出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話780 マックス・ノルダウ『現代の堕落』

 しばらくぶりで前々回「大日本文明協会叢書」にふれたこと、またかなり長きに渡って探していたその中の一冊を最近になって入手したこともあり、これも取り上げておきたい。

 それはマックス・ノルダウの『現代の堕落』で、大正三年に大日本文明協会から刊行され、第二期の四十八冊に属すために、菊判で、索引も含めて四六九ページに及んでいる。

 マックス・ノルダウに関して知ったのは、ブラム・ダイクストラの『倒錯の偶像』(富士川義之監訳、パピルス)においてである。そこでノルダウは十九世紀後半の進化する男たちに、性と人種差別に基づく先祖返りのコンセプトを提出し、それで大成功を収めた『退化』という一冊によって、世紀末の混迷する社会における様々な女々しき事象の隅々に至るまで、この退化の状態が浸透していることを訴えた。そして本連載117のヴァイニンガー『性と性格』とともに、十九世紀末思想に大きな影響をもたらしたとされる。
倒錯の偶像
 
 幸いにしてノルダウは本連載70の『世界文芸大辞典』にノルドーとして立項されているので、それを引いてみる。
世界文芸大辞典 第一巻(日本図書センター復刻)

 ノルドー Max-Simon Sudfeld Nordeau(1848-1923)ハンガリーのユダヤ系文学者。ブタペストに生れ、パリに死す。ブタペストで医学を修め、パリに来てから多くの著書を出している。近代文明、即ち世紀末文化の頽廃を非難攻撃した。就中『変質』“Dégénerescence”1893-94)が最も知られ、彼はこの中で、病理学的立場から、ドイツを除く他の諸国の人々の変質を指摘し非難した。彼によれば、近代人は凡て変質と言つてよく、心身共に不具であり、過度に感動的にして、気力なく、非活動的・夢想的・懐疑的・神秘狂的である。かうした彼の論旨は、各方面に多大な反響を捲き起こした。バーナード・ショーなどは『芸術の健全』“The Sanity of Art”で彼の所説を反駁した。(後略)

 さすがに『世界文芸大辞典』らしい立項で、戦後の『岩波西洋人名辞典増補版』よりも要を得て、適格である。

 ここに挙げられている仏訳『変質』がダイクストラのいうところの『退化』で、彼は一八九五年の英訳Degenerationを参照している。おそらくこの英訳が中島茂一=孤島によって抄訳され、大正三年に『現代の堕落』(Entartung)として出版されていたのである。しかもその「序」を寄せているのは坪内逍遥で、「一時欧州の論壇を騒がせし博士ノルダウの本著は、近世文芸の代表者を月旦したるものとしては、其の言う所矯激に過ぎて批判の正鵠に外れたりと雖も、所謂世紀末の時弊を剔抉せるものとしては、今更頗る研味するに足るものなり」と始め、十七ページに及ぶ異例の長さだといっていいし、当時のノルダウの著作の大きな影響と拡散を伝えていよう。それを補足するように、大日本文明協会による「例言」も、「一八九三年、本書の始めて世に出づるや、甲論乙駁、是非の論、欧羅巴の天地に喧囂として底止する処を知らざる状態なりき」とも述べている。それにひょっとすると、論旨はまったく異なるにしても、坂口安吾の『堕落論』のタイトルも、このノルダウの訳書に起源を求めることができるかもしれない。
堕落論

 それらはともかく、ノルダウの世紀末批判は多岐にわたっているので、私がゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」の訳者でもあることから、第四篇「写実主義」における「ゾラ及ゾラ派」を見てみよう。ノルダウによれば、フランスにおける自然主義は終わりを迎え、ゾラの弟子たちはすでに離反し、ただゾラ一人だけがそれを認めずにいるけれど、その写実主義は誤りであった。それはただ描写の技術と印象主義に基づき、現実生活を描き、自らの小説を、その環境を観察し人間の科学的記録としているけれど、ゾラは実際に観察などしていないし、「一度も人生の満潮の中に跳ぶ込まざりしなり。彼は常に紙の世界に閉ぢ籠れり」。かくしてその小説は「新聞紙と書物とより唯、無茶苦茶に採り来れり」の産物だと指摘し、具体的に種本の存在を挙げていく。

