出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1394 高田博厚『分水嶺』と「パリの日本人たち」

 もう一編、高田博厚の『分水嶺』(岩波書店、昭和五十年)を参照し、パリの片山敏彦とアランに関して続けてみる。

 高田は大正九年に東京外語伊語科を中退し、コンディヴィ『ミケランジェロ伝』(岩波書店、同十一年)を翻訳する一方で、高村光太郎たちと交流し、貧しい暮しの中で、彫刻の仕事を続けていた。また片山敏彦や尾崎喜八たちと「ロラン友の会」をつくり、『近代出版史探索Ⅱ』204などの叢文閣からロランの『ベートーヱ゛ン』『ヘンデル』を翻訳刊行していた。そして昭和六年に作品の頒布会でフランスへの渡航費を捻出し、パリへと向かったのである。

 (『ミケランジェロ伝』)

 パリで高田を迎えたのは昭和四年に渡仏していた片山敏彦で、二年ぶりの再会だった。高田にしてみれば、日本での片山は所謂「世間知らず」で、「社会問題」はふれたくないタブーのようであったが、それから解放された感じで、「彼は変ったなあ……」と思われた。二人で「パリ見物」に出かけ、ノートルダム寺院、サント・チャペル、クリュニュー博物館などの美術巡礼の中で、とりわけサント・チャペルの「イール・ド・フランスの宝石」=魔彩鏡(カレイドスコープ)の中に入って、フランスの「洗礼(パテーム)」を受けたのである。それを見ることは片山を通じてのロマン・ロランからの伝言だった。

 その「魔彩鏡(カレイドスコープ)」に加えて、高田にとってクリュニュー博物館の「貴女と一角獣」の絨毯(タペスリー)とオランジュリ館のモネの「睡蓮」がフランスの魂の「甘美」な思い出を生じさせた。またロダン美術館で見た「ロダン夫人」「思念」「ダナイド」などの実物は、それまでの「写真複製」では得られない「なんという優美(グラース)」を感じさせた。そして日本の現代彫刻はロダンに啓発され始まっているけれど、そこに至るは「なんという遠い道!」という嘆息をもらすしかなかったのである。

 また高田は片山とスイスのロマン・ロランを訪ねる。日本で片山たちは「ロラン友の会」を結成することで、ロランとの長い文通を続けていた。ロランは高田の彫刻の写真を見て、彼に自分の像を作るようにと依頼した。続けて片山から「現代のデカルト」といわれるアランの存在を知らされる。そうした「パリ見物」としての美術巡礼やパリ人脈の紹介を済ませ、片山は日本へと帰国するのだが、いささか唐突に高田は「マルティネとアルクサンドルが私にアランの像を作らせる」と語り、実際に手がけることになる。この二人は前回引いておいたアラン『文学論』の片山の「訳者あとがき」にみられる 詩人と大学教授で、アランの仕事の協力者であった。

(『文学論』)

 このようにして、高田は片山、ロマン・ロラン、アランたちの織りなす一九三〇年代のパリのサロン人脈の中へと入りこんでいくのである。ここで留意すべきは高田特有の「美術巡礼」とその「洗礼」をイニシエーションとしたことで、それが他の「パリの日本人たち」と異なるものであった。

それらのことに加えて関心をそそるのは『近代出版史探索』125の「パリの日本人たち」の存在であり、多くが本探索シリーズとも関係している。高田のフランス渡航のきっかけは春秋社からロランの『ベートォヴェン研究』(これは間違いで『ベートーヱ゛ン』、昭和五年のことだと思われる)を翻訳刊行したことで、同188の春秋社『ゾラ全集』のために日本に戻っていた武林無想庵の話を聞いたからだった。しかもパリに着いた当日に中華料理屋に夕食にいくと、そこにいたのは『同Ⅳ』888、889の岩田豊雄=獅子文六であり、数日後に訪ねてきたのは、同190で挙げた無想庵の妻の武林英子だったのである。

