。
 大幅なマイナスが予測される。
 今年も余すところ2ヵ月となった。このまま新しい年を迎えることができるであろうか。


1.日販の『出版物販売額の実態2019』が出された。
 17年までは『出版ニュース』に発表されていたが、同誌の休刊により、18年の出版データの切断も生じる危惧もあるので、例年よりも簡略化するけれど、同じ表のかたちで掲載しておく。


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■販売ルート別推定出版物販売額2018年度
販売ルート推定販売額
(億円)
前年比
(%)
1. 書店9,455▲7.8
2. CVS1,445▲8.3
3. インターネット2,094▲5.3
4. その他取次経由528▲28.5
5. 出版社直販1,971▲18.0
合計15,493▲4.5

 出版科学研究所による18年の出版物販売金額は1兆2921億円、前年比5.7%減だったのに対し、こちらは出版社直販も含んで、1兆5493億円、同4.5%減である。
 本クロニクル127で予測しておいたように、18年はついに書店が1兆円、コンビニが1500億円を下回り、取次ルート販売額の落ちこみを示している。それはその他取次のマイナス28.5%にも明らかだ。
 本クロニクルでもふれてきたが、19年の書店閉店は多くのチェーン店や大型店にも及んでいる。またコンビニの場合もセブン-イレブンは1000店の閉店が伝えられているし、書店とコンビニの出版物販売額はさらなるマイナスが続いていくことが確実であろう。
 それらの事実は、取次と書店という流通販売市場がもはや臨界点に達してしまったことを告げていよう。それは生産を担う出版社にしても、インターネットや直販ルートは伸びているけれど、同様であることはいうまでもないだろう。
odamitsuo.hatenablog.com



2.出版科学研究所による19年1月から9月にかけての出版物販売金額音推移を示す。

■2019年上半期 推定販売金額
推定総販売金額書籍雑誌
(百万円)前年比(%)(百万円)前年比(%)(百万円)前年比(%)
2019年
1〜9月計
935,484▲4.2520,522▲3.8414,962▲4.6
1月87,120▲6.349,269▲4.837,850▲8.2
2月121,133▲3.273,772▲4.647,360▲0.9
3月152,170▲6.495,583▲6.056,587▲7.0
4月110,7948.860,32012.150,4745.1
5月75,576▲10.738,843▲10.336,733▲11.1
6月90,290▲12.344,795▲15.545,495▲8.9
7月95,6194.048,1059.647,514▲1.2
8月85,004▲8.241,478▲13.643,525▲2.4
9月117,778▲3.068,3560.249,422▲7.3

 19年9月までの書籍雑誌推定販売金額は9354億円、同4.2%減、前年比マイナス408億円である。
 この4.2%マイナスを18年の販売金額1兆2920億円に当てはめてみると、1兆2378億円となり、20年は1兆2000億円を割り込んでしまうだろう。そうなれば、1996年の2兆6980億円の半減どころか、1兆円を下回ってしまうことも考えられる。
 それに重なるように、19年の書店閉店は大型店が多く、その閉店坪数は最大に達すると予測される。例えば、9月のフタバ図書MEGA岡山青江店は1100坪で、在庫は軽くなったと見なしても、返品総量は途方もないだろう。19年はそうした大返品が出版社に逆流し、予想もしない大返品に見舞われている。それはいつまで続くのであろうか。



3.文教堂GHDの事業再生ADR手続きが成立し、債務超過をめぐる上場廃止期間が1年延長される。
 筆頭株主の日販は5億円出資し、帳合変更時の在庫の一部支払いを再延長し、事業、人事面で支援する。アニメガ事業はソフマップの譲渡し、20年8月期に債務超過を解消予定。
 一定以上の債権を持つみずほ銀行などの金融機関6行は既存借入金の一部を第三者割当方式により、41億6000万円を株式化することで支援する。
 さらなる詳細は文教堂GHDのHP「事業再生ADR手続きの成立及び債務の株式化等の金融支援に関するお知らせ」を参照されたい。
 なお発表を控えていた文教堂GHDの3月期決算連結業績は売上高243億8800万円、前年比11.0%減、営業損失4億9700万円、経常損失6億1000万円、親会社株主に帰属する当期純損失39億7700万円。42億1200万円の債務超過。


 取次と銀行による46億円の債権の株式化という事業再生計画が提出されたことになる。だが肝心の書店事業に関しては返品率の減少や不採算店の閉鎖などが謳われているだけで、上場廃止猶予期間を1年間延長する先送り処置と判断するしかない。
 このような銀行の債権の株式化を含むスキームは、出版業界の内側から出されたものではなく、経産省などが絵を描いたと思わざるをえない。書店という業態がまさに崩壊しつつある現在、このような金融支援だけで再生するわけがないことは、出版業界の人間であれば、誰もが肌で感じていることだろう。折しも『創』(11月号)で、「書店が消えてゆく」特集が組まれているが、そこからは書店の悲鳴の声が聞こえてくる。
 
