出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話883 徳川義親、朝倉純孝『馬来語四週間』と大学書林

 これも古本屋の均一台から拾ってきたものだが、大学書林の徳川義親、朝倉純孝『馬来語四週間』、本連載517の今岡十一郎『洪牙利語四週間』、同279の日本出版社の久田原正夫『タイ語の研究』を入手している。これらは大東亜共栄圏幻想の拡大に伴うようにして刊行、もしくは版を重ねていったと思われる。前者の「語学四週間叢書」には同879の日本エスペラント学会の小野田幸雄『エスペラント四週間』の他に、竹内幾之助、出村良一『蒙古語四週間』、木村一郎『印度語四週間』なども含まれている。
ハンガリー語四週間(今岡十一郎著)

 それらの戦時下の出版状況はともかく、昭和三年に佐藤義人が創業した大学書林はこのような言語も扱う語学出版社として異彩を放っているし、各辞典や「語学四週間叢書」の出版経緯などは、出版目録を兼ねた『大学書林の三十五年』(昭和三十九年)に詳しい。ここではそのうちの『馬来語四週間』を取り上げてみたい。ちなみに徳川義親は侯爵で、平河出版社の『近代日本生物学者小伝』(昭和六十三年)に立項され、朝倉純孝のほうは東京外語教授であり、戦後は『インドネシア語四週間』(同二十七年)を出している。

近代日本生物学者小伝(『近代日本生物学者小伝』) f:id:OdaMitsuo:20190214172923j:plain:h115

 まず手元にある昭和十七年版の『馬来語四週間』で驚かされるのは、初版が昭和十二年六学に千部刊行され、十六年六版で八千六百部まで版を重ねていた。ところが、南進論と相乗してか、十七年五月には第七版五千部、同十月には第八版一万部と発行と奥付に記されている。これは軍による採用を考えるしかない重版部数であり、戦時下の出版状況の一端を告げていよう。しかもそれは十八年も続いていたはずだ。朝倉がその「序」で、「南方に活躍せんとする諸子」の参考になればと記している言が実効段階に入りつつあったとも見なせよう。

 『近代日本生物学者小伝』によれば、徳川は植物学者で、明治十九年に元越前藩主の五男として生まれ、後に尾張徳川家の十九代となり、侯爵を襲爵。東京帝大理科大学植物学科卒業後、自邸内に徳川生物研究所を創立し、生物学の発展に寄与する。北海道の農場に出かけ、原始林に住む熊の狩をしたので、「熊狩の殿様」とも呼ばれた。大正十年に医師の勧めで病気療養のためにマレーに旅行し、この時にマレー語を勉強し始めたとされる。

 その徳川義親が隠れたる主人公のように描かれ、登場する一冊がある。それは「占領下シンガポールと徳川侯」というサブタイトルを付したE・J・H・コーナーの『思い出の昭南博物館』(石井美樹子訳、中公新書)で、昭和五十七年に刊行されている。原書タイトルはThe Marquis:A Tale of shonan‐to である。コーナーはシンガポールのラッフルズ博物館と植物園の運営に携わり、後者の副園長を務めていた。ところが昭和十七年二月に大英帝国政府機関は降伏し、日本軍に占領され、シンガポールは昭南島と名前が変わった。それに合わせ、マレー半島の歴史と文化の宝庫たる博物館、マラヤの自然で埋もれた世界一の植物園も、それぞれ昭南博物館・植物園と改名され、館長には地質学者の田中館秀三が就任した。コーナーはそれを補佐する立場に置かれた。
f:id:OdaMitsuo:20190214174539j:plain:h115(『思い出の昭南博物館』)

 そこに勅任官待遇の軍最高顧問として、シンガポールに派遣されてきたのが五十五歳の徳川義親侯爵で、総長のポストを引き受け、博物館と植物園はひとつの組織に統合され、コーナーたちはその顧問、もしくは研究仲間といったかたちで参画することになった。侯爵たちと同様に、博物館や植物園が人類共有の財産と考えていたからだ。そしてコーナーの目に映った侯爵の姿が描かれていく。彼は日本人こそマレー語を習うべきだとの考えで、現地人に日本語を強要しなかった。

