前回、高村光太郎と智恵子にふれたことからすれば、その『智恵子抄』に言及しなければならないだろう。しかも昭和十六年の初版のかたちをそのまま残している夫婦函入の龍星閣版が手元にあり、しばらく前に浜松の時代舎で買い求めているからだ。
ただその前に断わっておけば、私の場合、日本の近代詩は萩原朔太郎の『月に吠える』から読み始めているので、高村の『道程』や『智恵子抄』は素通りしてしまった感が強い。それは教科書などにおける『道程』の印象、『智恵子抄』がかもし出していた社会的モードなどにもよっている。例えば、昭和四十三年の通版六十五刷の帯にもつきまとい、そこには「全国学校図書館協議会選定/必読図書」として、次のようにしたためられていた。「初版発行以来27年間、『永遠のベストセラー』といわれる決定版!/『智恵子抄』は永い間、結婚祝いのおくりものとして感謝されてきました」と。
(『月に吠える』
もちろん新潮社文庫版『智恵子抄』も出されていたことを承知していたが、そうした少年時代の思いこみはその後も抜けていなかった。それは戦後世代に共通するものだったのではないだろうか。ところが長じて吉本隆明の『高村光太郎増補決定版』(春秋社、昭和四十五年)を読むに及んで、私の先入観は大きく修正せざるを得ないと思われた。吉本はそこで真正面から『道程』や『智恵子抄』の詩の内実に迫り、高村の個人史、智恵子との生活の前後史に言及した上で、次のように書いていた。
『道程』一巻も恐るべき詩集である。『智恵子抄』も恐るべき詩集である。前者はその背後に父光雲の芸術と人間にたいするぞっとするような憎悪と排反を秘しているからであり、後者は、夫人の自殺未遂、狂死という生活史という陰惨な破滅を支払って高村があがない得たものだからだ。
吉本が『道程』をヒューマニズムの詩、『智恵子抄』を比類なき相聞とする一般的評価から遠く離れているのは、高村の「出さずにしまった手紙の一束」(『スバル』明治四十三年第七号所収)、短編「珈琲店(カフエ)より」(『趣味』同第四号所収)を読んでいたからだ。吉本は前者を読むために、鮎川信夫から『近代出版史探索Ⅴ』893のフランス文学教授新庄嘉章の紹介状をもらい、早大図書館へと赴いている。そういえば『近代出版史探索Ⅲ』441の広瀬千香による『山中共古ノート』もそのようにして編まれたのである。かつてはそうして古い雑誌資料なども探索参照されてきたのである。それに比べ、現在は雑誌や書籍の復刻、「日本の古本屋」での検索による在庫の確認、国会図書館によるデジタル配信などによって、資料へのアクセスは信じられないほどにたやすくなったけれど、近代文学や思想研究の水準が上がったようには思われない。
(『山中共古ノート』)
それは出版や編集に関しても同様であり、本探索は吉本の「重層的な非決定」という視座から書き続けられているので、『智恵子抄』を編纂刊行した沢田伊四郎のことも取り上げておくべきだろう。『出版人物事典』の立項を引いてみる。
[沢田伊四郎 さわだ・いしろう]一九〇四~一九八八(明治三七~昭和六三)龍星閣創業者。東京外語時代から詩を書き、版画を集めたりして恩地孝四郎のもとに出入りした。一九三三年(昭和八)龍星閣を創業。富安風生句集『草の花』をはじめ、句集・随筆集を刊行、木暮理太郎『山の憶ひ出』、松方三郎『アルプスの記』などの山の本で一時期を画した。四一年(昭和一六)高村光太郎『智恵子抄』を編集、出版、多くの人に読まれ、永遠のベストセラーとよばれる。独自の出版道を貫き『限定版叢書』で稀覯本の新境地を開いた。五八年(昭和三三)石光真清の『城下の人』など四部作は毎日出版文化賞を受賞、五二年(昭和二七)『劉生絵日記』全三巻は装幀賞第一位となった。
この沢田の『智恵子抄』編纂と出版に至る経緯と事情はそこに付された八ページの「付録」に記録されているので、要約してみる。高村は昭和十三年十月に愛する智恵子を失い、失意のどん底にあった。そこで『道程』以来、二十年以上詩集を出していない高村に対して、沢田が「智恵子夫人をうたったものを集めたら……私が自分で集めましょう」と提案した。すると高村は「とても苦しい、いま集められることはかなわない……どうしてそういうことをするのか、君も不思議なことを考えるものだ」と答えた。
それから沢田は数ヵ月かけて、高村が「智恵子夫人をうたったもの」をまとめ上げ、届けたけれど、一年たっても二年たっても何の返事もなかった。そしてようやく三年目に出版が決まり、沢田の集めた詩編をさらに厳選し、『智恵子抄』というタイトルも自ら付したのである。高村はその見本を手にして、「恥しい、恥しい、智恵子を売りものにして……」と呟きながら、彼女の写真の前に飾ったという。昭和十六年八月に初版五千部、定価二円五十銭で刊行された『智恵子抄』はたちまち売り切れ、戦争中に十三刷、戦後に合わせて四十刷、昭和三十三年までに三十八万部に達したとされる。本探索で戦時下における詩集の出版状況に関しては記述しているし、そうした事情も作用しているはずだ。<
かくして私たちは昭和三十年代に「いやなんです/あなたがいってしまうのが――」と始まる「人」、「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」のフレーズの「あどけない話」を知ることになったのである。そして吉本の『高村光太郎増補決定版』を読むことによって、『智恵子抄』が近代の芸術家をめざした夫婦の悲劇、それによってもたらされた妻の精神の病を描いていたことにあらためて気づかされたのである。そればかりでなく、この『智恵子抄』を通じて、吉本は島尾敏雄の『死の棘』への注視、『共同幻想論』や『心的現象論序説』へと向かったようにも思われた。
[関連リンク]
過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら