出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話751 丸岡明『或る生涯』と『作家自選短篇小説傑作集』

 前回の丸岡明の作品集を入手している。それは昭和十五年に人文書院から刊行された『或る生涯』で、『作家自選短篇小説傑作集』の一冊である。このシリーズのキャッチコピーとして、「書中の各短篇は、作家自らが、最も自信と愛情を持つ、文字通りの代表作許りを、自選したもので、唯に当該作家の傑作集たるのみならず、その決定版である」と謳われている。
f:id:OdaMitsuo:20180204203737j:plain:h120『或る生涯』(『丸岡明小説全集』(二)所収、新潮社)

 『作家自選短篇小説傑作集』に関しては『或る生涯』を見て初めて知ったし、『日本近代文学大事典』にも、それは掲載されていないので、その明細をリストアップしておこう。番号は便宜的にふったものである。

 1 中河与一 『愛の約束』
 2 長与善郎 『幽齋父子』
 3 富澤有為男 『夫婦』
 4 大鹿卓 『千島丸』
 5 中谷孝雄 『春』
 6 寺崎浩 『森の中の結婚』
 7 外村繁 『風樹』
 8 丸岡明 『或る生涯』
 9 徳田一穂 『花影』

f:id:OdaMitsuo:20180205111951j:plain:h120

 9以後が出されているかは確認していない。ただこの8のフォーマットからすれば、いずれも四六判並製、三〇〇ページ前後と推測されるが、これまで未見であり、所収の短篇を読んでいるかもしれないけれど、それぞれの表題作は記憶に残っているものではない。どのようなシリーズであれ、こうした小説集であれば、少なくともいくつかは読んでいてしかるべきなのに、それが見当らないというのもめずらしい。そのことはこの『作家自選短篇小説傑作集』自体が、作家にしても作品にしても、この時代にしか編まれなかった企画だったことを告げているのかもしれない。

 そこで丸岡の『或る生涯』を読んでみた。同書には七篇の作品が収録されているが、やはり表題作の「或る生涯」を取り上げておくべきだろう。それにこの作品には丸岡のフランス文学に基づく心理主義、『三田文学』系の大学生の恋愛模様、実業と文学を両立させた本連載553の水上瀧太郎の影響が三位一体のかたちで表出しているように思われるからである。ちなみに「序にかへて」で、丸岡は同書を昭和十五年三月に急死した水上に捧げてもいる。そのことに照応するように、「或る生涯」の前置きとして、次のような言葉を添えている。

 「人間の個性が、何処まで発展され得るものか、その可能の世界を描いてみせることを、同時にその限界を明かにすることが、今後の私の仕事の中心になつてゆきさうである」と。

 「或る生涯」は川村光彦という青年を主人公としている。父は大学出の工業会社勤めだが、有能な事務家で将来を期待され、母は明るい華やかな性格で、社交にたけ、夫の栄達を助けてきた。二人は会社の上司たちにも評判のロマンスを経ての結婚で、光彦はこの両親の愛情を一身に受けて成長した。彼にとって甘い両親は、息苦しい思いと同時に得意な思いも与えてきた。その中で光彦は、両親の周辺の男女の複雑な感情を読み取ようになり、「情感が豊かで、手先きのことは総べて何ごとも器用で、なまけ者で、潔癖で、小心でおしゃれで、しかも美貌な青年になつた」。

 彼が大学生になると、父親は鎌倉に別荘を建て、商売上の社交場としたが、仕事の才はあっても取引上の駆け引きの裏表に通じておらず、それは母親も同様だった。その一方で、光彦の交友範囲も拡がり、別荘はダンスパーティや音楽会などを催すようになり、青年男女のグループとの交際も生じた。その中に女王のように振舞う貴和子がいて、光彦は彼女の虜になってしまう。だが「この女鹿に似た貴和子」は光彦の遊び仲間の「粗暴で、そのくせ、へんに気障つぽい嫌な奴」である矢代譲とつき合い、光彦のほうは急性肺炎による昏睡状態に陥ってしまう。

 光彦は回復後、鎌倉の別荘で療養していたが、父親は子会社への金融の失敗から、別荘も抵当に入り、会社を退くことになった。それとともに、光彦と貴和子の婚約も流れてしまい、光彦は大学を出て、商事会社に入り、父の旧友の勧めで、平凡なつる子と結婚した。その年の暮れ、光彦は貴和子からホテルのパーラーに呼び出される。彼女から結婚の祝いと矢代と離婚したことが発せられる。光彦はニューヨーク支店に転勤の話が出そうだが、迷っていると話す。すると彼女は「相変わらず駄目なのね」と激しい強い声でいい、自分から申し出てアメリカでもヨーロッパでもいくべきだと付け加え、去っていく。

 そして予想どおり、光彦は上役からニューヨーク行を正式に受けたが、長男が生まれたがかりだし、「自分の柄」ではないと思い、辞退したのである。そしてクロージングの一節が続いている。「光彦は自分の生涯の限度が、やつとはつきりしたと思つた。そしてその範囲内で、自分の能力相応につゝましく幸福に暮そうと考へた。長男には、母親のきよの反対を押し切つて、勉と命名した」。

 丸岡は「自分の今後の仕事の方向を、幾分なりとも明かにする考へで、この小説の題名を、そのまゝこの短篇集のものにした」とも記している。その出版後には大政翼賛会も発足しているし、このような丸岡の決意はどのような変化を強いられなければならなかったのだろうか。

 なお念のために、この『作家自選短篇小説傑作集』の古書価を調べたところ、いずれも稀覯本のようで、驚くほど高いことを知った。

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古本夜話750 宮尾しげを、『をどりの小道具』、能楽書林

 前回の小寺融吉『郷土民謡舞踊辞典』には民謡舞踊に伴う様式や、身体の動きを描いた多くの絵画が添えられていた。だがそれにふれられなかったので、続けてもう一編書いておきたい。
郷土民謡舞踊辞典 (復刻)

