出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1068 久保田彦作『鳥追阿松海上新話』と錦栄堂

 野崎左文は「草双紙と明治初期の新聞小説」(『増補私の見た明治文壇』所収)において、前回の『高橋阿伝夜刃譚』のような明治式草双紙の出現は新聞連載の「続き物」を単行本化したのが始まりで、明治十年以後流行し、書肆の店頭をにぎわすことになったと述べている。そしてその嚆矢、もしくは「明治初期に於ける草双紙の代表作としての価値あるものとすべき」は久保田彦作の『鳥追阿松海上新話』だと書き、次のように続けている。なお同書は『現代日本文学大年表』に見えているように、明治十一年一月に三編九冊が錦栄堂から刊行された。

私の見た明治文壇〈1〉 (東洋文庫) 高橋阿伝夜刃譚(『高橋阿伝夜刃譚』) 鳥追阿松海上新話(『鳥追阿松海上新話』国文学研究資料館、リプリント版)

 此書は明治十年の仮名読新聞に連載されたのを更に単行本として発行したもので、絵画は昔の豊国、国貞ほど鮮やかなものでなく、彫刻も劣つては居るものゝ、俳優似顔は錦絵風の色刷りの表紙を用ひ、毎編上巻に淡彩の口絵もあつて、其体裁はすべて草双紙に則つたもので、唯だ相違の点は昔の総仮名書きを、振仮名付き漢字まじりの分に代へただけの事であつた。

 久保田の名前は『日本近代文学大事典』に見出せるので、それを要約してみる。弘化三年江戸生まれの狂言作者、戯作者。明治八年頃から河竹黙阿弥門下となり、黙阿弥と親交のあった仮名垣魯文に引き立てられ、『仮名読新聞』にも関係し、十一年には『鳥追阿松海上新話』を刊行し、戯作者として名をあげた。他の作品は『菊種延命袋』(錦栄堂)、『浪枕江の島新語』(延寿堂)、『荒磯割烹鯉魚腸』(青盛堂)。十二年創刊の『歌舞伎新報』の主筆ともなるが、劇界人としては不遇に終わった。これに付け加えると、『鳥追阿松海上新話』は久保田が編集者で、魯文の作とも伝えられている。
(『浪枕江の島新語』)

 『鳥追阿松海上新話』は『明治開化期文学集(一)』(『明治文学全集』1、筑摩書房)と『明治開化期文学集』(『日本近代文学大系』1、角川書店)に収録されている。ここでは前田愛注釈による後者を参照してみる。この草双紙は「梅が香や乞食の家も覗かるゝと、晋子の吟の古き称えも新まる代の春立つ頃、東京(トウケイ)は未だ江戸と呼び、木挽町の采女が原に羽生の孤屋の板庇し、月洩軒の破損家に親子の非人あり」と始まっている。

明治文學全集 1 明治開化期文學集(一)

 漢字の「振仮名」の省略はともかく、前田の注を援用し、最小限の本文注釈をここに加えるべきであろう。「木挽町の采女が原」は江戸時代に馬場が設けられ、小屋掛芝居、講釈師、水茶屋、楊弓店などが軒を並べたにぎやかな盛り場であった。「羽生の孤屋の板庇し、月洩軒の破損家」とは非人の住む掘立小屋、あばら家を意味する。そしてそこに住む「親子の非人」とは近くの尾張町に「履物直しの露店」を張る夫の定五郎、「鳥追い」をなりわいとする妻のお千代と娘の阿松をさす。前田は「鳥追」について、「江戸時代、年の初めに、非人の女太夫が新服をつけ編笠をかぶり、鳥追歌をうたい、三弥線を弾き、人家の門に立って米銭を乞うたもの」という注釈を施している。また実際にそこには挿絵も転載され、「母娘」の鳥追姿及び「人も門より呼子鳥」的なシーンも目に入ってくる。

 そして阿松は「女太夫(をんなだいふ)の笠深く、包めど匂ふ島田髷、廿の上を二ツ三ツ、超ど花香は市中に高く」あるが、「顔に似もやらず、欲深き生れ」で、母のお千代にしても、「素より色もて俗業(なりはい)の助けと、我子に善らぬ道を承知でさせし事」を常套としていた。それゆえに阿松は「毒婦」として「善らぬ事のみ色にことよせ、種々悪計を廻らして」いくのであり、それがこの『鳥追阿松海上新話』に他ならない。彼女は「色香」で徴兵隊の濱田から二百円を騙しとったことを手始めに、同じ非人の愛人大坂吉とたくらみ、呉服店の番頭の忠蔵を美人局の罠にはめ、お千代が百円を奪う。