 本クロニクルから見れば、文教堂問題は、1980年代から形成され始めた郊外消費社会における出店のための不動産プロジェクトの帰結といっていい。チェーン店のための出店バブルは、書店という業態が成長しているうちは露呈しないが、衰退していくと必然的に崩壊していくプロセスをたどる。それは書店のみならず、コンビニやアパレルをも襲っている現実である。
 またレオパレス21問題とも共通している。レオパレス21はサブリースのアパート、マンション3万9000棟、その関連会社は4、5000社に及び、破綻した場合、その影響は多くのオーナーだけにとどまらない。そのために資産売却で特別利益を計上している。
 文教堂の場合も、上場廃止となれば、出版業界に与える影響が大きく、日販を直撃するし、このような先送り処置が選択されたのであろう。
創



4.精文館書店の売上高は194億200万円、前年比1.9%減、当期純利益2億7500万円、同7.8%増の減収減益決算。

 あまり遠くないところに精文館書店があるので、時々出かけているが、数年前からTSUTAYAの屋号となっている。
 それに期中の精文館は静岡のTSUTAYA佐鳴台店864坪を始めとして、出店を続けている。それは精文館もTSUTAYAのFCに組みこまれたことを示しているのだろう。日販、子会社書店、TSUTAYAの複雑な絡み合いの行方はどうなるのであろうか。
 精文館の書籍・雑誌売上は114億円、同1.4%増で、そのシェアは58%となり、DVD、CDなどのセル、レンタルは大きく減少し、出店しなければ、さらなる減収は明らかだ。そのようなメカニズムの中で、出店がなされ、閉店が続いているのである。



5.台風19号により、埼玉県の蔦屋書店東松山店は床上1.6メートルの浸水など、多くの書店で被害が生じたようだ。

 蔦屋書店東松山店の近くに住む出版関係者からの知らせによれば、浸水は深刻で、雑誌、書籍はすべてが水につかり、自然災害ゆえに、出版社は全部を返品入帳するしかない状況になるのではないかということだった。
 博文堂書店千間台店にしても、かなりの出版物にそのような処置をとらざるをえないだろう。それにまだ書店被害の全貌は明らかになっていないけれど、トータルとすれば、大きな返品となり、これも出版社へとはね返っていく。
 それに加えて、台風21号も千葉県や福島県などで河川が氾濫し、市街地や住宅地が冠水、浸水したとされるので、10月の台風による書店被害はさらに拡がり、閉店へと追いやられる書店も出てくるように思われる。



6.出版物貸与権センターは2018年度の貸与兼使用料を契約出版社48社に分配した。
 分配額は16億300万円で、レンタルブック店は1973店。
 17年度の分配額は21億1000万円だったから、5億円以上のマイナスとなった。

 本クロニクル126で、18年全国のCDレンタル店が2043店であることを既述しておいたが、定額聞き放題音楽サービスの広がりもあり、19年はさらに減少しているだろう。
 それはコミックレンタルも同様で、電子コミックの普及により、19年度は20億円を大きく割りこみ、レンタルブック店も減少していくことは確実だ。
 大型複合店の業態を支えてきたのはレンタル部門で、それがCD、DVD、コミックとトリプルの衰退に見舞われている。
 またこれらの水害の後始末はどのような経緯をたどるのであろうか。
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7.大阪屋栗田は楽天ブックスネットワーク株式会社へ社名変更。
 「親会社である楽天家牛木会社とのシナジーをより強固なものにするとともに、出版社等の株主の各社との連携のもと、書店へのサービスネットワークをさらに拡充することを目指す」と声明。
 その一方で、株式会社KRT(旧商号:栗田出版販売株式会社)から、「再生債権の追加弁済(最終弁済)のご連絡」が届いている。これは「50万円超部分」を対象債権額とし、その6.9%を追加弁済するというものである。

 これらのプロセスを経て、大阪屋と栗田の精算は終了し、楽天ブックスネットワーク株式会社へと移行していくのであろう。
 それとパラレルに、旧大阪屋と栗田を取次としていた書店はどのような回路をたどっていくのか。例えば、栗田をメインとしていた戸田書店は8月に2店、続けて9月には青森店350坪を閉店しているし、これから大阪屋栗田時代の書店の選別がさらに本格化するにちがいない。



8.『日経MJ』(10/25)が「シニアの市場 トーハン攻める」との見出しで、「出版不況受け、収益源開拓」として、「高齢者住宅10棟体制へ」をレポートしている。
 それによれば、トーハンはグループ会社のトーハン・コンサルティングを通じ、3月にサ高住「プライムライフ西新井」を開業した。今後の自社所有地の他にも用地を探し、中期的に10施設まで増やす計画で、トーハンの掲げる「事業領域の拡大」に当たる。

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 本クロニクル125などで、トーハンと学研の提携による「サ高住」事業進出にふれ、取次による不動産事業と介護事業の陥穽にふれておいた。
 それは出版社も同様で、『FACTA』(11月号)が「『冠心会』理事負債が10億円の不正流用!」という記事を発信している。これは同誌8月号の医療法人「冠心会」傘下の一成会の「さいたま記念病院」の破産レポートに続くものである。この冠心会の事業パートナーは小学館のグループ会社「オービービー」で、不動産投資して病院建物などを32億円で取得し、経営は冠心会に丸投げしていた。
 ところが冠心会は毎月の診療報酬債権を次々と売り払い、そのファクタリング代金を簿外に移し、一成会は経営不振に陥り、「オービービー」はさらに7億円を注ぎこみ、支援を余儀なくされていた。刑事事件化は必至で、「オービービー」は代理人弁護士を通じて、冠心会前理事夫妻に交渉を始めたが、もはや連絡が取れなくなっているという。
 「病院経営に明るくないオービービーは与しやすい相手」だったとされ、ここにその不動産投資の典型的陥穽が示されていることになる。
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9.能勢仁の『平成出版データブック―「出版年鑑」から読む30年史』(ミネルヴァ書房)が出された。

