出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話894 アンリ・ムオ『タイ、カンボヂア、ラオス諸王国遍歴記』と三島由紀夫『癩王のテラス』

 本連載890のドラポルトの『アンコール踏査行』や同891のグロリエの『アンコオル遺蹟』に先駆けて、アンコールを訪れ、それを報告しているフランス人がいる。その人物はアンリ・ムオで、両書ばかりか、藤原貞朗の『オリエンタリストの憂鬱』でも挙げられている『タイ、カンボヂア、ラオス諸王国遍歴記』の著者でもある。同書もまた昭和十七年に大岩誠訳で、改造社から刊行されている。大岩は私などにとって、モンテスキューの『ペルシア人への手紙』(岩波文庫)などの訳者だと認識していたが、この時代には『南アジア民族政治論』(万里閣)を著わしているようなので、ムオの翻訳はそのことと関連しているのだろう。

アンコール踏査行(『アンコール踏査行』)オリエンタリストの憂鬱(『オリエンタリストの憂鬱』)ペルシア人への手紙(『ペルシア人への手紙」)
 アンコールワットの発見 (『タイ、カンボヂア、ラオス諸王国遍歴記』、まちごとパブリッシング"復刻版)

 その「訳序」は「フランスが印度支那半島に着目し、アジア制覇の基地として其の地に足場を築くまでに二百年余の歳月と幾多無名の犠牲者を数へてゐる」と始まっている。それに続く記述によれば、フランスが一八五八年に越南帝国領を侵掠するに至り、同年にフランスの科学者アンリ・ムオもメコン河流域諸地方の探査を目的とし、タイのバンコクに上陸した。それはロンドン科学協会の委託を受け、未知の国々の地理的社会的諸状態の調査を主としていた。

 ムオは一八二六年にフランスのモンペリアールに生まれ、三十二歳でタイに着き、それからメコン河に入り、そこに住むアジア人の生活と性向を記録し、一八六一年三十五歳で亡くなっている。つまりムオの生涯はこの『タイ、カンボヂア、ラオス諸王国遍歴記』の中に凝縮されていることになる。大岩はこの「訳序」を昭和十七年十一月、「アンリ・ムオ八十年忌」の日付で記している。原書は「原序」に示されているように、パリで出された一八六八年版である。ムオはタイ、カンボジアを経てラオスに向かい、熱病にかかり、死亡し、その地に埋葬され、ドラポルトにより記念碑が建立された。その挿画を同書の末尾に見ることができる。

 タイに関する記述と探検紀行も興味深いものだけれど、やはり最も異彩を放っているのはオンコール(以下アンコール)にまつわるものである。まさにムオの紹介によって、アンコールワットは世界に初めて喧伝されたことを考慮すれば、それに言及すべきだろう。ムオはかつてのクメール族の首都に関して、この印度支那に響きわたった「王国」の見事な遺跡は「欧州の壮麗な大寺院に比肩し得る」し、「その豪壮さに至つてはギリシャ、ローマの芸術を遥かに凌ぐものがある」と述べている。

 その一方で、「かくも素晴らしい建築物を遺すほどの文化と天稟とをそなへた強国は、その後一体どうなつたのだらう」との疑問も発し、その没落原因は時の力、蛮人の侵入、シャム人の侵略、地震などが挙げられている。それに加え、この大寺院を建設したのは、「癩病の王」、もしくあは「天使の王」「巨人」だという伝説も挙げられ、その特徴の指摘もなされる。

 しかし不思議なのは、この記念物のどれ一つとして居住の目的で建てられてゐないことである。そのすべては仏教思想の特徴を見せ、伽藍の中に見る像、薄肉彫のすべてが、文事或は宗教上の題材を取扱つてゐる。例へば頭にも身体にも腕環や頸環等の装身具をつけ、細い腰衣だけをつけた後宮にまもられた王の行列といふがごときものである。