 しかしお千代は「悪しき道(みち)には賢こき」ことから、阿松と大坂吉の姿を隠し、吉の古郷の大阪へと逃そうとし、まず二人は父の非人仲間の安次郎をたよって品川へと向かう。その「安次郎がこゝろの内は如何なることを仕出すか、そは次の巻(まき)に解分(ときわく)べし」とあり、ここで最初の「巻」が終わったことを伝えているのだろう。

 阿松の物語の最初のところだけを紹介しただけだが、江戸から明治開花期にかけての「毒婦」物語の典型的コードが提出されているとわかる。「非人」を出自としてなのか、「顔に似もやらず、欲深き生れ」だが、「色香」「花香は市中に高く」、それをコアとして「毒婦」物語が生成されていくのである。

 私はかつて拙稿「霞亭文庫と玄文社」(『古本探究Ⅲ』所収)において、渡辺霞亭の『残月』(玄文社、大正八年)にふれ、その舞台背景が所謂「部落」で、露骨な差別を張りめぐらして成立していることを既述しておいた。阿松と同様な「御維新までは穢多非人と卑しまれたものの娘」といった記述もなされ、大正十一年の水平社の成立以後も、このような「非人」をめぐる言説は延命し、霞亭の家庭小説のみならず、時代小説や探偵小説にも見え隠れするかたちで継承されていったと考えられる。それは江戸時代からの草双紙の系譜上に成立した『鳥追阿松海上新話』などの物語が範となり、様々に変奏されていったのかもしれない。
古本探究3

 しかも『鳥追阿松海上新話』は前田が「明治初期戯作出版の動向」(『近代読者の成立』所収)で書いているように、「新聞がつくり出した最初のベストセラー」であった。初版千五百余部はほぼ即日完売で、版元の錦栄堂は第二編から数千部を用意した。そして合巻は八千部を売り切り、錦栄堂は倉を立て、企画者の番頭は当時として破格の五十円の賞与を受け、故郷に錦を飾ったという。前田によれば、「この八千部という数字は、このころの小説の発行印刷としては画期的な記録であった」。それを目論んで、翌年の明治十二年に前回の『高橋阿伝夜刃譚』が競合出版されていったのである。

(筑摩書房版)

 またさらに木村毅「水平民族文献の研究」(『文芸東西南北』所収、東洋文庫)によれば、明治十六年頃に合冊にされ、『明治毒婦伝』として刊行されたようだが、こちらは入手に至っていない。
文芸東西南北


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古本夜話1067 仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』、辻文、金松堂

 東洋文庫の野崎左文『増補私の見た明治文壇』二分冊には、仮名垣魯文の追善集『仮名反古』(明治三十年)も収録され、そこには「西洋道中膝栗毛の末に一言す」「明治年間に於ける著述家の面影」「『高橋阿伝夜刃譚』と魯文翁」などの魯文追悼録、及びそれに関連する「草双紙と明治初期の新聞小説」「芳川春濤翁の伝」も見えている。
増補私の見た明治文壇

 ここでは『近代出版史探索Ⅲ』473で、邦枝完二『お伝地獄』を取り上げ、魯文の草双紙名も挙げていることもあり、「『高橋阿伝夜刃譚』と魯文翁」にふれてみたい。「毒婦」お伝の物語は先の拙稿でたどっておいたが、明治十二年一月に死刑と決した。それについて、野崎は述べている。

近代出版史探索Ⅲ 高橋阿伝夜刃譚 高橋阿伝夜刃譚(『高橋阿伝夜刃譚』国文学研究資料館、リプリント版)

 其の罪状を各新聞は競つて書立てお伝の写真や一枚摺りの錦絵なども売出され、市中到る処寄ると障るとこの毒婦の評判で持切り、処刑の当日などはお伝を観んとの好奇心で、押出した見物も頗る多かつたのである、そこで此機を外さずお伝の伝記を草双紙にして、売出さうと考へたのが、両国横山町の辻文で、魯文翁にその執筆を依頼し、同年二月即ちお伝が斬罪に処せられた後一ケ月足らずに、この『夜刃譚』の初版を発行したのである(後略)。