 侯爵はマラヤの歴史について研究をしていた。そのため、博物館の参考図書を広範囲に利用していた。とくに王立アジア協会マラヤ支部の図書を大事に利用していた。またマレー人を数人雇い、ジャワ、スマトラ、マレー語をローマ字のマレー語に直させ、その原稿から日本語の教科書と辞典を作成していた。(中略)
 侯爵がマレー語を勉強し始めたのは大正十年、はじめてマレーに行った時であるが、ジャワで開かれた汎太平洋学術会議に出席してからは、本格的に取り組みはじめた。昭和十二年には東京外語大学の朝倉教授と共著で、『マレー語四週間』を出版している。軍最高顧問としてシンガポールに来てからは、現地の伝説やおとぎ話をかたっぱしから読み、一日に十五分は必ずマレー語とつきあっていた。シンガポールには英国人の手になる英・マレー語の辞書がたくさんあったが、それにひきかえ、日本は台湾、朝鮮を長期間統治していたにもかかわらず、日・台、日・朝の辞書さえなかった。侯爵はせめて自分お統治するマレーと日本語の辞書を自分の手で作ってみようと思ったのである。

 残念ながら、侯爵はほとんど毎日博物館でマレー語辞典の仕事に取り組んでいたが、昭和十九年暮れに昭南島を引き揚げることになり、辞書の仕事は未完に終わってしまった。しかしその代わりに、昭和三十八年に朝倉によって、五万語を収録した『インドネシア語小辞典』がやはり大学書林から刊行されている。
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 また大学書林の「出版年譜」を見てみると、『馬来語四週間』出版後、昭和十六年には武居喜春『実用馬来語会話』、十九年には薗田顕家『初級馬来語読本』が刊行されている。武居や薗田も、徳川や朝倉の近傍にあった人物なのであろうか。


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古本夜話882 正木不如丘『法医学教室』

 前回、アルスの『フロイド精神分析大系』の第九巻『洒落の精神分析』の訳者が正木不如丘であることを既述しておいた。この原タイトルは Der Witz und seine Beziechung zum Unbewussten とされているので、人文書院版『フロイト著作集』では、「機知―その無意識との関係」(生松敬三訳、第四巻所収)に該当するものだ。

洒落の精神分析 (『洒落の精神分析』)Der Witz und seine Beziechung zum Unbewussten f:id:OdaMitsuo:20190214112043j:plain:h110

 この邦訳タイトルは正木自身もその「訳序」で、Der Witz=機知を洒落と訳すのはよくないけれど、同書は言葉と思考の洒落を総合的に取り扱っているゆえとの断わりを述べている。そしてフロイトが引いている無数の洒落が亡命の産物で、夏目漱石の『吾輩は猫である』の中に見える「Do you see the boy」と「図々しいぜ、おい」といった他国語と自国語の交錯する洒落を論じかなったことが残念だともらしている。

 このような言葉を発する正木のプロフィルを確認しておこう。『日本近代文学大事典』に立項が見出せる。

 正木不如丘 まさきふじよきゆう 明治二〇・二・二六~昭和三七・七・三〇(1887~1962)小説家、医学博士。長野県生れ。本名俊二。大正二年東京帝大医学部を卒業し、成績優秀で恩賜の銀時計を受けた。福島市の病院副医院長を経てパリのパスツール研究所に学ぶ。帰国後慶大医学部助教授となり、かたわら「朝日新聞」に『診療簿余白』(大一一・八・二五~九・一二)を連載して好評を得た。つづいて『三十前』「東京日日新聞」大一二・一・一)>『木賊の秋』(大一二・六、春陽堂)『思はれ人』(大一二)などを発表。(中略)大正末期探偵小説に筆をそめ、『髑髏の思出』(中略)などを出したが、情緒的な怪奇小説で、推理面には乏しい。昭和四年以後冨士見高原療養所長に専念(後略)。

 それで先述の昭和五年の日付のある「訳序」が「富士見高原に於て」と記されていた事情がわかり、『洒落の精神分析』の翻訳は創作の筆を断った後の仕事だと了承される。ただここで特筆しておきたいのは正木が大正末期において、かなり恵まれた作家だったことである。大正十二年第六版の創作集『法医学教室』を入手しているが、その巻末広告には同じく正木不如丘創作集として、『診療簿余白』と『三十前』が掲載され、立項にあった新聞連載が春陽堂によって単行本化され、前者は第四十一版、後者は第三十五版と謳われている。またとのキャッチコピーには「正木氏は若き夏目漱石と云はれてゐる」とある。明治四十に年から四十五年にかけて、春陽堂は漱石の『それから』『門』『彼岸過迄』を続けて刊行していたことから、正木を大正の漱石として売り出そうとしていたのかもしれない。
診療簿余白 (『診療簿余白』)f:id:OdaMitsuo:20190214154038j:plain:h115(『三十前』)f:id:OdaMitsuo:20190214165438j:plain:h115(『彼岸過迄』)