 そうしてムオはアンコールの中へと進んでいく。すると荘重な建物の巨大な輪郭に「一種族全体の墓を見出したやうに感じた!」のであり、それはアンコールへの挽歌のような記述へともつながっていく。

 あゝ! 私にシャトオブリアン、ラマルチーヌにも匹敵する筆力、或はクロード・ロレンのやうな画才が恵まれてゐて、このおそらくは天下に比類を見ないと思はれる美しくもまた壮大な廃墟の姿がどのやうなものであるかを知人の芸術家たちに示すことが出来たなら。これらは今はすでに亡びた一民族の唯一の遺蹟なのであるが、その名さへ、この民族の名を高からしめた偉人、芸術家、政治家の名とともに、塵埃と廃墟の下に深く永久に埋もれてしまほうとしている。

 そしてムオは廃墟の壁面に名工の鑿金によったに相違ない「癩王」を発見する。「まことに崇高く、均斉がとれ、顔面は美しく、感じは軟かくしかも傲然たる俤がある」裸像の挿画も添えられ、その「癩王」の名がブア・シヴィシチウォンだとされる。

 しかし一九四三年にハノイで出されたジョルジュ・セデスの『アンコール遺跡』(三宅一郎訳、連合出版、平成五年)において、最後のアンコール大王ジャヤ・ヴァルマン七世が「癩王」にして、十三世紀のアンコールの建設者だったとされている。ムオ以降の研究に基づく同書にはその像も示され、また「癩王のテラス」を撮った写真も収録されている。

アンコール遺跡

 さてこれからは私の仮説である。昭和四十四年に三島由紀夫は戯曲『癩王のテラス』(中央公論社)を発表する。これは三島が四十年にカンボジアを旅し、アンコール・トムの荒涼たる廃墟で、若い癩王の彫像を見た時に想を得たとされている。三島の戯曲はジャヤ・ヴァルマン七世がバイヨン大寺院を建立するかたわらで、癩病にかかっていたという伝説に基づき、その肉体の崩壊とともに大伽藍が完成する対照から、「あたかも自分の全存在を芸術作品に移譲して滅びてゆく芸術家の人生の比喩」(「『癩王のテラス』について」、『三島由紀夫全集』35所収、新潮社)を描いたものだ。
癩王のテラス (『癩王のテラス』) 三島由紀夫全集』35 (『三島由紀夫全集』35)

 しかし三島はカンボジアを訪れる前に、いやおそらく戦前にムオの『タイ、カンボヂア、ラオス諸王国遍歴記』を読んでいて、そこにあった「癩王」伝説と、「癩王之像」の挿画のイメージをずっと抱えこんでいたのではないだろうか。それが『癩王のテラス』として結晶するのは、実際に現地を踏む機会を待たなければならなかったにしても。


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古本夜話893 改造社「大陸文学叢書」とマルロオ『上海の嵐』

 前回のマルロオの『人間の条件』も、それをサブタイトルに付し、『上海の嵐』として、昭和十三年に改造社から刊行されている。ただそれは「大陸文学叢書」の一冊で、その明細は次のようなものだ。

1 ホバート 須川博子訳 『揚子江』
2 蕭軍 小田嶽夫訳 『第三代』
3 マルロオ 小松清、新庄嘉章訳 『上海の嵐』
4 ルウイス 本間立也訳 『長江上流の若者』
5 丁玲 岡崎俊夫訳 『母親』
6 ヘディン 小野忍訳 『馬仲英の逃亡』
7 沈従文 松枝茂夫訳 『辺城』

 
f:id:OdaMitsuo:20190312103558j:plain:h120 (『揚子江』) f:id:OdaMitsuo:20190312103151j:plain:h120(『馬仲英の逃亡』)

 これは『上海の嵐』の巻末広告によるもので、4以降は近刊予定とされているが、それでも全巻出されたようだ。ただ、この「大陸文学叢書」の企画の成立も、繰り返し既述しているように、改造社の社史や全出版目録が刊行されていないことから詳細は不明である。それゆえに推測するしかないけれど、昭和十二年の支那事変を背景とし、中国大陸を舞台とする文学叢書が急遽企画され、翻訳刊行に至ったシリーズだと考えられる。そのこともあり、原題の『人間の条件』(La Condition humaine)が『上海の嵐』に変えられ、「同叢書」に収録されたのであろう。

