出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話899 久生十蘭『魔都』

 続けて澁澤龍彥『高丘親王航海記』が戦前の南方論を背景とする高丘伝説を継承していることにふれたが、その南方論に関して、どうしても取り上げておかなければならない作品がある。それは昭和九年の東京を舞台としているけれど、物語の主要な人物とコード、そのコアとなるダイヤモンドは安南=ベトナムを起源とする『魔都』で、久生十蘭は本連載616などの長谷川一族、同889などの岩田豊雄の近傍にいたからだ。
高丘親王航海記

 この『魔都』は昭和十一年十月から一年間にわたって『新青年』に連載されたもので、なぜか戦前には単行本化されておらず、新潮社の『日本ミステリー事典』によれば、昭和二十三年に新太陽社からの刊行となっている。ここでのテキストは社会思想社現代教養文庫版である。こうした出版事情に関しての言及はないが、海野弘による『魔都』論が『久生十蘭―「魔都」「十字街」解読』(右文書院、平成二十年)として提出されている。彼はそこで、「『魔都』は奇蹟的ともいえる小説だ」と始め、「モダンなエンターテインメント、都市小説として読めるのではあるが、実は政治的陰謀小説なのではないだろうか」と述べ、この作品の謎解きに入っていく。それは同時代のモダン都市東京における丸の内と日比谷への注視であり、関東大震災後の銀座を含んでもいる。

日本ミステリー事典 魔都 (現代教養文庫版) 久生十蘭―「魔都」「十字街」解読

 『魔都』はそうしたトポスから書き出され、銀座のバーに移り、多くの登場人物たちが召喚されていく。海野はそれらの人々について、微に入り細を穿ち、同時代の実在の人物たちとのアナロジー化を進め、また同様にして事件をも当てはめていき、彼のいうところの「妄想と逸脱」を視座にすえ、「政治的陰謀小説」の構造を解明しようと試みている。それらは傾聴に値する「妄想と逸脱」ではあるけれど、ここではこの物語の主人公の一人とも見なしていい、日本名を宗方龍太郎とする安南王と、及び安南状況に焦点をしぼりたいので、これ以上踏みこまない。必要であれば、ぜひ海野の著作を参照してほしい。

 安南王は仏領印度支那で五千二百万人の国民を統治する皇帝だが、日本贔の王様で、本国政府から強要されるフランス文化を忌み嫌い、日本から教師を招聘して日本文化に親しみ、夏冬二回の余暇に単身で来日し、文学博士も取得していた。ところが元宝塚の愛人を持つようになると、ほとんど隔月に日本に姿を現していた。「それは年のころ三十ばかりの白皙美髯の青年紳士」だが、「風格について言えば一族の韜晦的人物でわれわれが詩人とか哲学者とかいうものに近いよう」だとされる。その愛人の鶴子が何者かに殺されたことを発端とし、安南の社会状況も明らかにされていく。日本は国際連盟を脱退して以来、フランスとの関係が悪化しているにもかかわらず、皇帝が来日するのは、日本が安南の宗主権復興の尻押しをしているのではないかとフランス側は疑っていた。そして皇帝の愛人鶴子が殺されたことから、さらに事態は紛糾していく。

 実は日本の新興コンツェルンの双璧である日興コンツェルンと林コンツェルンは、ともに国防産業をめざし、仏領印度支那の開発を手がけ、安南を舞台として鎬を削っていた。林のほうは宗皇帝を相談役に抱えこみ、日興は親仏派の皇甥李光明と結びついていたが、ボーキサイト採掘権は前者が先取りしたことで、日興が李光明擁立派と画策し、何事かをたくらんでいた。そこに皇帝の来日と失踪、愛人殺しが起きていたのである。