平成出版データブック―「出版年鑑」から読む30年史 出版の崩壊とアマゾン

 同書は出版ニュース社が刊行していた『出版年鑑』に基づく、平成時代の出版データで、「記録」の他に、「統計・資料」もコンパクトにまとめられ、まさに平成出版史を俯瞰する一冊といえよう。出版関係者は座右に置いてほしいと思う。
 これはと関連してだが、本クロニクル136で、能勢の「大阪屋栗田は情報発信を」という『新文化』(7/25)の投稿にふれておいた。しかしおそらく楽天ブックスネットワークへと移行したことで、出版業界に対する「情報発信」はさらに後退すると考えられる。
 またこちらは『出版の崩壊とアマゾン』(論創社)の高須次郎によれば、『出版ニュース』が休刊してから、一段と「情報発信」が少なくなったという。それは『出版ニュース』休刊だけでなく、肝心な情報、重要な問題への言及は極めて少なくなっており、そこには出版業界の行き詰った閉塞感がこめられていよう。
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10.東京・新宿区の和倉印刷が破産手続き決定。
 1963年創業で、パンフレット、マニュアルを主体とする書籍・雑誌などのオフセット印刷を手がけ、2010年には売上高3億5000万円を計上していたが、近年は売上が減少し、赤字決算を余儀なくなれていた。
 負債は5億8000万円。

11.東京・板橋区の倉田印刷が事業を停止し、破産申請予定。
 1966年設立で、法令関連の書籍や定期刊行物を主力としてきた。
 2013年には売上高8億円を計上していたが、インターネットにおける格安印刷業者の台頭などで、業者間の競合が激化し、売上減少と利益低迷が続いていた。

 出版業界の危機は当然のことながら、印刷業界にも及び、中小の印刷業者の破産となって表出している。その典型がこの2社ということになろう。
 それは製本業界も同様のようで、これらの中小企業、関係会社は相互保証し合っていることもあり、連鎖倒産している。
 これから年末にかけて、中小出版社、書店だけでなく、印刷、製本業界にもこうした倒産が否応なく起きていくだろう。



12.『ニューズウィーク日本版』(10/8)が水谷尚子明治大学准教授による「ウイグル文化が地上から消える日」を掲載している。
 リードは「元大学学長らに近づく死刑執行/出版・報道・学術界壊滅で共産党は何をもくろむ?」
 それによれば、地理学、地質学の専門家の新彊大学学長、ウイグル伝統医学の大家で、新彊医科大学元学長、新彊ウイグル自治区教育長の元庁長らが拘束され、その後の消息が不明で、死刑執行が懸念されている。
 中国共産党はウイグル人社会を担ってきた知識人を強制収容所送りとし、その収監者数は100万人を超すとされる。ウイグル語や文化の消滅を目的とするようで、この2年間で、知識人の社会からの「消失」とともに、ウイグル語の言語空間は消滅しつつある。
 それはウイグル語専門書店の相次ぐ閉鎖、経営者たちの強制収容所への収監、ウイグル語出版社の壊滅、出版社員、編集者、作家、ジャーナリストも同様である。
 「共産党によって押し込められた『ウイグル社会の宝』は今、劣悪な矯正収容所の中で消えようとしている」

 ニューズウィーク日本版 ウイグル人に何が起きているのか
 
 ひとつの民族迫害が起きる時、知識人のみならず、言語、書店、出版が壊滅的状況に追いやられ、かつてのソ連に代わって、あらたに中国が「収容所群島」と化していることを告げていよう。
 さらなる詳細なレポートとして、福島香織『ウイグル人に何が起きているのか』(PHP新書)も出されていることを付記しておこう。



13.アビール・ムカジー『カルカッタの殺人』(田村義道訳、ハヤカワ・ミステリ)を読了。

カルカッタの殺人

 1919年の英国当時下のインド帝国のカルカッタを舞台とするミステリで、著者は1974年生まれのインド系移民2世である。
 主人公はインド帝国警察の英国人警部だが、その存在と登場人物たちは植民地における帝国主義のメカニズムと葛藤を象徴的に浮かび上がらせ、事件もまたその渦中から発生したことを物語っていよう。
 このような帝国主義下の混住ミステリ小説を読むと、船戸与一の「ハードボイルド試論序の序―帝国主義下の小説について」における、次のような一節を想起してしまう。

 「ハードボイルド小説とは帝国主義がその本性を隠蔽しえない状況下で生まれた小説形式である。したがって、その作品は作者が右であれ左であれ、帝国主義のある断面を不可避的に描いてしまう。優れたハードボイルド小説とは帝国主義の断面を完膚なきまでに描いてみせた作品を言うのである。」