 マルロオのこの小説は一九三三年に出版され、同年のゴンクール賞を受賞している。これは一九二七年の上海における蒋介石による上海クーデタ、それに関連する武器の入手と殺人、蒋介石の暗殺などをテーマとしていることから、この『上海の嵐』という邦訳タイトルが選ばれたはずだ。訳者はその「あとがき」で書いている。

 蒋介石が共産党との提携により、急にこれの弾圧へと間髪的な見事な体かわしによつて覇権を握つたこの上海クーデタは、現代支那革命史上の最も劇的な一瞬であろう。従つてこの作品の持つドキュマン的要素は非常に強い現実性をもつて読者に迫つてくるのである。然しこの作品の本当の価値をなしてゐるものは、そこに登場してくる人物の、余りにも人間の諸条件を負ひ過ぎたパテティックな姿の活写である。
 或る者は行動に、或る者は阿片に、或る者は性愛にと、それぞれ人間の条件の重圧をのがれようとしてゐる。この、いつ果てるともなく永劫に繰り返される人間の宿命的な悲劇が、ここでは魂の奥底を揺り動かすほどの力強さで描かれてゐる。

 その一例はこの作品の書き出しにも象徴され、「陳(チェン)は蚊帳をもたけるであらうか? それともこのまま蚊帳を通して刺すであらうか? 懊悩は陳の胃袋をぎりぎり締めてゐた」はまったく新しいエクリチュールとされた。それは読者が陳のことを何も知らずにたちまち彼の行動の只中に置かれることを意味していたからだ。その陳の同志としての清(キヨ)は日仏混血児との設定であり、二人は中国共産党と蒋介石の上海クーデタの狭間において、ともに自殺に向かう運命をたどる。
 
 この清(キヨ)の名前は前回もふれた林俊『アンドレ・マルロオの「日本」』でも明らかなように、小松清に由来している。彼は大正時代に渡仏し、マルロオの知遇を得て、その『王道』などを翻訳し、マルロオに由来する行動主義文学論を提起していた。そのような関係から『上海の嵐』にも共訳者として名前を連ねているけれど、実際にこの翻訳を手がけているのは、共訳者の新庄嘉章だと見なせよう。それは検印紙に新庄の捺印しかないことに表われている。
アンドレ・マルロオの「日本」 f:id:OdaMitsuo:20190312162440j:plain:h112(『王道』)

 マルロオの著作の翻訳は小松を抜きにして成立しないはずなのに、そこにはどのような事情が潜んでいるのか。当時の小松の事情を確認してみると、昭和十二年に報知新聞社のヨーロッパ特派員として再渡仏し、十五年六月のドイツによるパリ占領の前日、最後の引揚げ船とされる榛名丸で帰国している

 たまたま手元に『中央公論』の昭和十五年新年特大号があり、そこに小松は「沈黙の戦士(巴里特信)」を寄稿している。これはその前年の八月二七日から九月九日にかけての日記をベースにしての、「巴里は、いま鼎をひつくりかえしたやうな混乱の中に生きてゐる」というほぼリアルタイムの状況レポートである。ドイツがポーランドを侵攻し、パリは大混乱に陥り、地方に避難する人々であふれ、それはパリの日本人たちも同様だった。そのような中で、小松はマルロオに会い、彼が外人部隊の将校を志願し、戦線に出るつもりであることを聞く。そして日本に関連した話で、日支事変と蒋介石、それに『人間の条件』にも話が及び、この機会に応じての日本人とフランス人による文化団体の結成までが俎上にのぼる。それから二日後にまたマルロオに会い、彼の外人部隊将校は流れてしまい、現在はタンク部隊に志願していることを伝えられる。そうして小松はマルロオだけでなく、フランスのブルジョワたちも、饒舌を捨て、黙々とした人種に変わりつつあり、「根づよく覚悟を決めた何百万の執拗きはまる《沈黙の戦士》がぞくぞくと戦線に送りだされてゐる」ことに言及している。このレポートをコアとし、小松は帰国後、改造社から『沈黙の戦士―戦時巴里日記』(昭和十五年十一月)を刊行したようだが、こちらは未見である。