そして高田は武林夫妻に先行する一九二〇年代からの「パリの日本人たち」の実相を見て、同74の石川三四郎、拙稿「椎名其二と「パリの日本料理店」」(『古本屋散策』所収)などの椎名にも言及している。彼らは社会主義といえば、クロポトキンのアナキズムの時代にフランスにきた「インテリ」たちだが、「大いなる水に浮いた浮草同様で、そこの土壌の中に自分の根を下せない」、「そこで自分を創りあげるためには、大いなる水の層はあまりに広く深く、そして重い」のである。「底の土壌」と「大いなる水の層」とは、高田が「洗礼」を受けたフランス芸術に象徴される文化土壌と人脈に他ならないだろう。それでいて、このちりのような「変な日本人」は帰国しても迎えてくれる「地位」もなく、「日本に帰りたくない」心境へと追いやられていく。そして高田にしても「私もその中の一人になってゆくのであった」と記す。

数百人に及ぶ日本人芸術家はパリの中で「日本人植民地」を作り、藤田嗣治式「自己顕示」を行使しているだけだから、問題としなくてもいいとして続けている。

 「私たち」に問題になるのは、パリにいる日本知性人である。「知性」を試作し感覚し得るだけに、他の日本人以上に、西と東、ヨーロッパと日本との二つの「文化層」の谷間にあって、「自我」自身に深い矛盾を感じ、躊躇し迷い、絶望する壁にしばしばぶち当る 。「不安」を高い意味でも、低い意味でも体感する。ヴァレリーが言う「永遠のスファンクス」である「自我」を確かめ得るだけの「思念」の緻密性。この壁にぶち当る。
 無想庵や椎名はその例であった。また、私がパリに着いた頃には、アナーキスト辻潤親子がパリで「浮浪」しており、南部外のクラマールに金子、森三千代夫妻、日本ではできそうもない奇妙な暮し方をしており、そのクラマールの森では佐伯祐三が二度木の枝に首をくくって失敗した。隣のシャティオンやフォントネ・オオ・ローズあたりには三木清やモスコーから来た中条百合子がいた。そしてマルキストの三木はフランスで精神の「彷徨」をしなかつたら、パスカルに眼を向かなかつたであらう……

 このような高田の述懐と三十余年に及ぶ在仏、これらの他の多くの日本人たちの奇妙な生態とエピソードの言及を考えると、『近代出版史探索』125などの別の一九三〇年代後半の「パリの日本人たち」が、『同』121のスメラ学塾へと転回していったコアの理由がそこにあるように思われる。

 なお片山敏彦編による高田の『フランスから』が昭和二十五年にみすず書房から刊行され、四十八年には朝日新聞社から新編が出版されたことを付記しておく。

  (『フランスから』、みすず書房)


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古本夜話1393 アラン『文学論』とシモーヌ・ヴェイユ

 片山敏彦はアランの『文学語録』を翻訳し、昭和十四年に創元社から刊行している。この邦訳名「語録」は原タイトルの Propos de Littérature(1944)を反映させ、「プロポ」のアランの翻訳を意図したのであろう。だが私の所持するのは、やはり創元社版であるけれど、戦後の昭和二十五年の改訂版の『文学論』だ。戦前、戦後版の相違は確かめていないが、例によって均一台で拾った一冊で、それももはや古本屋にしても商品価値は低く、放出されたことになろう。

 (『文学論』、創元文庫版)

 しかしあらためて『文学論』を読んで見ると、プラトンからヴァレリーに至るまでの精緻な文学エッセイで、「プラトンの著作が解るといふだけなら大したことではない。必要なことはみづからプラトンになることだ。困難な思索をみづから実行することだ」というアフォリズム的な一節を見出してしまう。このようなフランスのモラリストの文脈によって、アランは日本へと受容されたと考えられる。