 今年ももはや2ヵ月しか残されていないし、多くを読めないだろう。そこでこの『カルカッタの殺人』を海外ミステリのベスト1に挙げておく。



14.下山進『2050年のメディア』(文藝春秋)を恵送された。

2050年のメディア
 これはタイトル、帯文に示されているように、インターネット出現後の読売、日経、ヤフーの三国志的ドラマ、「技術革新とメディア」の20年の物語と見なしていいし、それは本文中の次のような一節に端的に示されていよう。

 「既存の市場が技術革新によって他の市場に移ろうとする時、技術革新によって生まれる市場は最初小規模な市場として始まる。そうなると、大手企業は、わざわざそのゼロの市場に勢力をつぎこみ出て行こうとしないのだ。カニバリズムが恐れられる場合はなおさらだ。」


 この言はジャーナリズムのみならず、出版業界に当てはめることができる。
 だがそれらはともかく、同書からうかがえるのは、2019年まで下山が在籍していた文藝春秋の社内事情で、本クロニクルの立場からすれば、どうしてもそのような裏目読みに傾いてしまうのである。



15.拙著『近代出版史探索』(論創社)が10月25日に刊行された。

近代出版史探索

 今月の論創社HP「本を読む」㊺は「立風書房『現代怪奇小説集』と長田幹彦『死霊』」です。

古本夜話960 柳田国男と『山島民譚集』

 前回ふれておいたように、金田一京助の『北蝦夷古謡遺篇』は「甲寅叢書」、知里幸恵の『アイヌ神謡集』は「爐辺叢書」の一冊として、それぞれ郷土研究社から刊行されたのである。

北蝦夷古謡遺篇 (『北蝦夷古謡遺篇』) f:id:OdaMitsuo:20191001112507j:plain:h115 (『アイヌ神謡集』)

 「甲寅叢書」に関しては、拙稿「出版者としての柳田国男」(『古本探究Ⅲ』所収)で既述しておいたが、大正二年に柳田が郷土研究社を設立し、『郷土研究』を創刊するかたわらで、「甲寅叢書」の企画を進めていたのである。そのスポンサーは友人の西園寺八郎と実業家の赤星鉄馬で、彼らが三千円を用意してくれたので、その第一冊目として金田一の著作、第三冊目は自らの『山島民譚集』を出した。いずれも五百部だった。企画には二十点近くが挙げられていたようだが、六冊で中絶してしまった。その理由は不明である。
古本探究3  f:id:OdaMitsuo:20191001103118j:plain:h115 (『山島民譚集』、創元社版)

 これも平凡社の東洋文庫に関敬吾、大藤時彦編『増補 山島民譚集』として、昭和四十四年に刊行されている。同書には「甲寅叢書」版の「河童駒引」と「馬蹄石」に加えて、「大太法師」を始めとする「初稿草案」や「新発見副本原稿」などの十一編、「付録」の一編が「増補」され、柳田民俗学の原初のイメージを浮かび上がらせている。初版「小序」の「横ヤマノ 峯ノタヲリニ/フル里ノ 野辺トホ白ク 行ク方モ 遥々見ユル」、あるいは「永キ代ニ コゝニ 塚アレ/イニシヘノ神 ヨリマシ」「此フミハ ソノ塚ドコロ 我ハソノ 旅ノ山伏」は柳田の新体詩輯『野辺のゆきゝ』の「夕ぐれに眠のさめし時」(『柳田国男全集』32所収、ちくま文庫)を彷彿とさせる。

増補 山島民譚集 柳田国男全集

 それは「うたて此世はをぐらきを/何しにわれはさめつらむ、/いざ今いち度かへらばや、/うつくしかりし夢の世に、」とういものだ。先の「小序」とこの詩は民俗学者以前の松岡国男の顔を表出させ、『石神問答』 『遠野物語』のみならず、『山島民譚集』まで続いていた抒情詩人としての柳田のコアの在り処を伝えていよう。
が想起されたからだと思われる。またアチック・ミューゼアムは昭和十七年に日本常民文化研究所と改称され、澁澤も亡くなっているので、写真などの権利がそちらに引き継がれたことを伝えている。

』『柳田国男全集』15 遠野物語

 このことを自覚してか、昭和十七年の「再版序」で、柳田は次のように始めている。

 山島民譚集を珍本と呼ぶことは、著者に於いても異存がない。それは今から三十年も昔に、たつた五百部印刷して知友動向に頒つたといふ以上に、この文章が又頗る変つて居るからである。斯んな文章は統制には無論通じないのみならず、明治以前にも決して御手本があつたわけでは無い。大げさな名を付けるならば苦悶時代、(中略)一つの過渡期に、何とかして腹一ぱい書いて見たいといふ念願が、ちやうど是に近い色色の形を以て表示せられたので、言はばその数多ひ失敗した試みの一例なのである。

 さらに続けて、「この文体を採用した者は無いのみか、筆者自らも是を限りにして罷めてしまつた」と述べているけれど、付け足しのように「ほんの片端だけ、故南方熊楠氏の文に近いやうな処」もあると書いている。