 これらのことからわかるように、小松は昭和十二年から十五年にかけて、フランスに滞在し、特派員、『中央公論』などの寄稿者、『日仏文化』の編集に携わっていたために、『上海の嵐』を翻訳する時間がとれず、新庄がその任に当たったことになる。しかしマルロオと小松の関係からしても、小松の名前を外すわけにはいかないので、共訳者として列記されるに至ったのであろう。新庄のほうはその「あとがき」において、同じ早大仏文科の同窓である桜井成夫の支援を受けたことにふれている。ちなみにこの桜井は本連載531などの桜井鷗村の息子であることを付記しておこう。


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古本夜話892 マルロオ『王道』、第一書房「フランス現代小説」、林俊『アンドレ・マルロオの「日本」』

 前々回の藤原貞朗の『オリエンタリストの憂鬱』第五章は「アンコール考古学の発展とその舞台裏(1)」と題され、サブタイトルに「考古学史の中のマルロー事件」が付されている。その「事件の概要」の記述もあるので、それを簡略にトレースしてみる。
オリエンタリストの憂鬱

 一九二三年十二月、二十三歳のマルローは妻や友人とともにサイゴンに上陸した。彼は植民地省より無給考古調査員の資格を得て、極東学院の指導のもとにアンコール遺跡の調査を行なうという名目で、インドシナ入りしている。しかし彼は独断で廃墟のパンテアイ・スレイ寺院に赴き、女神のレリーフや彫像などの遺物を持ち出し、それらをプノンペンからサイゴンへ移送させようとした。そこでマルロー一行は歴史的建造物破壊と横領罪で逮捕された。それらがパンテアイ・スレイのものであることを確認したのは、前回の『アンコオル遺蹟』のグロリエだった。

 二四年に盗掘事件の裁判が始まり、マルローは不当逮捕だとし争ったが、懲役一年の執行猶予付き判決が下され、刑が確定した。この執行猶予判決に関しては、村松剛が『評伝アンドレ・マルロオ』(中公文庫)で詳細に挙げているように、アンドレ・ブルトンを始めとする著名な多くの文学者たちの署名と請願による擁護運動が有効に作用したと考えていいだろう。
評伝アンドレ・マルロオ

 藤原も村松も当時のマルローが金に困っていたことを指摘しているし、フランスにおけるアンコール幻想はそのような盗掘を誘う地だったし、ドラポルトの『アンコール踏査行』は一八八〇年に出ていたのである。それゆえにこの盗掘事件を小説に仕立てた『王道』には、レリーフでも「素晴しい出来のものになると、例へば舞女(ダンスーズ)などを彫つたものだと、棄値で売つても二十万フランは出来ますよ」という主人公クロオドの発言があるように、盗掘で一山当てようとしていたことは間違いないだろう。
アンコール踏査行(『アンコール踏査行』)

 しかも『王道』は早くも昭和十一年に第一書房の「フランス現代小説」の一冊として刊行されていたのである。フランスでの『王道』の出版は一九三〇年であり、同年の昭和五年にマルローの本邦初訳として『熱風』(新居格訳、先進社)が出ている。これは『征服者』のタイトルを改題したもので、英訳からの重訳である。昭和九年にはフランス語からの『征服者』(小松清訳、改造社)としても刊行された。同じく小松訳『王道』はマルローの二冊目の翻訳出版だったことになるし、この時代にはフランスの現代小説紹介は盛んになってきたことがうかがわれる。とりあえず、その十巻からなるラインナップを挙げておく。
f:id:OdaMitsuo:20190312162440j:plain:h120(『王道』)