 明治開花期における毒婦お伝ブームは新聞、写真、錦絵、草双紙といったメディアミクス化を伴い、『夜刃譚』だけでなく、その他の草双紙も競合企画出版されていった。それを斎藤昌三の『現代日本文学大年表』で確認してみると、明治十二年二月に続けて、仮名垣魯文『高橋於(ママ)伝夜叉譚』(金松堂)、岡本勘造『其名も高橋毒婦のお伝東京奇聞』(島鮮堂)、五月には篠田仙果『正本綴合阿伝仮名書』(山松堂)が挙がっている。この『現代日本文学大年表』の『夜叉譚』表記は斎藤の間違いではなく、初編だけがそのようになっていたことに基づくとされる。
f:id:OdaMitsuo:20200813175200j:plain:h110(『現代日本文学大年表』)

 先の野崎稿は大正十五年に出された『高橋阿伝夜刃譚』(『明治文学名著全集』5所収、東京堂)に掲載したものだが、その版元は辻文、『現代日本文学大年表』では金松堂とある。この東京堂の全集は未見のままで、入手に至っていない。手元にある『夜刃譚』を収録した『明治開花期文学集(二)』(『明治文学全集』2、筑摩書房)においても、版元は辻文ではなく、金松堂となっている。辻文は江戸地本双紙問屋の辻岡屋文助の系譜を引き、明治を迎えても草双紙の出版を続けていたと思われるが、この時期に版元名を金松堂へと変えていたようで、魯文の「序」にも、野崎がいうところの辻文ではなく、「旧知の金松堂主人」と記されている。

f:id:OdaMitsuo:20200822103046p:plain:h110(『明治文学名著全集』5)『明治文学全集』2

 辻文=金松堂であることを裏付けているのは、前田愛の『近代読者の成立』(有精堂)の口絵写真に示され「金松堂出版目録」で、そこには「書物地本錦絵問屋」として、日本橋区横山町の「金松堂辻岡屋文助」が明記されている。またあらためて同書の「明治初期戯作出版の動向―近世出版機構の解体―」を読むと、『夜刃譚』などの生産が木版印刷により、流通販売が書物問屋や地本問屋、絵草紙屋や貸本屋に基づいていたことを再認識させる。つまり私のいう近代出版流通システムによっていたのであり、それでも『夜刃譚』は野崎によれば、四、五千部を売り尽くしたようだし、前田は『夜刃譚』の巻末に売捌店(取次・書店)の東日本リストが掲載されていることを指摘している。明治二十年代を迎えて、出版社・取次・書店からなる近代出版流通システムの誕生と成長のチャートは、拙著『出版社と書店はいかにして消えていくか』『書店の近代』などを参照されたい。

f:id:OdaMitsuo:20200822114657j:plain:h110(筑摩書房版)出版社と書店はいかにして消えていくか 書店の近代

 さてこれらをふまえて、『明治開花期文学集(二)』の『高橋阿伝夜刃譚』を繰ってみると、初編上の表紙は錦絵を思わせ、八編二十四冊が刊行され、そこには多くの挿絵が配置されているとわかる。こうした所謂合巻の読み方は挿絵にまず目を通し、物語や事件の内容、登場人物のキャラクターとその位置づけなどを推測した上で、本文を読み出し、その予想を確かめていくというものだったようだ。

 そのことを伝えるように、『明治文学全集』版の『夜刃譚』もほとんどのページに挿絵が転載され、まさに当時の新聞タイトルではないけれど、「絵入」小説の趣を感じさせる。ただ本文はぎっしりとつまった総ルビの組み方だから、挿絵がなければ、草双紙の愛読者以外は読み続けることが困難であったかもしれない。

 そしてまたこのように本版技術に基づく生産が活版技術に移行し始めると、それによっていた版元が退場しているのは必然だったというべきであろう。それは作者にしても同様で、『明治開花期文学集』全二巻に最も多い五作が収録された魯文にしても、明治二十三年には名納め会を開いて引退し、二十七年に没していることは象徴的のように思われる。


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古本夜話1066 野崎左文『私の見た明治文壇』

 三回続けて、斎藤昌三、高木文、蛯原八郎の明治文学書誌学の礎石をたどってきたが、それらの原型、もしくは最も影響を与えた資料として、昭和二年に春陽堂から刊行された野崎左文の『私の見た明治文壇』が挙げられるであろう。残念ながら春陽堂版は未見であるけれど。
f:id:OdaMitsuo:20200820105200j:plain:h110(『私の見た明治文壇』、春陽堂版)