 だが鼇頭に置かれた見出しに当たる表記、及び漢字と仮名を混在させた「この文体」は『石神問答』の共著者ともいうべき山中共古の書法であり、それが他ならぬ「爐辺叢書」の共古の『甲斐の落葉』にも採用されていた。それゆえにこの書法は江戸時代の文人や好事家、その系譜を引き継いだ集古会やその会誌『集古』にも見られるもので、『山島民譚集』再版時にはすでに柳田民俗学が確立されつつあっただけに、「再版序」においてはそれらの痕跡を韜晦し、隠蔽しようとしたように思われる。

 例えば、最初に置かれた「河童駒引」を見てみると、柳田は河童伝説をたどるために、まず石川鴻斎の『夜窻鬼談』を挙げ、その奇抜な挿画に「立派ナル若衆ガ奥方ノ前ニ低頭シテ一本ノ手ヲ頂戴スルノ図」があり、「此少年ヨソハ即チ河童ノ姿ヲ変ヘタル者ニシテ、奥方ノ為ニ斯取ラレタル自分ノ片手ヲ返却シテ貰フ処ナリ」と注釈を加えている。

夜窻鬼談

 そしてこの河童が「強勇ナル奥様」に無礼を働き、手を斬られ、泣いてあやまり、手を返してもらうという話、もしくは異伝と覚しきものが九州の『博多細記』や『笈埃随筆』に見えるとし、それらの例も引いている。これらの「三書ノ伝フル所、果シテ何レヲ真トスベキカ可知ラザルモ」、「九州ノ南半ニ於テハ河童ノ別名ヲ水神ト謂ヒ或ハ又『ヒヤウスヘ』ト謂フ」かたちで、柳田の河童探索は続いていくのである。

 このような書法に関して、やはり柳田は「再版序」で、「此本を書いた頃、私は千代田文庫の番人」で、「色々の写本類を、勝手に出し入れ見ることができた」ので、「斯んなにまで沢山の記録を引用」したと書いている。これは明治末期の法制局参事官としての記録課への出向で、内閣文庫での蔵書を読んだことをさしていると思われる。

 しかしこれも韜晦と見なしていいだろうし、柳田民俗学の情報ネットワークはまだ成立しておらず、このような江戸文人や好事家、集古会などに見られた民俗随筆の手法にのっとり、『山島民譚集』を書いたと考えるべきであろう。ちなみに柳田の集古会の会員であり、その名前は会員名簿の『千里相識』にも掲載されているのである。


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話959 金田一京助『北の人』と知里幸恵『アイヌ神謡集』

 伊波普猷の『古琉球』の「改版に際して」の中に、青磁社の山平太郎が見え、「北人の『ユーカラ概説』に対して、南人の『おもろ概説』が欲しい」といわれ、それは少なくとも一ヶ年を要するので、代わりに『古琉球』の「改版」を提案したとの言があった。
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 その『古琉球』の奥付裏広告に金田一京助の『ユーカラ概説』と『北の人』が掲載されていたことから、「北人」が金田一だとわかったし、前者は未見だが、後者は所持していたのである。ただ『北の人』は昭和九年に梓書房から刊行されているので、昭和十七年の青磁社版はその復刻といえよう。「再版の序」は角川源義の尽力が記され、奥付の刊行者は山平太郎となっている。
f:id:OdaMitsuo:20191001100731j:plain:h120 青磁社 f:id:OdaMitsuo:20191001113129j:plain:h120(角川文庫版)

 この梓書房は拙稿「柳田国男『秋風帖』と梓書房」(『古本屋散策』所収)でもふれておいたように、山岳書を主としているが、岡書院の別会社であるので、ここでもあらためて紹介しておいたほうがいいだろう。岡茂雄は「岡書院・梓書房出版目録」を収録した『[新編]炉辺山話』 (平凡社ライブラリー)において、次のように述べている。

古本屋散策 炉辺山話

 私は大震災後、ある動機で、今でいう文化人類学関係の専門書肆岡書院を創めて、出版界に足を踏み入れましたが、この仕事をまご子に継がせる気持は毛頭なく、特別の縁故で私の許に来ていた、若いSという番頭に継がせることにし、出版という仕事を体験によって会得させようと思いました。そして梓書房という屋号を別に設けてこれに当らせ、私が後見することにしました。梓は私の忘れ難い梓川に因んだのには違いありませんが、梓の板木、また梓弓などを(ママ)考えを回らせた末、名付けた屋号であります。
 ところがSは、どのような経緯があったのか、ロシヤ文学専攻の若い詩人中山省三郎氏と親しくなっており、その関係から詩集ばかり手懸けて、すくなからず損害をして困りました。北原白秋、伊良子清白、横瀬夜雨、吉江孤雁等でしたので、大目に見てはいましたが、そうそう赤字を重ねられては困る、どうせ赤字を出すならば、私の好きな本もといって、取りかからせたのが、山岳図書であったのであります。

 ちなみにSは坂口保治で、各詩集は北原白秋『月と胡桃』、伊良子清白『孔雀船』、横瀬夜雨『雪灯籠』、『吉江喬松詩集』などである。だが昭和五年に岡書院から、やはり金田一の『ユーカラの研究』が出されていることからすれば、『北の人』の「序」に、タイトルは柳田国男の命名によるとも述べられているし、岡の企画によっているはずだ。