1 アンリ・ド・モンテルラン 『闘牛士』 堀口大学訳
2 ウジェエヌ・ダビイ 『北ホテル』 岩田豊雄訳
3 ジュリアン・グリーン 『閉ざされた庭』 新庄嘉章訳
4 ジャック・シャルドンヌ 『結婚』 佐藤朔訳
5 アンドレ・マルロオ 『王道』 小松清訳
6 ジャック・ラクルテル 『反逆児』 青柳瑞穂訳
7 ピエール・マッコルラン 『女騎士エルザ』 永田逸郎訳
8 ジャン・ジオノ 『運命の丘』 葛川篤訳
9 ラモン・フェルナンデス 『青春を賭ける』 菱山修三訳
10 ドリュ・ラ・ロシェル 『女達に覆われた男』 山内義雄訳

 林達夫他編『第一書房長谷川巳之吉』(日本エディタースクール出版部)所収の「図書目録」で確認してみると、ナンバーは異なっているけれど、全点が出されたとわかる。しかしこの企画が春山行夫経由でのものではないかと推測できるが、「フランス現代小説」への言及はなされていない。
第一書房長谷川巳之吉

 それはともかく、『王道』に戻ると、訳者の小松はその「あとがき」において、『王道』の翻訳を二ヵ月余りで仕上げたこと、マルローとパリのNRF(一九〇二年にジッドなどによって創刊された文芸誌、当時はジャン・ポーランが編集長で、ドリュ・ラ・ロシェル、マルロー、モンテルラン、グリーンなどが協力、寄稿していた―注)で知り合い、最大の師となったこと、一九三一年秋にはマルロー夫妻が来日し、二週間ほど一緒に日本の旅をしたこと、マルローの経歴と作品、併録の『侮蔑の時代』が「ロシア文学者H」によるロシア語からの重訳であることなどが語られている。

 平成五年になって刊行された林俊の『アンドレ・マルロオの「日本」』(中央公論社)はこのマルローと小松の関係をたどったもので、内容的にいえば、タイトルとしては『アンドレ・マルロオと小松清』のほうがふさわしいように思える。そこには「フランス現代小説」に関しての言及も見られ、小松がフランスから移入した人民戦線の先駆的動向としての行動主義、行動のヒューマニズムの時期を通じての文学における「最良の果実」だったとされる。
アンドレ・マルロオの「日本」

 それは小松の発案で、小松、堀口大学、山内義雄を監修とし、マルロー、フェルナンデスの作品を頂点とし、そこに至るまでの「現代フランス文学の重要な飛石をざっと拾おうとするもの」で、それまで翻訳されていない作品が対象となった。この企画のために、フランス側の出版許可を得ようとして、マルローに全面的な協力を依頼する小松の手紙がほぼ三ページにわたって掲載されている。

 それによれば、中心となっているのは小松と堀口で、部数は最高でも千五百部、出版社のほうは赤字を出さなければ上出来と考えていたことから、著作権に関する重い条件は呑めないことを、小松はマルローに訴え、ジャン・ポーランにも一筆書くと述べている。小松の要請は功を奏したようで、第一書房は出版に当たり、「フランスのNRFとわが第一書房との美しき文化的握手、本邦最初の系統的叢書!」という宣伝コピーを掲げたという。この「フランス現代小説」の刊行について、「恐らく、これは、第二次世界大戦前夜に開いた最後の華であった」と林は記している。

 
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古本夜話891 グロスリエ『アンコオル遺蹟』

 前回、ドラポルトによるアンコール・ワットに関する描写を引いておいたが、他あらぬその写真を箱の装丁に用いた一冊がある。それはヂヨルヂユ・グロスリエの、やはり三宅一郎訳『アンコオル遺蹟』で、昭和十八年に新紀元社から刊行されている。