 日興コンツェルンは山奥の電気会社から始まり、カーバイトや石炭窒素や硫安を製造し、朝鮮にも進出し、北鮮の事業主となり、新興コンツェルンの一画を占めた日窒コンツェルンである。林コンツェルンは房総の海藻からヨードを製造し、千曲川上流での発電事業にも参画し、マッチ鉱業やアルミニウム工業へと進出したコンツェルンのことだ。いずれも第一次世界大戦によって、化学肥料や化学工業品の輸入が止まったことで、大きく成長したのであり、それをきっかけにして新興コンツェルンの座を獲得したことになる。そしてこれもまた両コンツェルンもアルミニウム工場を有していたことから、その原料たるボーキサイトをめぐって争っていたのである。それを具体的に『魔都』から引いてみよう。

 ともに国防産業を目指す二大コンツェルンは、その資源を仏領印度支那において開発すべく、昨年の冬ごろから安南を舞台にしてはなばなしく鎬を削ることになったが、小口(日窒コンツェルン)は見越しすぎて親仏派の皇甥李光明と結びついたため、いちはやく宗皇帝を相談役に抱え込んだ林(林コンツェルン)の日安鉱業に一歩立遅れ、採掘面六十万坪、年五万瓩の優良ボーキサイト(アルミニュームの原鉱)の採掘権を林に先取られてしまった。小口の日興がこれを黙って見ているはずがないと思っていたところ、最近はたして日興は裏面から李光明擁立派を突っついてしきりに何事かを画策しているといううわさが林の耳に伝わってきた。

 『魔都』の背景には安南をめぐる、このような資源開発問題がすえられ、そこから皇帝の失踪、愛人殺し、安南秘宝のダイヤモンドの売却などが絡み、青山光二が『闘いの構図』(新潮文庫)で描いた鶴見騒擾事件へと結びついていくのである。その他にも二・二六事件や東京の地下大迷宮も浮かび上がり、まさに昭和十年代の『魔都』が、南方の安南から東京の大迷宮とリンクしているような仕掛けとなっている。それらを称して、海野が「一九三〇年代の東京に正面から挑んだ奇蹟的な都市小説の傑作」と呼んでいることを理解できるのである。
 


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古本夜話898 情報局記者会編『大東亜戦争事典』と大本営海軍報道部『珊瑚海海戦』

 これまで本連載で言及してきた大東亜共栄圏や南進論などに関する大半が立項収録されている事典があり、それは前回の高丘親王も例外ではなく、次のように見出される。

 真如法親王 金枝玉葉の御身を似つて今から千百年の昔、仏道の奥義を求められて御渡印の途次昭南島付近に薨去遊ばされ御骨を南地に埋め給ふた。南方渡海の魁けを遊ばされた真如法親王の御名と御偉業は昭南島新生の息吹の裡に銃後国民の胸に蘇つて来、今更に偲びまつられてゐる。(後略)

 この立項は二段組一ページ近くに及び、「昭和十七年二月十二日、衆議院建議委員会では親王の御偉業に就ひて政府に調査研究を依頼する建議書を可決した」と結ばれている。とすれば、高丘親王は大東亜共栄圏と南進論の「魁け」として位置づけられ、いってみれば、大東亜戦争下で再発見されたことになろう。

 これを記しているのは情報局記者会編『大東亜戦争事典』で、昭和十七年に「編者代表者」を松本勇造とし、発行者を重山元とする、京橋区築地の新興亜社から出されている。立項は千三百ほどに及び、四六判、並製、四六四ページ、初版は五千部、定価は二円である。その「はしがき」の最初の一項を挙げてみる。
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 大東亜戦争の開始とともに、日本人の目は日本的視野から急激に世界的視界に拡大された。何もかもが大規模となり、新しい用語や、今まで知らなかった地名や人名が、或は記憶する暇のないほどの新しい事件が次々と登場して来る。そして大東亜戦争が総力戦である限り、一億国民は残らずこれ等の新事態を正しく理解しなければならない。本事典はその絶好の伴侶としてまた手引きとして編纂されたものである。

