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古本夜話1188 第百書房、井上勇訳『制作』、高島正衛

 ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」の大正時代の譲受出版に関して、ずっとトレースしてきたので、ここでもう一冊付け加えておこう。

 それは本探索1179でも挙げておいた井上勇訳『制作』で、大正十一年に聚英閣から刊行されているが、この前後巻2冊は未見である。私が入手しているのは大正十五年十二月の三版、第百書房の上製新書版上下巻で、おそらく聚英閣版を踏襲した譲受出版だと思われる。この井上訳『制作』はフランス語からの直訳で、下巻に削除部分が見えているけれど、次の新訳と完訳は平成十一年の清水正和訳『制作』(岩波文庫)を待たなければならなかったので、八十年間はこの井上訳でしか読むことができなかったのである。

f:id:OdaMitsuo:20210814100331j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20210814100052j:plain:h120(聚英閣版)制作 (上) (岩波文庫) 制作 (下) (岩波文庫) (岩波文庫版)

 それに井上は「訳者序」にいうがごとく、「此の『制作』こそ、近代文芸史上にゾラのうち建てし記念塔」とみなし、ゾラの情熱の力が最も強く表現された作品として翻訳に臨んでいる。それは『制作』のコアが、ゾラとその友人にしてモデルでもあるマネやセザンヌたちの印象派との関係を通じての自伝的な「巴里青年芸術家の真相」を描くことにあると見なしているからだろう。

 それはともかく、私にとってまさに意外で印象的だったのは、クロージングにおける主人公のクロードの葬儀の場面で、思いがけない人物が登場してくるのである。そこ引いてみる。

 再従兄で、名誉勲章を持つて、大変な富豪で、巴里でも名高い大きな呉服店の主人であつた。立派な服装をして、美術に対する造詣が如何に深いか、その服装で見て貰ほうといつた様子をしてゐた。(中略)立ち上るや、枢車の直ぐ後の先頭に立つて、会葬者を如何にも物慣れた、慕しさうな態度で導いていつた。

 何と彼は『ボヌール・デ・ダム百貨店』のオクターブ・ムーレで、クロードの新聞死亡記事を見て、葬儀に連なっていたのである。井上にしても「大きな呉服店」という訳語からすすると、『ボヌール・デ・ダム百貨店』は未読だったと思われる。

 ボヌール・デ・ダム百貨店

 井上に関しては『近代出版史探索』196でその著書『フランス・その後』を取り上げているが、ここでは『日本近代文学大事典』における立項も紹介しておこう。

 井上 勇 いのうえ・いさむ 明三四・四・三〇~昭六〇・二・六(1901~1985)ジャーナリスト、翻訳家。東京生れ。大正十二年、東京外語英仏語部卒。同盟通信社外信部部長、パリ支局長、時事通信社取締役を歴任。エラリー・クィーン、ヴァン・ダインなど推理作家の作品のみならず、レマルク『凱旋門』(昭二二 板垣書店)、バルビュス『地獄』(昭二七 創芸社)、ロラン『ジャン・クリストフ』(昭二八 三笠書房)などフランス文学の翻訳を手がける。
 凱旋門 上巻   ジャン・クリストフ〈第1〉 (1953年) (三笠文庫〈第178〉)

 この立項を挙げたのは、中学時代に創元推理文庫で読んだエラリー・クィーンやヴァン・ダインは多くが井上訳であった。彼に加えて、イアン・フレミングの訳者である井上一夫がいて、二人の井上の翻訳によって、海外ミステリの世界に馴染んでいったことになる。

 しかし『ナナ』『制作』『テレーズ・ラカン』などのゾラの翻訳者としての言及はなされていない。井上は戦後の昭和二十年代にあって、フランス文学の翻訳も多いことから考えれば、どうして『制作』が再版されなかったのかという問いも生じてしまう。

 井上のもう少し詳しい翻訳書リストを求めて、日外アソシエーツの『現代翻訳者事典』(昭和六十年)を繰ってみたが、井上一夫のほうは見出されたけれど、勇は物故者ゆえなのか、収録されていなかった。彼は近代翻訳史から忘れ去られてしまうのであろうか。

 だがそうした一方で、第百書房と発行者の高島正衛はすでに近代出版史の中に埋もれてしまったといっていい。『近代出版史探索』170で佐藤耶蘇基『飢を超して』の版元が第百出版社、『制作』と『罪の渦』の第百書房がともに発行者を高島とすること、『近代出版史探索Ⅱ』217で昭和円本時代の万有文庫刊行会と潮文閣がこれもまた高島が発行者であることを指摘しておいた。したがって、第百出版社、第百書房、万有文庫刊行会、潮文閣はいずれも高島正衛を経営者とするもので、第百書房と万有文庫刊行会は小石川区水道端町という住所も同じである。

 ゾラ関連で「万有文庫」の河原万吉訳『居酒屋』を入手しているが、その判型は『制作』と同じ新書判で、これもまったく類似している。だが『罪の渦』のほうは四六判であり、これらも同じく聚英閣の井上訳『呪はれたる抱擁』、すなわち『テレーズ・ラカン』の譲受出版と見なすことができる。これらの事実を考えると、高島と第百書房は特価本業界に属する譲受出版から始まり、たまたま『制作』を手がけたこと、及びその出版に本探索1146、1147などの河原も関係したことも重なり、外国文学の翻訳を中心とする「万有文庫」の企画も生まれていったのではないだろうか。これは「抄訳叢書」とも見なせるのだが、全三十六巻の明細を確認できていない。


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