 このグロスリエは藤原貞朗『オリエンタリストの憂鬱』において、ジョルジュ・グロリエとして言及がある。グロリエは植民地官吏の息子で、一八八七年プノンペンに生まれたカンボジア・フランス人第一世代に位置づけられる。パリの国立芸術学校を出て、再びインドシナに渡り、植民地画家として、アンコール遺跡をモチーフにしたポスターや切手を手がけ、一九二〇年にカンボジア芸術局長に就任し、カンボジア美術館を開館している。また彼はインドシナ研究のために設立されたフランス極東学院の初期メンバーでもあった。その芸術局長としての活動は四二年まで続き、植民地カンボジアの文化政策は彼の手にほぼ独占的に委ねられていたとされる。しかし第二次世界大戦中に退官を迎える中でもプノンペンにとどまり、日本によるカンボジア支配下にあって、反日運動に加わり、日本の憲兵隊の手に落ち、四五年に獄中死したという。
オリエンタリストの憂鬱(『オリエンタリストの憂鬱』)

 これらのグロリエ=グロスリエ(以下グロリエ)のプロフィルは『アンコオル遺蹟』には記されていないので、このような経歴の人物によって、同書が書かれたとわかる。菊判上製、函入、二〇五ページにはアンコール・トムのバイヨンを始めとする原色版四枚、図版一一六と付図六が添えられ、壮観というしかない。まさに戦時下の豪華本と称していいと思われる。それを裏づけるように、七円三十銭という高定価になっているし、『アンコオル遺蹟』の記述そのものも、専門的にしてガイドも兼ねる啓蒙的な面も備え、この時代の最も優れたアンコオルへの誘いの書を形成していよう。

 グロリエはアンコオルという言葉の意味を説明するところから始めている。それはサンスクリット語のナガラ(首都)がカンボジア語に訛り、口調よくなったもので、訳者の注によれば、nagara → nokor → ongkor,angkor となったという。この言葉をシンボルとして、九世紀から十三世紀にかけて、インド宗教がこの都府の城壁の中で異常に発展し、アンコオルは神秘の霧から浮かび上がり、光り輝き、そうしてまた少しずつ神秘の中に包まれていった。グロリエは記している。

それは、発展の途次であつたか、爛熟の結果であつたか、とにかくこの現象の過程に於て異常な事業がなし遂げられた。都には二十の伽藍が建立され、そのために山となす砂岩が優れた装飾家たちによつて彫刻された。アンコオルを中心に、国道は涯しなく星状に放射されて、八百の聖堂寺院が各地方と連絡された。石工は鋭い鑿で碑文を刻み、地を掘り実用的な広大な貯水池や、数千の聖池を作つた。一方、各時代を通じ、国境では外敵と戦ひ、町から町へと勢力を伸ばして行つた。同時に数多の神々を祀り、信仰のために黄金と聖堂とが川と鎔かされ、多くの聖堂は礼拝像の海と化した。忍耐強くその目録を作ろうとしても、今日残つてゐるものを数へ上げることすら諦めねばならない。

 そうしてアンコオル地方誌、首都の建設と建築、古都内と外の建造物、美術と工芸、その芸術の変遷が語られていく。その語り口は写真図版と寄り添い、アンコオルの神秘を伝え、浮かび上がらせていくトーンに包まれている。こうした大東亜戦時下の一冊を読んでいたのは、どのような読者だったのだろうか。

 いやそれは読者ばかりでなく、出版者や編集者のことも問われなければならない。奥付の刊行者として、松川健文の名前が記されている。昭和五十五年に京都の同朋舎から三宅一郎、中村哲郎の『考証真臘風土記』が出された。これは『オリエンタリストの憂鬱』でもふれられている元朝の周達観の『真臘風土記』 の考証で、レミュザとペリオの二人のフランス人による訳の「前言」や「序説」も収録されている。
真臘風土記