 この事典を編んでいる情報局記者会に関して説明しておく必要があるだろう。情報局とは昭和十五年以後の内閣情報局のことで、情報を収集、統制し、世論を操作するための国家機関であり、言論、文化、マスコミ統制に大きな力を発揮し、『週報』や『写真週報』を刊行していた。情報局の全体の活動については、山中恒『新聞は戦争を美化せよ!』(小学館)、『写真週報』に関しては玉井清編『戦時日本の国民意識―国策グラフ誌「写真週報」とその時代』、同編『「写真週報」とその時代―戦時日本の国民生活』(いずれも慶応義塾大学出版会)、保坂正康監修、太平洋戦争研究会著『「写真週報」に見る戦時下の日本』(世界文化社)を参照されたい。

新聞は戦争を美化せよ! 戦時日本の国民意識―国策グラフ誌「写真週報」とその時代 「写真週報」とその時代 「写真週報」に見る戦時下の日本

 また情報局組織図などについては『マスメディア統制』2の「情報局/組織人機能」(『現代史資料』41、みすず書房)が詳細を極めている。そのような情報局であるから、当然のようにマスコミの集まりである記者会が寄り添い、所謂記者クラブが設立され、その延長線上に『大東亜戦争事典』が編まれることになったと推測される。版元の新興社とは支那事変絡みの経済業務を担う興亜院と関係しているのではないだろうか。
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 しかしその一方で、軍事情報を含めた統制一元化は実現しなかったことにより、大本営陸海軍報道部は存続していた。それらは他の出版社と提携し、出版物を別個に刊行していたのである。そうした一冊も入手している。それは編者を大本営海軍報道部とする『珊瑚海海戦』で、昭和十七年十二月に文藝春秋社から初版三万部で刊行されている。これは同年五月のニューギニア島東南部における日本機動部隊による海戦である。同書は十六枚の口絵写真を通じて、帝国海軍とその航空部隊による米空母などの大破や沈没を示し、七つのレポートと巻末の「大東亜戦争日誌」において、「五月六日よりはじまる珊瑚海海戦、わが圧倒的勝利の下に終了」と記している。
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 ところが『日本近現代史辞典』(東洋経済新報社)などによれば、実際にはこの海戦の結果、オーストラリア北方海域制圧の困難は明らかになり、モレスビー海路進攻作戦は陸路侵攻へと転換され、ガダルカナル戦に至り、この敗北によって戦局の主導権はアメリカの手にわたったとされる。とすれば、この『珊瑚海海戦』という一冊も所謂「大本営発表」の言説を形成していたことになろう。
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 同署の巻末の案内によれば、これは「大本営海軍報道部監修/海軍報道班員現地報告」シリーズの第三輯に当たり、第一輯は『ハワイ・マレー沖海戦』、第二輯『スラバヤ・バタビヤ沖海戦』が既刊、第四輯『ソロモン海戦』が近刊で、「以下続々刊行」とされている。そこにはこの企画のコンセプトも提出されている。
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 大東亜戦争の進展と共に逐次発表される海軍報道班員のペンとカメラの現地報告を大本営海軍報道部の責任ある監修の許に収録したものであつて、戦時下全国民に聖戦の真精神と帝国海軍の勇戦敢闘の実態を具体的に明示すると共に将来大東亜海戦史の重大資料として永く児孫に読み継がるべき保存本たらしめんとして企画刊行せられるものである。

 このシリーズが何冊出されたかは不明だが、文藝春秋社にとっても、初版三万部、しかも製作費も海軍から助成金、もしくは大部数の買い上げが生じていたはずだから、いかにおいしい出版であったかがわかるであろう。それもあってか発行者は菊池寛ではなく、親族の菊池武憲になっているが、敗戦後、出版人がGHQによる追放や逮捕などを恐れたのは、このような出版にあったことは明白で、実際に敗戦とともに菊池は文藝春秋社を解散している。

 だが大本営陸軍報道部のほうとタイアップしたのはどの出版社だったのだろうか。残念ながら、まだそのような一冊と出会っていない。


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古本夜話897 澁澤龍彦『高丘親王航海記』と西原大輔『日本人のシンガポール体験』

 本連載895などの周達観の『真臘風土記』を参考文献のひとつとして書かれた幻想綺譚があり、それは澁澤龍彥の遺作となった『高丘親王航海記』(文藝春秋)に他ならない。この作品は昭和六十年から六十二年にかけて『文学界』に掲載されて、同年の十月に単行本化されている。
真臘風土記 高丘親王航海記

 澁澤が『高丘親王航海記』の第一章「蟻塚」、単行本化に当たって「儒良」と改題、を『文学界』に発表したのは昭和六十年八月号で、すでにのどの痛みが起きていた。翌年になってもそれは治らず、悪くなる一方で、九月に慈恵医大病院にて、悪性のためにただちに入院となり、気管支切開で声を失い、下咽頭癌と診断される。それと並行して『高丘親王航海記』は書き継がれ、『文学界』に第六章の「真珠」を渡したのは手術後の昭和六十二年一月のことだった。

 この章で、主人公の親王は大きな真珠が獲れる獅子国(セイロン)に至り、海にもぐる真珠採りからとりわけ大粒なるものをさし出され、親王はその美しさは死の結晶かもしれないと思いながら、たっぷりとした祝儀と交換して受け取る。しかしそれから天や海ばかりでなく、船中に異変が起き始め、乗組員たちが正気を失い、海中に身を投げ出していくのだった。明らかに魔の海域に入り、五日ほどすると、古代の軍船とおぼしき小さな船が近づき、ぶつかり、男たちが親王の船の甲板になだれこんできた。幽霊のような連中で、親王の身体をまさぐり、真珠を奪おうとしていた。そこで親王は皮の火打袋からころがり出た真珠を手にし、口中にふくみ、呑みこみ、意識を失い、その場に倒れてしまった。

 そして長い昏睡状態から覚めると、のどに痛みと異物感を覚えた。呑みこんだ真珠のせいなのか、自分の声も変わってしまい、のどの痛みは本物で、本物の病気にちがいなく、これで一年以内に死ぬと考えた。さらに次のように親王のモノローグは続いていく。

 そう思うと、親王はなぜかほっと肩の荷をおろしたような気分になった。(中略)死はげんに真珠のかたちに凝(こご)って、私ののどの奥にあるのではないか。私は死の珠を呑みこんだようなものではないか。そして死の珠とともに天竺へ向う。天竺へついたとたん、名状すべからざる香気とともに死の珠はぱちんとはじけて、わたしはうっとり酔ったように死ぬだろう。いや、わたしの死ぬところが天竺だといってよいかもしれない。死の珠がはじければ、いつでも天竺の香気を立ちのぼらせるはずだから。

 この「真珠」は『文学界』三月号に掲載され、続いて四月に最終章「頻伽」が脱稿され、『高丘親王航海記』は完結に至った。そして六月にその決定稿を渡し、八月に頸動脈瘤が破裂して死去する。まさに澁澤は高丘親王のように死んだことになり、『高丘親王航海記』は澁澤の死そのものに重なる印象が強かった。『季刊みずゑ』冬号(昭和六十三年)の「追悼 澁澤龍彥」特集において、フィクションを構成する参考文献を示した創作ノートを目にしていたにもかかわらずである。
f:id:OdaMitsuo:20190316160103j:plain:h115 (『みずゑ』、昭和六十三年冬号)

 しかしその創作ノートのことも思い出したのは最近で、それは西原大輔の『日本人のシンガポール体験』(人文書院、平成二十九年)を読んだことによっている。何と同書の第一章「明治維新まで」の第一節は「高丘親王の伝説」と題され、川端龍子が昭和十七年のシンガポール陥落に刺激され、「真如親王」を描き、澁澤が『高丘親王航海記』を書いたことから始まっている。前者は実際にその絵も掲げられ、昭和四十五年にシンガポールの日本人墓地に真如親王供養塔が設置された事実も挙げられている。
日本人のシンガポール体験