 まだテレビがなかった戦前の時代において、このような辞典を編むに際し、ヴィジュアルなイラストなどが不可欠である。『郷土民謡舞踊辞典』の場合、それらは歌や踊りにまつわる風俗画の転載、及び宮尾しげをによる絵画が担っている。ここで言及したいのはこの宮尾に関してで、そのような地方の民謡や舞踊を描けるのは、彼が民俗学に通じて画家であることを示してもいるからだ。宮尾は本連載365の岡多くおオックの単行本を出し、漫画家として知られていた。だがその後は集古会や民俗学の近傍にいたはずで、思文閣出版の『集古』全冊復刻は、宮尾の架蔵本に基づくものである。そのような宮尾の立ち位置ゆえに、小寺との関係も成立したと思われる。

 そうした民俗学を通じての小寺と宮尾の関係を伝える一冊がある。それは戦前の本ではないけれど、両者と新井国次郎の三人を著者とする『をどりの小道具』で、昭和二十八年に能楽書林から刊行されている。同書は菊判上製二八八ページの一冊だが、宮尾の手になる個道具をあしらった装丁で、江戸時代の風俗画の趣きを感じさせてくれる。まさにタイトルどおり、これは「江戸歌舞伎の所作事に現はれた小道具」に基づく「踊の小道具」の絵入り研究といえる。
をどりの小道具

 宮尾と小寺の連盟による「序」によれば、東京には踊の小道具専門店の老舗が三軒あり、それは親戚同士の新井、荒澤、司田で、そのうちの新井国次郎=蔦米(つたよね)の口述で、小寺が文章化し、宮尾が絵を添え、長唄、常磐津、清元物の三つの分野を取り上げ、上梓したものだとわかる。しかも宮尾と小寺がこの踊の小道具の研究を始めたのは十年以上前で、それが江戸時代の風俗史のための有力な参考資料になることを自覚し、日本青年館の雑誌『会報春秋』などに連載したことも語られている。これらの事実から考えると、宮尾と小寺は『郷土民謡舞踊辞典』のコラボレーションをきっかけにして、そのまま手を携え、踊の小道具の研究に向かったことになり、『同辞典』『をどりの小道具』は地続きの関係にあることが了承される。

 それにつけても考えさせられるのは、戦後になっても、このような古典芸能ともいうべき分野に関する専門書出版社が存在していたことで、能楽書林はそうした版元だった。このことは巻末の「能楽書林図書目録」にも明らかであり、能勢朝次『能楽研究』、野上豊一郎『能二百四十番』、坂元雷鳥『謡曲研究』、金春惣一『太鼓全書』、幸祥光『小鼓入門』などが並んでいる。それらは小津安二郎の同時代の映画『晩春』などに能の舞台が見えていたことを彷彿とさせ、また高度成長期以前の昭和二十年代には古典芸能が社会にあって、現在とは異なるかたちで息づいていたことを教えてくれる。

能楽研究 太鼓全書(『太鼓全書』) f:id:OdaMitsuo:20180202160404j:plain:h120(『小鼓入門』)晩春

 それにこの能楽書林は作家の丸岡明を社長とすることで、文学界ではよく知られていた。なぜか『日本近代文学大事典』の立項ではふれられていないけれど、『出版人物事典』にも立項されているし、それを引いてみる。
出版人物事典

[丸岡明 まるおか・あきら]一九〇七~一九六八(明治四〇~昭和四三)能楽書林社長。東京生れ。慶大予科在学中に水上滝太郎の推薦で『三田文学』に載った。「マダム・マルタンの涙」で文壇に出て創作活動を続け、戦後、『三田文学』を復刊、遠藤周作ら多くの新進作家を育てた。能に取材した「豹の沙汰」をはじめ、「贋きりすと」「静かな影絵」など多くの作品がある。父・桂の創業した能楽書林の代表となり、一九五四年(昭和二九)以来、三たび渡欧、能楽の普及や外国公演を推進した文化交流の功績に対して、フランスから叙勲された。

 また続けて、思いがけずに、その「父・桂」も立項を見出したので、それも示しておく。こちらも『日本近代文学大事典』に立項されていないからでもある。

[丸岡桂 まるおか・かつら]一八七八~一九一九(明治一一~大正八)能楽書林創業者。東京生れ。落合直文のあさ香社から出て、曙会、莫告藻会(なのりそかい)を結成、歌誌『あけぼの』『なのりそ』を発刊、新派歌人として知られ、歌集『長恨』などがある。一方、能楽研究に専念、一九〇七年(明治四〇)観世流改訂本刊行会を創業(昭和一一年合資会社に改組し、丸岡出版社と改称)、昭和二四年、合名会社能楽書林と改称、観世九暃会(きゅそうかい)の初代清之(きよし)と協力して、現在使われている節付けのなされた革命的な謡本をつくり、謡曲本の専門出版社としての基礎を築いた。

 この両者の立項によって、戦後の能楽書林へと至る軌跡、丸岡桂から明への継承をたどることができる。しかし昭和二十八年刊行の『をどりの小道具』の奥付は発行住所が神田神保町、発行者が丸岡大二となっている。この人物は桂の次男で、戦前に丸岡出版社を継承し、その後も実質的に能楽書林を担っていたことを意味しているのだろう。このことと能楽書林の出版物の全貌は明らかにされていないように思える。


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古本夜話749 小寺融吉『郷土民謡舞踊辞典』と市村宏

 『ミネルヴァ』に関してもう一編書いておきたい。といってもそれは『ミネルヴァ』自体ではなく、第五号の裏表紙に掲載された広告の書籍についてである。
ミネルヴァ

 その書籍は小寺融吉の『日本民謡辞典』で、「少部数を限定読者への奉仕」と謳われ、定価四円のところを「特価」二円二〇銭として、神田区神保町の稲垣書店が出広している。そこには藤岡作太郎の『鎌倉室町時代文学史』も同様の「特価」として並んでいる。「当店以外にては特価奉仕は致しません」との断わりも見えているので、稲垣書店はこの二冊の版元から残部を引き取り、「特価」で売り出していると推測できる。
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 この菊判三六〇ページの『日本民謡辞典』は未見であるけれど、その後版というべき同じ著者の『郷土民謡舞踊辞典』は入手している。こちらは新四六判五七二ページで、昭和十六年に冨山房から刊行され、巻末広告にその内容紹介もあるので、それを引いてみる。
郷土民謡舞踊辞典 (『郷土民謡舞踊辞典』復刻)