 十三世紀末に中国語で書かれた当時のカンボジア民俗誌に立ち入ることはできないが、この考証版は昭和十九年に刊行予定で、北京で書かれた共著者二人の「あとがき」も収録されている。しかも三宅のそれは中村の死も伝え、同書の刊行を見ずして、不帰の客となったことが記されている。それに加えて、「七七年二月」付で、昭和十九年十二月に「原稿を法蔵館の東京代表者のであつた松川健文氏に渡し」た。ところが戦後になって松川と会ったところ、東京での出版は不可能で、原稿さえも烏有に帰する状態となったことから、それを京都の法蔵館に預けたという。しかしそれが法蔵館の倉庫から発見されたのは昭和四十八年になってからのことで、ようやく同朋舎からの刊行を見たことになる。

 そのことはひとまず置き、松川のことだが、彼はグロリエの『アンコオル遺蹟』の刊行者であったことからすれば、昭和十八年には新紀元社の経営者だった。ところが企業整備と絡んでいるのだろうが、十九年には法蔵館の東京代表者となり、三宅たちとの関係も続いていたことを示している。だがこの松川とは本連載411で挙げたポルノグラフィ出版関係者の松川健文と同名であり、同一人物と見なしてかまわないだろう。

 どうして松川がそのように転回していったのかは不明だが、戦前から戦後にかけての出版は複雑で、入り組んだ位相と状況のもとに置かれていたことだけは了承されるのである。


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古本夜話890 ドラポルト『アンコール踏査行』=『カンボヂャ紀行』と藤原貞朗『オリエンタリストの憂鬱』

 少しばかり飛んでしまったが、本連載704などで証言されているように、大東亜戦争下において、アンコール関連の著作や翻訳の刊行も見ていた。それにはまず三宅一郎訳によるドラポルトの『カンボヂャ紀行』(青磁社、昭和十九年)が挙げられるが、『アンコール踏査行』として訂正加筆され、平凡社の東洋文庫で復刊されている。これはメコン川探検隊を組織し、その隊長となったルイ・ドラポルトが著わしたアンコール学の古典で、ここからクメール研究が始まったのである。青磁社版は入手していないので、東洋文庫版によって、それを見てみる。
アンコール踏査行(『アンコール踏査行』)

 まず冒頭にインドシナ半島の地図が示され、安南帝国の最南にあるフランス領コーチシナとカンボジアが示され、それらを貫いてメコン河が流れ、その奥にアンコールが見出されるのだった。一九五八年にフランス人博物学者がアンコールの遺跡を訪ね、その感動を遺著に記したことが述べられ、それはドラポルトも同様だった。「インドと中国の混合芸術から発生したクメール芸術は東洋のアテネ人とも呼ばれうる芸術家たちによって純化向上し、インダス河から太平洋へとひろがるアジアの広大な地域における、人知のもっとも美しい顕現として現存して」いたからだ。

 ドラポルトはコーチシナ総督とフランス美術院、植民省の協力を得て、一八七三年に二度目のクメール遺跡探検隊を組織する。それは一隻の砲艦と一艘の大型汽艇に一行五十人を乗せ、サイゴン港からカンボジアの沼沢の多い広大な森林を通っていく特殊な探検旅行といえた。メコン河に入り、ミト港を経て、カンボジアの首都プノンペンに至る。フランス保護国の都は目覚ましく発展し、ヨーロッパ風となり、中国人、ベトナム人、マライ人、タイ人、少数のヨーロッパ人が混住している。カンボジアのノロドム王はフランス人の考古学研究への便宜を約束したが、病弱で、統治の力が落ちているのは明らかだった。メコン河を進んで行くのは厳しい忍耐の練磨が不可欠で、それほど屈曲し、陰鬱で、あらゆる自然の障害が充ちていた。