 それに片山が昭和十四年の「訳者あとがき」に記しているところによれば、フランスにおいてアランは次のような人脈と環境の中にあった。

 十年前にフランスで、アランの芸術論へ私の留意を促したのは高貴(ノーブル)な魂の詩人マルセル・マルチネだつた。アランの仕事の協力者であるアレクサンドル教授はマルチネの親友の一人であつた。又、あの詩人の家ではロマン・ロランの妹さんにもお目にかかつたし、老詩人のエドワール・デュジャルダンとその夫人にもあつた。(中略)
 当時ソルボンヌ大学の英文科の学生としてエミリー・ブロンテの「嵐の丘(ママ)」などを読んでゐたマルチネの娘さんが、紙片に、アランの講義の場所を書いて教えてくれ、私はその講義を聴きに行つてみた。霧の深い初冬の夜で、場所はモンパルナスの大通りに近いコレジュ・ド・セヴィニの講堂だつた。時間の三十分前に行つてももう据るところはない位多数の聴講者が集まつてゐたが、その人々の多様さに私は驚かされた。白髪の老人、黒衣の老婦から大学生、女子学生までさまざまな人々がゐた。(後略)

 さらに長くなってしまうのでアランの登場シーンは省略してしまったが、この一九二〇年のフランスのアランを取り巻く人脈とこの光景に、おそらく片山は日本の昭和十年代を重ね合わせ、アランをめぐって「楽しい知識」(ニーチェ)を求める人々を浮かび上がらせようとしているのだろう。それゆえに片山は「この訳著を、アランの姿に触れた十年前の霧の深い初冬の夜の思ひ出に捧げる」と述べているであろう。

 そうしたアランの文人モラリスト的イメージは戦後になっても存続し、私たちにしても彼が人生論の著者のようにも錯覚していたのである。例えば手元に角川文庫のアラン『思想と年齢』(原亨吉訳、昭和三十年初訳、同四十三年十二版)があり、巻末の「角川文庫目録」を見ると、同じく『幸福論』(石川湧訳)、『精神と情熱に関する八十一章』(小林秀雄訳)、『信仰について』(松浪信三郎訳)、『人間論』(井沢義雄訳)が収録され、昭和四十年代前半まではアランがよく読まれていたとわかる。それもあって、昭和三十五年には白水社の『アラン著作集』全八巻も編まれたと考えられる。

 アラン著作集 2 幸福論

 それに加えて、「角川文庫目録」のアランの隣にはヒルティの『幸福論』『人生論』(いずれも秋山英夫訳)、ラッセルの『教育論』『幸福論』(いずれも堀秀彦訳)が並んでいる。そしてアラン、ヒルティ、ラッセルに共通するタイトルとして『幸福論』が選ばれているように、外国の思想家たちも人生論の著者として受けとめられ、読まれていたのである。それはまだ消費社会を迎えていなかった昭和四十年代前半までが、いかに生きるべきかという人生論の時代であったことを示唆し、実際に『近代出版史探索Ⅳ』606の大和書房や青春出版社にしても、人生論をコアとして立ち上がっているし、実際に人生論が売れていたことを伝えていよう。

人生論 (1956年) (角川文庫) (ヒルティ『人生論』) 教育論 (1954年) (角川文庫) (『教育論』)

 しかしそれはヒルティやラッセルついても同様だろうが、彼ら以上にアランに関しては弊害とか、ある種のバイアスもたらしていた。吉本隆明は「情況への発言(一九八九年二月)」(『情況へ』所収、宝島社)で、次のようにいっている。「おれたちは十代や二十代のころからアランについて小林秀雄や桑原武夫に永いあいだだまされていて、アランを文学芸術好きのセンスのある断章的な哲学者だというイメージをこしらえあげていた。だがアランがラジカルなアナーキズム系の思想家だということを、かれらはいちども紹介しないし、解釈もしなかった」と。桑原は『芸術論集』(岩波書店、昭和十六年)などを訳しているし、そこに片山も加わるとはいうまでもないだろう。

情況へ 

 ここで吉本は『甦えるヴェイユ』(JICC出版局)の著者として発言している。実際にジャック・カポー『シモーヌ・ヴェーユ伝』(山崎庸一郎、中條忍訳、みすず書房)を読むと、アランがヴェーユに与えた深い影響を知ることができる。また本探索1291において、『社会批評』でのヴェイユとジョルジュ・バタイユのコラボレーション、『近代出版史探索Ⅵ』1194のバタイユ『青空』のモデル問題にもふれているが、それらの事実もアランからの思想的影響と不可分ではないはずだ。しかしヴェイユはともかく、人生論が自己啓発書へと入れ替わってしまった現在に至って、再びアランが読まれるようになるとは思われないのである。

