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古本夜話1063 斎藤昌三『現代日本文学大年表』

 すでに四半世紀前になってしまうのだが、あらためて近代文学史と出版史の関係をトレースしなければならないと考え、その最も重要な資・史料として、『現代日本文学全集』の別巻『現代日本文学大年表―(附)社会略年表』を常に座右に置いていたことがあった。
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 これは「序」と「例言」が斎藤昌三の名前で記されているように、『近代出版史探索』182の木村毅の慫慂により、木村の他に柳田泉、青山督太郎、法月俊郎、宮武外骨たちの資料提供を受け、四年かけて、明治大正六十年間の三万を超える作品を調査し、カード化、重複の点検、浄書を経て、昭和六年十二月に『現代日本文学全集』の最終巻として刊行されたのである。
近代出版史探索

 私は「美和書院『話を聞く娘』」(『古本屋散策』所収)などで斎藤にふれてきているが、『日本近代文学大辞典』におけるその立項で、谷沢永一がいうところの「近代文学書誌の礎石を置いた」との業績に関して取り上げてこなかった。それは川村伸秀が『斎藤昌三』(晶文社)のサブタイトルに示している「書痴の肖像」にそれほど関心を覚えなかったことによっている。しかしこの『現代日本文学大年表』こそは、その斎藤の最初の達成というべきだろう。

古本屋散策 斎藤昌三 書痴の肖像

 それをまず具体的に語るために、斎藤による「例言」の最初の部分を以下に示す。「本篇は題して『現代日本文学大年表』といふ。明治元年以降、大正末期に亙る約六十年間の、文芸作品の殆どを年代順に収録したもので、其の数は約三万三千篇である」。この言を裏づけるのは順序が逆になってしまったが、八ページの及ぶ巻頭写真で、それらには明治十八年の『女学雑誌』から大正十五年の『劇』に至る一〇八種の創刊号が掲載され、実際に初出雑誌を収集し、『現代日本文学大年表』が編纂されたことを伝えていよう。

 そうして明治元年の「厚化粧万年島田 為永春水 蔦屋吉蔵」から始まる『現代日本文学大年表』の六十年の幕が開かれていくのである。タイトル、作者、版元もしくは掲載誌、新聞名がリストアップされ、それに「社会略年表」が付され、それ以後の「文学年表の礎石」となったと推測できる。ちなみに作品数を挙げれば、明治元年は十一編、二年は二編、三年には四編、四年は九編、五年は十二編で、ほとんどが近世出版社の系譜に連なる版元の単行本であったが、各月リストアップされるようになる明治九年からは雑誌や新聞掲載も目立ち、近代作者の顔の他に翻訳も加わり、活性化しつつあることをうかがわせている。

 それに続く明治十年代は後半に至って、活況を呈するといっていいほどの多くの作品が生まれたことを告げるように増加し、二十年代に入ると、尾崎紅葉以下硯友社同人、坪内逍遥などの近代文学者も連れ立って登場するようになる。そればかりでなく、近代出版社としての博文館や金港堂の名前も見えてくる。近代の新しいメディアとしての新聞や雑誌の誕生、それとともに出現する新しい著者や物語、新しい読者の登場がクロスし、これも新たな近代出版社を簇生させていくのである。

 それらの事実から近代文学の誕生とパラレルに、その生産、流通、販売を担う出版社、取次、書店からなる近代出版流通システムが稼働し始めていたことに気づかされた。そのシステムの中心にいたのは近代出版の雄としての博文館であり、その創業が明治二十年だったことはまさに象徴的で、つまり近代文学と近代出版流通システムの誕生は軌を一にしていたとわかる。

 それ以前は出版社、取次、書店が分化していない近世出版流通システムに依拠していたし、『現代日本文学大年表』の明治元年から二十年にかけて見られる多くの出版社が消滅してしまったのも、そうした流通販売のイノベーションに移行できなかったことが一つの要因であろう。それを物語るように、『現代日本文学大年表』は明治十九年までは三一ページ、二十年から四十四年までは二一八ページ、大正元年から十年にかけては二六六ページで、文芸市場の成長が如実に示されている。

 そのことに関連して、この『現代日本文学全集』の「別巻」にみられる奥付記載と検印紙の事実関係にふれておこう。これは本連載804でふれた改造社版『国木田独歩全集』でも明らかな経済事情だが、著作権所有者は斎藤昌三ではなく、山本実彦とあり、検印紙にも山本の印が押されている。つまりこの「別巻」は印税が発生しないことを前提にして刊行されたことになる。ただ『国木田独歩全集』と異なるのは、国木田家の経済的事情から全集著作権が山本に委譲されていたことに対し、『現代日本文学大年表』の場合、斎藤の四年間にわたる編纂、古本資料購入などの全経費を山本が担っていたことを意味していよう。

 その全経費がどれほどに及んでいたかはもはや一世紀前のことゆえ算定できないけれど、最終巻の発行部数が十万部とすれば、印税は一万円であり、以下にまだ古書価が安かったにしても、資料費だけでもそれを超えていたと推測できる。それに古書業界の協力なくして、別巻だけでなく、『現代日本文学大年表』の実現も不可能だったと思われるし、それに続く円本も同様であったと判断せざるをえない。

 『東京古書組合五十年史』によれば、古書籍取引の常設市場としての東京図書倶楽部が神田区小川町に新築されたのは大正五年で、それを背景として、同八年に東京古書籍商組合が設立される。それ以後の東京古書組合の発展は先の組合史に譲るけれど、この古書業界を資料的バックヤードとして昭和円本時代は進行していったのであり、その嚆矢としての『現代日本文学大年表』はまさにその最初の試みだったといえるだろう。関東大震災以後、出版業界と古書業界の蜜月が始まろうとしていたのである。


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