出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1355 飲食物史料研究会編『趣味の飲食物史料』

 浜松の時代舎で、飲食物史料研究会編『趣味の飲食物史料』という一冊を見つけ、購入してきた。大阪の公立社書店を版元として、昭和七年に刊行されている。宮嶋資夫たちと『飲料商報』の関係をトレースしてきたこともあるし、私以外にはこのような書籍を取り上げる者もいないと思われるので、続けて書いておこう。

趣味の飲食物史料 (1932年)     (『飲料商報』)

 これは菊判上製函入、本文は二段組総ルビ、三七八ページで、テーマと時代から考えても労作であり、堂々たる大冊といっていいだろう。内容構成も神代から大正昭和の飲食物史をたどった上で、原料及び加工飲食物史にも言及し、酒料、清涼、果実飲料なども取り上げ、日本飲食料の将来までを論じて閉じられている。だが編とある飲食物史料研究会の実態は詳らかにされず、そのモチーフは冒頭の「小引」に次のような文言に表われているだけである。

 大和民族の故郷に対して、飲食料方面の研究から一道の光明を投げんとする抱負も有つてゐる、だが大体に於て日本国民の飲食料に対する情感を風俗史料に描写したものである、日本国民の飲食料並に夫れに対する情感は、仏教伝来以前と以後とに於て頗る差異があるが、始終一貫してゐるのは、清浄を愛し汚穢を嫌つたことである、尤もこの清浄観は日本国民に固有してゐるものであるから、生活の前面に顕現してはゐるが特に飲食料方面に於て、強烈な色彩を示してゐる、だから大和民族は神代の昔から天津真清水の生活を根元として熱愛した、従つて其一章を以て、本篇の破題とした。

 そして「常陸風土記」に示された「天津真清水」の例証が引かれ、『古事記』『日本書紀』『万葉集』から泉鏡花の小説、蜀山人の江戸向島の料亭における水のエピソードまでが挙げられ、「本編の破題」にふさわしい多彩な「天津真清水」伝説の披露となっている。そこからこの著者が飲食物史のみならず、神道を含めた古典に通じ、蜀山人の随筆や鏡花の小説にも馴染んでいるとわかるけれど、そのアリアドネの糸はまだつかめない。本山荻舟の『飲食事典』(平凡社、昭和三十三年)はこの分野の最大のものだが、残念なことに索引や参考文献一覧が付されていないので、『趣味の飲食物史料』が参照されているのかどうか不明である。

 

 それは版元の公立社書店も同様で、脇阪要太郎『大阪出版六十年のあゆみ』や湯川松次郎『上方の出版と文化』にも見当らない。考えられるのは発売所公立社書店と記されているが、印刷者は公立社印刷部で、発行者の藤堂卓は出版者というよりは印刷者であることから、編者の飲食物史料研究会を発行所とし、印刷所公立社が発売所を引き受けたようにも思われる。またさらに付け加えれば、このような書籍と造本にもかかわらず、定価は一円五十銭であり、その事実は助成金出版でなければ成立しない価格ではないだろうか。

 それらの様々な事柄を考えながら同書を繰っていると、第九章「明治の飲食料」と第十章「大正昭和の飲食料」に突き当たる。これは拙稿「田園都市の受容」(『郊外の果てへの旅/混住社会論』所収)でふれている柳田国男の『明治大正史世相篇』を受けての照り返しのように思える。柳田はその第二章を「食物の個人自由」、第七章を「酒」に当て、これらは彼の明治大正の「飲食物史料」ともいうべき章であり、昭和六年一月に朝日新聞社編「明治大正史」の一冊として刊行されている。

郊外の果てへの旅/混住社会論   明治大正史 世相篇 新装版 (講談社学術文庫)

 『趣味の飲食物史料』のほうは先述したように、昭和七年十月で、『明治大正史世相篇』が範、もしくは参照されたと見なすべきであろう。とりわけ「大正昭和の飲食料」のところでは最大の事件として、大正初めの栄養学研究の台頭が挙げられている。それは同九年の栄養研究所の設立によって隆盛となり、その生活改善とともに飲食料の背景に栄養化の必然を伴うようになり、そのために「幾多の新事象が出現した」として、次なる例が引かれている。

 衛生思想の進歩により、一膳めし屋、居酒屋がすたれ、公衆食堂、常温酒場に移行し、洋食料の需要が増大し、その国内生産も増え、カフェや喫茶店もその余波として出現した。それは洋酒も同様である。一般の料理観念は栄養化したことで家庭でも食材の組み合わせに新味が生じ、医薬的飲食料も増加するとともに、禁酒運動の新しい風潮も起きたとされている。