 澁澤の小説に記されていたように、高丘(真如)親王は平城天皇の第三皇子、母は伊勢継子で、在原業平はその甥にあたり、大同四年に嵯峨天皇の即位とともに皇太子となった。しかし『高丘親王航海記』において、ファム・ファタルのように描かれている薬子(くすこ)の変により、その責任を問われ、地位を廃せられた。それから出家し、東大寺に入り、空海に帰依し、真言宗の奥義を深めるために唐に渡り、さらに天竺に向かい、その途上の羅越国で亡くなった。そこはマレー半島のシンガポールやジョホールの付近とされる。

 西原はその親王の物語を、広く読まれていた中世の説話集『撰集抄』(桜楓社)から引用し、戦後になっての杉本直次郎の大著『真如親王伝研究』(吉川弘文館、昭和四十五年)を挙げていて、杉本の大著は先の『季刊みずゑ』に収録の澁澤の書斎の机の上に置かれていた一冊だった。現代思潮社の石井恭二は『花には香り本には毒を』(現代思潮新社)で、安島真一=安藤礼二のインタビューに応え、澁澤に高丘親王、及び『撰集抄』や杉本の著書を教えたのは自分だと語っていたが、澁澤の高丘幻想綺譚の骨格は、この杉本の著作をベースに成立したと考えられる。
 
撰集抄 (岩波文庫版)f:id:OdaMitsuo:20190316112327j:plain:h115  花には香り本には毒を

 しかしそれらだけでなく、西原の『日本人のシンガポール体験』で教えられたのは、南進論の高まりの中で、シンガポールが陥落すると、その先駆者としての高丘親王や羅越国への関心が呼び覚まされたという事実である。西原は谷崎潤一郎の「シンガポール陥落に際して」(『谷崎潤一郎全集』第十九巻、中央公論社)をその筆頭に挙げ、さらに昭和十七年から十九年にかけて、高丘親王に関する著作が数多く刊行されたと述べ、実際にそれらの六冊の書名も挙げているので、ここでも引用しておく。ナンバーは便宜的にふったものである。

谷崎潤一郎全集

1 小池四郎・大岩誠 『高丘親王の御事蹟』 日本南方協会 一九四二年三月
2 穂積厳信 『マレー最初の日本人 真如法親王』 昭南社 一九四二年四月
3 新村出 『高丘親王の御事蹟』 六大新報社 一九四二年十一月
4 水原堯栄 『真如親王御伝』 金尾文淵堂 一九四二年十一月
5 久野芳隆 『真如親王』 照文閣 一九四三年五月
6 志賀白鷹 『南進の先覚 真如親王』 大阪堂書店 一九四四年三月再版

 大東亜戦争下における南進論とクロスした出版状況の一端を、まさに浮かび上がらせているといえよう。この事実は澁澤の遺作となった幻想綺譚もまたそのような出版と無縁でなかったことを示唆している。


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古本夜話896 ポレ、マスペロ『カムボヂァ民俗誌』

 本連載894のアンリ・ムオ『タイ、カンボヂア、ラオス諸王国遍歴記』の訳者の大岩誠は、昭和十九年にもカンボジア関連書を翻訳している。それはグイ・ポレ、エヴリーヌ・マスペロ著『カムボヂァ民俗誌』で、個人訳ではなく、浅見篤との共訳である。大岩の「訳序」によれば、「わが親友、浅野晃君の一方ならぬ斡旋」で、生活社を通じ、著作権保護同盟の手により、翻訳権を確保したが、大東亜戦争下で多忙を極め、「思を同じうする友、浅見篤君協力」を得て訳業は完成したとされる。この著作権保護同盟は昭和十四年に菊池寛を会長として設立された著作権の仲介業務を行なう社団法人、浅見篤はフランス文学者である。
 アンコールワットの発見 (『タイ、カンボヂア、ラオス諸王国遍歴記』、まちごとパブリッシング"復刻版)
カムボヂァ民俗誌 (『カムボヂァ民俗誌』、大空社復刻)