 近時に於ける郷土学の勃興は真に目覚ましきものである。殊に芸能方面にあつては、ラヂオに劇場に、我等が郷土の歌や踊が次々と紹介されてゐる。数限りもなくあつて、而も整理されてゐなかつたこれらの郷土民謡や舞踊が、本辞典によつて始めて日本六十余州を一望に収めることを得た。更に民謡や舞踊の特殊語や研究書目をも項目に加へ、挿画楽譜を多数添へて光彩陸離、詳細な府県別索引・書名、事物索引等、及囃子詞一覧表等をも加へて斯 道の辞典として間然するところなきを期した。

 これに従うならば、この時代に「郷土学の勃興」とともに、「郷土民謡や舞踊」も発見されたということになろうか。

 小寺はその「序」において、同書が昭和十一年に年来の旧知である壬生書院の富永董によって刊行された『日本民謡辞典』の増補改訂版だと述べている。またそれまで民謡は歌うことと聞くことの喜びを専らとし、これを書きとめ、後世に残すことはほとんど行なわれていなかったこともあり、ここでようやく「日本の郷土舞踊、及び民謡の大半を収め得た」との前書の「序」を再録している。確かに戦後の郡司正勝『日本舞踊辞典』(東京堂出版、昭和五十二年)を見ても、「民俗舞踊のときは、小寺融吉他の『郷土民謡舞踊辞典』などに拠らなければならない」と述べられているので、小寺の辞典が長きにわたって民謡や舞踊の貴重なアーカイブだったとわかる。
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 ただ小寺に関してはその『日本民謡辞典』にも立項がなく、見出せていない。先の「序」によると、小寺は日本の舞踊史研究に長く携わり、日本青年館嘱託として、「郷土舞踊と民間の会」の世話役を務めてきたとある。私が知っている小寺は、昭和二年設立の民俗芸術の会の世話人としてで、その機関紙『民俗芸術』が小寺の編集により、翌年に創刊されている。この民俗芸術の会は柳田国男、今和次郎、早川孝太郎、中山晋平、藤沢衛彦、永田衡吉などによって設立され、永田と小寺が世話人となり、柳田の助力を仰ぎ、その後援によって実現の運びとなったとされる。『民俗芸術』の創刊の言葉も無署名だが、柳田の手になるという。

 柳田国男研究会編著『柳田国男伝』(三一書房)の伝えるところによれば、昭和二年に民俗芸術の会談話会を三回開き、三年に柳田は日本青年館主催第三回郷土民謡舞踊大会で講演をしている。これらの事実を考えると、この時期に小寺は柳田の近傍にいて、民謡や舞踊のための水先案内人の役割を果たしていたようにも思われる。同様に壬生書院の富永も民俗芸術の会の関係者で、それが昭和十年の『日本民謡辞典』へと結実していったのではないだろうか。

 ところが当時のサブカルチャー辞典といっていい壬生書院版は、当然のことながら売れ行きがよくなく、発売わずか半年で、特価本として放出せざるを得なかったのである。ただそうはいっても、類書はないわけだから、その五年後にコンパクトな増補改訂版が出されるに至る。小寺はその「序」において、今回の刊行に際して、冨山房の市村宏への謝辞を記している。

 市村といえば、『ミネルヴァ』第三号に「民俗雑草」という一文を寄せている。それは市村の真宗の小学校時代の体験から始まっている。読本の時間に郡視官の視察があり、前もって自分に当てるといわれていたので、緊張して待っていた。そこに校長をお伴にして真赤な顔をした八字髯、フロックコートの視察官が入ってきた。そして壇上に出て、面白い唄を謡って聞かせると話し、声を張り上げ、次の民謡を歌い出した。それは「浅間山から鬼や尻出して鎌で掻切るやうな屁を垂れた」というものだった。

 意外な人から意外なところで郷土の民謡を聞かされることになったのだが、これは都会において豪快な民謡として説明、紹介されていたことによる。だが信州では山下しの風こそが先祖からの宿敵で、そこから発生したのが風切鎌の民俗であった。それは長い竿の先に鎌で結びつけ、風の季節に高々と立て沖、風を迎え打つもので、二十年前には山村でよく見られた光景だった。それゆえに「鎌で掻切るやうな」とは「大風のやうな」との洒落、ひねった言い回しなのである。

 そうした民俗が滅亡してしまったことから、このような日本語の意味がわからなくなってきている。それを防止するための仕事として民俗研究、民俗学が必要なのだ。それが市村の「民俗雑草」の民謡の大意ということになるが、市村のプロフィルのほうは伝えられていない。だがおそらく国文学者で、『広辞苑』の編集主任を務め、東洋大学教授となった人物だと思われる。

また意外なことに本連載349の石原憲治による「家根裏の神秘」の連載も同号から始まっていることも付記しておく。


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古本夜話748 直良信夫と松本清張「石の骨」

 前々回の山内清男と喜田貞吉の「ミネルヴァ論争」が続いている『ミネルヴァ』第四号に、直良信夫が「日本の最新世と人類発達史」を寄稿している。「最新世」とは洪積世をさし、直良の論稿は発掘化石や石器などの写真も示し、この時期から日本の旧石器時代も始まり、人類も発達してきたのではないかとする考究である。ただ直良は喜田貞吉との出会いによって考古学の道へと進むようになったこともあり、「ミネルヴァ論争」に加わるつもりでの寄稿ではなかったと思われる。
ミネルヴァ (復刻版)

直良に関しても、まず『「現代日本」朝日人物事典』の立項を引いておこう。
「現代日本」朝日人物事典

 直良信夫 なおらのぶお 1902.1.10~85.11.2 古生物学者、古人類学者。大分県生まれ。貧困な家に育ち、苦学して通った岩倉鉄道学校を中途退学、1920(大2)年農内務省に勤めた。病のため23年退職。24年結婚して直良に改姓。旧姓・村本。32(昭7)年早大獣類化石研究室に勤務、徳永重康に師事。45年早大講師、60~72年文学部教授を務めた。正規の教育は受けなかったが、古代の動植物、自然環境に深い洞察力をもち、瀬戸内海沿岸など各地より膨大な化石標本を収集。31年洪積世人類の寛骨(明石原人)、50~51年葛生原人などを発見した。(後略)