 これらは柳田が『明治大正史世相篇』の最後の章の「生活改善の目標」としている事実と照応する関係にある。このように考えてみると、『趣味の飲食物史料』は著者や版元、その企画や出版に至る経緯と事情はまったく定かでないけれど、『明治大正史世相篇』の「飲食物史料篇」として編まれた一冊としても読めるのではないだろうか。


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古本夜話1354 百瀬晋、高木六太郎、『飲料商報』

 宮嶋資夫の『遍歴』は本探索1289の『エマ・ゴールドマン自伝』ではないけれど、登場人物人名事典を編んでみたいという誘惑にかられるが、それは断念するしかない。そうはいっても『日本アナキズム運動人名事典』が代行してくれる人々も多いからだ。それでも気になる人物は機会を得て取り上げていきたい。

エマ・ゴールドマン自伝〈上〉 エマ・ゴールドマン自伝〈下〉 日本アナキズム運動人名事典

 その一人が前回の最後のところでふれた百瀬晋である。宮嶋は義兄の大下藤次郎が残した小石川の水彩画研究所に移るに際して、都新聞の通信員を断念するつもりでいたところに彼が登場する。

 小石川に越せば、私の通信員という職業の障りとはなるが、それも止むを得ないと思つた。所が丁度工合よく売文社に『飲料商報』といふ、清涼飲料水製造機械商の機関雑誌の編輯を頼みに来て、編輯を百瀬晋君が引受けることになり、私は記事を受け持つ事になつた。百瀬君は、その後『カクテールの作り方』といふ本を出したが、オペラが好きで、そのために伊太利語を学び、伊庭孝とも親しくして、その道には深く通じてゐるが、どうしたものか、造詣を発表しない。惜しい事と思つてゐる。

 この百瀬は後にもう一度言及され、彼が酒を飲まない徹底した無神論者で、夕方には南天堂できちんと金を払って食事をし、それから整頓された家に帰ってイタリア語の勉強をしていた。もちろん百瀬は『日本アナキズム運動人名事典』にも立項されているし、南天堂グループの一人として、寺島珠雄『南天堂』(皓星社)にも出てくるし、本探索1351の柏木孝法『千本組始末記』(海燕書房)にはその写真も掲載されている。

南天堂 松岡虎王麿の大正・昭和  

 したがって詳細な百瀬のプロフィルはそれらを参照してほしいのだが、ここで言及したいのは宮嶋が挙げている百瀬の『カクテールの作り方』である。これは彼の記憶違いで、正確には『趣味のコクテール』で、昭和二年に金星堂から刊行されている。これも長きにわたって探しているけれど、出会えていない一冊に他ならない。それは『近代出版史探索』19の佐藤紅霞が戦後になって『世界カクテル大全』を上梓しているので、佐藤は百瀬のコクテールの「造詣」を継承したのではないかと考えていたのである。それに加えて、金星堂と百瀬とコクテールも三大噺のようだが、アナキストたちによる実用書の系譜をたどってみたい気にもさせられる。例えば、『日本アナキズム労働運動史』(現代思潮社)の著者である萩原晋太郎は『電気工事の仕方』『電気機器の扱い方』(いずれも金園社)を刊行している。萩原以外にもそのような実用書を著しているアナキストはいるのではないだろうか。

  (『電気工事の仕方』)

 ところで宮嶋と百瀬が編集した『飲料商報』の関係はそれだけに終始していたのではなく、『坑夫』の自費出版へとも結びついていく。『飲料商報』の編集を依頼したのは高木六太郎という人物だった。彼は百瀬との関係で、『近代日本社会運動史人物大事典』の「人名索引」に名前が見えているだけだが、宮嶋によれば、「相当の機械屋の主人」であった。つまり『飲料商報』は当時の飲料ニュース誌のような印象を与えるけれども、まさに「清涼飲料水製造機械商の機関雑誌」だったのである。

 近代日本社会運動史人物大事典

 その高木は社会主義者の演説を聞くことを好み、幸徳秋水、堺利彦、西川光二郎の演説をよく聞き、社会主義に共鳴していた。それで雑誌の編輯を堺の売文社へと持ちこんだのである。宮嶋は書いている。「私が『坑夫』の話をすると快く彼は金を出してくれた。私がその社をやめてからも、百瀬君の手引で、無政府主義者やそれに近いものが記者となつた。五十里幸太郎、和田信義、高山辰三、其他等々、飲料商報は、無政府主義者の失業救済所の如き観があつた」と。