 『春陽堂書店発行図書総目録(1879年〜1988年)』を確認してみると、大正十二年に『診療簿余白』『木賊の秋』『法医学教室』『三太郎』が刊行され、『三十前』は「大正年間発行年月不明出版物」に分類されているが、これも同年の出版だと判断していい。これらの五冊に続いて、大正十三年も『青』『とかげの尾』、正木編『顔』も出されているので、春陽堂が正木を洋行帰りの医者、新人作家として売り出そうとしていたことは間違いないだろう。
 f:id:OdaMitsuo:20190214114033j:plain:h115(『木賊の秋』)

 しかし『法医学教室』を読んだかぎりでは、もはやその才気は失墜してしまったように思われる。『診療簿余白』の内容紹介として「五十数篇四百頁、科学、人情、風刺、皮肉、滑稽、洒落、真理、全編に横溢文辞軽妙、人生の表裏を説いて余す所なし」とあり、それらが「正木氏は若き夏目漱石と云はれてゐる」由来を伝えているのだろうが、残念ながら短編、中編、戯曲など十一作を収録した『法医学教室』からはほとんど感じられない。

 それを示すためにタイトルともなっている冒頭の「法医学教室」を見てみよう。この短篇の主人公は法医学を専攻する岸田である。その夜、彼は毒殺嫌疑の死体の胃の内容の研究を続け、そこに極微量だったけれど、その毒物を認め、それが死の原因だったのかを調べる必要に迫られた。そこで屍室に下りていくと、午後八時に解剖した死体はなく、床の上に小使の大山が倒れていた。岸田は大山を起こし、死体のことを問うと、大山は解剖した胃を岸田の部屋に持参し、ここに戻ったが、その後の三時間の記憶がないという。二人は死体を探したが、見当らず、警視庁と裁判所に電話した。すると数人の警官と判事、検事がやってきたが、岸田の姿は消えていた。そこで解剖室を調べると、血がたれ、廊下に続いているのが見つかり、小使が血のついた帯をつけていることも判明した。それは解剖死体の帯だった。しかし小使はまったく身に覚えがなかった。そこで廊下の血をたどっていくと、血は消えていたが、戸外の雪の上に足跡が続き、池の端に捨てられていた死体を発見した。足跡からして小使の仕業としか考えられなかった。それから門のところに倒れていた岸田も見つかった。小使と同様に意識を失って倒れていたのである。岸田は三ヵ月後に学会でその事件に関して、「或る毒物が死後程なく死体の胃の中に入れられる時は、特種の分解を起して、その分解産物を気体状態で吸入する時は先ず錯覚妄想を起し次で意識の混渇を起すと云ふ研究」を発表した。

 しかしこの研究はその夜の出来事の説明になるにしても、毒殺事件の解明にはならず、そちらは迷宮入りになってしまったというクロージングを迎える。これも先の正木の立項にある「情緒的な怪奇小説で、推理面には乏しい」という評価にまったく当てはまってしまう作品というしかない。

 そうした正木の資質ゆえか、大正十四年には春陽堂から『特志解剖』の一冊しか出されておらず、また円本の『明治大正文学全集』にも収録されなかったことになろう。
の出現によって、それらの作家や作品を初めて読んだり、再読したことを通じて、あらためて書くことができたという。それは現在と異なる、大正時代と関東大震災後の書物事情や文芸市場のことを考えれば、当然のことと了解する。だがこれ燈台下暗しというか、意外な盲点でもあった。


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古本夜話881 フロイト、吉岡永美訳『トーテムとタブー』と啓明社

 前回の長谷川誠也『文芸と心理分析』の刊行が、やはり春陽堂の『フロイド精神分析学全集』全十巻と併走していたことを既述しておいた。それは本連載82などでふれておいたように、長谷川、大槻憲二、対馬完治、矢部八重吉を訳者とするものだった。ただ当初は他の人々も訳者として予定され、長谷川の『文芸と心理分析』の巻末広告によれば、意外なことに第九巻『トオテムとタブウ』は本連載133などの仲小路彰がその訳者となっていた。

 長谷川は同書の巻末において、当時のフロイトの翻訳者として、安田徳太郎、吉岡永美、大槻憲二、対馬完治、正木不如丘、新関良三、矢部八重吉の名前を挙げている。大槻、対馬、矢部は前述したように『フロイド精神分析学全集』の訳者であり、安田たちはやはり同時期に刊行されていたアルスの『フロイド精神分析大系』の訳者だった。こちらは全十五巻のうちの一巻が未刊に終わったとされる。そのタイトルと訳者を示す。