 そのことを示すように、『私の見た明治文壇』は「明治初期の新聞小説」などが、『明治文学回顧録集(一)』(『明治文学全集』98、筑摩書房)、『近代文学回想集』(『日本近代文学大系』60、角川書店)に収録されている。また十川信介編『明治文学回想集』(岩波文庫、平成十年)には「明治初期の新聞小説」の『早稲田文学』大正十四年三月号初出が収められ、続いて『増補私の見た明治文壇』(平凡社東洋文庫、同二十一年)も刊行され、平成を迎えても、明治初期文壇資料としての価値を伝えていよう。

>『明治文学全集』98 f:id:OdaMitsuo:20200820110740j:plain:h110 >『明治文学回想集明治文学全集』 増補私の見た明治文壇

 野崎に関しては『日本近代文学大事典』の立項を抽出してみる。新聞記者、狂歌師で、安政五年高知県に生れ、明治二年藩費生として上京し、大学南校などに学ぶ。六年鉄道寮の外国技師付き雇員、七年工部省技手となったが、九年に仮名垣魯文の門下となり、蟹垣左文と名づけられた。十三年に魯文の『仮名読新聞』に関係して以降、明治日報、いろは、絵入朝野、東京絵入、今日、浪華、東雲、関西日報、国会、万朝報などの各新聞社を転々とする。

 本探索1063で仮名垣魯文の名前を挙げておいたが、斎藤昌三の『現代日本文学大年表』を確認してみると、これらの新聞が明治十五年頃から、小説=「続き物」の掲載紙として出揃い始めている。このような新聞と小説の関係を熟知していた左文によって、「明治初期の新聞小説」を始めとする『私の見た明治文壇』が書かれたのである。「明治初期の新聞小説」の第一章「大新聞と小新聞」は次のように書き出されていた。
f:id:OdaMitsuo:20200813175200j:plain:h110(『現代日本文学大年表』)

 新聞小説の事を書くのに先だつて、日本の新聞が大小の名称を以つて区別された事を云つて置く必要がある。明治六七年から十年までの間に東京に於て発行されて居た新聞紙は東京日々新聞、郵便報知新聞、日新真事誌(明治八年廃刊)曙新聞(新聞雑誌改題)朝野新聞(公文通誌改題)読売新聞、平仮名絵入新聞(後東京絵入と改題)仮名読新聞花の都女新聞等であつた。此内報知新聞が両国薬研堀にあつたのを除く外は、言ひあわせたやうに銀座の煉瓦地に集まつて居た。

 そのために以前は活人形、猿芝居などが多く見世物町と呼ばれていたのが、「世人は銀座を新聞町と称へるに至つた」。そこで野崎は明治十四年に滑稽雑誌『於見喃誌(おみなんし)』(粋文社)を発行し、千輯屋文作の名前で「此の銀座の新聞雑誌を戯れに引手茶屋に擬し、その記者を娼妓に見立てた新聞細見」を掲載したのである。これはそのまま一ページが採録されているので、「其の当時を偲ぶ」必要があれば、それを見てほしい。そこには「桜池は桜痴居士福地源一郎」から始まる「源氏(げんじ)名に擬した名前主(なまへぬし)」も列挙されているからだ。

 またこれらの新聞が国家の政治を主とする「大(おほ)新聞」、世上の出来事、花街劇場通信に重きを置く「小(こ)新聞」にわかれていることを相異「対照表」で教示してくれる。そして紙幅の大小も含め、「大新聞」は中流以上の知識階級、「小新聞」は中流以下の社会を相手にする通信本位のものとされた。それに伴い、記者にも相違が生じ、前者は政治家、法律家、洋学者、官吏から転じた者、書生上がりで、筆も口も達者揃いだが、後者は戯作者、狂言作者、俳人歌人といった軟文学者が多く、筆一本で浮世の荒浪を渡ってきた苦労人の集まりでもあった。このような新聞や記者の相異は近代出版業界の形成においても大きく作用していたと思われる。