『居酒屋』におけるパリの労働者の生活、風俗、習慣、言語はプーローの『ル・シュブリーム』、『ナナ』のミュファ伯爵の色情狂的特徴の描写は、オトウェーの『保存せられたるヴェニス』に関するテーヌの書、『愛の一ページ』の中に描かれた冒険は『カサノヴァ回想録』からとられ、「彼は他人の書物の中より、其所謂写真的なる材料を取り来れり」。

居酒屋 ナナ 愛の一ページ
 それに加えて、『金』を書くときには株式市場を見学し、『獣人』を書くに際しては汽車に乗って旅行し、その「皮相な観察」を配合し、色をつけて「実験的小説」として提出している。それはゾラがその土地や住民の生活の真相を知らずに書いていることを意味し、結局のところ、ゾラのすべては誤謬、虚偽ということなり、それらの虚妄は『ごった煮』『大地』の出来事や悪行に明らかだとされる。そして『ナナ』に代表される病的傾向を評して、「彼は全く変質者なり。彼の作物は変質の産物なり」との結論が出される。

金 獣人 ごった煮 大地

 ノルダウにかかってはゾラの綿密な資料調査や取材旅行、同時代と生活を描こうとする意図も、すべてが変質者による剽窃、皮相な観察となり、「ルーゴン=マッカール叢書」は「変質の産物」、つまり「退化」に位置づけられてしまうのである。そのような眼差しがユダヤ人に向けられた場合、ドレフュス事件が起きたことになり、ドイツにあっては何が起きたかはいうまでもないし、同じように「ラファエル前派」から始まるダイクストラの『倒錯の偶像』も、それをテーマとしていることを付記しておこう。


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古本夜話779 羽太鋭治、澤田順次郎『最近犯罪の研究』と天弦堂

 中村古峡の日本変態心理学会=日本精神医学会が、当時の「変態」というコードを通じて警察講習所などの権力構造とリンクしていたこと、及び『変態性欲』の主筆の田中香涯が羽太鋭治や澤田順次郎と並んで、「性欲三銃士」と称せられていたことを既述しておいた。ちなみに北野博美の『変態性欲講義』には参考文献として、両者の『変態性欲論』(春陽堂、大正四年)も挙げられていたのである。
変態性欲論 (『変態性欲論』)

 その羽太や澤田にしても、当然のことながら、警察などとの関係は生じていたはずで、大正五年に天弦堂から両者による共著として、『最近犯罪の研究』が出されている。二人の肩書は羽太が「ドクトル・メジチーネ」=医学博士、澤田は日本犯罪学会々員とあり、ここで彼らは「性欲三銃士」というよりも、同時代の専門の犯罪研究者としての姿を見せ、犯罪の原因や要素を分類し、犯罪者の体格や心理から生じる犯罪を分析し、それから不良少年と婦人の犯罪に言及していく。

 しかし田中を含め、「性欲三銃士」は本連載776の神谷敏夫『最新日本著作者辞典』にも立項されておらず、彼らはおそらく想像する以上に多くの本を出していても、発禁を伴うベストセラーメーカーだったことから、やはり広く社会的に「著作者」として認知されていなかったと見なせよう。

 その代わりといっていいのか、法学博士の花井卓蔵が「序」を寄せ、それは「三十余枚に及ぶ大論文」で、「例言」を記した澤田をして、「衷心肝銘せずには居られぬ」と感激させている。花井は拙稿「倉田卓次と『カイヨー夫人の獄』」(『古本探究』所収)でもふれておいたけれど、やはりフランスの裁判記録『カイヨー夫人の獄』にも「序」を寄せていて、同書において「鼇頭の評語」も付されていることも『最近犯罪の研究』と共通している。それらの事実、及び天弦堂の「発行者中村一六氏が利益を離れて、本書を出された篤志」との澤田の謝辞は、『カイヨー夫人の獄』などに連なるボランティア的法学書出版の系譜への信頼を意味しているのかもしれない。
古本探究

 この花井は「性欲三銃士」と異なり、明治から大正にかけての著名な弁護士で、多くの人名事典に立項されている。それは『現代日本朝日人物事典』も同様で、慶応六年広島県生まれ、明治二十一年英吉利法律学校を卒え、若くして刑事弁護人の第一人者とある。弁護士活動の他に衆院議員、貴族院議員として、長らく政界にもあり、その間に普選法実現のためにも尽力し、その一方で手がけた事件は一万件とされ、著名なものとして、星享暗殺事件、日比谷焼打事件、足尾暴動事件、大逆事件などがあり、社会主義や労働、農民運動絡みの事件の弁護を引き受けている。
[現代日本]朝日人物事典