 このような経歴から、必然的に本連載741などの森本六爾とも親しく交流し、森本は直良に私淑していたようだし、これもまた同様に、松本清張の。「石の骨」のモデルともなっていた。それは森本をモデルとする「断碑」発表の翌年の昭和三十年に、同じ『別冊文藝春秋』に掲載され、ともに日本近代考古学の事件を扱っている。「石の骨」は立項に見える明石原人の発見をめぐるドラマであり、これまで名前を挙げてきた東大人類学教室のメンバーが総出演しているといっていい。登場人物とストーリーをたどってみる
或る「小倉日記」伝(「石の骨」「断碑」所収)

 黒津が考古学者の故宇津木先生記念碑除幕式に出席すると、式の委員長の水田博士が近づいてくる。水田は学界の長老であり、続いて考古学者のくせに、文化批評を書き、自分の名前を世間に出したがっているJ大助教授が席に誘った。宇津木は学歴は有さなかったけれど、一時はT大の教授となったが、陰謀に近い手段で実質的に追放されてしまった。それはT大の岡崎の人類学論文審査にまつわる問題で、竹中教授と植物学の小寺教授が宇津木に対し、この不備な論文審査に同意せよと請求した。そこで宇津木が辞表を出すに至ったのである。

 黒津は三十年前のことを回想する。彼は地方の中学校に奉職し、考古学の研究をしていた時、海岸で旧石器時代のものと思われる化石や石器を見つけ、さらにその崖の土砂崩れの中から人間の左側の腰骨片、化石人類の遺骸を発見した。それは日本にも旧石器時代があったという考古学上の宣言ともいえた。彼はその化石骨を持ち、鑑定を乞うためにT大人類学教室の岡崎博士を訪ねる。すると岡崎は驚愕の表情を示したが、一ヵ月後に化石と手紙が届き、そこには「旧石器時代の人骨とは認定し難く候」と書かれていた。

 どうしてそれが否定されたのか。その真相が判明したのはそれから数年後だった。化石が人類学教室に置かれていた際に、竹中博士が現われ、「彼の学者的嫉妬(ジェラシー)」からその化石はいい加減なものだと断言した。岡崎は論文審査のことで恩があり、それに同意し、否定の断を下すしかなかった。しかし黒津はそれを手元におき、さらに発掘に挑み、旧石器時代の推論を組み立てていたが、戦争が始まり、東京大空襲によって、腰骨の化石標本も灰燼に帰してしまった。だが戦後を迎え、水田からも書信があり、訪ねていくと、T大の標本室から岡崎が石膏で型をとっていた腰骨化石標本が見つかり、水田はそれを洪積世人類の遺骨と認めるので、自分が学界で発表し、命名するといった。そして黒津の「石の骨」は学名としてJapananthropus hatsuensis Mizutaとされたのである。

  高橋徹の「聞き書き・直良信夫伝」としての『明石原人の発見』(朝日新聞社、昭和五十二年)などを参照し、黒津=直良はいうまでもないが、これらの登場人物のモデルを明かしてみる。宇津木=鳥居龍蔵、水田=長谷部言人、岡崎=松村瞭、竹中=小金井良精、小寺=藤井健次郎、それから名前は記されていないけれど、J大助教授は樋口清之だと思われる。またこれらの人物設定の背景には、様々に錯綜した考古学と人類学のアカデミズム事情、大学内の人間関係と権力構造が複雑に絡んでいるのだが、それらを単純化してモデルを特定すれば、このような配置になる。
明石原人の発見

 そうして明石原人の発見をめぐる出来事を見てみると、あらためてキャリアに位置するアカデミズム、ノンキャリアというべき選科生、それらに対して発掘を通じて加わってきた学歴を有さない在野の研究者という、考古学における三層構造が浮かび上がってくるようにも思える。それは戦後も継承され、近年の所謂「ゴッドハンド事件」はその構造を象徴的に示すものだったのではないだろうか。

 なお『明石原人の発見』には、直良が発見直後に写真店で撮らせた化石腰骨の写真、自筆の松村からの手紙、同じく直良から松村への手紙、それに直良の「略年譜」も収録されていることを付記しておく。


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出版状況クロニクル117(2018年1月1日~1月31日)

17年12月の書籍雑誌の推定販売金額は1143億円で、前年比10.9%減。
書籍は556億円で、同3.4%減。
雑誌は586億円で、同17.0%減と4ヵ月連続の2ケタマイナス。
しかもかつてない最大のマイナスとなり、17年は雑誌史上初めての10.8%という2ケタマイナス。
その内訳は月刊誌が496億円で、同17.9%減、週刊誌は89億円で、同8.2%減。
雑誌の推定販売部数のほうも、4月から9ヵ月連続のマイナスである。
雑誌の書店売上も、定期誌6%減、ムック8%減、コミックス17%減。
返品率は書籍が36.9%、雑誌が41.5%。
それに雑誌は12ヵ月連続で40%を超え、17年の雑誌返品率は前年の38.3%に対し、43.7%に達し、これもかつてない高返品率といえよう。
最悪の雑誌状況の中で、17年が閉じられたことになる。


 
1.12月の出版状況に続いて、取次による年末年始(12/29~1/4・5)の書店売上前年比データが出されているので、それらを挙げておく。

日販     前年比 5.2%減
トーハン    〃  4.9%減
大阪屋栗田   〃  4.4%減
中央社     〃  9.9%減

18年の出版物売上動向を予兆するようなマイナスが示されている。
前回の本クロニクルでふれた雑協と取協による雑誌、コミックス296点、1000万冊刊行の「本屋さんへ行こう!」キャンペーンとしての「特別発売日」はこのデータを見るかぎり、功を奏していないと見なせよう。
分野別に見ると、とりわけコミックは最悪で、日販が17.8%減、トーハン20.3%減、中央社は11.6%減とされる。
本クロニクル115で、コミックリサーチサイト「はるか夢の址」の摘発を取り上げておいたが、その一方で同様のサイトが東南アジアに立ち上がっていて、やはり巨大なサイトに成長しつつあるようだ。その後の「はるか夢の址」の報告、及びこちらのレポートが望まれる。
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2.出版科学研究所による1996年から2017年にかけての出版物推定販売金額を示す。