 ここで私たちは、近代出版史や雑誌史にも名前は残されていないけれど、『飲料商報』という雑誌が大正時代のひとつのアジールであったことを知らされるのである。おそらく明治から大正にかけての時代において、高木六太郎や『飲料商報』のような人物やメディアの存在が多く根づいていたにちがいない。そうした歴史から見えないかたちで社会主義も支援されていたのであろう。

   (『飲料商報』)

 しかし昭和三年に百瀬の表紙デザインによって創刊された『矛盾』は、柏木の『千本組始末記』に書影も掲載され、緑陰書房からの復刻も見ているけれど、もはや『飲料商報』には出会えないだろう。そもそも誰も注視してこなかったであろうし、入手も不可能だと思われる。それを示すように、「アナキズム運動史関連機関誌リスト一覧(1912~1940)」(『日本アナキズム運動人名事典』所収)にも、『飲料商報』は見当たらない。


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古本夜話1353 宮嶋資夫と大下藤次郎

 宮嶋資夫の『遍歴』は戦後になってからの回想で、それぞれの確固たる証言や資料に基づくものではなく、彼が思い出すままに書いていった自伝の色彩が強い。そのために時系列、人間関係、社会主義とアナキズム人脈なども交錯し、そこには出版資金、編集、翻訳をめぐる記述も垣間見えているし、なぜか宮嶋はふれていないけれど、『近代出版史探索Ⅵ』1047の美術出版社ともつながっていたはずである。

 宮嶋にとって長姉の夫で義兄の大下藤次郎こそは少年時代のキーパーソンで、彼にしてみれば、二人の結婚は「幸ひなこと」だった。それは大下がいつでも彼に書架を開放してくれたことで、それが「何より嬉しかつた」し、その「愉快さは忘れられない」と述べ、様々な全集や博文館の叢書などの「それ等の書物が私の読書に対する眼を開いてくれた」のである。それに大下を通じて、宮嶋は文学、宗教、社会主義にも接近していった。その義兄夫婦が『出版人物事典』に立項されている。
出版人物事典―明治-平成物故出版人

 [大下藤次郎 おおした・とうじろう]一八七〇~一九一一(明治三~明治四四)春鳥会(美術出版社の前身)創立者。東京生れ。中丸精十郎、原田直次郎らに洋画を学ぶ。一九〇一年(明治三四)新声社から『水彩画の栞』(のちに増補改訂『水彩画階梯』)を出版、それがきっかけで、〇五年(明治三八)七月、水彩画の指導育成を目的とした春鳥会を創設、水彩画普及のための美術雑誌『みづゑ』を創刊した。同誌は戦時中、統合されたこともあったが、戦後復刊、美術出版社の基礎となった。水彩画家としての代表作は「穂高の麓」(第一回文展の出品作)で、外光描写による明るく穏やかな画風といわれる。一一年(明治四四)没後、夫人春子が『みづゑ』を継続刊行、二六年(大正一五)子息正男が業務を継承した。『大下藤次郎遺作集』がある。

  

 この後の美術出版社と『みづゑ』の行方は先の拙稿を参照してほしいが、大下の死も宮嶋にとって、ひとつの転回点となるものだった。彼は大下の紹介で、その友人の山県五十雄の雑誌『英学生』を手伝うことになった。山県は万朝報社出身で、アメリカとの貿易を目的とする東西社を興し、この一万部を超える雑誌も刊行していたのだが、広告取りがいなかったので、宮嶋はその仕事に就いた。その頃、宮田暢が平民社の人々を中心とする文芸誌『火鞭』を編集し、宮嶋も翻訳を頼まれたりしていた。

 その一方で、宮嶋は「投機の誘惑」に駆られ、相場の世界にも出入りするようになり、兜町にも勤めたりする。それは後に『金』(萬生閣、大正十五年)に描かれるのだが、雑誌に関わったのはこの『英学生』が端緒だったと思われる。それから水戸の鉱山の坑夫となり、宮嶋が東京に戻ると、大下は喀血し急死してしまった。それから大杉栄、荒畑寒村の『近代思想』に出会い、サンジカリズム研究会に参加したり、古本の露店を出し、万朝報社の『婦人評論』の記者八木うら子と結婚に至り、都新聞社の通信員として多くの読物原稿を書いていた。

(『金』)