 邦訳サブタイトルの『クメール族の慣習』を原題とする同書は、一九三八年にパリで出されている。著者たちはこれも本連載579のマルセル・グラネに師事し、夫妻でプノム・ペンに住み、ポレはアンドレ・ジッドの甥、エヴリーヌもマスペロ一族の娘で、『道教』(川勝義雄訳、東洋文庫)のアンリ・マスペロの姪であるようだ。

道教

 「序」を寄せているのは本連載894のフランス極東学院のジョルジュ・セデスで、実際に同書の誕生に立ち合ったものとして、その独創性は過去と現在のカムボヂァにつていの正確な知識と観察に基づく生彩ある描写だと述べている。それゆえに「時には印象派の技法をもつ効果」も発揮され、「カムボヂァ人のやうに親しみ易く且つ、しかも鋭い風刺に充ち、クメールの国の蒼空のやうに豊かな陽光に溢れてゐる」と。

 それは抄録とはいえ、二十五枚の口絵写真にもうかがわれ、クメールの起源、歴史、宗教、信仰、祭礼などがトレースされていく。しかもそれらの記述にはムオの著作の穂あkあにも、本連載でも取り上げてきたドラポルト『アンコール踏査行』、グロスリエ『アンコオル遺蹟』、セデス『アンコール遺跡』、周達観『真臘風土記』などが参照され、その描写の中に溶け込んでいて、「印象派の技法」を想起させている。例えば、プノム・ペンのところを引いてみよう。

アンコール踏査行(『アンコール踏査行』) アンコール遺跡 真臘風土記

 プノム・ペンは五十年前までは深泥の岸にある茅葦小屋の群れにすぎなかつたが、今では木々の緑に蔽はれた小さく纏まつた白い町にになつてゐる。
 ゆつたりと地面に余裕をもたせ、不器用に出来てゐはするが、さすがに良識または才能を具へたひとびとが代るかはるに仕上げて行つただけあつて、この町はぬかりなくひとを楽しい幻想に誘ひ入れてくれる。河ぞひに、「四つ手」の流れに臨んで支那町、王宮地区、尖つた土地と凹んだ土地がある。(中略)大部分が古いバンガローや、町はづれのヨーロッパ流乃至アジア式の別荘(ヴィラ)で、それが盛り上る木々に包まれた、緑のあちこちにおしろばな(アジウガンヴィリア)の紫が咲き映える。新しい並木道や築き上げた掘割の土手を埋めて撩乱たる花園がある。近代的な停車場は青味がかつた白堊の大きな建物で、駅前の「人力車」はあたかも虫のやうに見える。(中略)だが、すべては太陽がうまく調和をとつてゐる。大通りもない。堂々たる珈琲店(キヤツフェ)もない。電車もない。ひとは鳥の囀りを聞く。日暮になれば蟬しぐれである。(……)

 ここに見える「王宮地区」や「バンガロー」への言及から、ほぼ同時代にそこで少女時代を送った、やはりフランス人を思い出す。それはマルグリット・デュラスで、彼女は『愛人』(清水徹訳、河出書房新社)で、一九二〇年第の仏領インドシナを舞台とし、中国人青年とフランス人少女の愛を描いている。ミシェル・ポルトによる彼女のインタヴュー集『マルグリット・デュラスの世界』(舛田かおり訳、青土社)によれば、プノンペンのメコン河に臨んだカンボジアの旧王宮の大きな家や西部の平原の広大な分譲地のバンガローに住んでいたという。同書には現地の服をまとった彼女の写真も収録されている。
愛人 マルグリット・デュラスの世界

 本連載で続けて、フランス人が記したカンボジアやアンコールに言及してきたが、フランスにおけるオリエンタリズムと東洋幻想の形成は、もうひとつの植民地ベトナムと並んで、両者による大きな影響を受けているにちがいない。そしてそれが大東亜共栄圏構想下において、日本へと還流し、南進論とリンクしていったことを、これらの翻訳は告げていると思われる。