 それから「明治初期の新聞小説」は「新聞小説の嚆矢」「新聞小説の作法」「小説記者の生活状態」「新聞小説家の流派」「投書家の勢援」「小新聞の経営」「新聞挿画の沿革」「其他の思ひ出」と続き、野崎ならではの「新聞小説」と「明治文壇」の相関が描かれている。これらのエキスが伊藤整の『日本文壇史』に溶けこまされていることはいうまでもないが、それだけでなく、明治文学研究にしても、あるいは山田風太郎の明治開化物にしても、この『私の見た明治文壇』を抜きにして語れないであろう。

日本文壇史

 それらに加えて、近代出版史においても見逃せない証言もなされている。それは直接引用しておいたほうがいいだろう。

 明治十二三年頃より一旦新聞に出た小説を再び単行本として売出す事が流行し、盛んに之を発行した書肆は辻文、辻亀、鶴声堂、滑稽堂及び春陽堂の前主人が桜田本郷町に開店した頃であつた。それは小説が完結すると其の筆者は一旦用ひた挿絵の古版木を社から貰いひ受け、その木版と共に新聞切抜きの原稿を売るのであつて、書肆は之へ色摺の表紙、見通しの口絵を加へ、序文だけを木版に彫らせ、本文は活字にして之へ処々古版木の画を挿み、二冊以上のものは袋入にして売出すといふ順序であつた。此の体裁の小説本は四五年間は継続し之を明治式合巻と称へる人もあるやうだが、是れが後には石版画ボール表紙の西洋綴となり、三変四変して博文堂や春陽堂から出版する菊判やまと綴の小説本となつたのである。

 ここに掌を指すように、明治十年代からの新聞小説と著者と出版社の関係、その単行本かと造本のメカニズムと変容が語られ、春陽堂などの造本の謎が明かされていることになる。

 野崎は「野崎左文翁自伝」(柳田泉『随筆明治文学3』 所収、東洋文庫)によれば、明治二十八年に記者生活を打ち止めとし、日本鉄道会社の書記となり、その後鉄道院副参事として九年間勤め、大正三年に辞し、帰京して天笠浪人となっている。柳田は明治文化研究会の例会で、左文翁を知ったと述べていて、吉野作造を会長とする研究会の発足は大正十三年だから、左文も早い時期からの会員だったと考えられる。そして関東大震災後に盛んになり始めた明治文化研究に刺激を受け、自らも「明治初期の新聞小説」を発表し始める。そこには高木文の『明治全小説戯曲大観』への言及も見られ、研究会の人々の発表に寄り添うかたちで、『私の見た明治文壇』も書かれていったと推測できるのである。

随筆明治文学3 明治全小説戯曲大観(東出版復刻)


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古本夜話1065 蛯原八郎『明治文学雑記』

 大正から昭和時代にかけての近代出版業界の成長、及び近代文学とその出版の隆盛を背景とし、大正八年に東京古書組合が発足する。それとパラレルに高木文や斎藤昌三といった近代書誌学の礎石となった人たちが出現してくる。そして当然のことながら、彼らの衣鉢を継ぐ人々も登場するのである。

 その一人が蛯原八郎で、昭和十年に発行者を阪原達雄とする学而書院から『明治文学雑記』を上梓している。これも長い間手元にあり、教えられることも多かったのだが、紹介する機会に恵まれなかったので、ここで書いておきたい。蛯原はその「序」をいささか自虐的に始めていて、その時代の書誌学のポジションを伝えていると思われるので、それを引いてみる。

 或人は私のことを書誌学者だと云つた。又或人は私のことを年表屋だと云つた。書誌学者で年表屋でもよいが、実のところ、私は未だ嘗つて一度も自分から書誌学者たらんとしたり、年表屋たらんとしたりしたことはないのである。たゞ時折需められるまゝに、書誌をものし、年表を作成したに過ぎないのである。
 凡そ併し、何がつまらないと云ツて、書誌や年表の仕事ほど世につまらぬものはないであらう。一番骨が折れて、誰にも重宝がられて、その癖酬ひられるところは最も小である。成程、縁の下の力持ちとはよく云つたものだ。だが、さうしたことを打算してゐたら、書誌や年表などは誰も拵へる気になれるものではない。

 この蛯原の後半の部分の感慨は、昭和四十年代に藤枝静男の年譜作成に携わっていた友人がもらした嘆声を彷彿とさせる。それは電話やコピーも普及した戦後の時代であってのことだから、蛯原の大正から昭和戦前にかけての書誌や年表にかける労力は想像を絶するものがあったのではないだろうか。しかもその「資料家」としてのモットーが「資料の門戸解放」だとされているのは、昭和円本の時代に謳われた文学、学問、芸術などの大衆への解放と踵を接していたことを意味していよう。