 金田一に関しては、同郷の石川啄木との交友でも知られているが、アイヌ語やアイヌ研究者であり、明治四十年に樺太のアイヌ語調査に赴き、帰京後、本連載518の金沢庄三郎の『辞林』の編集を手伝い、そこで国学院生の折口信夫と知り合っていた。そして二人は『郷土研究』への投稿を通じて柳田国男に見出され、四十五年に金田一は郷土研究社の「甲寅叢書」第一冊として、『北蝦夷古謡遺篇』を上梓している。この「甲寅叢書」については拙稿「出版者としての柳田国男」(『古本探究Ⅲ』所収)でふれているので、参照して頂ければ幸いである。

北蝦夷古謡遺篇 (『北蝦夷古謡遺篇』) 古本探究3

 これらの金田一の樺太アイヌ調査や『北蝦夷古謡遺篇』のことは『北の人』の「片言を言ふまで」などに語られているけれど、どうしてもここで言及したいのは同書に写真も掲載されている「知里幸恵さんのこと」や、「故知里幸恵さんの追悼」といった彼女への追悼文である。金田一が語る幌別の巨酋カンナリの遺子としての二人の姉妹、彼女たちは聖公会の英人牧師が建てた学校を出て、女伝道師として働く身になった。姉のイメカメ(日本名マツ)はそのまま伝道の仕事を続けたが、妹のノカアンテ(日本名ナミ)は登別のアイヌ青年知里高吉と結婚して、不毛の山地での開拓農業に従事し、二男一女をあげた。妹は姉のもとに長女を送り、カンナリ家の後継ぎとした。そうして成長した少女は旭川郊外のアイヌ部落を訪ねてきた金田一と出会うことになる。

 彼女は老母=おばあさん、母=伯母との三人暮らしで、十六歳の養女、旭川女子高二年の知里幸恵であり、学校を出た翌年に、老母=「アイヌの最後の最大の叙事詩人(ユーカラクル)、モナシノウク」に習い覚えた数々の歌謡や物語をみやげに上京する。それから金田一の命名で、これも郷土研究社の「爐辺叢書」の一冊として、大正十二年に『アイヌ神謡集』を刊行に至る。だがその上梓を見ることなく、大正十一年九月に行年二十歳で宿痾の心臓の病のために東京で亡くなり、雑司ヶ谷の奥の椎の木立の下に墓石が建てられた。『アイヌ神謡集』が絶筆となったのである。先の「知里幸恵のこと」は『アイヌ神謡集』に添えられた一文であった。

f:id:OdaMitsuo:20191001112507j:plain:h120 (『アイヌ神謡集』、郷土研究社版)

 アイヌの「部落に伝わる口碑の神謡を、発音どおり、厳密にローマ字で書きつづり、それに自分で日本語の口語訳を施した」原稿は、渋澤敬三がそのまま活版屋に渡すことを惜しみ、タイプライターで打ち、それを金田一に与えたというエピソードも明かしている。

 本当に幸いにしてというべきか、知里幸恵編訳『アイヌ神謡集』は昭和五十年に岩波文庫化されているので、その知里が「序」を記した一冊を容易に読むことができる。彼女はそこに記している。「愛する私たちの先祖が起伏する日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものとともに、消失せてしまうのでしょうか」と。だがこの『アイヌ神謡集』が残されたことで、その一端は読み継がれていったことになろう。

 アイヌ神謡集

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古本夜話958 伊波普猷『古琉球』

 南島研究の嚆矢が、前回もその名を挙げた伊波普猷の『古琉球』であることは今さらいうまでもないだろうし、現在では今世紀に入って岩波文庫化もされ、読むことに関してもアクセスが容易になっている。ところがその出版史をたどってみると、それが困難な道筋を経て、現在へと至ったのだとわかる。
 外間守善編『伊波普猷 人と思想』(平凡社)所収の「略年譜」を参照し、伊波の生涯をラフスケッチしながら、それを追ってみる。

 明治九年那覇の素封家に生まれ、二十四年沖縄の尋常中学校入学。三年時におもろ研究・沖縄研究の先駆者田島利三郎が国語教師として赴任し、その影響を受ける。五年時に生徒の信望厚かった教頭や田島が校長から休職、辞職を命ぜられたことで、伊波たちはストライキに入り、退学させられる。二十九年に上京し、明治義会尋常中学に編入し、三十三年三高入学、三十六年には東京帝大文科大学に入学し、言語学を専攻、三十九年卒業とともに沖縄に帰郷。啓蒙思想家として講演、執筆活動を始め、四十二年には沖縄県立沖縄図書館々長となる。そして四十四年には処女出版として、『琉球人種論』(小沢博愛堂)が上梓され、その十二月には『古琉球』が刊行される。この著作の出版史をたどってみる。

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1 明治四十四年 『古琉球』 (「跋文」川上肇、沖縄公論社)
2 大正五年 『古琉球』 (増補訂正、「序文」新村出、糖業研究会出版部)
3 大正十一年 『古琉球』 (第三版、郷土研究社)
4 昭和十七年 『古琉球』 (改版、青磁社)

