出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話747 喜田貞吉『福神』

 前回、喜田貞吉にふれたこと、及び戦前の本ではないけれど、喜田の気になる一冊を入手しているので、それを書いておきたい。その一冊とは喜田貞吉編著『福神』(山田野理夫補編、宝文館出版、昭和五十一年)である。
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 その前に喜田に関する簡略なプロフィルを提出しておく。明治四年徳島県生まれ。二十九年帝大文科国史科卒。文部省図書審査官・文部編集に就任し、最初の国定教科書『小学日本歴史』を執筆、編集した。だが南北朝並立の記述が大逆事件に結びつくと攻撃され、四十四年に文部省を免職となる。大正二年京大講師を経て教授、昭和十三年に辞任する。その間の明治三十二年に日本地理研究会(後の日本歴史地理学界)を設立し、『歴史地理』を発行し、大正八年には『民族と歴史』(日本学術普及会)を創刊し、未解放部落の異人種、異民族、古代賤民起源説を打破する。前回の「ミネルヴァ論争」後の昭和十四年に亡くなり、戦後に平凡社から『喜田貞吉著作集』全十四巻が刊行されている。

 『福神』に収録の吉田の諸論稿は初出誌を掲載していないけれど、主として『民族と歴史』に発表されたものであろう。山田野理夫の「解説」によれば、『民族と歴史』は「特殊部落」や「憑物」に続いて、特別研究号として「福神」を編み、大正九年一月一日に刊行している。この特集に喜田の福神に関する論考が何編掲載されているかは不明だが、単行本の『福神』のほうは十八編で、すべてではないと思われる。

 『福神』の後半は、続けて出された「続福神」特集のための臨時増刊をそのまま収録している。それらの寄稿は喜田以外の九人によるもので、単行本四三〇余ページのうちの四分の一も占められていないことから考えても、前半の喜田の福神にまつわる論考は、これまで彼が発表したものの集成であろう。それならば、「福神」とは何か。冒頭の「福神沿革概説」を見てみる。
f:id:OdaMitsuo:20180111212907j:plain:h120(続福神研究号)

 喜田はそこで福神の歴史をたどっていく。古代の狩猟漁業時代は山、海、島、川、潮、野などを守り、それぞれの幸を与える神が福神だった。そのうちの野神や山神が道祖神、海神が弁才天女と混交して後に遺っていく。それらの神以外に、古代人は山林原野を跋渉し、波濤を凌いで海上を航行したことから、陸路、海路の神々の守護が最も必要で、岐神(ちまたのかみ)、道敷神(ちしきのかみ)、道解神(ちぶりのかみ)、船戸神も福神だった。だがこれらは幸を与える神とは異なり、道祖神に分類できる。

 それから農業時代に入ると、食糧供給が安定するようになり、狩猟漁業民も農民となり、原野も田畑へと変わっていく。里人が主流を占め、かつての山人や海人は傍流へと追いやられる。この時代において、最大の希望は五穀豊穣で、穀物の神が福神となり、それを宇賀神という。ウガとは稲を意味し、その名を負う倉稲魂神(うがのみたまのかみ)、その穀物を炊く竈神などの神々も福神として祭られていく。その一方で、宇賀神は蛇神と混交し、弁才天女と習合されている。

 しかしそうした農業時代が進行していくと、そのような生活に適合できない山人は放浪生活に慣れていたこともあり、漂泊生活を続け、「ウカレビト」として、男は狩猟と雑芸兼業者、女は「ウカレメ」といわれる遊女となり、両者は「クグツ」と称された。大江匡房はそれらを『傀儡子記』『遊女記』(『日本思想大系』8 所収、岩波書店)で詳しく描いている。これらの漂泊民の福神は行旅の生活から道祖神に他ならず、その刻したる像は数千に及ぶというが、道は誰もが通るので、広く一般にも崇拝されていたのである。
『日本思想大系』8