 そのような花井の立ち位置もあり、『最近犯罪の研究』の「序」を引き受けたことになろう。そこでの花井の主張は、犯罪の原因が「病的と社会的境遇」の二種に求められるというものだ。病的犯罪は精神病者に多くあり、殺人、障害、放火、強姦、社会的境遇に基づく犯罪は窃盗、強盗、詐欺、文書偽造、横領などの財産に関するものといっていいし、無意識からの犯罪は「少年と老人と婦人」に求められる。その犯罪予防として、次のような政策が提案される。

 先ず犯罪の因つて起こる原因を究め、而してそれに対する適応療法を施すことが肝要である。即ち個人の徳義心を高めしむること、知能を啓発せしむること、良習慣と養成せしむること等で、これが犯罪の根本的予防である。而して之れを実行する方法としては、貧困者には産業を与へ、貧困の子弟は、特殊の学校に送り、不良少年は感化院に入れ、酒癖の悪い者は、酒容病院(日本には未だ無いけれども、欧米では盛んに行つて居る)に送り、精神病者は精神病院に入れ<<で、それぞれ治療を加ふることをせねばならぬ。此れ等は社会政策として行ふものであるが、完全なる社会政策は、犯罪を予防する上に於いて、大なる効果のあることを忘れてはならぬ。

 思わず、『監視することと処罰すること』を原タイトルとするミシェル・フーコーの『監獄の誕生』(田村俶訳、新潮社)を想起してしまったが、ここに日本における近代の精神病者と犯罪者、少年と老人と女性を含めた「監視することと処罰すること」の始まりと導入が宣言されていることになろう。そして必然的に、「変態」というコードを掲げる「性欲三銃士」たちも、この法的権力の下へと召喚され、併走していたのである。
監獄の誕生

 それはこれらの論文が『警察協会雑誌』や『監獄協会雑誌』に掲載されたものであることからも証明される。かくして澤田によれば、「本書は犯罪学、法学、医学、心理学、人類学、社会学及び教育学等の各方面より、犯罪の研究」となり、その「例言」の最後の一文がゴチックで、「此の書を、もと警察官たりし亡父の墓前に手向く」とあることを理解するに至る。

 この『最近犯罪の研究』も例によって浜松の時代舎で入手した一冊だが、ただその後、それ以外の天弦堂の本は目にしていない。


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古本夜話778 コーリアット『変態心理』と大日本文明協会

 前回の北野博美『変態性欲講義』の参考文献として、大日本文明協会から翻訳刊行されたクラフト・エビングの『変態性欲心理』を挙げ、北野の著書もそれをベースにしていることを既述しておいた。
変態性欲心理 (ゆまに書房復刻版)

 その大日本文明協会の「大日本文明協会叢書」に関しては、「市島春城と出版事業」(『古本探究』所収)で言及しているが、その一冊として、イサドール・エッチ・コーリアットの『変態心理』が出されている。刊行は大正十年であり、『変態性欲講義』の出版とほぼ同年なので、参考文献に挙げられていない。しかし雑誌だけでなく、このような翻訳も刊行されていることからすれば、確かに「変態性欲」や「変態心理」は大正時代のひとつの流行語であったと見なしていいだろう。
古本探究

 それは著者の「原序」によれば、「変態心理学即ち諸々の変態精神現象の研究は近年発達史たる科学的医学の一つ」で、この四半世紀を通じて欧米で研究が進められてきたとされる。原書のタイトルはまさにAbnormal Psychologyで、コーリアットはアメリカのボストン病院神経病科に勤務しているという。

 「心理学界に於ては今日変態心理の研究はいよいよ重大且つ必須」と始まる「序」を寄せた早稲田大学教授金子馬治に続いて、この翻訳に関して、大日本文明協会は「例言」の中で、次のように述べている。

 日本の学術界にも此方面の研究が次第に頭を抬げかけ、現に『変態心理』といふ月刊雑誌等もあつ(ママ)、熱心に斯学の考究が試みられてゐる今日、本原書を訳述し刊行するに至つたことは本協会の此上ない満足とする所である。

 つまり最も時宜を得た翻訳出版だと自讃していることになる。訳者は文学博士佐藤亀太郎と明記されているけれど、この人物のプロフィルなどの紹介はない。

 この『変態心理』の内容は二篇に分かれ、第一篇は潜在意識の現象を論じ、自動書記や透明凝視(これは透明な球体の凝視のこと)を通じての実験、感情の試験と分解、睡眠と夢、睡眠と精神生活の分解という構成で、潜在意識を客観的に分析する方法に及んでいる。第二篇は潜在意識がもたらす精神状態に起因する機能障礙、諸疾病の研究で、記憶脱失とその回復、記憶錯誤、人格分裂、ヒステリー、無根恐怖症、神経衰弱、精神癇癪発作、神経機能症などが論じられている。