『カムボヂァ民俗誌』は奥付に昭和十九年五月一〇日発行千五百部とある。所持する一冊は裸本だが、A5判上製、三二四ページに及び、函入だったとも考えられる。戦争と時代状況は日本海軍に大打撃を与えたマリアナ沖海戦が迫りつつあり、出版、ジャーナリズムにおいても、『中央公論』や『改造』の編集者たちが検挙される横浜事件が起き、新聞の夕刊が廃止され、中央公論社と改造社に対しても、雑誌廃刊命令が出されようとしていた。

 そのような中で、治外法権的出版のように『カムボヂァ民俗誌』は翻訳刊行されたことになる。定価は七円四十銭である。しかもその巻末広告には既刊として、次のような書目が挙がっている。フレイザー『金枝篇』(上中、永橋卓介訳)、ラッツエル『アジア民族誌』(向坂逸郎訳)、ミルン『シャン民俗誌』(牧野、落合訳)、費孝通『支那の農民生活』(仙波・塩谷訳)、カルプ『南支那の村落生活』、本連載735のウラヂミルッオフ『蒙古社会制度史』(外務省調査部訳)、リヤザノフスキー『蒙古法の基本原理』(青木富太郎訳)、また近刊として、シロコゴロフ『満州族の社会組織』(大間知・戸田訳)も添えられている。

アジア民族誌(『アジア民族誌』、大空社復刊)f:id:OdaMitsuo:20190315165133j:plain:h115 (『支那の農民生活』) 

 版元の生活社にしても、本連載578など、また河津一哉、北村正之『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』(「出版人に聞く」20)で、花森と生活社について言及している。生活社全出版目録があれば、それらの謎のいくつかは解明されるはずだが、それはまだ実現していない。
『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』

 とりあえず、ここでずっと言及してきたアンコール・ワットに関することを終えるので、その間に手元に置き、常に参照し、啓発された一冊を挙げて置きたい。それは谷克二他『アンコール・ワット』(「旅名人ブックス」35、日経BP企画)である。
アンコール・ワット


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古本夜話895 ピエール・ロティ『アンコール詣で』と周達観『真臘風土記』

 ピエール・ロティの『アンコール詣で』は佐藤輝夫訳で、昭和十六年に白水社から刊行されている。訳者の「はしがき」には、「これが訳されて、今日南方問題の喧しい折柄、少しでも曾てのクメール文化の一端を日本の読者に知って貰うことが出来たら」との主旨が述べられている。
アンコール詣で

 この『アンコール詣で』は、ロティの一九〇一年十一月二十三日から十二月三日にかけての十一日間に及ぶアンコール・ワット旅行記と見なせよう。同書のパリのカルマン・レヴイ書房からの上梓は一二年なので、邦訳はそのほぼ三十年後であり、「今日南方問題の喧しい折柄」を見て、出版に至ったとも推測できる。「アンコール」もまた「南方問題」の定番のひとつになっていたとも考えられる。

 そうした出版経緯はともかく、『アンコール詣で』はロティ特有の情熱的な官能に充ちたエキゾティスムと、滅びゆくものへの哀感において、本連載でずっと取り上げてきたアンコール学術書とは異なり、旅行記でありながらも、文学作品の領域に達している。それゆえに、このような官能的な、ロティのいうところの「巡礼物語」の翻訳が、大東亜戦争下で刊行されたことも奇異に思えるほどだ。

 ロティにとっても、アンコールの廃墟を訪れることは少年の頃からの夢であり、植民地雑誌のアンコール寺院の絵に喚起された「シャムの森林の奥地で、わたしはアンコールの大遺跡の上に、夕べの星が登るのを見た」という言葉が、思い出の中にずっと刻み込まれていたのである。それから三十五年後、ついに実現の日を迎えることになった。

