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古本夜話1187 三星社の水上齊訳『全訳ボワ゛リー夫人』に至るまで

 本探索1184の『ボワ゛リー夫人』がようやく出てきたので、ここで書いておく。黒川創の『国境』において、夏目漱石の仲介で明治三十四年に『満洲日々新聞』に連載されたフロオベルの『ボワ゛リー夫人』は植民地の新聞だったこともあり、ほとんど知られていないとされていた。
国境 完全版

 しかしこちらは誰の仲介なのか確認できないけれど、大正に入って内地の出版社によって単行本化されていたし、『近代出版史探索Ⅱ』227で既述しておいたように、買い求めていたのである。それは最初の版ではなく、これも譲受出版のほうで、ゾラと異なり成光館ならぬ、本探索1167などの三星社版を入手している。しかもそれは十年以上前で、山本昌一の『ヨーロッパの翻訳本と日本自然主義文学』(双文社、平成二十四年)を読んだことがきっかけだったと思う。三星社版は函入上製、菊半截判、第一、二篇合わせて七三五ページで、大正十年六月五版発行、発行者は簗瀬富次郎である。

f:id:OdaMitsuo:20210810112242j:plain:h110 (『ボワ゛リー夫人』、三星社版) ヨーロッパの翻訳本と日本自然主義文学

 やはり同227でふれているように、プロフィルは定かでないが、簗瀬と近田澄は三陽堂、東光社、三星社という特価本出版社トライアングルの主要人物に他ならない。だが三星社は特価本出版社だけにとどまらず、『近代出版史探索Ⅳ』747の喜田貞吉が創立した日本地理歴史学会の機関誌『歴史地理』、及び喜田の弟子にあたる菊池山哉『穢多族に関する研究』(大正十二年)の発行所だった。

 山本は前掲の著作の「『マダム・ボワ゛リー』と英訳本のこと」の章において、実際に現物を入手し、書影も示した上で、『満洲日々新聞』の水上訳『ボワ゛リー夫人』が「ロータス文庫」のヘンリー・プランシャンの英訳に基づいていることを実証していく。そして最初の単行本、抄訳『マダム・ボワ゛リイ』が大正二年に『近代出版史探索Ⅱ』220の東亜堂から出され、発禁本となり、次に同四年の植竹書院の全訳と銘打たれた『ボワ゛リー夫人』の刊行までをたどる。

f:id:OdaMitsuo:20210810135819j:plain (『マダム・ボワ゛リイ』、東亜堂)f:id:OdaMitsuo:20210810113524j:plain:h127 f:id:OdaMitsuo:20210810113829j:plain(植竹書院版)

 しかしその内実として、東亜堂抄訳版は新聞連載の大幅な増補を経ているが、植竹書院全訳版は「抄訳」に対する増補は少ないとされ、それがそのまま三星社へと引き継がれていったのである。三星社と植竹書院の関係は、これも本探索1167などでもふれたばかりだが、成光館と同じく三星社グループも、大正時代後半に多くの外国文学の譲受出版を担っていたことになる。

 そうした大正時代における英訳に基づく『ボワ゛リー夫人』の翻訳出版が続いていく一方で、『近代出版史探索』186の中村星湖訳『ボワ゛リイ夫人』が大正五年に早稲田大学出版部から出され、同九年に新潮社の『世界文芸全集』、昭和二年に同じく『世界文学全集』20に収録されていく。『新潮社四十年』の語るところによれば、『世界文芸全集』の『ボワ゛リイ夫人』は早大出版部版が発禁処分を受けたこともあって、「我が社は、お百度を踏んで検閲当局に時、熱意の迸るところ幸ひに良き理解を得て、やうやくこの世界的名著を、一般読書界に提供できた」とある。

f:id:OdaMitsuo:20180911113032j:plain:h120(『世界文芸全集』)f:id:OdaMitsuo:20210810165128j:plain:h120(『世界文学全集』)f:id:OdaMitsuo:20210512105601j:plain:h110(『新潮社四十年』)

 それゆえに新潮社の好調な売れ行きを見て、三星社の水上訳『ボワ゛リー夫人』の譲受出版も企画され、版を重ねていったと推測される。三星社版の造本が『世界文芸全集』を模しているのは歴然である。その間に同じ新潮社から大正三年に、田山花袋訳『マダム・ボワ゛リイ』、同十三年に春陽堂から酒井真人訳述『ボワ゛リイ夫人』、昭和二年に万有文庫刊行会の本探索1146、1147などの河原万吉訳『ボワ゛リイ夫人』が刊行されている。

 これらの三冊に関して、山本はやはりそれらの書影を示し、テキストを比較照合し、花袋訳は水上訳をベースにした抄訳で、花袋名での代作ではないかとも推測している。また春陽堂の酒井訳述、「万有文庫」の河原訳の双方は、明らかに星湖訳によっているとの判断が下される。私はこれらの三冊を入手しておらず、未見であるが、大正時代の翻訳出版や譲受出版事情を考えれば、山本の見解を肯っていいと思われる。ただ同じく「万有文庫」の河原訳『居酒屋』は所持しているので、これも本探索1184『世界文芸全集』所収の木村幹訳と比較してみると、こちらの訳文は明らかに異なっているし、同じく水上訳『酒場』も同様である。

 さらに山本はフランス語からの直訳を謳っている星湖訳にしても、早稲田大学出版部版は初めての英訳であるエイヴリング訳を主として参照し、それをフランス語原文と照合したのではないかという推論を提出している。これも早稲田大学出版部版を入手していないけれど、山本が掲載している書影と造本を見て、ゾラの中島孤島訳『生の悦び』と同じ菊判の「近世文学」シリーズの一冊であることに気づかされた。その「序」において、中島はヴィゼッテリィの全訳と抄訳に基づき、フランス語原書も参照と記しているので、大正初期にあってはフランス語の場合、英訳を主とし、原書は従とされていたとも考えられる。

 そうした出版と翻訳状況において、特価本出版社も含め、大正時代を通じ、『ボワ゛リイ(ー)夫人』は様々な本訳によって流通販売され、読者へとわたっていたことになろう。


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