 ここに外国の新しい分野の研究が紹介されるに当っての翻訳と解釈の混乱を見てしまう。そしてそれがAbnormal を「変態」と訳したことに端を発し、中村古峡の『変態心理』が田中香涯の『変態性欲』と併走し、本連載15の「変態十二支」や「変態文献叢書」の企画出版へとリンクしていったことは明白である。またそれの頭文字に起因する「H」の語源となったことも。

 それらをあらためて確認するために、平凡社の『大百科事典』(昭和八年)や『大辞典』(同十一年)を引いてみた。すると「変態心理」「変態心理学」は通常の精神現象と著しく異なる病的、もしくは変則の精神現象で、それを研究するのが精神病理学、「変態性欲」は異常な行為により性欲を遂げようとする傾向という定義が当てられている。

 つまり「変態」とは英語が文字どおり示すところの「異常」に他ならず、それが「変態」と訳されたことによって、昭和初期のエロ・グロ・ナンセンスの時代と共鳴、連鎖し、これも出版史でいえば、本連載31の『近代犯罪科学全集』や『性科学全集』、同32の『現代猟奇尖端図鑑』や『世界猟奇全集』として企画編集されていったことになろう。
世界猟奇全集 (『世界猟奇全集』)

 それは先の事典や辞典が示すところによれば、昭和十年代まで延命し、次代を表象するコードともなっていたと思われる。その後の支那事変から大東亜戦争の進行につれ、そのような「変態」といったタームがどのような回路をたどっていったのかを確かめられないにしても、それが「異常」へと転換、移行するのは戦後を待ってのことだったと思われる。そのことを表象するのは昭和二十九年になって、みすず書房から刊行され始めた「異常心理学講座」全八巻であり、それは同四十一年に増補され、全十巻として再刊されている。そうした精神医学界の動向によって、「変態」というタームはその終焉へと向かったと思われる。しかし五〇年代になって、みすず書房からも、この「異常」ももはや時代にそぐわず、変えるべき必要があるとの言を聞いてもいる。

 この『変態心理』は「大日本文明協会叢書」の大正九年から十年にかけての十二冊の第五期の刊行に当たる四六判である。巻末広告を見てみると、本連載772のエレン・ケイ、本間久雄訳『戦争平和及将来』があり、寺田精一編著『科学と犯罪』も掲載されている。後者は翻訳ではないので、「大日本文明協会叢書」に連なるのか不明だけれど、寺田は前々回の日本変態心理学会=日本精神医学会の『犯罪心理講義』『惑溺と禁欲』の著者である。これらの二著には文学博士、犯罪心理学の権威と記されているだけだが、『科学と犯罪』には警察講習所講師が付されていることからすれば、「変態」なるタームも出版界だけでなく、警察や犯罪と密接なる関係をもって流通していたことを、あらためて教えてくれるのである。


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古本夜話777 北野博美『変態性欲講義』

 前々回の上田恭輔『生殖器崇拝教の話』の内容紹介に、「本書は当今大人気の性欲問題を捉へて流行の風潮に乗ぜんとするキワ物では御座らぬ」という一文が見えていた。それを読んで、大正が「当今大人気の性欲問題」時代でもあったことを想起させてくれた。

 それは本連載756などの北野博美が同時代に、その類書に他ならない一冊を出し、たまたま入手しているからだ。その一冊とは『変態性欲講義』で、「変態心理学講義録」第八篇として、大正十年に合本が発行され、十三年に再版されたものである。編輯兼発行者を中村蓊とし、日本変態心理学会から刊行されている。中村蓊は月刊雑誌『変態心理』を主宰していた中村古峡のことで、私も以前に「中村古峡と出版」(「古本屋散策」6、『日本古書通信』二〇〇二年九月号所収)や「大本教批判者としての中村古峡」(『古本探究3』所収)などを書き、その出版者としての軌跡、及び宗教的精神病理に関する研究に言及しているので、ここでは繰り返さない。必要であれば、そちらを参照してほしい。
古本探究3