 原生林の深い影の中にある河底は小灌木や蛇や無数の赤アリで埋まり、岸には大木が連なり、木立からは一群の鳥たちが飛び立ち、逆流の間には巨大なワニの死骸が横たわり、それに大ハゲタカが嘴を突き立てていた。そして行くこと五日目に古代クメールのポンテアイ・プレア・カン廃墟とプレア・トコール塔などに至り着く。この両者は復原図として掲載されている。そこにある彫像などを筏に載せ、運んでいく絵も収録され、それらが後にクメール博物館の一部となっていることも付記されている。それは「考古学的収穫」だが、それとパラレルに博物学者たちはあらゆる種類の昆虫、爬虫類、動物などの蒐集標本を増やすばかりだった。

 それからシャム王国に入り、大アンコールに至る。古代の寺院ともいうべきバイヨンの総配置図が示され、その第三層からなる復原図なども提出され、次にアンコール・ワットの復原図も同様である。それはクメール建築物のうちで最も保存がよく、一目で全体を把握できる、残された唯一のもので、次のように説明されている。

 前景に、九頭の巨竜と唐獅子に取り巻かれた広場、つぎに堤で画した広い池、橋が一つかかり、池へ降りて行く大きな階段が中央にあって列柱がついている(参道はすべて蛇でふちどられ、すべての階段には層段をなしている獅子が備えてある)。さて、つきあたりには、保壁の単一ゴプラ楼門のかわりに、美しい柱廊が池の岸にのび、ぎざぎざの層段落をいただいた三つの中央入口があり、両端に車や象の通路のための二つの大きな車寄せがひらいている。四方には鬱蒼たる樹木、遠くには無数のシュロの葉先にあわや見えなくなろうとしている高い本堂の五つの塔。(後略)

 ドラポルトたちはこのアンコール・ワット、比類なき建物の中を進み、あらゆる部分に施された芸術作品というしかない彫刻とレリーフに詳細な言及を加え、それはオマージュとして告白される。「いく日も、この遺跡、アンコール・ワットの建物へ行けたことは、われわれにとってなんたるよろこびであったことか!」と。だがアンコール・ワットからの「考古学的」記述はないけれど、それらを持ち帰ったにちがいない。

 その次の章にはまたしても筏で運ばれる大きな彫像の絵が掲載されている。そしてナポレオン三世のコンピエーニュ館へと運ばれ、公開された。ドラポルトは「芸術の研究と大蒐集品のパリのただなかに運ばれる日」を熱望しているが、それは一八七八年にパリの万国博覧会で一部が陳列され、ドラポルトたちの挿画を伴う探検記は、フランスのインドシナ幻想とオリエンタリズムを高揚させたにちがいない。八〇年には一五〇の挿画と復原図を収録した『アンコール踏査行』も刊行に至っているからだ。これは想像でいうのだが、これらの探検と挿画復原図は、私たちが少年時代にジュール・ヴェルヌなどを読んで覚えた、未知なる世界への誘いに満ちていたのではないだろうか。それはまた日本の大東亜共栄圏幻想とも重なってくる。

 また「植民地主義時代のフランス東洋学者とアンコール遺跡の考古学」というサブタイトルを付した藤原貞朗の『オリエンタリストの憂鬱』(めこん、平成二十年)の第一章は「ルイ・ドラポルトとアンコール遺跡復元の夢」に当てられている。藤原はそこでギメ美術館の一階正面展示室を飾るクメール彫像群、ドラポルトの肖像写真、『カンボヂャ紀行』の挿画、彼によるクメール彫刻のスケッチを示し、同書の「最初の主人公」に擬している。それはドラポルトが一九世紀後半の植民地における「フランス軍人兼考古学探検家の一つの典型と理想」を伝えていること、及びヨーロッパで初めてアンコール遺跡の彫像をもたらし、クメール美術館を設立し、考古学、美術史的研究を企図し、アンコールの歴史を解明しようとしたからである。
オリエンタリストの憂鬱

 しかしその一方で、ドラポルトの著作には「現実の光景とはかけ離れた幻想的で神秘的なアンコール・イメージ」と「前近代的な西欧人の東洋幻想の多面性」が含まれているのだ。 それらをトレースするために、続けてフランス人によるアンコール関連書を見てみよう。


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