 
 この間に起きた『古琉球』をめぐるエピソードを記しておこう。明治四十五年に伊波より柳田国男宛献本三冊が届く。大正十年一月柳田が那覇に着き、伊波と会い、『おもろそうし』校訂の必要性を説く。七月折口信夫、沖縄を旅行し、伊波との親交を結ぶ。同十一年、「爐辺叢書」の一冊として郷土研究社から『古琉球の政治』、続けて『古琉球』を出版。なお「爐辺叢書」に関しては、拙稿「山中共古と爐辺叢書『甲斐の落葉』」(『古本探究Ⅲ』所収)を参照してほしい。

f:id:OdaMitsuo:20190925153342j:plain:h120(青磁社版)古本探究3

 同十四年上京し、郷土研究社内南島談話会より『校訂おもろさうし』全三冊を刊行。昭和二年朝日新聞社内で柳田主催の南島談話会が開かれ、伊波、金城朝水、富名腰義珍、比嘉春潮、金城金保、南風原驍、島袋源七、仲宗根源和などが参加する。同六年に柳田、比嘉たちと民俗学雑誌『島』を発刊。同十七年『古琉球』の改版を刊行している。

 私の手元にあるのはこの4の『古琉球』の昭和十八年再版二千部の一冊で、前年の初版は二千五百部、部数は不明だが、十九年には第三版も出ている。大東亜戦争下で、このように三回も版を重ねていることが信じられないような気もするが、奥付はそれを伝えている。また私の所持する一冊は裸本ではあるけれど、ジュート製の菊判、口絵写真一八枚、本文と索引四六六ページに及び『古琉球』の決定版を意図したような印象を与えてくれる。

 この改版は先述した、新村出の「序文」にあたる「南島を思ひて」を冒頭に起き、「琉球人の祖先に就いて」から始まる四十二編、それに「付録」として古代琉球語の唯一の辞書『混効験集』に校註を施したものを添えている。まさに古えの琉球の歴史、考古、地誌、言語、文芸、神話などを含み、「古琉球」エンサイクロペディアのような趣きに包まれている。それゆえにどれを紹介していいのか迷うけれど、やはり柳田や折口のことを考えれば、「オモロ七種」を優先すべきだろう。その「はしがき」で伊波は書いている。

 『おもろそうし』は二十二冊、歌数総べて千五百五十三首(重出したものを除くと、千二百六十七種となる)西暦十三世紀の中葉から十七世紀の中葉までの四百年のオモロを収めたもので、琉球の万葉集ともいふ可きものである。オモロは我等の先祖が我等に遺した最古の文字で、古くは今日の歌人が三十字を詠むやうに一般に詠まれてゐたが、島津氏に征服された後頓に衰へて、いつしか祭司詩人の専有となり、元来詩歌といふ広い意義を有してゐたオモロは遂に神歌といふ狭い意義に解せられるやうになつた。

 またその後の研究で、「オモロはお杜(もり)うたの下略で、後にオモロに転じた」ことも記され、「世にオモロを措いて琉球固有の思想と琉球古代の言語を研究する可き資料はない」とも述べられている。それはこの『古琉球』『おもろさうし』研究の始まりがあり、戦後の『おもろさうし』(『岩波日本思想大系』」へと結実していったことになるのだろう。
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 それに関して、琉球語の起源なども探索されていくのだが、それよりも具体的で興味を覚えたのは「追遠記」における伊波のルーツ告白である。彼は語っている。「私なども矢張支那人の子孫である。しかもそれが蒙古と西蔵との間にある甘肅省の渭水に沿うた漁民の子孫」だと。そして口碑によれば、祖先は明帝の侍医で、不老不死の薬を求めて日本の日向に至り、その三代目が琉球に渡ったとされている。ここではひとつの徐福伝説が語られているようでもある。

 この青磁社改版には「後記」が比嘉春潮と角川源義の名前で記され、そこでは『古琉球』の初版が琉球研究を誘起するきっかけとなったと述べられているは当然にしても、昭和十七年の刊行理由として、東亜共栄圏構想より南方研究の必要性が問われ、大東亜戦争の発生がそれを促し、「南進する日本が振返つて、もう一度、飛石のやうに南海にひろご(ママ)る琉球を見ることの意義が新しく生じたのである。古琉球は、南進する古くして若き日本の縮図」でもあるからだ。

 だが現在でも米軍基地問題を抱える沖縄は、依然として占領下にある「日本の縮図」であり続けているといえよう。


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古本夜話957 「爐辺叢書」と本山桂川『与那国島図誌』

 前回の『生蕃伝説集』と併走するように、同時代に南島文献が出され始めていた。柳田国男研究会編『柳田国男伝』(三一書房)は、「甲寅叢書」の継続事業ともいうべき郷土研究社の「炉(ママ)辺叢書」が、南島研究史に大きな意味を持ち、全三十六冊のうち八冊が南島に関する著作で、「今日でも研究上重要視されている文献ばかり」だと述べている。それらの刊行年月は省略する代わりに、番号を付し、著者と書名をリストアップしてみる。

f:id:OdaMitsuo:20190924112555j:plain(『生蕃伝説集』、大空社復刊)

1 伊波普猷 『古琉球の政治』
2 佐喜真興英 『南島説話』
3 喜舎場永珣 『八重山島民謡誌』
4 宮良当壮 『沖縄の人形芝居』
5 東恩納寛惇 『琉球人名考』
6 佐喜真興英 『シマの話』
7 本山桂川 『与那国島図誌』
8 島袋源七 『山原の土俗』

f:id:OdaMitsuo:20190924210229j:plain:h120(『琉球人名考』)