■出版物推定販売金額(億円)
書籍雑誌合計
金額前年比(%)金額前年比(%)金額前年比(%)
199610,9314.415,6331.326,5642.6
199710,730▲1.815,6440.126,374▲0.7
199810,100▲5.915,315▲2.125,415▲3.6
1999 9,936▲1.614,672▲4.224,607▲3.2
2000 9,706▲2.314,261▲2.823,966▲2.6
2001 9,456▲2.613,794▲3.323,250▲3.0
2002 9,4900.413,616▲1.323,105▲0.6
2003 9,056▲4.613,222▲2.922,278▲3.6
2004 9,4294.112,998▲1.722,4280.7
2005 9,197▲2.512,767▲1.821,964▲2.1
2006 9,3261.412,200▲4.421,525▲2.0
2007 9,026▲3.211,827▲3.120,853▲3.1
2008 8,878▲1.611,299▲4.520,177▲3.2
2009 8,492▲4.410,864▲3.919,356▲4.1
2010 8,213▲3.310,536▲3.018,748▲3.1
20118,199▲0.29,844▲6.618,042▲3.8
20128,013▲2.39,385▲4.717,398▲3.6
20137,851▲2.08,972▲4.416,823▲3.3
20147,544▲4.08,520▲5.016,065▲4.5
20157,419▲1.77,801▲8.415,220▲5.3
20167,370▲0.77,339▲5.914,709▲3.4
20177,152▲3.06,548▲10.813,701▲6.9

前回の本クロニクルで、17年度の推定販売金額は1兆3757億円ほどではないかと記述しておいたが、前年比が16年の倍となる6.9%減だったので、さらにマイナスで、1兆3701億円である。
これも表に明らかなように、この20年間で最大の落ちこみで、16年に比べて、1000億円のマイナスとなった。
18年は確実に1兆3000万円を割りこみ、雑誌は97年の3分の1の販売金額に近づいていく。
書籍は雑誌に比べ、マイナス幅は小さく、2年続けて雑誌を上回っているが、やはり11年続けてマイナスであり、雑誌の凋落をカバーすることは不可能だろう。
それよりも雑誌の1年を通じての40%を超える返品率に象徴されるような出版状況は、これまでの再販委託制に息づく出版流通のシステムの解体を告げていよう。

本クロニクルの観測によれば、2001年の鈴木書店の破産が、現在の正味体系における書籍の流通販売の限界を露出させた。そして栗田出版販売、大阪屋、太洋社の破綻に表われるように、2010年頃から雑誌にベースを置く取次システムもまた、ビジネスモデルとしての機能が失われたと考えられる。それゆえにその後は蓄積した資産の売却により延命していたと見ていい。
そのような現象は取次だけでなく、出版業界全体に及んでいる。



3.出版科学研究所の17年度の電子出版市場販売金額も出されているので、それらも示す。

■電子出版市場規模(単位:億円)
2014201520162017前年比
(%)
電子コミック8821,1491,4601,711117.2
電子書籍192228258290112.4
電子雑誌70125191214112.0
合計1,1441,5021,9092,215116.0

[17年度の電子出版市場規模は2215億円で、前年比16.0%増。
それらの内訳はコミックが1711億円で、同17.2%増、電子書籍が290億円で、同12.4%増、電子雑誌が214億円で、同12.0%増。コミック専有率は77.2%に及び、日本の電子出版が電子コミックをコアとして進化してきたけれど、16年の27.1%の伸び率に対し、17年は10%のマイナスとなっている。
それは電子雑誌も同様で、伸び率は16年の50%増に対し、12.0%増だから縮小している。これはシェアの高い「dマガジン」の会員数は309万人から363万人へと増えたが、総務省による携帯電話販売方式が見直されたことで、減少傾向にあることも影響しているようだ。
紙と電子合計市場は1兆5916億円、前年比4.2%減となり、2014年の書籍雑誌販売金額の1兆6065億円にも届いていない。
本クロニクルで繰り返し、電子出版が2000億円を超えると、出版社・取次・書店という近代出版流通システムが崩壊し、解体すると警告してきたが、17年はまさにその金額に達してしまったのである]



4.鉄道弘済会は秋を目処に、新聞、出版物の取次事業を終了。
 鉄道弘済会はキヨスクの駅売店930拠点に新聞、雑誌、文庫の卸業務を行なっていたが、間もなく赤字転落するという判断による。年間取扱高は新聞が42億円、出版物54億円の96億円で、最盛期の1993年の10分の1に縮小していた。

出版状況クロニクル4

これは『出版状況クロニクル4』を見てほしいが、2014年までは「販売ルート別推定出版物販売額」リストに「駅売店」も挙がっていた。だがこちらも2001年には1053億円、10年には533億円と半減していた。
それからこれも本クロニクル115で見たように、15年から「販売ルート別推定出版物販売額」リストにおける「駅売店」は「生協」と「スタンドルート」とともに、「その他取次経由」に分類され、16年には会わせて789億円となっている。
それはキヨスクなどでの雑誌売上の激減を伝えているし、近年の雑誌の凋落を反映している。かつて出版社にとって、鉄道弘済会の取引口座は支払い条件などから、開設できればメリットがあるとされていたが、もはやそれは過去の神話と化してしまった。
また直営の弘栄堂書店もすべて売却したようで、鉄道弘済会は書店と出版物から撤退してしまったことになる。また北海道キヨスク傘下の札幌弘栄堂書店3号店もトーハンの関連会社スーパーブックスに事業譲渡された。
これも古い話になってしまうけれど、書店のフェアの発祥は、1970年半ばの弘栄堂の吉祥寺店によるシュルレアリスム特集だったのである。
鉄道弘済会は今後のキヨスクなどの出版物取次に関して、トーハンに仕入業務と店舗配送を委託していたことから、取引を打診しているようだが、輸送問題も絡んで、どうなるのか。