 その他にも動物崇拝に起因する福神である狐神、蛇神、インド伝来の毘沙門天、大黒天など、支那伝来の寿老人、福禄寿などの招福神、また地主神としての大黒や夷も加わり、室町時代からも七福神なるものが成立したことになる。

 そして喜田は次のように結論づけている。

 これを要するに福神とは人類の幸福を求めんとする思想の一の発露であって、時代により、社会によって一定しておらぬ。時代思想の推移と、社会組織の変遷とによって常に変わっているもので、この研究は単に福神その物を明らかにするばかりでなく、実に民族史上、社会史上の最も興味ある研究の一である。

 さらに日本の福神は農業五穀の神の宇賀神、主として傀儡子が祭った神の道祖神の二大系統に分かれるとし、次に宇賀神の章を立て、それから各福神へと及び、摩多羅神にも至る。摩多羅神とは威霊は盛んだが、まかり間違えば、恐ろしい罰を与える福神なのである。古く天台、真言宗によって祭られ、天台宗では西坂本の赤山明神、常行堂の摩多羅神、真言宗では東寺の夜叉神などが有名である。そうはいっても、摩多羅神は「得体の知れぬ神」であることに変わりはなく、経典などに確かな依拠は見出せない。

 ここで喜田の福神のふたつのヴァージョンだけを挙げたのは、その宇賀神と摩多羅神が半世紀を経て、新たに解明される回路をたどったからである。まず摩多羅神に関しては服部幸雄が『宿神論』(岩波書店、平成二十一年)で、比叡山内陣の摩多羅神像の写真や京都妙法院の摩多羅神画像を示し、それが中国から渡来してきた外来神にして、後戸に秘して祀られていた神、猿楽芸能民が守護神として崇めた宿神であることを明らかにした。
宿神論

 それを継承して、中沢新一は『精霊の王』(講談社、平成十五年)で、宿神=シュクジンと柳田国男の『石神問答』(『柳田国男全集』15 所収、ちくま文庫)をリンクさせ、ジャクジという「古層の神」を浮かび上がらせた。その中沢に先駆け、山本ひろ子は『異神』(平凡社、平成十年)において、第二章を「摩多羅神の姿態変換」、第三章を「宇賀神―異貌の弁才天女」として、いずれも実物のカラー写真を添え、摩多羅神と宇賀神という異神たちが暗躍した中世日本の秘教的世界、中世の「顕夜」を現出させている。
精霊の王』『柳田国男全集』15 異神

しかし服部にしても山本にしても『福神』を挙げてはいるが、それを最初に見出したと思われる喜田についての言及はほとんどなされていない。それは少しばかり残念なように思われる。また『福神』には宿神と翁、猿楽芸能民との関係に着目した最初の研究「宿神考」(『民族と歴史』大正九年十一月一日号所収)の収録がないことも同様に思える。


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古本夜話746 翰林書房『ミネルヴァ』と甲野勇

 前回もふれた寺田和夫の『日本の人類学』の中で、岡書院の『ドルメン』が昭和十年で休刊した後、東大人類学教室の甲野勇がその方針に則り、翰林書房から『ミネルヴァ』を創刊したが、これは同十一年に第十号を出したところで終わってしまったと述べられている。

日本の人類学

 実はこの『ミネルヴァ』の復刻版を入手している。それは昭和六十一年に全一巻として、学生社から復刻されたもので、八木書店の特価本売場に一冊だけ残っていたのを見つけ購入してきたのである。その際には寺田の『日本の人類学』で言及されていたことを失念していて、当時いくつも出されていた考古学関係の同人雑誌だと思い、いずれ読むつもりでの入手だった。
ミネルヴァ