甦えるヴェイユ(『甦えるヴェイユ』)  シモーヌ・ヴェーユ伝  


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古本夜話1392 片山敏彦『詩心の風光』とロマン・ロラン

 前回、高杉一郎の「片山教室」体験にふれたが、私のような戦後世代にとって、片山敏彦のイメージは希薄で、翻訳はともかく、著書も一冊しか入手していない。

 『日本近代文学大事典』における片山の立項は一ページ近いので、清水徹によるシンプルな『[現代日本]朝日人物事典』のほうを要約してみる。明治三十一年高知県生まれのドイツ、フランス文学者で、大正十三年に東京帝大独文科卒業後、ロマン・ロランとそのグループに深い関心を寄せ、昭和四年からフランスに留学し、スイスにロランを訪ねて親交を結び、ウィーンにツヴァイクを訪問した。帰国後の七年に一高教授となるが、二十年春には辞任し、軽井沢に隠遁し、文学と芸術を通じての魂の問題、さらには神秘主義的な姿勢から美や音楽を語り続けたとされる。

 この片山の『詩心の風光』を処女出版物として始まったのが美篤書房、後のみすず書房で、創業者の小尾俊人は『本は生まれる。そして、それから』(幻戯書房、平成十五年)において、「片山先生の思い出」を書いている。そこで小尾は昭和十七年の二十歳の時に読んだ岩波文庫のロマン・ロラン『ベートーベンの生涯』の片山の解説の「一人の人間」と「土くれ」の部分を示し、次のように述べている。

詩心の風光  本は生まれる。そして、それから (『本は生まれる。そして、それから』) ベートーヴェンの生涯 (岩波文庫)

 この文章が私に与えた鮮烈な力、記憶に沁みこんだ印象はつよい。一人の人間とはベートーヴェンであり、人間と土くれのコントラストのイメージが、四畳半に射しこむ光と影とともに思いおこされる。これが私と片山先生との最初の出会いである。

 それから小尾の軍隊生活と敗戦を経た四年後に片山の『詩心の風光』が刊行される。同書は『日本近代文学大事典』の片山の立項のところに書影としての扉の掲載もあり、小尾だけでなく、彼にとっても記念すべき戦後の最初の一冊だったことがうかがわれる。この四六判並製三九〇ページの用紙は粗末だが、内容はまさに「詩心の風光」に充ちているようで、その「序」は次のように始まっている。

 戦争は過ぎた。歴史の深刻な動乱は昨日の悪夢のやうである。しかもその大きな余波はまだわれわれを揺すぶつてゐる。眼前には廃墟と新しい多くの墳墓と社会革命の相があり、内心には喪しみや驚愕や焦慮の痕が数多く残り、飢えて寒さの傷口おもまだ癒えてない。
 帰つて来た平和の第一年目の春――空は碧瑠璃に澄み、丘には杏の白い花々が輝く。だが人は、自然のこの永遠回帰の余りにも明澄なふところに帰つて、聖書の中の「帰つた子」のやうに思はずむせび泣く。

 最初の六行ほどの引用だが、このような片山ならではと思われる文章がさらに四ページにわたって続いていく。それは前回のツヴァイク『権力とたたかう良心』の昂揚した文学との共通性を感じさせる。それに続く第一部に当たる「讃頌と追憶――ロマン・ロランを中心として」は多くが戦前に書かれた八編を収め、その中の「ヴィラ・オルガの思ひ出」は一九二九年=昭和四年のスイスの村へのロマン・ロラン訪問記である。「ヴィラ・オルガの門まで行くとロマン・ロランが手を差し出し、微笑しなから近づいて来た。その手を握る。何も云へない。ただ、目の前にロランの碧い目を光を感じてゐる」。この五〇ページ近い訪問記を読むと、本探索1252の徳富蘆花の『順礼紀行』における、明治末のトルストイ訪問を重ね合わせてしまう。あえていってみれば、片山にとってロマン・ロランは昭和におけるトルストイのようにも思われる。