 当時大杉栄は伊藤野枝との関係も絡んでか、引越しを望んでいた。宮嶋は書いている。

 丁度この頃、小石川水道町に義兄が建てた水彩画研究所の建物が、義兄が亡くなつてから長い間、空いてゐたので、それを借りれば、住むべき部屋もあるし、奥の教室のあとは、一階も二階も広い板張りだつたから、こちらの研究会やその他の会合を開くにも都合がよく、姉のためにも大杉のためにも好いと思つて、先づ大杉にそれを話した。彼も非常に乗り気であつた。そして、そこへ越したら、フランス語の講習会もやらうと言ひ出した。私は全く嬉しかつた。フランス語が読めるようになり、あちらのアナキズムの雑誌やパンフレットが見られたり、フローベルやゴンクールに直接ふれることが出来たら、どんなに愉快だらうなどと夢想した。

 姉に対してはそこにフランス語学校にしたいと申し受け入れられた。それで宮嶋はそこに移り、フランス語講習会とエスペラント語の看板も掲げ、前者には西村陽吉や山田吉彦がいて、研究会のほうは盛んになり、スパイも多くやってきた。しかし大杉と神近の関係は深まり、噂も広まっていた。なお西村のことは「西村陽吉と東雲書店」(『古本探究』所収)、山田は『近代出版史探索Ⅴ』947、954など枝記述している。

 そうした中で、地主、姉の相談相手、親戚が家を貸しておけないなどという苦情をいい始め、大杉や宮嶋へ非難が出され、半年ほどで引っ越さなければならなかった。しかし研究会のほうは名前を挙げなかったが、多くの人々が集まってきたようで、大杉や荒畑の講演会も開かれ、宮嶋が発行人を務めた『近代思想』も編集されていた。だがここではやはりそれらに関わっていた百瀬晋に言及できなかったので、次回に続けてみたい。


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古本夜話1352 宮嶋資夫『遍歴』と古田大次郎『死の懺悔』

 宮嶋資夫の『遍歴』におけるアナキズムから仏門への転回点をたどってみると、その発端は関東大震災から昭和初年にかけてのことだったと思われる。

 実際に『遍歴』のタイトルが物語るように、宮嶋はこの自伝的著作を「巡礼と遍歴」の章から始め、関東大震災から昭和初年にかけては、「大震災・虐殺」「死の恐怖」「禅門に入る」という三つの章が相当している。それは「運動と創作」と「禅病・停滞・無変化の苦悩」をはさんでのことで、彼の「巡礼と遍歴」がその時代へと収斂していっている印象を与える。

 おそらく大逆事件を受けての石川啄木の「時代閉塞の現状」(『啄木遺稿』収録、東雲堂書店、大正二年)も念頭にあったにちがいない。房州根本での大震災混乱後に上京するが、大杉たちが虐殺され、亀戸で平沢計七もまた殺されたことを知り、自らも保護検束される。

(『啄木遺稿』)

 東京帰つてからの私は、ただ憂鬱であつた。已に国民新聞も解体して、約束の長篇小説を書く場所もなくなつてゐたが、それよりも、創作すべき衝動を失つてゐたのである。主義者に対する圧迫は、暗々の中に強くなつてゐた。雑誌も新聞も門を狭くした。

 それは右翼の大化会のピストル乱射による労働運動社での大杉の遺骨強奪事件にも象徴されていたし、そこに村木源次郎や和田久太郎は遭遇していた。この事件に相俟って、関東大震災時の東京憲兵隊の大杉栄、伊藤野枝、甥の橘宗一虐殺は、村木や和田を始めとするアナキストたちのテロリズムを誘発することになった。

 大正十三年月九月に和田や村木が震災時の戒厳令司令官福田雅太郎をピストルで狙撃するが、軽傷を負わせただけで失敗に終わる。それと相前後して、ギロチン社を結成していた古田大次郎や中浜哲たちは、大杉虐殺報復のための資金や武器を確保しようとして、大阪で銀行員を襲うが、誤って刺殺してしまう。これらの報復計画は前年末頃から進められ、労働運動社関係者とギロチン社がコラボレーションしていたが、和田が福田狙撃を失敗したことを端緒として、村木たちは逮捕され、裁判へと至る。

 そうして彼らは次のような最後を迎えることとなる。古田と中浜は死刑、和田は獄中で縊死、村木も実質的に獄死と見なすべきだろう。彼らだけでなく、大正三年十一月には本探索1267の難波大助による皇太子狙撃という虎ノ門事件が起き、難波も死刑に処せられる。また関東大震災後に不逞社の金子ふみ子と朴烈が保護検挙され、大逆罪で起訴され、二人には死刑判決が出され、後に無期懲役となるが、金子のほうは大正十五年に縊死とされる。

