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古本夜話1047 美術出版社、大下正男、『みづゑ』

 新しい文学や思想ムーブメントが起きると、それに必ず同伴する出版社と編集者がいる。モダニズム文学に関してはそれが厚生閣と春山行夫だったことを見てきたが、シュルレアリスムの場合は春鳥会、後の美術出版社と大下正男に他ならなかった。

 昭和十二年の「海外超現実主義作品展」、及びその図録『ALBUM SURRÉALISTE』と『海外超現実主義作品集』は、春鳥会の美術雑誌『みづゑ』の主催、二冊の図録と作品集はいずれも『みづゑ』の臨時増刊号として刊行されたのである。本連載1045の山中散生が『シュルレアリスム資料と回想』で証言しているように、「海外超現実主義作品展」は東京、京都、大阪、名古屋で開催されたが、「展覧会開催についての基本事項は、『みづゑ』の経営者大下正男と詩論家瀧口修造の協議により定められ、当時名古屋にいた私は、すべて両氏に委任の形をとった」。それでも図録において、瀧口が前回挙げた「現代の美学的凝結」という緒言の執筆と収録作品の翻訳、山中が作家録、年表、文献の執筆を分担している。

f:id:OdaMitsuo:20200629104421j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20200629104851j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20200623211828j:plain:h120 ( 『シュルレアリスム資料と回想』)

 美術雑誌『みづゑ』は、明治三十八年大下藤次郎によって水彩画の指導育成を目的とした春鳥会が設立され、その普及のために創刊された。だが四十四年に大下が亡くなり、春子夫人が続けて刊行し、大正十五年に息子の正男に継承された。彼は『出版人物事典』に立項されているので、それを引いてみよう。
出版人物事典

 [大下正男 おおした・まさお]一九〇〇~一九六六(明治三三~昭和四二)美術出版社社長。東京生れ。早大建築家卒。曽弥中條建築事務所に入社、一九二二年(大正一二)退社。父大下藤次郎没後、母春子が継承していた父の創案した美術雑誌『みづゑ』の編集に従事する。四三年(昭和一八)戦時体制下、美術雑誌統合により日本美術出版株式会社を設立、社長に就任。戦後四六年(昭和二一)『みづゑ』を復刊、四八年、株式会社美術出版社と改称。以後『美術手帖』『美術批評』『MUSEUM』などを創刊、美術関係の出版につとめた。六六年(昭和四一)二月四日、札幌雪まつりの帰途、全日空機の羽田空港沖墜落事故で、出版関係者二四名とともに死亡。『追想・大下正男』がある。

 幸いにして『追想大下正男』(美術出版社、昭和四十二年)は入手している。これは四章仕立てで、本連載1045のボン書店版L’ÉCHANGE SURRÉALISTEにおいて、ジゼール・プラシノス「武装」を翻訳した柳亮が「『みづゑ』編集の時代」を担当している。そこで柳は実質的に大下が『みづゑ』の編集を担った昭和六年から十六年にかけての十年間で、同誌が飛躍的な発展を遂げ、今日の美術出版社のベースを築いたと述べている。それは菊判から四六倍判化、アート紙使用、グラビヤ版の使用、恩地孝四郎のデザインによる装丁と題字の採用などの誌面の刷新、ピカソなどの特集形式などで、フランスの前衛雑誌『カイエ・ダール』や『ミノトール』、及びバウハウスの総合芸術活動の影響を受けたのではないかと推測している。

 その延長線上に「海外超現実主義作品展」と『みづゑ』臨時増刊号としての図録や目録の刊行があったと了解するし、それに同伴する美術誌論家が瀧口や山中、柳たちだったのである。

 瀧口も『追想大下正男』の「思い出」に「野菊一輪」という一文を寄せ、次のように記している。

 大下正男氏の美術の出版に残された業績はひとくちに尽せぬほど大きい。私はただシュルレアリスムを契機として始まった交友の一端を記録しておきたいと思う、(中略)ひとつの起点をいってよいのは、一九三六年六月号の「みづゑ」に、ダリから送ってくれたばかりの「非合理性の征服」を訳し、続けて「超現実造形論」という紹介を兼ねた論文を発表した頃であった。その頃の大下さんは毎月一度は私のアパートを訪ねて、資料を見たり、話し合ったりするうちに執筆が決まってしまうのだった。一九三七年には春鳥会の主催で「海外超現実主義展(ママ)」が催され、別冊みづゑで「ALBUM SURRÉALISTE」が出版された。(中略)大下さんの名は国際シュルレアリスム運動の推進者の一人として、マルセル・ジャンの「シュルレアリスム絵画史」にも記されている。「アルバムシュルレアリスト」は海外でも反響を呼び、ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊などには数十冊を送って貰った。最近でも海外の研究者から私の許にあの本についての問い合わせがある。当時、大下さんと美術の国際出版のことを話し合ったので、あれは今日の機運の走りであったとも考えられよう。

 それらはともかく、ここでもう一度、柳の「『みづゑ』編集の時代」に戻ると、『みづゑ』の原稿料は美術雑誌としては破格の一枚一円だったので、画家も含めた有能な寄稿者が揃い、昭和十三年には発行部数が六千部を超え、毎月増刷するようになったこともあり、同年三月号から「買切制」を導入している。そして十六年には七千五百部に及び、それでも完売に至っていたようだ。

 昭和十二年には支那事変が起きていたにもかかわらず日本文学や外国文学出版の隆盛を本連載でも追跡してきたが、それは海外美術の分野においても同様だったことになろう。


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