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古本夜話1109 松本清張『Dの複合』と重松明久『浦島子伝』

  『群書類従』に関して、もう一編書いておきたい。それはその第九輯に収録された「浦嶋子伝」をめぐってである。そういえば、『近代出版史探索Ⅴ』979でふれた大江匡房の「傀儡子記」なども同輯に見出せるし、確認に至っていないけれど、多くの古典籍に出典はまず『群書類従』に範を仰いでいるのかもしれない。

近代出版史探索Ⅴ

 これも三十年以上前のことになってしまうが、現代思潮社からそれまでの西洋版ではない「日本の各時代のベストセラー・シリーズ」と銘打った「古典文庫」が刊行され始め、その中の一冊に重松明久の『浦島子伝』があった。同書を購入したのは、松本清張の『Dの複合』(カッパ・ノベルス)を読んでいたからだ。このミステリーは日本各地の浦島伝説や羽衣伝説などを物語の経糸としていて、清張はこの作品に自らの古代史や民俗学見識を意図して散種しているように思われた。

浦島子伝 f:id:OdaMitsuo:20210108110642j:plain:h110 (カッパ・ノベルス)

 それもあって、たまたま出たばかりで、帯文に「甦える古代神仙思想」とのコピーが付された『浦島子伝』を読むことになったのである。そこには『Dの複合』にも挙げられている『丹波国風土記』を始めとし、七つの「浦島伝説」が原文、訓読文、注を揃え、収録されていた。それらを出典とともに示す。

1「浦嶋子」 『丹波国風土記』
2「水江浦嶋子」 『万葉集』
3「浦島子伝」 『古事談』
4「浦島子伝」 『群書類従』
5「続浦島子伝記」 『群書類従』
6「浦嶋太郎」 南葵文庫旧蔵写本・絵、霞亭文庫蔵板本
7「浦嶌太郎」 国立国家図書館蔵

 これで当時『群書類従』は未見だったけれど、「浦島伝説」のひとつが『群書類従』に基づくことを知った。6の南葵文庫は拙稿「永井荷風と南葵文庫」(『図書館逍遥』所収)、同じく霞亭文庫については「霞亭文庫と玄文社」(『古本探究3』所収)を参照されたい。

図書館逍遥 古本探究3

 重松は1から5の「浦島伝説」の原文を示し、6と7は小説を意味する草子的な日本語となっているので、注だけが施されている。その後に七つの「浦島伝説」の倍に及ぶ二百ページ近くの「浦島子伝 解説」「浦島伝説の性格と変容」「浦島伝説の宗教的背景」が続いている。これらはテキスト・クリティックと同じく、啓蒙的というよりも、専門的な文献、歴史的研究で、私の知見を超えているけれど、簡略に抽出してみる。

 浦島伝説は1から3に見られるように、八世紀から『丹後国風土記』の「浦嶋子」、『万葉集』の「水江浦嶋子」、『古事談』の「浦島子伝」、つまり「浦島子」を主人公として書き継がれてきた。その本質的性格は神婚説話で、長生と美女との歓楽という二つの人間的固有の欲望を空想的に想像した仙境淹留話である。だが『風土記』系の神仙境が山、もしくは天上であり、『万葉集』系は神仙境が海宮とされ、双方が神仙思想の原義に即応して構想されているのだが、舞台設定は対照的である。それらと比べると、『古事談』系は道教の色彩が強く、4と5の『群書類従』の「浦島子伝」や「続浦島子伝記」も金丹・石髄という道教系の仙薬を打ち出している。

 そうした浦島伝説が竜宮物語として一般化するのは平安時代になってからの6の「浦嶋太郎」においてで、主人公の名前は浦島子から浦島太郎へと変わっていく。そして物語も神仙8譚を継承しながらも、亀を助けることによる報恩譚へと変容し、海上で美女と出会い、竜宮に赴き、二人は結婚する。楽しい三年の月日が過ぎ、浦島太郎は父母を案じ、帰郷を申し出ると、乙姫は亀が姿を変えたものだと告白し、玉手箱を与えた。帰朝した浦島太郎は自分が行方不明になったのは七百年以前のことで、父母の墓所も示され、茫然自失し、玉手箱を開ける。するとたちまち年老い、鶴となって蓬莱山へと向かい、そこで亀と遊び、後に浦島太郎は浦島明神として衆生を済度し、亀も同じく神となり、夫婦の明神となったとされる。

 こうした浦島伝説をふまえ、松本清張は『Dの複合』において、重松も引いている謡曲「浦島」や坪内逍遥の「新曲浦島」などにも言及し、さらに羽衣伝説を重ね合わせ、それにまつわる逍遥の「堕天女」をも挙げている。だが残念ながら『Dの複合』は昭和四十年からの『宝石』連載で、重松の『浦島子伝』の刊行は同五十六年であり、参照されていない。その代わりに、『近代出版史探索Ⅴ』984の高木敏雄『日本神話伝説の研究』、同997の藤沢衛彦『日本伝説研究』の書名が引かれ、清張が単なる思いつきでなく、用意周到に浦島伝説を自家薬籠中のものとし、『Dの複合』に臨んだとわかる。とりわけそれは著者不明の『日本民間説話の研究』に象徴され、主人公はそれを国会図書館にまで足を延ばして読むのである。

Dの複合(新潮文庫)f:id:OdaMitsuo:20191217170856j:plain:h113  f:id:OdaMitsuo:20200208121308j:plain:h115

 「『日本民間説話の研究』は今から三十年前の本で、おそろしく古いが、(中略)一二一頁を開いた。そこは「浦島・羽衣伝説の淹流説について」という項だった」として、次にほぼ二段組三ページに及ぶ引用が続いている。これは高木と藤沢の著作をベースして、清張が提出しているオリジナルな「浦島・羽衣伝説の淹留説について」に他ならないように思えるし、重松の『浦島子伝』にしても、『Dの複合』を前提して成立しているのではないだろうか。

 ここではそれを目的としていないので、推理小説としての『Dの複合』にはふれられなかったが、興味を持たれた読者はぜひ読んでほしい。

 これらに関連して、ずっと岐阜県立美術館蔵の山本芳翠「浦島図」を見たいと思っているのだが、まだそれを果たせていない。
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