 北野の『変態性欲講義』において、本連載72などのクラフト・エビングの『変態性欲心理』(斎藤光訳、大日本文明協会、ゆまに書房復刻)などに基づき、「変態性欲とは精神性及神経性障礙に因る性的生活の異常現象で、其の発現の様式には種々の範疇がある」と定義されている。そして彼は具体的にそれらを五種類に分けていくのだが、ここではそれらの説明を現在の用語に差し換え、挙げてみる。
 変態性欲心理 (ゆまに書房復刻版)

1 性交に関する異常現象 (インポテンツや早漏など)
2 性欲発現の時期の異常 (性的早熟と老年期性欲)
3 性欲発現の度の強弱に於ける異常 (色情鈍麻症と色情過敏性)
4 性的対象物の異常 (LGBT、ロリコン、獣姦、フェチシズムなど)
5 性的行為の変態 (サディズム、マゾヒズム、露出症、窃視症、オナニスムなど)

 これらは「主として普通一般人の生活中には見られないやうな特殊な現象、又は一般人の生活中にも多少は含まれてゐるが、特に其の或る一部面のみが拡大して表現されてゐると思はれるやうな異常な状態」とされる。このようにして、クラフト・エビングなどの性科学の導入により、大正時代において「変態性欲」がカテゴリー化されたことになろう。

 そのイデオローグの一人が本連載442でも挙げた『性之研究』によっていた北野であり、『変態性欲講義』でも、その主幹を名乗っている。すでに同756などで見たように、昭和に入って『民俗芸術』と柳田民俗学に接近する前に、北野はこのような性科学の分野に身を措き、中村古峡の近傍にいたのである。この「変態心理学講義録」シリーズのうちの判明しているものだけでも挙げておくと、中村古峡『変態心理講義』『催眠術講義』、小熊虎之助『心霊学講義』、森田正馬『精神療法講義』、向井章『臨床催眠術講義』などとなる。

 また『変態性欲講義』の巻末には十四ページに及ぶ日本精神医学会の出版広告が掲載され、その品川御殿山の住所から、それが日本変態心理学会と同じだとわかる。そして同会から大正六年に中村古峡主幹雄『変態心理』、同十一年に前大阪医大病理学教授田中香涯主筆の『変態性欲』が創刊され、それらの「合本」の発言も謳われている。これに北野の『性之研究』も合わせて、三誌が「変態性欲講義録」の雑誌メディアインフラを形成し、変態性欲という性科学をプロパガンダしていたと考えられる。

 それらの中でも新たに創刊の『変態性欲』は次のように宣言されている。

 性の研究は近来の流行問題なりと雖も、其の多くは徒らに挑発を事とする俗悪の文字か、若くは杜撰なる翻訳或は焼直し文に過ぎず、我が読書界を誤る大なるものあり。田中香涯先生深く之を慨し、爰に是等一切の駄文字、似而非研究を一掃すべく決然として立たる。先生は嘗て大阪医科大学に久しく病理学の講座を担当せられ、又夙に独逸に遊び、東西の文献を渉猟し、我邦性欲学の第一人者たり、論旨透徹、引証該恃、性の真研究に接せんとほっするの士は、請ふすべてを捨てて本誌に来れ!!

 そして田中の著書として、『夫婦の性的生活』が増補十版、『夫婦間の性的教育』が改版三版、新著『趣味の生理及病理』も掲載され、田中がこの時代に本連載43の澤田順次郎、羽太鋭治と並んで、「性欲三銃士」と称せられていたことを彷彿とさせる。しかしこのような田中にしても、『民間学事典:人名編』(三省堂)に立項されているだけなので、その経歴は『変態性欲』の宣伝コピーを引いたことを付記しておこう。
『民間学事典:人名編

 なお日本精神医学会からは「日本変態心理叢書」として、中村古峡『少年不良化の経路と教育』『自殺及情死の研究』、「通俗精神医学叢書」として、『変態心理』編輯部訳編『実際修養精神統一法』『クーエ式自己暗示法』が出されている。また『変態心理』は大空社から復刻されているが、『変態性欲』はその実現を見ていない。

 また最近になって、北野の『民俗芸術』の国書刊行会の復刻を知ったことを付記しておく。


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古本夜話776 神谷敏夫『最新日本著作者辞典』と「大同館発行分類図書目録」