 しかし『日本の人類学』を再読し、あらためて『ミネルヴァ』が東大人類学教室の選科生たちを中心にして創刊された雑誌だと認識するに至った。創刊号の表紙にはローマ神話における教育などの女神像が示され、五〇ページほどではあるが、「原始文化古代工芸/人類民族文化/民俗信仰事物起原」の「総合雑誌」と謳われている。前述したように、編輯兼発行人は甲野勇で、発行所は神田神保町の翰林書房である。そして裏表紙には甲野と同じく選科生の八幡一郎『郷土考古学』、山内清男『日本原始文化』の、翰林書房から近刊予告がなされている。また奥付の隣ページには、人類学や考古学の古書洋書が東條書店の名前で掲載されている。

 この古本屋と見なしていい東條書店は翰林書房と住所が同じであることを考えると、後者は前者の出版部門で、東大人類学教室に出入りしている関係から、『ミネルヴァ』、及び同人の著書の発行所を引き受けたと思われる。ただ甲野が編輯兼発行人となっている事実からすれば、当初製作費などは同人が負担したと考えていいだろう。だが第三号から発行人に東條英治も名前を連ねているので、東條書店が製作費を担うようになっていたと見なせよう。

 創刊号の寄稿者と座談会出席者は十二人で、そのうちの甲野、八幡、山内、宮坂光治は元選科生であり、創刊号の目玉であろう座談会「日本石器時代文化の源流と下限を語る」は甲野、八幡、山内が参加し、それに江上波夫と後藤守一の五人で行われている。江上は本連載718、後藤は同742でふれているが、やはり東大人類学教室の近傍にいたはずである。また寄稿者たちの中で異色なのは、これも同488の江馬修ではあるけれど、当時高山で飛騨考古学会を組織していたことから、「考古学と詩」を寄稿したのであろう。それゆえに『人類学雑誌』が東京人類学会、『ドルメン』が岡書院をバックヤードとしていたように、『ミネルヴァ』は東大人類学教室の選科生たちによって、それも原始文化研究会を立ち上げていた甲野や山内を中心として、編集発行されたと考えてかまわないだろう。

 先の座談会は十三ページに及び、創刊号の三分の一近くを占め、日本の石器時代文化は最初が縄文式、次に弥生式、それから古墳時代に至るという前提から始めて、日本各地で弥生式土器の発見、大陸から青銅器文化の流入が問われ、古墳文化の出土品問題へとも及んでいく。私はそのような当時の考古学状況に通じていないが、大正時代に隆盛し始めた考古学や人類学の進化と展開がうかがわれるように思える。

 この、『ミネルヴァ』は創刊号だけでなく、全号にわたって興味深い論考と言及したい記事などが掲載されているけれども、ここではその導きとなった寺田和夫の『日本の人類学』がふれているふたつの論稿を取り上げておくことにする。ひとつは第五号の八幡一郎「故松村博士と考古学」である。第一回選科生の松村は昭和十一年五月に急逝し、その学恩を巡って、同じ選科生としての八幡が追悼の言葉を手向けている感が漂う。鳥居龍蔵は海外調査に赴くことが多く、実際の遺跡調査に選科生たちを率いていたのは常に松村であり、八幡は大正十五年の姥山貝塚の大発掘を始めとする主な調査を挙げていく。それらは選科生たちの努力と細心な発掘によってもいるが、そのかたわらには松村の計画とバックアップが常に控え、それゆえに可能となったのである。さらに八幡は続けている。

 爾後も機会ある毎に遺跡に臨み、又教室の為に資料収集に尽力されたのであるが、斯く種々なる調査を遂げながらも、常に研究は調査担当者に委して、自ら積極的に其所見を発表されると云ふことは殆んどなかつた。そして常に若い研修者の成長を楽しみつゝも、その逸脱に対しては注意を与へることを怠らなかつたことは実に学ぶべき点だと思ふ。其結果人類学教室に育つた少壮先史学者に対して、人類学教室派の名を似て呼ばれるまでに重要なる業績を学界に提供する素地を博士は作つたのである。

 そしてそれが松村の功績だとし、「この表面に現はれることの少ない最後の点こそ最も重視すべきもの」だと八幡は結んでいる。これまで鳥居に対して悪役の印象が強かった松村は、ここで同じ選科生の弟子によって救われているようにも思われる。

