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古本夜話897 澁澤龍彦『高丘親王航海記』と西原大輔『日本人のシンガポール体験』

 本連載895などの周達観の『真臘風土記』を参考文献のひとつとして書かれた幻想綺譚があり、それは澁澤龍彥の遺作となった『高丘親王航海記』(文藝春秋)に他ならない。この作品は昭和六十年から六十二年にかけて『文学界』に掲載されて、同年の十月に単行本化されている。
真臘風土記 高丘親王航海記

 澁澤が『高丘親王航海記』の第一章「蟻塚」、単行本化に当たって「儒良」と改題、を『文学界』に発表したのは昭和六十年八月号で、すでにのどの痛みが起きていた。翌年になってもそれは治らず、悪くなる一方で、九月に慈恵医大病院にて、悪性のためにただちに入院となり、気管支切開で声を失い、下咽頭癌と診断される。それと並行して『高丘親王航海記』は書き継がれ、『文学界』に第六章の「真珠」を渡したのは手術後の昭和六十二年一月のことだった。

 この章で、主人公の親王は大きな真珠が獲れる獅子国(セイロン)に至り、海にもぐる真珠採りからとりわけ大粒なるものをさし出され、親王はその美しさは死の結晶かもしれないと思いながら、たっぷりとした祝儀と交換して受け取る。しかしそれから天や海ばかりでなく、船中に異変が起き始め、乗組員たちが正気を失い、海中に身を投げ出していくのだった。明らかに魔の海域に入り、五日ほどすると、古代の軍船とおぼしき小さな船が近づき、ぶつかり、男たちが親王の船の甲板になだれこんできた。幽霊のような連中で、親王の身体をまさぐり、真珠を奪おうとしていた。そこで親王は皮の火打袋からころがり出た真珠を手にし、口中にふくみ、呑みこみ、意識を失い、その場に倒れてしまった。

 そして長い昏睡状態から覚めると、のどに痛みと異物感を覚えた。呑みこんだ真珠のせいなのか、自分の声も変わってしまい、のどの痛みは本物で、本物の病気にちがいなく、これで一年以内に死ぬと考えた。さらに次のように親王のモノローグは続いていく。

 そう思うと、親王はなぜかほっと肩の荷をおろしたような気分になった。(中略)死はげんに真珠のかたちに凝(こご)って、私ののどの奥にあるのではないか。私は死の珠を呑みこんだようなものではないか。そして死の珠とともに天竺へ向う。天竺へついたとたん、名状すべからざる香気とともに死の珠はぱちんとはじけて、わたしはうっとり酔ったように死ぬだろう。いや、わたしの死ぬところが天竺だといってよいかもしれない。死の珠がはじければ、いつでも天竺の香気を立ちのぼらせるはずだから。

 この「真珠」は『文学界』三月号に掲載され、続いて四月に最終章「頻伽」が脱稿され、『高丘親王航海記』は完結に至った。そして六月にその決定稿を渡し、八月に頸動脈瘤が破裂して死去する。まさに澁澤は高丘親王のように死んだことになり、『高丘親王航海記』は澁澤の死そのものに重なる印象が強かった。『季刊みずゑ』冬号(昭和六十三年)の「追悼 澁澤龍彥」特集において、フィクションを構成する参考文献を示した創作ノートを目にしていたにもかかわらずである。
f:id:OdaMitsuo:20190316160103j:plain:h115 (『みずゑ』、昭和六十三年冬号)

 しかしその創作ノートのことも思い出したのは最近で、それは西原大輔の『日本人のシンガポール体験』(人文書院、平成二十九年)を読んだことによっている。何と同書の第一章「明治維新まで」の第一節は「高丘親王の伝説」と題され、川端龍子が昭和十七年のシンガポール陥落に刺激され、「真如親王」を描き、澁澤が『高丘親王航海記』を書いたことから始まっている。前者は実際にその絵も掲げられ、昭和四十五年にシンガポールの日本人墓地に真如親王供養塔が設置された事実も挙げられている。
日本人のシンガポール体験

 澁澤の小説に記されていたように、高丘(真如)親王は平城天皇の第三皇子、母は伊勢継子で、在原業平はその甥にあたり、大同四年に嵯峨天皇の即位とともに皇太子となった。しかし『高丘親王航海記』において、ファム・ファタルのように描かれている薬子(くすこ)の変により、その責任を問われ、地位を廃せられた。それから出家し、東大寺に入り、空海に帰依し、真言宗の奥義を深めるために唐に渡り、さらに天竺に向かい、その途上の羅越国で亡くなった。そこはマレー半島のシンガポールやジョホールの付近とされる。

 西原はその親王の物語を、広く読まれていた中世の説話集『撰集抄』(桜楓社)から引用し、戦後になっての杉本直次郎の大著『真如親王伝研究』(吉川弘文館、昭和四十五年)を挙げていて、杉本の大著は先の『季刊みずゑ』に収録の澁澤の書斎の机の上に置かれていた一冊だった。現代思潮社の石井恭二は『花には香り本には毒を』(現代思潮新社)で、安島真一=安藤礼二のインタビューに応え、澁澤に高丘親王、及び『撰集抄』や杉本の著書を教えたのは自分だと語っていたが、澁澤の高丘幻想綺譚の骨格は、この杉本の著作をベースに成立したと考えられる。
 
撰集抄 (岩波文庫版)f:id:OdaMitsuo:20190316112327j:plain:h115  花には香り本には毒を

 しかしそれらだけでなく、西原の『日本人のシンガポール体験』で教えられたのは、南進論の高まりの中で、シンガポールが陥落すると、その先駆者としての高丘親王や羅越国への関心が呼び覚まされたという事実である。西原は谷崎潤一郎の「シンガポール陥落に際して」(『谷崎潤一郎全集』第十九巻、中央公論社)をその筆頭に挙げ、さらに昭和十七年から十九年にかけて、高丘親王に関する著作が数多く刊行されたと述べ、実際にそれらの六冊の書名も挙げているので、ここでも引用しておく。ナンバーは便宜的にふったものである。

谷崎潤一郎全集

1 小池四郎・大岩誠 『高丘親王の御事蹟』 日本南方協会 一九四二年三月
2 穂積厳信 『マレー最初の日本人 真如法親王』 昭南社 一九四二年四月
3 新村出 『高丘親王の御事蹟』 六大新報社 一九四二年十一月
4 水原堯栄 『真如親王御伝』 金尾文淵堂 一九四二年十一月
5 久野芳隆 『真如親王』 照文閣 一九四三年五月
6 志賀白鷹 『南進の先覚 真如親王』 大阪堂書店 一九四四年三月再版

 大東亜戦争下における南進論とクロスした出版状況の一端を、まさに浮かび上がらせているといえよう。この事実は澁澤の遺作となった幻想綺譚もまたそのような出版と無縁でなかったことを示唆している。


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