5.今年の最初の「地方・小出版流通センター通信」(No.497、1/15)が出され、そこに次のような文言があるので、それを引いてみる。

 今年は今までの出版流通が継続されるかどうか、試される非常に厳しい年になるだろうと予測します。大規模店舗を次々と出店してきた、丸善&ジュンク堂チェーンが3年連続赤字決算ということで、いままでの経営陣が引退し、新しい体制に変化してゆくと思います。いままで同チェーンを引っ張ってきた工藤社長は、「化石みたいな商売、不便な店になってしまっている」と表現されています。当社の新刊配本は、このチェーンが約60%を占めています。他の専門書出版群も同じような傾向です。動向を注視せざるを得ません。

 また、これはビデオレンタルが主ですが蔦屋チェーンも、地域の蔦屋を整理し始めています。書籍・雑誌をレンタルの代替にという動きもありますが、私共の本を仕入れることは期待できないでしょう。この数年、ユニークな個人書店の開業のニュースが多々見られます。昔の児童書専門店が続出した時代を思い出しますが、ロットとして期待出来るのか? 何軒残るのか? 難しいところです。


出版業界の様々な新年懇親会における取次の紋切型辞令と異なり、ここには取次の現場の声が生々しく反映されている。
その中でも注目したいのは、丸善ジュンク堂チェーンが地方・小出版流通センターの新刊配本の60%を占めていて、それは他の専門書出版社なども同様だとの指摘であろう。人文系の小出版社の場合、それは認識できていたけれど、地方・小出版流通センターや他の老舗、中堅専門書出版社にも当てはまってしまうことになる。
ところがその丸善ジュンク堂チェーンはバブル出店の精算としてのリストラが必至であり、縮小に向かっていくとすれば、それらの人文書や専門書の市場も後退し、返品となって現実化していくことが予想される。それは紀伊國屋にしても同様だろう。
そのような書店状況を背景として、「今年はいままでの出版流通が継承されるかどうか」が問われているのである。



6.大阪のフタバ書店が破産。
 1997年は年商8億3000万円だったが、2017年には1億7200万円にまで落ちこんでいた。負債は4億円。

フタバ書店は駅前立地で、手広く外商も手がけ、営業マンであれば、大阪出張の際には必ず訪れなければならない著名な老舗だった。それは1990年代の年商額が示しているとおりである。
これも本クロニクル115で既述したが、函館市の加藤栄好堂の負債も3憶8000万円で、以前に比べ、書店の破産負債額が増えているように思われる。
それは近年の書店市場の不良債権化が急速に進んだことの表われともいえるのではないだろうか。ただフタバ書店にしても、加藤栄好堂にしても、チェーン店とはいえないので、チェーン店であれば、どれだけの負債額になるかはいうまでもない。



7.オー・エンターテインメントは奈良の天理市に「WAY書店TSUTAYA天理店」を開店。
 同社の36店舗目で、TSUTAYAWAYとしては8店目となる。初めてのトーハン帳合。
 天理市による「旧天理消防署跡地活用事業公募型プロポーザル」の審査を経て選定された地域初のブック&カフェ。
 500坪のうち、ブック売場は200坪、他に文具、レンタル、セル、及び90席のカフェはアメリカで創業された「グリーンベリーズコーヒー」で、国内7店目となる。

『「本を売る」という仕事』

オー・エンターテインメントは本クロニクル111などの「書籍・文具売上高ランキング」に挙がっているが、これまで露出してこなかった。しかしこれでCCCの地域FCとなりつつあることが判明した。
長岡義幸の『「本を売る」という仕事』(潮出版社)の「しぼむ街の本屋」に描かれているように、街や地域の書店が疲弊する一方で、このようなバブル出店が続いている。とりわけCCC=TSUTAYAと地域FCと日販、MPDによる大型出店も異常だが、その中に前回もふれたように、トーハンも加わっていきつつある

そればかりか、『出版ニュース』(1/上・中)の「図書館ウォッチング」23が「CCC三題噺」として伝えているところによれば、新和歌山市民図書館、図書館も含む延岡市駅前複合施設、徳山駅前図書館もCCCが指定管理者を受託している。しかもこれらは代官山T-SITE、海老名市と多賀城市のツタヤ図書館を手がけた「アール・アイ・エー」という設計事務所が絡んでいる。おそらく「WAY書店TSUTAYA天理店」も同様であろう。このような「ツタヤ現象」に対し、「図書館ウォッチング」は「文春オンライン」(11/28)の指摘が当てはまるとし、次なるその文言を引いている。
小遣い稼ぎの出鱈目コンサル、言い訳ばかり考えている役所……地元民にはアイデアもなく、やる気もない。……地方は所詮東京の真似をするだけで衰退の道から逃れることができないのだ
地域開発出店や図書館事業をめぐるCCC=TSUTAYAと官僚の癒着はかなり根が深いと考えるしかない。
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8.スキージャーナルが破産。
 『月刊スキージャーナル』『剣道日本』、スキー書やDVDを刊行し、2004年には売上高11億2300万円を計上していたが、17年には4億4000万円となっていた。
 昨年の『月刊スキージャーナル』の休刊に伴い、給与も遅配、事務所も閉鎖状態だったことから、元従業員21人が破産を申し立てていた。

月刊スキージャーナル 剣道日本

最初のスキージャーナルは文芸書の冬樹社の経営者が1960年代に立ち上げたもので、文芸書出版を支えるドル箱のような存在とされていた。
この2社は1980年代に経営者が代わり、冬樹社のほうは退場してしまったけれど、スキージャーナルは今世紀に入っても存続していた。だが『月刊スキージャーナル』の休刊とともに終わってしまったことになろう。



9.岩波書店が「岩波書店一ツ橋別館」を小学館に売却。敷地面積160坪、地下2階付8階建て。

岩波書店は出版事業と関連しておらず、不動産事業における判断からの売却としているが、東京商工リサーチによれば、みずほ銀行からの不動産を担保とする資金調達のために、多額の根抵当権設定がなされていた。
おそらく銀行側の意向もあり、売却せざるをえなかったと考えられるし、2003年の「後楽園ブックセンター倉庫ビル」売却に続くものである。
共担保物件として「岩波アネックスビル」も加えられているが、こちらはどうなるのか。
次に始まるのは社員のリストラであろう。