 もうひとつは「ミネルヴァ論争」であり、これは先の創刊号の座談会に端を発している。その中で、宋銭と亀ヶ岡式土器の伴出の例から、奥羽地方の石器時代下限は鎌倉時代まで引き上げるという老学者の見解に対し、山内が「いかがわしいこと」だと発言したことに対し、その本人である喜田貞吉が第三号に「日本石器時代の終末期に就いて」を寄せた。そこで宋銭が石器時代遺跡跡から出た例はいくつもあり、それは岩手の平泉に京都文化が移入していたが、山間においては亀ヶ岡式土器を製作する石器時代人が棲息していたし、それが縄文人(アイヌ人)だったと述べ、東日本には石器時代が継続していたと反論したのである。

 それを受け、山内は第四号に「日本考古学の秩序」を書き、宋銭が亀ヶ岡式土器から出たのは事実だとしても、それを入れたのが同じ時期であるかは別問題で、この種の土器が縄文式遺跡から出たことはないし、日本考古学の進化を無視していると主張した。さらに考古学者と歴史家の論争は続いていくのだが、寺田の言を引けば、この「ミネルヴァ論争」は若手の考古学者たちがめざましい成果をあげていたにもかかわらず、喜田のような碩学も含めて、歴史家はそれを評価していなかった事実を示していよう。


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古本夜話745 東京人類学会編『日本民族』と東大人類学教室の選科生たち

 前回、中谷治宇二郎が東京帝大理学部人類学選科生で、前々回の雄山閣の「考古学講座」の松村瞭博士の下で先史学研究に従事していたことを挙げておいた。

 明治十七年に東大理学部生物科の学生だった坪井正五郎たちの呼びかけで、一ツ橋の植物学教室において人類学の会合が催され、これが東京人類学会の発祥となった。昭和十年に「東京人類学会創立五十年記念」として、同会編による『日本民族』が編まれ、岩波書店から刊行されている。手元にあるのは同十五年の第三刷で、おそらく前々回の雄山閣の「人類学・先史学講座」と同様に、こちらも版を重ねていて、支那事変以後も関心を集める研究分野であり続けていたのだろう。しかもそれが『日本民族』というタイトルで出されたのは時代を表象しているし、その「序」をしたためているのが松村なのである。

 東京人類学会の軌跡とパラレルに、『日本考古学辞典』(東京堂出版)によれば、講座としての東京大学人類学教室の名称が正式に用いられるようになったのは明治二十六年だった。それは坪井が英国留学から帰朝し、理科大教授に就任してからで、当初は広範な人類学研究が目論まれたけれど、日本の先史時代の民族、生活、遺跡、遺物の研究に力が注がれたとされる。そこに小学校中退の独学者の鳥居龍蔵が標本整理係として入り、坪井に師事し、まさに人類学教室を、後のアジア考古学と民族学の揺籃と地としたのである。また鳥居はアカデミズム内においても、助手、講師、助教授、文学博士となり、彼は本連載で続けて言及してきた、やはり独学者の森本六爾たちのアイコンと化していたと思われる。

 しかしその間、大正二年に坪井がペテルブルグで客死するという、日本の人類学界にとっての大事件が起き、その後継者は鳥居とされたが、対人関係で問題が起きて、同十三年に小学校中退の助教授は東京帝大を去ることになる。この事情は本連載743で、雄山閣の長坂金雄がもらしていた東大人類学教室における鳥居と松村の犬猿の仲のような対立などに起因している。これは鳥居が『ある老学徒の手記』(岩波文庫)で述べている、松村の学位請求論文をめぐっての問題によるものだ。松村が編者と見ていい先の『日本民族』に、鳥居の寄稿がないことも、その一端を告げている。
ある老学徒の手記

