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古本夜話712 紀平正美『哲学概論』と岩波書店「哲学叢書」

 本連載706で、紀平正美が朝倉書店の「現代哲学叢書」の推薦者の一人だったことに加えて、前回も紀平が国民精神文化研究所員であり、「国民精神文化類輯」の1『我が青年諸兄に告ぐ』の著者だったことを既述しておいた。これはふれなかったけれど、「現代哲学叢書」は明らかに大正時代の岩波書店の「哲学叢書」を範としている。出版企画は絶えず反復されていくのであり、紀平もその著者の一人だった。それゆえに紀平に関しても、ここで取り上げておくべきだろう。まずは『現代日本朝日人物事典』の立項を示す。

紀平正美1984.4.30~1949.9.20 きひら・ただよし 哲学者。
 三重県生まれ。1900(明33)年東大哲学科卒。国学院、東洋大を経て、19(大8)年学習院教授。05年小田切良太郎とヘーゲルの『エンチュクロペディー』の一部を翻訳して『哲学雑誌』に連載し、日本におけるヘーゲル研究の先駆となった。『認識論』(15年)は日本人として最初の本格的な認識論研究である。このように哲学啓蒙家として出発したが、次いで『無門関解釈』(18年)、『行の哲学』(23年)で自己の哲学を組織し、32(昭7)~43年国民精神文化研究所員として日本精神を鼓吹するする理論的指導者として活躍。43年には京都学派の哲学を批判、戦後は公職追放された。

無門関解釈

 ここに挙げられた紀平の四冊の著訳書は入手していないが、『哲学概論』が手元にある。これは岩波書店から大正五年に初版が出されたもので、私が所持するのは大正八年の第八版である。岩波書店の処女出版は大正三年夏目漱石の『こころ』とされているので、『哲学概論』が創業期の出版物だとわかる。しかも奥付定価の横には「本店の出版物は凡て定価販売実行仕候」と付されている。戦後と異なり、この時代には再販制は導入されておらず、書店においても割引販売が行なわれていた。それに対し、岩波書店は定価販売を謳って創業したのである。

 入手した紀平の『哲学概論』は菊判上製五七五ページの裸本だが、函入で、その表装画には二匹の「蛇の食ひ合」が描かれていたようだ。それは巻頭にその「説明」として、「二匹は相対を現はす。相対を関係せしめて絶対となすことが、是れ哲学的の思考なり」との文言が置かれて、その後の紀平の軌跡を伝えているようにも思われる。この一冊は早稲田大学の講義録として出されている。その「序」をあえて要約すれば、哲学による統一原理の光明によって、カントの批評的精神を実社会の全方面に要求する論述ということになる。

 さて次に紀平と岩波書店の関係を見てみる。岩波書店は大正四年から全十二冊に及ぶ「哲学叢書」の刊行を始め、その最初の一冊は他ならぬ紀平の『認識論』だった。編者は岩波茂雄の友人の阿部次郎、上野直昭、安倍能成で、彼らは著者も兼ねていた。その布石は『岩波書店七十年』に記されているが、大正三年に東京帝大哲学科を中心とする『哲学雑誌』の発売所を引き受けたことにあるはずだ。明治二〇年に『哲学会雑誌』として創刊され、本連載672の井上円了の哲学書院から出されていたが、二十五年に『哲学雑誌』と改題され、発行も哲学雑誌社に移され、漱石も編集員となり、ホイットマン論などを寄せている。
認識論 (『認識論』)

 そして大正時代に入り、古本屋から始まった岩波書店は岩波茂雄の東大人脈、漱石と『哲学雑誌』の著者人脈をメインとして出版に参入していく。漱石の出版の成功はいうまでもないが、「哲学叢書」も大成功だったのである。先の『同七十年』は書いている。

  第1次世界大戦の社会・経済的影響や西欧思潮の無秩序な流入による当時の思想界の混乱は、わが国における哲学の貧困を示すものである、との考えから岩波茂雄は、日本人哲学的思索の確立に資するため、哲学の知識の普及を思いたち、この叢書を刊行することになった。この叢書は学生層に広く浸透し、爾後岩波書店は哲学書の出版社として存在を認められるに至った。

 ただ編者たちにとって、この「叢書」の売れ行きは危ぶまれるものだったけれど、結果として、大正期のニューアカデミズムブームのような売れ行きを示したのである。この大正四年から六年にかけてのラインナップも挙げておこう。

1 紀平正美 『認識論』
2 田辺元 『最近の自然科学』
3 宮本和 『論理学』
4 速見滉 『論理学』
5 安倍能成 『西洋古代中世哲学史』
6 阿部次郎 『倫理学の根本問題』
7 石原謙 『宗教哲学』
8 上野直昭 『精神科学の根本問題』
9 阿部次郎 『美学』
10 安倍能成 『西洋近世哲学史』
11 高橋里美 『現代の哲
12 高橋穣 『心理学』

 大正末までに最も売れたのは4の七万五千部、12の四万三千部だったという。

 安倍能成の『岩波茂雄伝』(岩波書店)は「初期の出版の内、『こころ』にも劣らず重要なのは、『哲学叢書』の出版」で、「この書が日本の思想界、殊に若い学徒に与へた影響は、その売行と共に大きかつたといつてよく、今まで殆ど哲学もしくは哲学書が顧みられなかつたのに対して、一時の哲学もしくは哲学書流行時代を作つたのであつた」と述べている。それを背景にして、大正十年の『思想』の創刊もあり、さらに昭和初年の岩波文庫の創刊へとリンクしていったと考えられるだろう。

岩波茂雄伝

 また小林勇のもうひとつの岩波茂雄伝『惜櫟荘主人』(岩波書店)には、大正十年時点での全十二冊の重版数が記され、紀平の『認識論』をあげてみても、二十五版とある。初版千部、重版は五百部とされているので、一万三千部に達していたことになろう。とすれば、先述の『哲学概論』も五千部に及んでいたし、定価にしても「哲学叢書」の一冊二十銭に対し、二円五十銭だから、ほとんど比肩する売上だったのである。

惜櫟荘主人(講談社文芸文庫版)

 しかしその紀平が岩波書店プロパーの哲学者から、昭和に入って、どのようにして日本精神を鼓舞するイデオローグへと転回し、岩波と併走していた京都学派をも批判するようになっていったのかは定かではない。思想の科学研究会編『転向』(平凡社)は京都学派に関しては言及していても、国民精神文化研究所によった紀平たちは俎上に載せていないからでもある。
転向


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