 ロティはアンコール・ワットの寺院にたどり着き、その険しい階段を登っていく。美しい鑿の跡が螺旋装飾、葉形模様、唐草模様として至るところに遺され、それらはフランスのルネサンス時代の美術家が模倣したのではないかとの空想をもたらす。だがすでに三、四百年間、これらの壁はヨーロッパにその所在も気づかれず、森林の中に眠っていたのである。

 眩惑と死の太陽に照らされながら、わたしはゆっくり登っていく。この苦しい登り路の上には、まあ、何と多くの怖ろしい象徴が嵌めこまれているであろう! どこを見ても怪物ばかり、怪物の闘争ばかり、到るところに神聖なるナーガが、欄干の上にその長い波型の体を横たえ、七頭の毒々しい首を扇型にもたげて立っている! アブサーラは女神として髪飾りの下で美しくかつ媽やかに微笑しているけれども、そこにはつねに隠喩的な、神秘の表情が湛えられていて、見る人の心持も落ち着かせない。……

 このような描写はともかく、クメール族がインドを出自とするといったロティの歴史的記述に関して、ジョルジュ・セデスが『アンコール遺跡』の中で、ロティは「〈廃墟の神秘性〉のロマンチックな感じ」に降参してしまい、間違っているとの批判を述べている。それはロティのアンコール巡礼が一九〇一年であり、その時代のアンコール認識に基づいているからだ。一方で、セデスは一九二九年から四二年まで、ハノイのフランス極東学院長を務め、アンコール遺跡保存事務所を開設し、その研究と修復作業に携わっている。ちなみにこれは蛇足かもしれないが、セデスの専攻は碑文で、石に書かれた碑文解読を通じてのアンコールと王の実像研究である。またそれを発表した『フランス極東学院紀要』には、高楠順次郎や鈴木大拙も寄稿しているという。
アンコール遺跡

 それゆえに、ロティの『アンコール詣で』がセデスたちの研究成果を取り入れていないのは当然だが、その他にも史料についての疑問も目につく。アンコールの内陣の聖なる場所に他を圧する七十メートルの高さの巨塔があるとの記述に続いて、次のような一文が置かれている。

 十三世紀末つかた、この神秘的な王国をその衰微時代に訪れて、今日その栄華を知らせる唯一の記録を遺しているシナの一学者の語るところに拠れば、この中心塔の上には巨大な黄金の睡蓮が載せられていて、この聖花が空中に高く輝くさまが、今日埋もれているアンコール=トムの町のどこからも仰ぎ見られていたという。

 この「シナの一学者」とは訳者の注にも見えているように、周達観であり、その「語るところ」とは『真臘風土記』
に他ならない。しかし三宅一郎、中村哲夫の『考証真臘風土記』に収録のそれに当たる「城郭」の章を見ても、「巨大な黄金の睡蓮」を載せた塔のことは出てこない。もちろんロティが読んだのは同書に「前言」や「序説」が収録クされているレミュザやペリオ訳によっているはずだが、それらの仏訳は未見なので、確かめることができない。
真臘風土記

 「睡蓮」と塔の関係を調べるために、阪本祐二の『蓮』(法政大学出版局)を読んでみたが、インダスやエジプト文明から始まる「ハスと文化」の関係は、「蓮台」や「蓮花柱頭」として仏塔にも表出していたことを教えられるし、付け焼刃の知識ではとても太刀打ちできない領域にあることを実感してしまう。
蓮

 それにつけても思い出されるのは、松山俊太郎との一夜の温泉旅行が果たせなかったことで、本当に悔やまれる。そのことを連絡しようとしたら、行方不明となっていて、後に倒れて病院に担ぎこまれていたことを知らされたのである。このような質問を向けたら、きっと喜んでくれたであろうが。松山ばかりでなく、十代の頃から読んでいた著者たちはほとんどが鬼籍に入ってしまい、次には私たちの世代になっていることをこれまた実感してしまう。

 
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