 ただそれはさておき、この東大人類学教室が果たした役割はアカデミズム内にとどまらず、坪井を始めとして主要メンバーが旧幕臣であったことから、本連載418などでふれているように、集古会や出版の世界にも影響を及ぼしていたことを指摘しておかなければならない。とりわけ岡茂雄は大正九年に東大人類学教室に出入りし始め、人類学や民俗学のための岡書院を設立し、本連載37の南方熊楠『南方随筆』 などの出版を始めるに至る。それは森本の『川柳村将軍塚の研究』にも及んでいる。
f:id:OdaMitsuo:20180109142259j:plain:h120(沖積舎復刻版)

 それからさらに特筆すべきはこの東大人類学教室が選科生を中心にして営まれていたことである。寺田和夫は『日本の人類学』(思索社、昭和五十年、後に角川文庫)において、選科生とは専門の分野だけを学ぶことができるけれど、卒業後に学士号はもらえないものだとし、その最初の選科生が明治三十三年の松村瞭だったと述べ、それ以後の人々を挙げている。
日本の人類学 日本の人類学 (角川文庫)

人類学を専攻しようとする若い人たちがぼつぼつ出てきた。東大人類学教室の選科生として、明治三三年の松村のあと、大正四年に小田原健児、六年に川村(小松)真一、八年には山内清男、一〇年には八幡一郎、宮坂光次、一一年には甲野勇、一三年に中谷治宇治郎、一四年に宮内悦蔵。ついでながらこのあと昭和一三年の和島誠一までは選科生はいなかった。正規の学生をとるまで合計一〇名、ほとんどの人が一家をなす学者となったが、八幡を除いて今はみな故人となった。

 本連載743の長坂金雄の『雄山閣と共に』に挙げられた「考古学講座」の寄稿者たちをもう一度見てみると、「松村瞭博士の一派」も執筆を断わって来たとの言が見えているが、それでも八幡一郎、甲野勇、宮坂光次は名を連ねている。鳥居と松村は登場していないことからすれば、二人の代わりに東大人類学教室を代表して三人の選科生たちが執筆したと判断できるし、当時の選科生の実力をうかがわせている。

 彼らに加えて、後にこれも民族学で「一家をなす学者」となる岡正雄や古野清人も、文学部の学生だったけれど、人類学の講義に出て、選科生たちと知り合いになっていた。それもあって、寺田によれば、昭和初期に両者が集り、人文研究会を発足させた。そこには森本や中谷の名前もある。そしてそれが母体となって、昭和十二年にエイプ会(英語では類人猿だが、人類学(アンスロポロジー)、先史学(プレヒストリー)、民族学(エスノロジー)の頭文字を組み合わせたもの)が組織され、月例会が開かれるようになったという。また昭和七年に岡書院によって、人類学や民族学の「囲炉裏ばたのような役割を持たせた雑誌」である『ドルメン』も創刊され、広く好評を得るに及んでいた。

 しかし昭和十一年の松村の死後、その後任として東大人類学教室に東北大学医学部解剖学教授の長谷部言人が赴任し、理学部に人類学科を創設し、専門家を養成する方向へと向かう。それもあって、長谷部は選科生と他学部生の集まりであるエイプ会を面白く思わず、それまで四回開かれていた東京人類学会と日本民族学会の連合大会も、昭和十四年を最後に中断されてしまったという。それが図らずも、東京人類学会と東大人類学教室の明治から昭和戦前にかけての歩みだったといえよう。

 なおその後、坪井正五郎に関しては『うしのよだれ』(山口昌男監修「知の自由人叢書」、国書刊行会)が編まれ、川村伸秀の『坪井正五郎』(晶文社)も刊行に至っている。
うしのよだれ 坪井正五郎


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古本夜話744 中谷治宇二郎『考古学研究への旅』と『ドキュマン』

 前回の松本清張の「断碑」の主人公木村卓治=森本六爾は、「N」という「同じ年配の考古学者」のパリからの手紙をもらい、自分も「フランスに行って箔をつけたい」と思い、妻の実家の援助で、昭和六年にシベリア経由でフランスに向かう。