1『ヒステリ』 安田徳太郎訳
2『夢判断』上  新関良三訳
3『夢判断』下   〃
4『日常生活の異常心理』   丸井清泰訳
5『恋愛生活の心理』 未刊
6『快感原則の彼岸』  久保良英訳
7『精神分析入門』上  安田徳太郎訳
8『精神分析入門』下   〃
9『洒落の精神分析』 正木不如丘訳
10『芸術の分析』  篠田英雄他訳
11『トーテムとタブウ』 関 栄吉訳
12『幻想の未来』  木村謹治他訳
13『超意識心理学』 林 髞訳
14『戦争と死の精神分析』  菊池栄一他訳
15『異常性欲の分析』  林 髞他訳

フロイド精神分析大系  (第9巻)

 私は9の『洒落の精神分析』の一冊しか入手していないけれど、この『フロイド精神分析大系』のキャッチコピーには「最近の学会を悪魔の如く攪乱し神の如く驚倒帰依せしめたる大胆奇抜の新学説!」とある。それに「凡そ人間生活を基礎とする万般の諸問題は精神分析によつてのみ解決される。心の不思議、性の秘密を知らんとする人は読め!」と続いている。昭和初期において、フロイトの精神分析がどのようにして日本へと紹介されたのかの一端をうかがわせている。

 これも長谷川によれば、先に訳者として挙げられていなかった丸井清泰や久保良英はフロイト心理学の紹介者として知られていたようだ。ところが一人だけ『フロイド精神分析大系』の翻訳メンバーでない人物もいて、それは吉岡永美である。なぜ吉岡の名前が挙げられていたかというと、彼は昭和三年に啓明社から刊行の『トーテムとタブー』の訳者だったからだ。

 『トーテムとタブー』で、フロイトはトーテミズムと原始共同体の発生が時を同じくしているとの仮説を提起している。それぞれの共同体はそれぞれのトーテム動物を持ち、その共同体はトーテムと同一の祖先を持つという信仰で結ばれ、このトーテムに殺害の禁止と同一トーテム集団内での婚姻の禁止というタブーに支配されている。これは父親殺しと近親相姦のタブーと禁止を意味し、それを社会規範として、トーテム共同体が発祥したとされる。

 吉岡訳『トーテムとタブー』は一九二二年第三版を底本として翻訳されたもので、「訳者序」で、次のように述べている。

 本書は道徳、芸術、宗教、法律等偉大な文化的所産の起原を究明し、かのヴントの大著が企て尚ほ未解説のまま残されて居る民族心理学上の諸問題に解説を試みようとする労作である。トーテムは家族制度以前の、而してそれよりも強い原始群の紐帯となつたものであつた。著者はトーテムの精神分析的見地から、原罪―クリストの犠牲死―家族制組織―国家形成に至る関連と其の発展過程を論述して居る。従つて太初の人間が強固な群又は部族的集団をなして生活をした一側面の犀利な観察であり社会科学上の一貢献であるといへよう。

 解釈の間違い、及び「近親不倫」や「万有精神論」などの訳語の問題はあるにしても、これが初訳であることを考慮すれば、よくぞ訳出してくれたという感慨を覚えざるを得ない。しかしこの吉岡のプロフィルはつかめないし、どのような人物なのか、想像をたくましくするばかりだ。

 それはまた出版社の啓明社にしても同様で、この版元は磯貝錦一を発行者、下川隆博を印刷者とし、その住所は麹町区元園町にある。これらの奥付の記載だが、その下の部分井小さく「平凡社 印行」と記されている。「印行」とは印刷所をさすことからすれば、『トーテムとタブー』は平凡社を通じて関連の印刷所が担ったことになる。また啓明社とは下中弥三郎が平凡社を発足させる前に立ち上げていた教育団体の啓明会を想起させる。

 啓明会は大正八年に立ち上げられた埼玉師範の教え子たちを中心とする教育団体で、機関誌『啓明』を創刊し、翌年には教員組合の色彩も帯び、「啓明パンフレット」なども刊行していた。しかし『平凡社六十年史』によれば、昭和二年に啓明会は分裂してしまったという。
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 この啓明社の磯貝錦一は啓明会の関係者と見ていいように思われる。また『トーテムとタブー』の巻末広告に、啓明社と住所を同じくする『米国旅行案内』『欧州旅行案内』などの海外旅行案内社、荘原達『農民組合論』を始めとする「農村問題叢書」の社会評論社が掲載されているが、これは啓明会が分裂後、それぞれが下中を頼って、事務所を同じくし、出版社として独立したことを物語っているのではないだろうか。
f:id:OdaMitsuo:20190213112213j:plain:h120(『農民組合論』)