  (警醒社『順礼紀行』)

 そのイメージは戦後を迎えても保たれ、片山と小尾によって『ロマン・ロラン全集』が企てられていくのである。そのような戦後の翻訳状況もあって、もちろんみすず書房の全集ではないけれど、図書館でいくつかの『世界文学全集』によって、私も中学時代に『ジャン・クリストフ』や『魅せられたる魂』などの大作を読んでいる。今となっては私と同じく、信じられないかもしれないが、そのような時代もあったのだ。

ロマン・ロラン全集 (9) 戯曲 1

 小尾も先述の一文でいっていたではないか。「著者があり、訳者があり、図書館がある。それらをむすび支える無数の綱、ネットワークがある。その質と拡がりが、文明の内容をなしている。その環の一つで、私は、あったのだ」と。そのような出版インフラに支えられ、『ツヴァイク全集』全二十八巻も『片山敏彦著作集』全十巻も刊行されていたのである。

(『片山敏彦著作集』)

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古本夜話1391 片山敏彦とツヴァイク『権力とたたかう良心』

 前回の片山敏彦に関して続けてみる。高杉一郎『ザメンボフの家族たち』に「片山敏彦の書斎」という小文がある。

 高杉は『文芸』の編集者として、昭和十二年から十九年の応召に至るまで、片山の書斎訪問を繰り返し、「片山教室」の「生徒」だったことを語っている。そこではロマン・ロランのこと、欧米の同時代の出版物などが話題となり、片山は「一見して非政治的な芸術の鑑賞者」だと考えられていたが、進行するアジアやヨーロッパの戦時下にあって、「実はテコでも動かない意志にささえられた抵抗者であること」を悟るようになったのである。

 それが機縁となって、高杉は戦後に片山の創案と監修による『ツヴァイク全集』全二十一巻のうちの『権力とたたかう良心』をドイツ語から翻訳することになる。その理由は「戦争中に、片山教室でそれを切実な思いで話題にのせた記憶があったから」だ。あらためてこの小説を読んでみると、それはよくわかるように思われる。

 

 ツヴァイクはユダヤ人の平和主義者であり、豊富な蔵書を備えて書庫を有するザルツブルグの館に住み、伝記文学『ジョゼフ・フーシェ』『マリー・アントワネット』『メリー・スチュアート』(いずれもみすず書房版全集に収録)などによって、イギリスのストレイチー、『近代出版史探索Ⅴ』873のフランスのモーロワとともに二十世紀の三大伝記作家とされ、ロマン・ロランとも厚い友情で結ばれていた。

ツヴァイク全集 11 ジョゼフ・フーシェ   

 ところがナチスの台頭によって、一九三四年に武器の密輸入の疑いで家宅捜索を受け、翌年にイギリスへ亡命する。そしてあわただしい流離の生活の中で、伝記文学というよりも、同時代のナチズムへの嘆きや怒りを宗教改革のルターやカルヴァンに投影させた『エラスムスの勝利と悲劇』(高橋禎二訳、河出書房、昭和十八年)、『カルヴァンとたたかうカステリオン』を書く。この二作はナチスとそのファシズムに対する抗議であると同時に、時代の政治的アナロジーをこめていて、前者は戦前に翻訳されているが、後者は昭和四十七年に高杉訳『権力とたたかう良心』としてようやく刊行されたことになる。それはサブタイトルを「カルヴァンとたたかうカステリオン」とするもので、そのコアを抽出してみる。

(『エラスムスの勝利と悲劇』)

 一五三五年カルヴァン(カルヴィンのフランス語表記)は福音主義の教理の最初の綱要にして、プロティスタンティズムの正典である『キリスト教綱要』を書き上げる。ツヴァイクはこれが歴史の流れを決定し、ヨーロッパの顔を変えてしまった一冊で、ルターの聖書翻訳以後の宗教改革の最も重要なものだったと述べている。カルヴァンは『キリスト教綱要』に基づき、ジュネーブで神政政治を実現するために教会法規を規定し、礼拝の儀式制度から市民の社会生活に至るまでのドラスチックな改革を断行した。反対する者はことごとく排除され、神学者で人文学者のカステリオンは追放され、異端者のセルヴェートは焚刑に処せられたのである。