 それは謝辞がしたためられている宮武外骨、柳田泉、木村毅、斎藤昌三、及び名前は挙げられていないが、明治文化研究会関係者からもうかがえるし、実際に蛯原も、『近代出版史探索Ⅳ』623の日本評論社の『明治文化全集』の編纂者だったと思われる。また「私の資料は殆ど全部が帝大明治新聞雑誌文庫所蔵の新聞雑誌に拠つた」とあり、「序」も「東京帝国大学新聞雑誌文庫の一隅にて」と記されていることからすれば、同文庫に身を置いていたと考えられる。そうでなければ、『明治文学雑記』というタイトルと相反する同書の資料博捜に基づく密度の濃さの由来はたどれないだろう。
近代出版史探索Ⅳ 明治文化全集(平成4年版)

 同書は三部作仕立てで、第一部の「明治文学前史考」「明治以降新聞小説略史」「明治初年の戯作者小説家と新聞雑誌」「明治時代文学雑誌解題」、第二部の「ゾラ移入点描」「初期の探偵小説と探偵実話」は、いずれもかつて拳拳服膺させてもらったことを思い出す。

 これらの中でも、私はゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」の訳者なので、「ゾラ移入点描」はゾラの小説の明治半ばからの新聞紙上への翻案掲載などを教えられ、「当時一部の小説家が如何にゾラを熱愛していたか」の実態を知ったのである。また「初期の探偵小説と探偵実話」は拙稿「春江堂版『侠客木曽富五郎』」(『古本屋散策』所収)を書いた後に読んだこともあり、「探偵実話と高谷為之」の関係を詳らかにしてくれた。

古本屋散策

 だが直截的に高木文や斎藤昌三の仕事を継承しているのは第三部で、それは「明治時代文学雑誌年表」「明治時代文学者忌辰年表」「明治大正新聞小説年表」「『読売新聞』明治時代小説脚本年表」「『国民新聞』明治時代小説脚本年表」「『国会』新聞文芸年表」の五つの「年表」からなり、『明治文学雑記』の半分以上の二〇〇ページに及び、圧巻である。これに先の「明治初年の戯作者小説家と新聞雑誌」「明治時代文学雑誌解題」を合わせれば、蛯原の「書誌学者」「年表屋」「資料家」の三位一体となった「資料の門戸解放」の真骨頂を発揮するものだとわかる。まさに帝大明治新聞雑誌文庫の新聞雑誌を縦横無尽に活用したことを物語っていよう。

 この文庫は博報堂創業者の瀬木博尚の出資によって、外骨の収集した資料をベースとし、昭和二年に設立されたもので、その所蔵目録『東天紅』は未見であるけれど、ひとつの範とされる。こちらも高木文が南葵文庫目録を編んだように、蛯原が編纂したのであろうか。いずれ『東天紅』に出会えたら、それを確かめてみよう。
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odamitsuo.hatenablog.com


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古本夜話1064 高木文編著『続明治全小説戯曲大観』

 前回の斎藤昌三編纂『現代日本文学大年表』は先行する範があり、その「例言」で次のように述べている 。
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 この種の徒労的な仕事は、自分が最初ではない。曩には先輩高木文氏の『明治全小説戯曲大観』があるが、その量に於て数倍の差があるのみで、自分の体験から云つて、高木氏の労もお察しした。但、氏のは明治期に限られてゐたこと、翻訳翻案を除外された(多少は混入してゐる)こと等々に多少の不備不満があつて、自分はより完全をと期したのだが、扨親しく当つて見ると中々難事業であつた。(後略)

 さらに高木の労作への批評として、年表の誤記、小説や戯曲以外のものの再録などにも及んでいるけれど、「例言」に見える作品の新聞掲載は高木の年表によっているものもあるとの言からしても、先行する高木の仕事なくして、『現代日本文学大年表』の四年間での完成は難しかったと思われる。