 木村のパリでの一年間の生活が「N」の手紙を引用して語られ、その「滞仏は空虚であった」ことが伝わってくる。この「N」だが、『日本石器時代提要』を書いているとされるので、彼は中谷治宇二郎だとわかる。昭和十八年に甲鳥書林から刊行の『校訂日本石器時代提要』が手元にあり、菊判五五二ページ、多くの図版、挿図も含めた大冊で、これもまた大東亜戦争下の専門書の一冊に他ならない。初版は昭和四年に岡書院から出され、甲鳥書林版はそれを京都帝大考古学教室の梅原末治が「増補改訂」し、「再刊序言」を寄せたものである。
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 梅原はそこで大正後半から昭和の初めにかけてが日本の考古学発達の大きな時期だと指摘し、「その学の開拓に与つた多くの人々の間にあつて、正規の学歴を持たぬ二人の若い学徒の存在が段々とその鮮かさを増して見えた」と述べている。いうまでもなく、その二人とは森本六爾と中谷治宇二郎であり、しかも「両君とも異郷に於いて不治の病を獲る」ことになり、「苦難の裡に共に短命な生涯を終ふるに至つた」ことも共通している。

 森本のことは松本清張が「断碑」で描いているが、中谷に関しては『校訂日本石器時代提要』の巻頭に、その写真とともに挙げられた「中谷治宇二郎君略歴」を要約してみる。明治三十五年石川県片山津に生まれ、小松中学校卒業後、大正九年に上京し、菊池寛門下に入り、新劇運動に参加する。同十三年東京帝大理学部人類学撰科生となり、松村瞭博士の下で先史学研究に従事し、『日本石器時代提要』などを刊行し、考古学会などで名声を博現する。「昭和四年渡欧し、パリで研学したが、病を得て、七年に帰朝し、十一年に療養地の湯布院温泉で死亡、享年三十五歳。

 その中谷のパリでの「研学」と松本が引用している手紙の出典が判明したのは、昭和六十年の中谷治宇二郎『考古学研究への旅』 (六興出版)の刊行によってである。同書に収録の追悼といえる「パリと森本君と私」で、これは昭和十一年に前回の『考古学』に自らの日記と思しき部分を含め、パリの森本を回想した一文である。松本はそれを「断碑」で、「森本」を「木村」に変え、若干の要約と脚色を施し、引用したとわかる。この事実から、松本が『考古学』の読者だったとも推測できる。
考古学研究への旅

 中谷の『考古学研究への旅』 の「パリ雑記」は、薩摩治郎八の寄付による大学都市の日本学生館=Foundation Satsumaの生活を描き、興味深いが、「研学」に関しては「象牙の塔」と「仏国人類学の会と人」にうかがうことができる。中谷はパリに着くとギメー博物館に赴き、新石器時代研究者の紹介を頼んだ。それから続いてトロカデロ土俗博物館のリベー館長、リビエール副館長を訪ねる。するとリベーは中谷にこの博物館、自らが主任教授である人類学実験所、彼の妹が事務を執っている人種学研究所という三つの研究所を開いてくれた。土俗博物館はペルーの土器の完全な研究をすることになった。そしてリベー教授が『ドキュマン』三号に「物質文化―土俗学・考古学・先史学の研究」を寄稿していることを知る。
 そうしているうちに、シルバン・レビイ教授からソルボンヌ大学のインド学研究室に来るようにとの手紙をもらい、訪ねていくと、中谷の論文を見たので、社会学のモース教授に会うようにとの話だった。当時のアルセル・モースを囲む状況について、中谷は語っている。

 デュルケムの実証社会学を受けついだモース教授が、例を求めて原始宗教の研究に没頭したのは既に以前からであったが、本年新たに記載科学としての土俗学並びに社会学の講義を人種学研究所で始めるというので、学界は相当のセンセーションを興していた。トロカデロの全館員は、その講義に列席するというので、リビエール氏は私を誘っていた。