 その後、和田久太郎は『獄窓から』(労働運動社、昭和二年)、古田大次郎は『死の懺悔』(春秋社、大正十五年)、金子ふみ子は『何が私をかうさせたか』(同前、昭和六年)を残している。古田と金子の手記が春秋社から刊行されたのは加藤一夫による尽力と伝えられている。それらに関しては拙稿「春秋社と金子ふみ子の『何が私をかうさせたか』」(『古本探究』所収)を参照されたい。

 

 古田の『死の懺悔』を初めて読んだのは、責任編集谷川健一・鶴見俊輔・村上一郎と銘打たれた「ドキュメント日本人」3の『反逆者』(学藝書林、昭和四十三年)においてで、そこには法廷での古田、和田、新谷与一郎、倉地啓司の写真が付せられていた。この叢書に関しては拙稿「『全集・現代世界文学の発見』と『ドキュメント日本人』」(『古本屋散策』所収)で既述している。その後しばらくして古本屋で裸本の春秋社版を見つけ、購入したのである。大正十五年六月第三版で、すでに半世紀を経ていたにもかかわらず、たやすく入手できたし、それからもよく目にしたので、当時のベストセラーだった事実を知ることになった。

ドキュメント日本人〈第3〉反逆者 (1968年)

 その巻頭に置かれた江口渙「古田君を憶ふ」は古田のプロフィルと人柄を伝えて迫ってくるし、古田は『死の懺悔』の中で、自分は革命家といよりも、宗教家たるべき素質を多く持っていたのではないかと独白し、「小さな殉教者としての淋しき死を望む」と述べている。古田はテロリスト、殺人者として死刑に処せられていくわけだが、それは「宗教家」「小さな殉教者としての淋しき死」を甘受していたことを意味していよう。これらのギロチン社を含めた事件は竹中労、かわぐちかいじの『黒旗水滸伝』(皓星社)や近年の瀬々敬久監督の映画『菊とギロチン』のテーマとなっている。

黒旗水滸伝―大正地獄篇〈上巻〉  

 またそれは『近代出版史探索Ⅲ』540のロープシンの『蒼ざめた馬』や『黒馬を見たり』にも及んでいるように、古田もロシアナロードニキから左翼エスエル党の系譜に連なる心優しきテロリストたちの一人であったことを物語っている。古田が『死の懺悔』でふれている自然の風景や花への愛着は、ロープシンの作品にも表出していた感慨であり、相通じてもいる。

 その「序」は加藤一夫によってかかれているが、古田の『死の懺悔』の原本の「感想録」三十二巻は『近代出版史探索Ⅲ』404の古河三樹が所持していたとされる。またこれは未見だが、古田の逮捕までの行動記も『近代出版史探索』168の大森書房から『死刑囚の思ひ出』として刊行され、発禁処分となっているようだ。大森書房は広津和郎の設立した出版社であり、彼の戦後の松川事件などへの注視も、そこに発端があるのかもしれない。


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古本夜話1351 笹井末三郎と柏木隆法『千本組始末記』

 宮嶋資夫の『禅に生くる』では彼を天龍寺へと誘ったのは「笹井君」で、それをきっかけにして宮嶋はその毘沙門堂の堂守となり、仏門の生活へと入っていったのである。

 この「笹井君」は笹井末三郎のことで、柏木隆法によって『千本組始末記』(海燕書房、平成四年)が書かれ、それを主要文献として『日本アナキズム運動人名事典』で立項されるまでは、岡本潤の『罰当りは生きている』(未来社、昭和和四十年)における次のような証言によって知られているだけだった。

 日本アナキズム運動人名事典  

 笹井の父親は、関西では名うての千本組というやくざの大親分だった。その三男に生まれた末三郎は、中学時代から文学を愛好して詩を書いたりしていた。(中略)そのうち社会主義思想に共鳴して家をとびだし、東京へきて労働をしながら、大杉一派のアナーキストや宮嶋資夫などに接近していた。その後、京都へ帰って千本組の若親分として立てられるようになったが、アナーキズム運動のかくれたシンパとして、非合法活動で追われているアナーキストを匿ったり経済援助を与えたりしていた。やくざの親分といえば右翼団体の看板をかけるものが多い(中略)が、かれだけは特例といっていい変り種で、親分というとはにかみ、(中略)やくざとはどうしても見えない青年紳士だった。その実うちには、般若の寅だとか、カナヅチの勝などという直情径行の若者がいたが、かれらも笹井の感化をうけて、リクツぬきで資本家と権力に対抗する気がまえを見せていた。昔のことはいわれたくないかもしれないが、大映社長永田雅一も、当時はマー公といって、笹井一家に出入りするチンピラやくざだった。

