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古本夜話1297 大庭柯公『露国及び露人研究』

 本探索1288の荻野正博『弔詩なき終焉』を読むことで、田口運蔵が大庭柯公問題に深く関わっていたことを教えられた。これは大庭と田口の大正十、十一年のモスクワ滞在が重なっている事実からすれば、意外ではないけれど、荻野による田口の評伝の刊行によって明らかになったと見なすべきだろう。

 弔詩なき終焉―インターナショナリスト田口運蔵 (1983年)  

 大庭は『露国及び露人研究』が昭和五十年代に中公文庫化されたことで、その存在と著作がかろうじて残されたが、これは彼の没後の大正十四年に柯公全集刊行会から出版され、入手困難な一冊となっていたのである。なお文庫に付された長谷川如是閑の「序」は『柯公全集』のものを転載している。同書はほとんどが大正時代に書かれた「露国」と「露人」に関する研究というよりも、エッセイ、もしくはこまやかな愛情のこもったレポートといった色彩に覆われ、それらの百編が収録されている。いくつかの例を挙げれば、「夜の魔都、魔の女」「露国婦人の貞操問題」「革命前夜の露国婦人」「いわゆる露国の新しい女」などの女性や風俗問題にもふれられ、「黄禍」にあるドイツや、ジャップと侮蔑するアメリカとは異なり、日本人に対しても分け隔てないロシアの親密さにも及んでいる。

 

  そうした文章の集積が『露国及び露人研究』の一冊を形成していて、柯公が日露戦争後の第一次世界大戦とロシア革命を経たインターナショナルな社会状況下における卓抜なジャーナリストだったことが伝わっている。それならば、柯公とはどのような人物なのか。『日本近代文学大事典』における立項を要約し、他のデータも補足してみる。

 大庭柯公=景秋は明治五年山口県長府町生まれ、県士族の父に従い、東京に移住し、太政官の給仕をしながら英語とロシア語を学び、二葉亭四迷との機縁を得た。参謀本部通訳官などを経て、明治三十九年に大阪毎日新聞社に入り、海外特派員、国際ジャーナリストとなった。大正九年に大阪朝日新聞社に移るが、本探索1275で既述しておいた筆禍事件に伴い、長谷川如是閑、吉野作造、大山郁夫たちに同調して退社し、大正デモクラシーの先駆となった黎明会に加わり、『我等』の寄稿者となっていく。また社会主義同盟にも加入していた。そして十年には五月革命後のロシアへと赴き、消息不明となる。「露国及び露人研究」所収の『読売新聞』に送った「チタを発するに臨みて」が最後の記事とされる。

 【複刻日本の雑誌】E 創刊号 我等 1982年 講談社 [雑誌] (複刻版)

 当時のロシアの国境周辺は「日本人の冒険的入露者」も少なくなく、その中でも大物はロシア通のジャーナリストとして知られた柯公であり、それが『弔詩なき終焉』でも「大庭柯公」や「大庭柯公問題」として小見出しを付し、言及されている。コミンテルン極東支部の日本人責任者だった田口のもとにはそれらの問題も持ちこまれていた。柯公はハルピンやチタを経て、モスクワをめざし、イルクーツクに入ったが、チタで一緒になった富永宗四郎、久保田栄吉ともに、ソ連当局に拘留された。久保田は後の『近代出版史探索』111の『驚異の怪文書ユダヤ議定書』の訳者であり、柯公の先の著書にも「露国の油虫猶太人」が含まれているように、そのことで意気投合したのかもしれない。コミンテルンの日本人メンバーだけでなく、当時の「冒険的入露者」の魑魅魍魎とした錯綜ぶりをうかがわせていよう。

 田口はイルクーツクに赴き、コミンテルン幹部と交渉し、柯公はモスクワへ向かうことを許可され、到着したとされる。イルクーツク拘留のみならず、それに続く「大庭柯公問題」も入り組んでいるので、荻野の記述に従い、簡略にトレースしてみる。

 だが柯公はその前歴と軍部との関係、ブルジョワ新聞記者であったことからスパイの嫌疑がかけられ、モスクワで逮捕されてしまう。柯公はモスクワ東洋語学校で日本語を教えたりしていたが、ソ連からの出国を望み、自ら各方面に出国を働きかけ、ドイツ経由での帰国を許可する旅券がソ連外務省から降り、ベルリンに向けてモスクワ駅を発った。ところがその車中で逮捕、逆送され、モスクワのプチルスカヤ監獄へ投じられたのである。田口は柯公の入獄を知らされ、片山潜と相談し、ゲ・ペ・ウ長官トレリッチーに問い合わせたが、田口や片山はコミンテルンの日本人としてはアメリカグループであり、正式に日本グループからの要請であれば、保釈も考慮するとの返答であった。ここでいうアメリカグループと日本グループの対立も、柯公問題に屈折した影響を及ぼしていたようだ。

 それもあって、柯公のほうは堺利彦と山川均に対し電報を打ち、ソ連当局への身元保証を頼んだが、返事はなかった。そこで片山は日本からやってきた高尾平兵衛とともに、柯公の釈放運動に取り組み、日本からの正式抗議書を作成し、田口が高尾と再びトレリッチーを訪れると、柯公の保釈は約束されるに至った。しかしその夜、高尾はモスクワを去り、さらに翌日には田口が帰国のためにベルリンに向かい、田口は片山の指示に従い、本探索1287のベルリンの森戸辰男に柯公の件のフォローを依頼し、森戸もそれを了承している。

 片山や田口による柯公の保釈運動も功を奏したかにみえが、森戸への依頼も実を結ぶものではなかった。田口には帰国後、大庭夫人を訪ねたが、保釈されてからも三ヵ月にわたって通信がなく、再び入獄したのではないかという不安を聞かされた。実際に柯公はその後シベリアからイルクーツクに送られ、そこで消息不明となっていた。田口はモスクワ外務省などに問い合わせたが、柯公のその後は不明で、風説として獄中死や銃殺が伝わってくるだけだった。「大庭柯公問題」の真相は現在に至るまで明らかになっていないと思われる。


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