 そしてカルヴァンはジュネーブを教会都市とすることに成功し、長きにわたってヨーロッパのプロティスタンディズムの牙城とした。神学は「偶発的な時代の衣裳」にすぎないと断った上で、ツヴァイクはいっている。

 それは、無数に生きた細胞をふくんで息づいている国家を硬直した機構に変え、それぞれの感情や思想をもっている民衆をただひとつの体系のなかにおしこめる実験であった。これは、思想の名において住民全体を完全に統制しようとしたヨーロッパで最初の試みであった。

 あたらしいイデオロギイというものは、いつでもこの世にまずあたらしい理想主義を生み出すものである(おそらくこれがあたらしいイデオロギイの形而上学的な意味なのであろう)。なぜかというと、ひとびとに統一と純粋というあたらしい幻影をもたらす人物は誰でも、まず第一に彼らからもろもろの力のうちでも最も神聖な力である献身と熱狂をひきずりだすからである。何百万というひとたちが、まるで魔法にかけられたように自分の方から進んで身をまかせ、はらまさせられ、凌辱されるままにさえなる。

 そのカルヴァンのあらゆる圧制に挑戦したのはカステリオンであった。この孤独な理想主義者は「貧乏学者、居住権も市民権もない外国への亡命者、二重の移民」というべき存在だが、どのような党派にも狂信にも関わりを持たなかった。それゆえにカステリオンとカルヴァンが象徴するのは「寛容と不寛容、自由と監視、人間性と狂信、個性と画一、良心と権力」の両極であり、ここから邦訳タイトルも取られている。

 そのようにして、ツヴァイクは「カルヴァンとたたかうカステリオン」を描いていくわけだが、そこには名指しされていないけれど、カルヴァンと『キリスト教綱要』が『近代出版史探索』116のヒトラーと『我が闘争』に擬せられていることは明白だろう。ちなみにカルヴァンの『キリスト教綱要』は『近代出版史探索Ⅵ』1033の中山昌樹訳で、『同Ⅲ』529の新生堂から全三巻で刊行されているようだが、未見である。

 それゆえに日本の戦時下において、片山や高杉にとっても、このツヴァイクの『カルヴァンとたたかうカステリオン』は重要な一冊だったことになろう。とりわけツヴァイクが挙げていたカステリオンの『疑う技術について』の一節はかみしめる思いを共有したと思われるので、それを引いて本稿を閉じる。

 ひとたび光明がおとずれたあとで、われわれがふたたびこのような暗黒のなかで生活しなければならなかったことを、後世のひとびとはおそらく理解できないであろう。


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古本夜話1390 小尾俊人と高杉一郎

 またしても飛んでしまったが、みすず書房創業者の小尾俊人は『昨日と明日の間』(幻戯書房、平成二十一年)所収の「高杉一郎先生と私」で、次のように書いている。

昨日と明日の間―編集者のノートから

 私が高杉先生のお仕事のお手伝いをいたしましたのは、昭和二十九(一九五四)年からのことです。『エロシェンコ全集』(一九五九)やスメドレー『中国の歌ごえ』(一九五七)の訳などです。しかし、仕事(編集者)の人間として、軍隊生活(第二次大戦)への従軍兵として、また片山敏彦先生の「片山教室」の生徒として、二人は共通の世界がありました。
 しかし、先生は当時四十五歳、私はまだ三十三歳、経験で及ぶべくもない大先輩でありまして、いくたの接点で示された「人間、高杉一郎の生きている思想」の美しさへの嘆賞あるのみです。

 これは平成二十年の高杉の百歳を目前にしての死への「高杉一郎追悼」の再録のようだが、ここにくっきりとみすず書房、高杉、小尾の三位一体の関係が刻まれている。それに加えて、本探索1385でふれた太田哲男『若き高杉一郎』にしても、やはり小尾が同書の「藤田省三さんの思い出」でふれている、その他ならぬ藤田の勧めによって成立したのである。