 その最初の講義の後、シルバン・レビイの紹介でといって、モースに面会すると、「お前は中谷か、私はお前の名前を知っている」と老教授はいい、「強い掌を出した」。つまりそれはモースが中谷に対し、研究者としての強い親近感と信頼感を表わすものだったと目される。中谷のほうも「私は彼の講義に満足していた。何か自分の望んでいるものかはっきり思い起されるようであった。そうして土俗学を専ら勉強して帰る考えになっていた」のである。

 まだ「象牙の塔」の半分ほどで、「仏国人類学の会と人」に及んでいないけれど、前述したようなフランス人の碩学たちとの出会いやその内容がしたためられている。それを裏づけるのは『考古学研究への旅』所収の「中谷治宇二郎年譜」で、それによれば、日本考古学に関する論文をフランスの学会誌に発表し、パリ人類学会会員ともなり、日本考古学についての講演を行っているとある。ないものねだりとなってしまうけれど、それらも収録されていたらと思ったりした。

 ところがそれから四半世紀後に、思いかけずにその痕跡にふれたのである。それは酒井健『シュルレアリスム』 (中公新書、平成二十三年)においてで、そこには中谷が『ドキュマン』に寄せた「縄文土偶」の図版が掲載されていたのだ。それらは『校訂日本石器時代提要』にも収録の木菟土偶、陸奥式土偶だと思われる。おそらくそれを通じて、中谷の名前はフランス人研究者にも知られることになったのだろう。Documents を確認してみると、それがJiujiro Nakaya, Figurines néolithique du Japon (Vol 2, numéro1,1930)、すなわち「日本の新石器時代の小像」だとわかる。『ドキュマン』はジョルジョ・バタイユによって一九二九年に創刊されているから、中谷はバタイユとも会っていたのかもしれない。
 シュルレアリスム

 なお中谷が雪博士の中谷宇吉郎の弟であることも付記しておこう。また中谷を知ったのは岡茂雄の『本屋風情』 (中公文庫)においてで、その岡書院については拙稿「人類学専門書店・岡書院」(『書店の近代』所収)、甲鳥書林と中谷宇吉郎に関しては同「甲鳥書林と養徳社」(『古本探究3』所収)を書いているので、よろしければ参照されたい。

本屋風情 書店の近代 古本探究3


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古本夜話743 森本六爾と雄山閣「考古学講座」

 藤森栄一の『二粒の籾』に添えられた「森本六爾年譜」で、森本の処女作『金鐙山古墳の研究』が大正十五年に雄山閣から出されたことを知った。もちろん未見だが、その時彼は二十三歳だった。

f:id:OdaMitsuo:20171220112351j:plain:h110(『二粒の籾』)

 雄山閣に関しては本連載519などでも取り上げてきたけれど、あらためて確認してみると、『雄山閣と共に』(昭和四十五年)の「刊行図書目録」には見当たらず、『雄山閣八十年』(平成九年)の「出版図書目録」のほうに見つけることができた。それによれば、『金鐙山古墳の研究』はB5判90ページ、定価は一円五〇銭とある。無名の著者とテーマ、そのページ数と定価から考えても、同書は自費出版だったと見なしてかまわないだろう。

 そこに至る経緯と事情は、ひとえに雄山閣が大正一五年に「考古学講座」を企画刊行していたことに求められよう。雄山閣は大正十年に「文化叢書」を立ち上げ、その第4集の帝室博物館歴史課長の高橋健自『古墳と上代文化』が売れたことで、同一五年に「考古学講座」を始める。創業者の長坂金雄は『雄山閣と共に』で、その「考古学講座」と当時の学界に関して、数字や実名を挙げ、具体的に述べている。それらはここでしか得られない証言のように思われるので、少し長くなってしまうが、まず売れ行きのことを引いてみる。
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 高橋博士を中心に三宅米吉博士、柴田常恵氏、工学博士関根貞氏の各先生を顧問に、考古学、人類学、建築学、土俗学の処方面の大家権威者四十余名に依頼して、一冊二百五十頁内外のもの全十八巻、約四千頁ぐらいで完了する予定で発足した。定価は一冊一円六十銭で、予約出版に着手した。
 ところが、これが予想以上に受けて学界の大評判となり、第一巻は三千五百部印刷したが忽ち売り切れた。この頃はほとんど直接注文が多く、三千ぐらいが直接の予約者で前金で送金して来たので、またそれが毎月のように続いたから、経営は大変楽になった。