10.日本BS放送は理論社と国土社の全株式を取得し、連結子会社化。

理論社は2010年、国土社は2015年にいずれも民事再生法を申請し、前者は健康関連商品販売のテレワン、後者は翻訳、通訳事業のクロスランゲージ傘下に置かれていた。
本クロニクルでも既述してきたように、17年から毎月のように出版社のM&Aが起きている。それが報道されていない出版社もあるはずだし、進行中の出版社も含めれば、さらに多くが経営環境の変化にさらされていると推測される。それは同じ出版社であっても、そうではなくなっていくことを告げていよう。



11.『日本古書通信』編集長の樽見博による「変わっていく古書店のかたち」の連載が始まった。

変わっていきつつあるのは出版業界だけではなく、古書業界も同様で、本クロニクル115で近代文学専門店の龍生書林の廃業を伝えたばかりだ。
ちょうど樽見の連載も、この龍生書林の創業からの軌跡をたどることからスタートしている。それに明らかなように、連載は「ここ30年間における古書店の営業形態の変遷」がテーマにすえられている。
先日も親しい古本屋から、今年は古書業界に何が起きるかわからないし、何が起きても驚かないとの言を聞いたばかりだ。
それは本や読書をめぐる状況が激変してしまったことに尽きるであろうし、出版物のパラダイムチェンジの時を迎えていることを告げていよう。



12.『週刊現代』(1/27)が巻頭大特集として、「これでいいのか!?『Amazon』依存社会」を組んでいる。
リードは次のようなものだ。

 もう「使わないから関係ない」では済まない
 アメリカで生まれた小さなネット販売会社は、いまや時価総額世界4位の巨大企業となった。日本上陸から18年目。世界一の品揃えとすぐ自宅に届く物流システムを武器に、数多くの小売りを駆逐して成長してきた。もはやアマゾンなしの生活は考えられない。だが「アマゾン一強」の未来は果たして本当に明るいのか。

それらの記事もリストアップしておく。

*人間は便利さには勝てない生き物だった
*街のお店が次々潰れ、「買い物難民」が急増する
*「デス・バイ・アマゾン」次に消える企業の名前
*アマゾンで売っていない商品は「存在しない」のと同じ
*巨大帝国の最終目標 そのとき、人間の暮らしはこう変わる
*アマゾンジャパン社員の告白「僕らも商品と同じ『モノ』にすぎません」
*アマゾンVS.国税「法人税」を巡る攻防

『週刊現代』(1/27) Newsweek

[経済誌を除いて、アマゾンに関する週刊誌の特集は実質的に初めてといっていいだろう。本クロニクル113で紹介した『ニューズウィーク日本版』の特集は翻訳だったからだ。
ただ『週刊現代』の特集も明らかに『ニューズウィーク日本版』を範としていて、そこで告白されていた「今やアマゾンは、私たちの生活に欠かせない存在だ。アマゾンなしで生きていけるだろうか」、もしくは「生活の必要では、国の行政機関を上回る」というアメリカの状況を、日本に置き換えて検証を試みたといえるであろう。
講談社と楽天の関係から、アマゾン批判ということも考えられるが、啓蒙的特集としてはそれなりに充実した内容だと評しておこう。
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13.アメリカにおいて発売1週間で100万部を超えるベストセラーとなったMichael Wolff,Fire and Fury が、早川書房より2月下旬に『炎と怒り トランプ政権の内幕』として、緊急発売される。発行部数は未定だが、定価は1800円。

Fire and Fury ニューズウィーク日本版 響きと怒り The Sound and the Fury マクベス

原書の出版を『ニューズウィーク日本版』(1/23)がSpecial Report として、「トランプ暴露本 政権崩壊の序章」という特集を組んでいる。
その最初のレポートであるサム・ポトリッキオ「『炎と怒り』でトランプ大炎上」は、「ドナルド・トランプ大統領は本を一冊も読んだことがないそうだ」と書き出され、「そんな男が一冊の本のせいで大統領の地位を失ったとしたら、これ以上ない皮肉だろう」と続いている。
この書き出しこそ、アメリカにおける大統領と本をめぐる二重の皮肉がこめられているのだろう。またひるがえって、「本を一冊も読んだことがない」とは日本の官邸の政治家にも当てはまるものではないかとも連想してしまう。
それからタイトルのFire and Furyはフォークナーの『響きと怒り』The Sound and the Fury)をもじっているのだが、冠詞がとられていることからすれば、その出典とされるマクベスの最後のところのセリフ「Sound and Fury」へと戻っている。その部分を『マクベス』(福田恒存訳、新潮文庫)から引いてみる。

「人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上でみえを斬ったり、喚いたり、そしてとどのつまりは消えてなくなる。白地のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、何の取りとめもありはせぬ」


『ニューズウィーク日本版』の特集を読んだだけでも、『炎と怒り』のトランプ、及びその政権を支える人々がマクベスのセリフに見合っているように思えてくる。
著者のヴォルフへの批判も記されているけれど、彼は単なる「トランプ暴露本」だけでなく、アメリカの現在の政治そのものの実像を描こうとしたのかもしれない。
発売まで1ヵ月足らずなので、もうしばらく待ってそれを確かめてみたい。



14.ジョン・ネイスンの『ニッポン放浪記』(前沢浩子訳、岩波書店)を読了した。
ニッポン放浪記 三島由紀夫―ある評伝 Living Carelessly in Tokyo and Elsewhere : A Memoir

ネイスンは『三島由紀夫―ある評伝』(野口武彦訳、新潮社)の著者、三島由紀夫『午後の曳航』や大江健三郎『個人的な体験』の翻訳者として、早くから知っていたけれど、このような濃密な日本の戦後文学の同伴者であった事実を初めて知った。
ネイスンは書いている。

「三島の主催するパーティは、文壇とよばれる日本の作家たちのコミュニティに足を踏み入れる第一歩だった。文壇という言葉は今や往年の輝きを失い、もはやほとんど使われなくなっている。現在では有名な作家同士が出会う機会は、定期的に開催される文学賞の審査会や、出版社が主宰する豪勢な忘年会くらいだろう。だが作家たちがそこで互いに親しくなることはあまりないし、高邁なる職業につているという同属意識もない。戦後の文壇が全盛期を迎えていたのは、一九六〇年代だった。互いの真剣さや意義を認め合い、作家という職業につきものの本質的な孤独を理解しているからこそ、彼らはともに飲み語らった。文壇は結束力が強かっただけではない。当時の文壇に入れるのはもっとも才能のある作家だけだった。あとにも先にもあれほどの人材がそろった時代はないだろう。」