 続けてふれてきた大同館のことだが、本連載でもしばしば参照してきた神谷敏夫の『最新日本著作者辞典』が大同館から出され、しかもその巻末には「東京神田大同館発行図書分類目録」三百点ほど二十四ページにわたって掲載されていることもあり、もう一回書いておくことにする。
 この『最新日本著作者辞典』は「我が国古今の代表的文学者・作家・学者を一本に会せしめ、其の時代・種別・伝記・作風・学風著作を簡明に知らしめようと試みたもの」で、その特色は「中学校国語漢文教科書に収められた文の作者を中心として、国文学史・国語学史・文化史等より之を選び、尚現時活躍せる文壇人を網羅し、又特に学界一流の諸学者及一般著作者を記載し、其の特別研究をかゝげたもの」とされる。

 これは昭和六年の刊行ということもあり、昭和円本時代の全集類が資料として挙げられている。それらは改造社の『現代日本文学全集』、春陽堂の『明治大正文学全集』、平凡社の『現代大衆文学全集』を始めとする十種に及んでいる。そのことから推測されるのは近代出版史上において、わずか五、六年の間に、延べ巻数にすれば、膨大な全集類が集中して刊行され、それと併走するように、これもまた無数の著作者たちが生み出されたという事実であろう。それを背景にして、この二千五百人を立項する辞典も成立したのではないだろうか。その意味において、『最新日本著作者辞典』は昭和円本時代の副産物のようなものとも考えられ、そこにこの辞典ならではのオリジナリティもこめられているのかもしれない。

現代日本文学全集 『現代日本文学全集』明治大正文学全集『明治大正文学全集』現代日本文学全集 『現代大衆文学全集』

 おそらくそれに起因するであろうが、思いがけない人物も立項されているので、その例を挙げてみる。

坂本紅蓮洞 さかもとぐれんどう
 明治から大正へかけて出た新聞記者である。本名を易徳といひ、慶応二年九月江戸麻布に生れた。慶応義塾文科の出身で福澤桃介と同期生である。初め数学の天才として知られてゐた。高知県中学校・立教中学校其の他で教鞭をとつたことがある。其の後新聞記者生活に入り、其の飄逸、我執、孤独の性向は文壇の名物となつた。大正十四年十二月(皇紀二五八五・一九二五)六十歳で没した。著書に、文壇立志篇がある。

 坂本は後に『日本近代文学大事典』にも見出され、これを補足すれば、「文学者と交わり、奇癖の逸話が多く、酒間に毒舌を弄する文壇名物男である。その雅号のように、のらくらと放浪生活に浮き身をやつし、窮乏のうちに死んだ」とされる。

 著者の神谷敏夫に関する履歴などの掲載はないが、「本書は東京外国語学校友枝照雄教授の御指導に負ふ所が頗る多い」とあるので、神谷も東京外国語学校関係者と見ていいだろう。だが残念なことに巻末目録の著者の中に二人の名前は見つからない。

 しかしあらためてこの「大同館発行分類図書目録」を繰っていて実感させられるのは、昭和に入っての大同館の著しい成長である。その分類は哲学・思潮・倫理書類、教育・教育思想書類、生理衛生及動物科書類、家庭書類、受験指南書類、一般書類、図画科書類、習字科参考書類、少年史伝叢書、漢文書類、地理書類、英語書類、国文・国語書類、数学参考書類、体育参考書類、歴史科参考書類となっている。それらの壮観なラインナップは大同館が教育書、学参書の総合出版社として、確固たる地位を占めるに至ったことを伝え、昭和戦前の教育書の時代を彷彿とさせる。

 それに加えて、多くが菊判、四六判上製の大冊で、しかも版を重ねている。ちなみに大同館は文検受験参考書から始まっているとされるが、それらの「文検受験用」の主な著者、書名、重版数を挙げてみる。

* 明治教育社編 『国民道徳要領』四十版
* 教育学術会著 『教育勅語成甲詔書解義』二十三版
* 伊藤勇太郎著 『英語科研究の為に』九版
* 石川誠著 『漢文科研究者の為に』十四版
* 大日静夫著 『若い検定学徒の手記』五版
* 交換研究会著 『文検各科受験の手引』三版

 これらは未見だし、著者も編者も知らない。そして「文検」なるものの実態もはっきりつかんでいないけれど、これらがそのような時代を表象していることだけは認識できる。

 「目録」の点数が三百点に及ぶことを先述したが、こうして確認してみると、一冊も読んでいないことがわかる。このような出版社は珍しいというしかない。

 なお『最新日本著作者辞典』は日本図書センターから復刻されていることも付記しておく
f:id:OdaMitsuo:20180321113101j:plain:h120(日本図書センター復刻)


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