 さらに岡本は「革命と芸術をふところに入れて/賽ころをあつかふSよ」と始まる「Sに」という詩も捧げている。笹井に関するイメージはこの岡本の証言に負うことが大きいと思われるし、その後マキノ雅弘自伝『映画渡世・天の巻』(平凡社、昭和五十二年)も出され、マキノと笹井と永田の関係にもふれられているのだが、マキノトーキーをめぐる笹井による資金繰り問題もあってなのか歯切れが悪い。岡本は日活撮影所の重職にあった笹井を頼って京都にきて、その企画部員として入社している。

映画渡世・天の巻―マキノ雅弘自伝

 おそらくそうした様々な笹井の間隙を埋めようとして、柏木は資料収集と関係者インタビューを重ね、千本組の始まりと笹井の誕生から戦後における千本組の解体と笹井の死までを追い、満を持して『千本組始末記』を刊行したと思われる。それはA5判上製五〇〇ページを超え、しかも八ページに及ぶ口絵写真は宮嶋の出家写真も含んで壮観でありそのことを象徴していよう。だがここでは第九章の「宮嶋資夫出家の波紋」に言及するだけにとどめる。

 宮嶋の『禅に生くる』には出家が笹井の誘いによる偶然のきっかけのようになされたと述べられているけれど、柏木は森山重雄『評伝宮嶋資夫』(三一書房)などを参照し、その真相に迫ろうとしている。それは大杉栄虐殺に対するギロチン社の復讐の企ての失敗と関係者の死、及び南天堂グループとアナキズム文芸誌『矛盾』の解体を背景としている。それらに関しては寺島珠雄『南天堂』(晧星社)や拙稿「南天堂の詩人たち」(『書店の近代』所収)があり、柏木のほうは「ギロチン社事件」にも一章を設けているし、『矛盾』のことは『日本近代文学大事典』第五巻「新聞・雑誌」に立項があるので、そちらを参照してほしい。

 南天堂 松岡虎王麿の大正・昭和  書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)

 それらにまつわる事件や出来事を具体的に挙げれば、『近代出版史探索』28の昭和四年の和田信義『香具師奥義書』出版記念会における宮嶋の辻潤殴打である。それは『矛盾』を自らつぶしてしまった宮嶋の精神状態の錯乱に対して、辻から絶交をいいわたされていたことが原因だとされる。しかもその出家に寄り添っていたのは笹井だけでなく、近藤茂雄と新谷与一郎であった。二人とも『日本アナキズム運動人名事典』に立項されているが、前者は笹井の紹介で日活撮影所に入り、後に神戸光という俳優となり、『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)にも見出される。後者はギロチン社事件に連座し、出所後笹井の紹介で日活撮影所に就職しようとしたが、それは実現しなかったようだ。

(『香具師奥義書』) 日本映画映画俳優全集・男優編 キネマ旬報増刊 10.23号 創刊60周年記念出版

 それに近藤に関して特筆すべきは宮嶋とともに南天堂の常連でもあったことに起因するのだろうが、神戸の喫茶店三星堂を根城として、『赤と黒』や『ダムダム』を想起させる『ラ・ミノリテ』を創刊している。一号だけで終わった雑誌の書影は柏木の『千本組始末記』にも掲載され、執筆者として岡本潤、小野十三郎、宮嶋資夫などの他に笹井陶三郎=笹井末三郎、神戸光=近藤茂雄も見えている。また近藤は宮嶋夫人の麗子に世話になったこともあって、彼の出家についても問い合わせ、「エゴの人」の決意ゆえに「賛成したというよりは諦め」の心境だとの彼女の返事を得ている。それにこれもめぐりめぐってなのだが、神近市子も喜劇俳優神戸光の大ファンで、娘とともに映画は欠かさず観ていたという。

 このように宮嶋の出家をめぐる人脈を見ていくと、仏教書出版社からヤクザ、映画界までが連鎖し、大正時代から昭和にかけてのアナキズムの世界の社会主義人脈とは異なる人物たちの跳梁を知るのである。


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