 その他にもネフスキー『宮古島の言語』、宮良当壮『八重山語彙』、伊波普猷『宮古島民謡集』、『和訳遺老伝』が企画されていたが、これらは未刊に終わった。このうちの7だけは手元にある。といっても、これも拙稿「山中共古と爐辺叢書『甲斐の落葉』」(『古本探究Ⅲ』所収)でふれておいたように、早川孝太郎『羽後飛島図誌』との三冊合本としてで、それには「わだぶんこ」という蔵書印が打たれている。おそらくそこで菊判半截の並製の三冊が合本、上製化されたと思われる。

古本探究3

 それもあって、『与那国島図誌』は三冊の中でも紙が白いことが目立つ。その理由は写真の掲載が多いことにより、アート紙を使用しているからである。ちなみに数えてみると、一〇八ページに四〇枚が収まり、それらは現在でも貴重な、当時の与那国島の風景、生活、島民などに関する写真ではないだろうか。また多くの写真に加え、象形文字、数字の書法も図版化されているので、コスト面はともかく、発行者として奥付にある編集者を兼ねる岡村千秋の配慮によって、『与那国島図誌』はアート紙使用となったのであろう。ただ私にしても、「爐辺叢書」のすべてを見ているわけではないので、推測によるのだが。

f:id:OdaMitsuo:20190924203620j:plain(『与那国島図誌』、名著出版復刻)

 しかしそれらの採集にしても、多大の苦労を伴っていたことが、その大正十四年十月の日付の「はしがき」からもうかがえる。まずは島へのアクセスから始まっている。

 島に渡るには小さな発動機船で運ぶ石油や味噌樽の傍に身を縮めて、辛ひ一夜を過ごさねばならぬ。梅雨期のやうな海南の冬の雨を衝いて三十八浬を走り、西表島の浦内で夜半の長時間を潮待した後、又四十二浬を十時間走りつづけ、やつと翌朝与那国島の祖納(そない)港に着いた。

 だが「あこがれの島」には旅館もなく、民家の一室を借りたが、夜具も蚊帳も村役場の宿直室のもので、食事にしても、黒い島米と豚肉だけであり、半月間、風呂には一日も入れなかった。また連日の風雨に阻まれ、交通も途絶し、島を出ることもできなかった。その二ヵ月後「自称漂流者」は大阪商船の八重山丸が南岸に寄港することを知り、その出船間際に乗りこみ、台湾を経て、八重山、宮古をたどり、ようやく旧正月を迎えた那覇に舞い戻ったのである。

 それでも「島の思ひ出は数々多い」し、「柳田国男先生の慫慂に甘えて此の一冊を編」み、「僅かに集め得た資料を似て、乏しき一つの備忘録を作る」とある。だが『与那国島図誌』は「乏しき」どころか、四十三項目に及び、それは与那国島の古い言葉とされる「イレネー」から始められている。これは「入船」の意味らしく、他島との交通不便な島民にとって、船舶を待つことは切実なるもので、入港の船影を認めると、村の人々が我先に戸外に飛び出し、声高く「イレネー イレネー」と呼びつれ、磯辺に蹲り、そのイレネーの人々の上陸を待ちわびたという。本山は笹森儀助が『南嶋探験』でこの「イレネー」のことを書いていると指摘し、今日ではもはや島民は口にしないけれど、船が入ると用もない人も駆けつけてはしゃいでいると述べ、その写真を掲載している。

南嶋探験(『南嶋探験』)

 この「イレネー」を例に挙げるだけでわかるように、『与那国島図誌』は南島の生活や習俗をレポートしていて興味深い。確かに同書も含まれる「爐辺叢書」が南島に関して、「今日でも研究上重要視されている文献ばかり」だと実感させられる。ところで著者の本山だが、そのプロフィルは『柳田国男伝』などではなく、『日本近代文学大事典』に見出される。

 本山桂川 もとやまけいせん 明治二一・九・二一~昭和四九・一〇・一〇(1888~1974) 長崎市出島町生れ。本名豊治。早大政治経済科卒。民俗および民芸の調査研究に従事。著述に『日本民俗図誌』全二〇巻(東京堂)『日本民俗図説』(八弘書店)その他。戦後、金石文化研究所を主宰し、全国の新旧文学碑を訪ねて拓本数千枚を家蔵、これに関する著書に、『史蹟と名碑』(昭和二七・三 金石文化研究所)『芭蕉名碑』(昭和三六・一 弥生書房)『写真・文学碑めぐり』シリーズ四巻(昭和三九・七・一〇、一二、四〇・三 芳賀書店)などがある。

 この立項が示すように、私などが本山について知っていたのは文学碑や史蹟研究者としてであった。それこそ彼の『旅と郷土の文学碑』(新樹社、昭和四十一年)や『写真文学碑』(現代教養文庫、同三十五年)を所持し、文学碑を調べる際の辞典代わりにしていたのである。その本山が柳田門下で、「爐辺叢書」の著者だったことを、『与那国島図誌』を読み、あらためて知らされたことになる。

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