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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1353 宮嶋資夫と大下藤次郎

 宮嶋資夫の『遍歴』は戦後になってからの回想で、それぞれの確固たる証言や資料に基づくものではなく、彼が思い出すままに書いていった自伝の色彩が強い。そのために時系列、人間関係、社会主義とアナキズム人脈なども交錯し、そこには出版資金、編集、翻訳をめぐる記述も垣間見えているし、なぜか宮嶋はふれていないけれど、『近代出版史探索Ⅵ』1047の美術出版社ともつながっていたはずである。

 宮嶋にとって長姉の夫で義兄の大下藤次郎こそは少年時代のキーパーソンで、彼にしてみれば、二人の結婚は「幸ひなこと」だった。それは大下がいつでも彼に書架を開放してくれたことで、それが「何より嬉しかつた」し、その「愉快さは忘れられない」と述べ、様々な全集や博文館の叢書などの「それ等の書物が私の読書に対する眼を開いてくれた」のである。それに大下を通じて、宮嶋は文学、宗教、社会主義にも接近していった。その義兄夫婦が『出版人物事典』に立項されている。
出版人物事典―明治-平成物故出版人

 [大下藤次郎 おおした・とうじろう]一八七〇~一九一一(明治三~明治四四)春鳥会(美術出版社の前身)創立者。東京生れ。中丸精十郎、原田直次郎らに洋画を学ぶ。一九〇一年(明治三四)新声社から『水彩画の栞』(のちに増補改訂『水彩画階梯』)を出版、それがきっかけで、〇五年(明治三八)七月、水彩画の指導育成を目的とした春鳥会を創設、水彩画普及のための美術雑誌『みづゑ』を創刊した。同誌は戦時中、統合されたこともあったが、戦後復刊、美術出版社の基礎となった。水彩画家としての代表作は「穂高の麓」(第一回文展の出品作)で、外光描写による明るく穏やかな画風といわれる。一一年(明治四四)没後、夫人春子が『みづゑ』を継続刊行、二六年(大正一五)子息正男が業務を継承した。『大下藤次郎遺作集』がある。

  

 この後の美術出版社と『みづゑ』の行方は先の拙稿を参照してほしいが、大下の死も宮嶋にとって、ひとつの転回点となるものだった。彼は大下の紹介で、その友人の山県五十雄の雑誌『英学生』を手伝うことになった。山県は万朝報社出身で、アメリカとの貿易を目的とする東西社を興し、この一万部を超える雑誌も刊行していたのだが、広告取りがいなかったので、宮嶋はその仕事に就いた。その頃、宮田暢が平民社の人々を中心とする文芸誌『火鞭』を編集し、宮嶋も翻訳を頼まれたりしていた。

 その一方で、宮嶋は「投機の誘惑」に駆られ、相場の世界にも出入りするようになり、兜町にも勤めたりする。それは後に『金』(萬生閣、大正十五年)に描かれるのだが、雑誌に関わったのはこの『英学生』が端緒だったと思われる。それから水戸の鉱山の坑夫となり、宮嶋が東京に戻ると、大下は喀血し急死してしまった。それから大杉栄、荒畑寒村の『近代思想』に出会い、サンジカリズム研究会に参加したり、古本の露店を出し、万朝報社の『婦人評論』の記者八木うら子と結婚に至り、都新聞社の通信員として多くの読物原稿を書いていた。

(『金』)

 当時大杉栄は伊藤野枝との関係も絡んでか、引越しを望んでいた。宮嶋は書いている。

 丁度この頃、小石川水道町に義兄が建てた水彩画研究所の建物が、義兄が亡くなつてから長い間、空いてゐたので、それを借りれば、住むべき部屋もあるし、奥の教室のあとは、一階も二階も広い板張りだつたから、こちらの研究会やその他の会合を開くにも都合がよく、姉のためにも大杉のためにも好いと思つて、先づ大杉にそれを話した。彼も非常に乗り気であつた。そして、そこへ越したら、フランス語の講習会もやらうと言ひ出した。私は全く嬉しかつた。フランス語が読めるようになり、あちらのアナキズムの雑誌やパンフレットが見られたり、フローベルやゴンクールに直接ふれることが出来たら、どんなに愉快だらうなどと夢想した。

 姉に対してはそこにフランス語学校にしたいと申し受け入れられた。それで宮嶋はそこに移り、フランス語講習会とエスペラント語の看板も掲げ、前者には西村陽吉や山田吉彦がいて、研究会のほうは盛んになり、スパイも多くやってきた。しかし大杉と神近の関係は深まり、噂も広まっていた。なお西村のことは「西村陽吉と東雲書店」(『古本探究』所収)、山田は『近代出版史探索Ⅴ』947、954など枝記述している。

 そうした中で、地主、姉の相談相手、親戚が家を貸しておけないなどという苦情をいい始め、大杉や宮嶋へ非難が出され、半年ほどで引っ越さなければならなかった。しかし研究会のほうは名前を挙げなかったが、多くの人々が集まってきたようで、大杉や荒畑の講演会も開かれ、宮嶋が発行人を務めた『近代思想』も編集されていた。だがここではやはりそれらに関わっていた百瀬晋に言及できなかったので、次回に続けてみたい。


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