 しかしその一方で、売れ行きからも察せられるように、「当時考古学はハヤリだした学問だけに派閥、党派」があり、その構図にもふれている。

 たとえば、帝室博物館では高橋健自博士を中心にその一派があり、東大人類学教室には鳥居龍蔵博士と松村瞭理学博士が対立しており、(中略)早大には西村真次博士(中略)、とくにむずかしかったのは大山柏公で、(中略)若い考古学者の連中を寄せ集めて(中略)いた。
 このほか東京の高等師範の学長の三宅米吉博士あり、地方には仙台の東北大学の長谷部言人博士、京都市(ママ)大の浜田耕作博士、清野謙次博士の諸先生あり、考古学の研究が隆盛に向かう時期にぶつかつたので、それぞれの専門の範囲を主張して、なかなか譲らなかった。(中略)まさに噴火山上の如きごうごうたる有様となった。(中略)
 こんな具体に、『考古学講座』の計画は前後に千変万化の波乱、変転があったことは殆んど知っていた。かくして、中央はもちろん全国東西の考古学者を殆んど網羅したので、発表と同時に俄然人気を呼んだ。これが私の講座物に着手した第一歩であって、また私が出版界に頭角を現わす第一歩でもあった。

 そのかたわらで、やはり大正十五年に改造社の『現代日本文学全集』の刊行が始まり、「講座物」も含んだ昭和円本時代の幕が切って落とされたことを付記しておこう。
現代日本文学全集

 それはともかく、この考古学の「派閥、党派」に挙げられた人々のほとんどが、前回の松本清松の「断碑」のモデルに他ならず、森本六爾のような学歴を有しない在野の研究者がその渦中へと置かれたら、どのような対応を迫られたか、想像に難くない。「断碑」に描かれた以上のものだったはずだ。それでも長坂が挙げている「『考古学講座』一般講義の講師と科目」を見れば、先の人々の中にあって、森本は「墳墓」の講義と講師に名を連ね、それは彼がアカデミズムと伍するだけの実力を有し、認められていたことを告げている。それゆえに森本の『金鐙山古墳の研究』も、雄山閣から上梓されるに至ったのであろう。

 これらの森本の処女作の上梓と雄山閣の、「考古学講座」などの刊行を知ると、松本が「断碑」の中での「某書店から歴史講座の企画のひとつとしての『日本古代生活』という書き下しを頼まれていた。日に一枚か、二枚くらいしか書けなかった」という一節が、やはり雄山閣の「人類学・先史学講座」のための原稿のように思われた。これも長坂が証言しているように、「考古学講座」と同様に、浜田、長谷部、松村たちがメインとなって執筆者たちを動員していたからだ。

或る「小倉日記」伝(「断碑」)

 手元にあるのは昭和十三年の第三巻だが、「断碑」の中の原稿依頼は同十年半ばを推定されるので、時期的には符号している。『雄山閣八十年』も「人類学・先史学講座」全十九巻は昭和十三年に刊行始まるとあり、それを裏づけている。それに森本が「日本古代生活」を寄稿できたのかを確かめていないけれど、「考古学講座」以後、雄山閣は様々な「講座物」を次々に手がけていったことから、それらの寄稿者として森本ともずっとつながっていたように思われるし、それに『考古学』同人たちも連なっていたのではないだろうか。


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