それは出版業界も同様で、やはり60年代に全盛期を迎えようとしていたのではないだろうか。
ネイスンの著書は文壇だけでなく、多岐にわたる日本に関する回想で、とても面白いが、すべてが事実のようには思われないことも付記しておくべきだろう。
それから邦訳に関してだが、リーダブルな翻訳であるにもかかわらず、タイトルを『ニッポン放浪記』としたのはいただけない。原題はLiving Carelessly in Tokyo and Elsewhere : A Memoir である。それからしても、『極楽とんぼの東京やその他の地での生活と回想』とでもしたほうがないように見合っているのではないだろうか。それにネイスンは水村美苗から揶揄もこめて「ミスター・ケアレス」と呼ばれているのだから。
また内容についての注釈を加えておく必要があったにもかかわらず、「あとがき」や「解説」が付されていないのは読者に不親切だし、編集の怠慢さがうかがわれ、残念な気がする。



15.点鬼簿を三つ続けておく。
 『三一新書の時代』(「出版人に聞く」シリーズ16)の井家上隆幸が亡くなった。

『三一新書の時代』 『震災に負けない古書ふみくら』 『「奇譚クラブ」から「裏窓」へ』 『鈴木書店の成長と衰退』

昨年の春頃だったろうか、彼から連絡があり、上森子鉄のことを調べ始めているとのことだった。上森は昭和初期に梅原北明とともに『文芸市場』に関わり、それから菊池寛の用心棒となり、戦後は総会屋や『キネマ旬報』のオーナーとして知られた人物だった。そこで私のほうは上森まで手が回らないので、ぜひ一本纏めてほしいと頼んだのである。
その後梯久美子の『狂う人』(新潮社)を読み、『死の棘』における島尾の愛人が上森の関係者ではないかと思われたので、井家上に資料を添え、手紙を出そうと思っているうちに、訃報がもたらされたことになる。
「出版人に聞く」の著者の死は、『震災に負けない古書ふみくら』の佐藤周一、『「奇譚クラブ」から「裏窓」へ』の飯田豊一、『鈴木書店の成長と衰退』の小泉孝一に続いて4人目であり、図らずも4人ともこのシリーズが遺著となってしまった。
そうした意味において、インタビューしておいてよかったとの思いを記し、追悼に代えよう。
『狂う人』 『死の棘』



16.15に関連して、大西美智子『大西巨人と六十五年』(光文社)にも言及しておこう。

『大西巨人と六十五年』 『神聖喜劇』

この作家にして、この夫人ありとの読後感がひときわ強いのだが、ここでは『神聖喜劇』の出版事情にふれてみたい。
井家上隆幸は『三一新書の時代』の中で、三一書房も『神聖喜劇』の刊行を望んでいたけれど、それがかなわず、『天路歴程』の出版を申しこんだ。もしそれが完結し、三一新書で出せれば、カッパ・ノベルスの『神聖喜劇』と張り合えたと語っている。
大西美智子によれば、1961年にカッパ・ノベルス編集部の佐藤隆三から『新日本文学』連載の完結後に出版させてほしいとの速達が届いたが、大西巨人は光文社のイメージをきらってか、すでに約束があるとの偽りの理由で断わった。
ところがその後、花田清輝と野間宏が光文社による出版が最もふさわしいと勧めたので、巨人も納得し、契約に至ったのである。しかも光文社の神吉社長にその出版を持ちかけたのは、松本清張だったと後日知ったとも書かれている。『神聖喜劇』が完結に至る物語も、1960年代の出版業界が成長の一途をたどっていたことに求められるといっても過言ではないだろうし、巨人と清張の組み合わせは、流行作家であっても優れた読み手でもあったことを教えてくれる。



17.漫画原作者の狩撫麻礼が亡くなった。

青の戦士 LIVE! オデッセイナックル・ウォーズ ルード・ボーイ ルード・ボーイ 『湯けむりスナイパー』 『オールド・ボーイ』 オールド・ボーイ

これは本クロニクル106で、谷口ジローの死にふれて既述しておいたように、狩撫は1980年代初頭に谷口とコンビで登場してきた印象が強い。それは『青の戦士』『LIVE! オデッセイ』『ナックル・ウォーズ』(いずれも双葉社)、『ルード・ボーイ』(秋田書店)の初期のコラボ作品に起因している。
その後、狩撫はペンネームを変えていたが、次の2作は秀作だった。それらは土屋ガロン名義の嶺岸信明『オールドボーイ』(双葉社)と、ひじかた憂峰名義の松森忠『湯けむりスナイパー』(実業之日本社)である。

前者のほうは韓国で『オールド・ボーイ』(パク・チャヌク監督)として映画化され、カンヌ映画祭での審査委員大賞を受賞し、ハリウッドでも再映画化され、双方をDVDで見ている。それは原作のストーリー性によるものだと判断できるし、これも追悼の意味で再見してみよう。
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18.西部邁が自死した。

f:id:OdaMitsuo:20180129175829j:plain:h110 表現者 f:id:OdaMitsuo:20180130114155j:plain:h110

西部についてはこれから多くの追悼の言葉が手向けられるであろうが、ここでは彼が出版者であったことを記しておきたい。
1994年に保守派の月刊オピニオン誌『発言者』を創刊し、続いて隔月刊の『表現者』を西部邁事務所として編集している。それらを通じての西部の出版活動は20年に及んでおり、そのスポンサーなどに関しては仄聞しているけれど、それらの流通や販売事情には通じていない。
編集や執筆人脈も含め、側近のどなたかが『発言者』から『表現者』へといった内容のものを提出してくれれば有難い。
吉本隆明の『試行』は基本的に直販誌であり、初期の復刻も出され、その研究も始まっているが、『発言者』や『表現者』は雑誌コードを取得し、取次を経由していたこともあって、関係者がいなくなると、逆にその実相がたどれなくなる危惧を覚えるからだ。



19.本クロニクル2016-17年は『出版状況クロニクル5』として、論創社より3月上旬発売予定。
 また今月の論創社HP「本を読む」24は「林宗広、三崎書房、『えろちか』」です。