 その高木文編著『続明治全小説戯曲大観』が手元にある。大正五年に聚芳閣から刊行されている。この版元に関しては拙稿「聚英閣と聚芳閣」(『古本屋散策』所収)などを参照されたい。函入、菊判上製、二一五ページの一冊の函と本扉は『近代出版史探索Ⅲ』553などの雪岱文字であることを付記しておこう。同書は『現代日本文学大年表』の編年体ではなく、著作家別年表によるもので、その数は二百人弱である。それらは「処女作年代順」となっていて、例えば二人目に位置する仮名垣魯文の場合、まず簡略なプロフィルが記され、明治以前の作品は掲載されていないが、明治元年『仮名読八犬伝』、三年の『西洋道中膝栗毛』『胡瓜図解』、五年『百貨物産西洋機械』、以下十六年までがたどられている。未見だが、おそらく『明治全小説戯曲大観』も同様の編著だと考えられる。

古本屋散策 近代出版史探索Ⅲ 明治全小説戯曲大観(東出版復刻)

 その編著のモティーフも『続明治全小説戯曲大観』にある序文の次の言葉に尽きるだろう。

 近年明治文壇の研究が盛んになつて来たので先きに前篇を刊行せし際に著作家年表を附する筈なりしも未定稿の儘であつたのを茲に多少整理を加へて続篇とし前篇と併て明治文壇を研究せん者の為めに遺して置きたいと思ふ百年ならずも五十年の後にどれだけ明治の文壇が伝はるであらうかは興味がある。

 筑摩書房『明治文学全集』の刊行が本格的に始まるのは昭和四十年だから、まさに「五十年の後にどれだけ明治の文学が伝はるであらうか」という時代を迎えたことになる。それは明治文学の全貌の提出の試みというべきだろうし、本探索にしても、『明治文学全集』なくしては成立しなかったといっていい。それに加えて、この全集の編纂そのものが、高木や斎藤の書誌学的労作を抜きにして語れないようにも思える。そしてその先達が高木文だったのである。
明治文学全集

 奥付は裏に「高木文随筆目録」として、『正続明治全小説戯曲大観』『絵島の生涯』『玉澗牧谿瀟湘八景絵とその伝来の研究』の四冊が挙げられ、「高木文氏の随筆は巷間ありふれたる感想文式随筆に非ずその考証の深甚、研究の根底実に驚異すべきである。一度で手にせば自づと識れるものである」とのキャッチコピーが添えられている。それで序文にある「作者に就ては予の随筆」との言、同書が「高木文随筆その三」となっていることを了承することになる。

 文学、人名事典などに、なぜか高木文の名前は見出せないけれど、私はかつて拙稿「永井商会と南葵文庫」(『図書館逍遥』所収)において、高木にふれている。それは荷風の『断腸亭日乗』に出てきたからで、高木は南葵文庫の司書であった。『断腸亭日乗』(岩波書店)に南葵文庫が記されるようになるのは大正十二年末以降で、「十一月廿二日。南葵文庫に行き司書高木氏を訪ふ」とある。この「高木氏」が高木文であり、同十四、五年の記述には高木が『明治全小説戯曲大観』の著者だとの言及も見える。
図書館逍遥 f:id:OdaMitsuo:20200815134630j:plain:h110

 『続明治全小説戯曲大観』には、荷風の明治三十二年の『文芸倶楽部』掲載の広津柳浪共著「薄衣」から始まる荷風の作品が収録されている。おそらく高木は大正十四、五年に両書を上梓し、荷風へと献本したことで、その著者であるゆえか、『断腸亭日乗』に書きこまれたのであろう。それはともかく、その後高木が荷風に南葵文庫の蔵書目録を届けたことをきっかけとし、荷風は南葵文庫へ通い始め、大正十四年まで「午後南葵文庫に赴く」という記述が頻出するようになる。それは南葵文庫に他の図書館には架蔵されていなかった二百冊以上の武鑑が備えられていたからで、その他に荷風が何を読んでいたかも『断腸亭日乗』にリストアップされている。これらの武鑑を始めとする南葵文庫での荷風の読書は、永井一族のルーツを描いた史伝書『下谷叢話』(春陽堂、大正十五年)へと結実していったのである。
下谷叢話(岩波文庫版)

 しかし大正十五年六月を最後にして、南葵文庫は『断腸亭日乗』から消えてしまっている。それは『下谷叢話』の上梓に加えて、南葵文庫が東大図書館へ寄贈され、私立図書館としての活動を中止してしまったことにもよっているのだろう。その後の高木の行方は確かめるに至っていない。


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