若き高杉一郎: 改造社の時代

 管見の限り、ここで小尾は高杉の側から語られていない、自らを含めた高杉とみすず書房の関係について語っているわけだが、そこには編集者ならではの韜晦のニュアンスを感じてしまう。小尾の高杉に対する思想の「美しさへの嘆賞」を肯うにやぶさかではないけれど、二人の間には編集者と従軍兵、「片山教室」の生徒としての共通点はあったにしても、どこかですれちがってしまうような瞬間が生じたのではないだろうか。

 どちらかといえば、私は高杉の代表作ではない『ザメンボフの家族たち』(田畑書店、昭和五十六年)に触発されるところが多く、本探索で続けて書いていくつもりでいる。そのタイトルと副題の「あるエスペランティストの精神史」は象徴的で、彼の戦中戦後史を物語っているように思える。これは高杉がシベリア復員後、新聞雑誌の求めに応じて書いた短い文章の集積から、その半分ほどを選んだものである。その「あとがき」で、彼は書いている。「戦争の時代を通り抜けてきた私たちの世代は、つねにどう生きるかという問題から頭が離れないので、私の書く文章はどれも地味にくすんでいることを、私は自分でもよく承知している」と。

 小尾は高杉の思想の「美しさへの嘆賞」を語っているが、高杉のほうは「どれも地味にくすんでいる」と自覚しているのだ。それは「片山教室」の戦前と戦後の生徒の相違にも表われ、小尾は『ザメンホフの家族たち』所収の「片山敏彦の書斎」を長く引用しているけれど、高杉の「くすんでいる」部分には及んでいない。

 それは戦後のエピソードで、彼は静岡大学教師として、学内の「ロマン・ロラン友の会」の講演にきた片山と再会し、片山たちの雑誌『花冠』にも原稿を書いたりした。そして続けている。「しかしどういうわけか、あの戦争中のような熱っぽいゆききはもう二度と私たちのあいだにはよみがえらなかった」。片山の死は昭和三十六年で、これは昭和四十七年の『片山敏彦著作集』の「月報」に寄せられたもので、ツヴァイクの『権力とたたかう良心』(『ツヴァイク全集』17)の翻訳も同年であった。

  

 それからこれは『征きて還りし兵の記憶』(岩波書店、平成八年)の「スターリン・言語集』論文」の章に見えるエピソードである。高杉は宮本顕治と義妹の再婚の自宅での披露宴に招待される。彼女は高杉夫人の妹だったことになる。それは宮本百合子の死後五年経った昭和三十一年のことで、中野重治、窪川鶴次郎、壺井繁治、蔵原惟人といった日本共産党の幹部たちが呼ばれていた。披露宴にもかかわらず、義妹は台所と間を忙しく往復して働いていた。そこで高杉は思うのだった。

征きて還りし兵の記憶 (岩波現代文庫)

 私は、ここに集まっているのは『新日本文学』の指導者たちのはずだが、フェミニズムのひとかけらもないのだろうかとふしぎに思った。これからこの家の主婦になろうとしている女性をなぜ会話のなかにひきいれようとしないのか。(中略)いま、ここに集まっているのは、古い日本の風俗のなかで育てられた亭主関白ばかりなのか。
 私は起ちあがっていって、その晩のホストである宮本顕治のすぐ横にひとつの座蒲団をおき、義妹には「あんたはここに坐っていなさい」と言って坐らせると、みずからの形をあらためて言った。
 「結婚記念の歌をうたいます。男が新妻に終生の愛を誓う歌です」

 それはドイツ語の歌で、高杉が歌い終えると、中野重治が「おい、日本語で説明しろよ」というので、「あんたは独文出身じゃないか」と応じたのだった。

 高杉のどれも「地味にくすんでいる」文章に対する自覚、及びこのようなエピソードに表出しているのは、『極光のかげに』におけるシベリア抑留、そこでの『スターリン体験』に起因するものに他ならないであろう。

  スターリン体験 (同時代ライブラリー)


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