戦前に全集が出されていても、もはや忘れ去られてしまった文学者や思想家は数え切れないほどだし、それは戦後も同様である。二十年ほど前に、ブックオフで『亀井勝一郎全集』(講談社、全二十一巻、昭和四十六年)を見つけ、一冊百円だったので、気まぐれに購入してしまった。私などの戦後世代にとって、亀井は人生論の著者の印象が強いのだが、戦前は日本浪曼派との深い関係もあり、この全集でしか読めないものが収録されていると思ったからだ。
念のためにこの一文を書くに際して、『日本近代文学大事典』(昭和五十二年)で亀井を引いてみると、三ページに及ぶ立項があり、彼はすでに昭和四十一年に死去していたが、この時代までは著名な文学者だったことになろう。ただ残念なことに一度は通巻してみようと思っているうちに時は流れ、積ん読状態も変わっていない。
確か同じ頃だったはずだが、やはり古本屋で第一書房の『土田杏村全集』を買い求めている。これは全十五巻のうちの十三冊で、不揃いでもあり、安かったからだ。土田も亀井以上に忘れられ思想家といえるだろう。こちらも『日本近代文学大事典』を繰ってみると、三段にわたる立項を見出されるので、それを要約補足してみる。
明治二十四年新潟県佐渡生まれの思想家、評論家で、日本画家の土田麦僊の弟。それで『土田杏村全集』の見返しに麦僊の絵が使われているとわかる。新潟師範から東京高師に進み、生物学を専攻する。『近代出版史探索Ⅳ』634の丘浅次郎の影響を受け、在学中に『同Ⅵ』1198の廣文堂から『文明思潮と新哲学』(大正三年)を刊行し、京大哲学科に入り、西田幾太郎の影響下に多くの哲学、論文、詩、評論を発表し、引き続き大学院に六年間在籍する。その一方で、個人誌『文化』を刊行し、上田市に民衆のための成人教育機関自由大学を創設している。それは上木敏郎の『土田杏村と自由大学運動』(誠文堂新光社)に詳しい。彼はこの教壇に立った以外は在野のままで、喉頭結核と肺患に苦しみながらも、多岐にわたる分野の六十数冊の単行本を残し、昭和九年の死後、刊行の『土田杏村全集』としても、全著作の三分の一の収録にすぎないとされる。
それらの中でも、国文学研究は評価が高く、新短歌運動の先頭にも立ち、社会科学書は発禁処分を受けて危険思想家と目され、左翼陣営からは反動的扱いを受けながら、最晩年は日本美術史研究に心血を注いでいたとされる。だがこのようなラフスケッチでは杏村の大正から昭和初期にかけての活躍のリアリティは伝えることができないように思う。しかしこれらの主著が第一書房から刊行されていることからすれば、長谷川巳之吉とずっと併走してきたと考えられる。
ところが『第一書房長谷川巳之吉』において、春山行夫がこの全集は『近代出版史探索Ⅵ』1034の三浦逸雄の担当だったけれど、編集や校正は外部で行われ、彼は主としてその連絡事務に携わっていたと証言している。それもあってか、三浦は何も記していないし、長谷川自身にしても大きな出版プロジェクトのはずだったのに何も語っておらず、すでに『土田杏村全集』のことは第一書房史においても希薄なのである。
それゆえに『土田杏村全集』そのものに出版の在り処を見出さなければならない。幸いにして第一巻には長谷川の「刊行の辞」や編纂者の「編纂の辞」も掲載されているので、それらをたどってみる。そこで長谷川は杏村のプロフィルと業績に関して、次のように述べている。少し長くなるが、近傍にいた出版者の描いたものなので、省略せずに引いてみる。
一個の哲学者及び現代哲学史家として、杏村は独自の業績を残した。一個の文明批評家・社会思想家として、杏村は押しも押されぬ一大権威であつた。一個の教育者として、杏村は高貴の使命を果たした。一個の倫理道徳の学徒として、杏村は力強い進歩的な実践哲学を示した。一個の経済学徒として、杏村は眼光を特色ある経済理論に向けた。一個の宗教学者として杏村は聖なる贈物を忘れなかつた。一個の国文学者として、杏村は驚異的な研究を成し遂げた。一個の文芸批評家及び文学者として、杏村は巨きな足跡をのこした。一個の美術研究の学徒として、杏村は目ざましい研究を着々として遂行した。総じて吾が杏村は、かくの如く十に余る文化学の殆んど全部門に渉つて、各々専門学者としてそれぞれ立派な業績をのこしたのである。この事自身全く超人的といつてよいのであるが、しかも更に驚くべき事には、それらの多様性が所謂専門家流に格別に割拠分裂する事なしに、互いに相寄り相助けてここに全体的教養となつて広く深く統合され、つひに上田学といふべきそれ自身生きた大きな一文化大系を組織する観があるのである。
そうした杏村を長谷川は今こそ「日本精神文化の若き父」と呼び、「人類教師」の列に加えるべきだとも付記している。
編纂顧問は森岡常蔵、西田幾太郎、長谷川如是閑、高田保馬、吉澤義則、新村出、「編三の辞」は恒藤恭、務台理作、加藤仁平、山根徳太郎、土田千代連名でしたためられている。編纂顧問明からは杏村の京大における研究環境、編纂者名からは土田夫人もふくんだ、杏村の「文明批評家」「文化学研究者」を見守り、近傍にいたことを示し、それらの人々が実質的編纂者だったことを伝えている。
編纂者のすべてにふれられないけれど、最も多い第二、三、七、八、九巻という五冊の編纂者である恒藤恭に言及しておけば、杏村の京大時代の同窓と思われ、国際法などの法哲学者としても知られている。芥川龍之介との親交もあり、ゲーテの翻訳も刊行し、杏村と相通じる多面的な存在といえるし、それが五冊の編纂へとリンクしていったのであろう。
また最終巻の第十五巻には山根徳太郎による「跋 土田杏村全集の後に」が置かれている。そこで山根は全集の経緯と予約出版、関係者にもふれ、そこには由良哲次の名前も挙がっている。彼は由良君美の父である。なお編纂実務は三浦、人文雑誌広告文は春山、営業は『近代出版史探索Ⅵ』1137の伊藤禱一が担い、校正は岡田正三によったことも記されている。それらはこれが一大全集プロジェクトであったことをよく伝えていよう。
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