 
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古本夜話880 長谷川誠也『文芸と心理分析』

 長谷川誠也といえば、明治三十年からゾラなどを紹介し、日本の自然主義文学を開拓していった文芸評論家とされ、『長谷川天渓文芸評論集』(岩波文庫)や『島村抱月・長谷川天渓・片上天弦・相馬御風集』(『明治文学全集』43、筑摩書房)が編まれている。また本連載866などの大木惇夫の博文館での上司、同872の高橋鐵の恩師でもあり、後者との関係では、同82の『フロイド精神分析学全集』の訳者、『文芸と心理分析』の著者という一面も有している。
長谷川天渓文芸評論集(『長谷川天渓文芸評論集』) f:id:OdaMitsuo:20190210180151j:plain:h120
 
 『文芸と心理分析』は昭和五年に出されているので、当時刊行中だった『フロイド精神分析学全集』の別巻、もしくは総解説のような位置づけで上梓されたのではないだろうか。それは四六判だが、六四二ページに及ぶもので、フロイト、文学、精神分析をめぐる啓蒙書としては大冊であり、様々な分野に多彩な影響を与えたと思われる。その「序言」は端的に同書の目的を示すように始まっている。

 現代の心理学、特に無意識を説く心理学の影響を受けた文芸には、どう言ふ特色があるか。また、これに影響を及ぼした主要な問題はなんであるか。この二つの問題を検べて記述すると共に、自然、文芸の性質に説き及んだのがこの書である。

 そして一八三〇年に書かれた心理分析文学の先駆としてスタンダールの『赤と黒』が挙げられ、それがロマン主義の時代に刊行されたゆえに、ほとんど評価されなかったし、作家もまた五〇年後に読まれるだろうと語っていたというエピソードを書きつけている。確かに一八八〇年代にスタンダールの『赤と黒』は詳細に読まれ、消化され、優れた心理描写を有する小説が生まれたし、今世紀に入って、プルーストの『失われた時を求めて』(一九一三年)、ジョイスの『ユリシーズ』(一九二二年)も刊行された。ただこの二作は難解であり、同様ではないけれど、そこに共通するのは心理の分析、それも望遠鏡や顕微鏡を用いて、過去、現在の心理を詳細に記した「心理分析文学の標本」といえる。
赤と黒 失われた時を求めて ユリシーズ

 このような『失われた時を求めて』『ユリシーズ』などの現代文学をふまえ、長谷川は文明に対するアンビヴァレントな心理、内省と自我の変容、フロイトのいうリビドーや無意識、エディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックス、ユングの心理タイプや集合無意識、夢と象徴、心理学的研究と近代文芸などが広範に論じられていく。タイトルに示されているように、文芸と心理分析をめぐって、ここまで広範に論じられた啓蒙書はなかったはずで、おそらく江戸川乱歩や高橋鐵も愛読者であり、また本連載82に乱歩の言を引いておいたが、新感覚派の作家たちも同様たったと思われる。とすれば、明治三十年代に長谷川は自然主義文学を嚮導したとされるけれど、昭和初期においては新感覚派に心理学と精神分析を開示したことになろうか。

 それも意外な側面だが、先の『明治文学全集』43所収の瀬沼茂樹「長谷川天渓」を読んで教えられたことがある。それは長谷川が、本連載690などのポール・ケーラスのオープンコート出版社が刊行していた雑誌『オープンコート』や『モニスト』の長きにわたる愛読者で、しかもケーラスの『科学的宗教』(鴻盟社、明治三十二年)、『仏教哲学』(同、同三十四年)を翻訳刊行していたことだ。

 長谷川は東京帝大哲学科教授のケーベル博士を通じて、ケーラスや雑誌のことも知ったようで、博文館に入社し、『太陽』の記者となってからも、両誌から記事を翻訳して掲載していたとされる。早稲田大学図書館には長谷川の蔵書印のある『オープンコート』が一八九七年から約六年間にわたって所蔵されているという。なお鈴木大拙がケーラスのところに渡ったのは一八九七年=明治三十年だが、長谷川と大拙の関係は不明である。

 また明治三十八年には文明堂から評論集『文芸観』を出している。文明堂は本連載558でふれたように、新仏教運動の近傍にあった版元である。先のケーラスの翻訳の版元の鴻盟社にしても、仏教界の中心人物である大内青巒が仏教伝道の目的で、明治十四年に設立したもので、仏教新聞『中外郵便通報』を創刊し、大内の『碧厳録講話』を始めとする仏教書を出版していた。それに大内は東洋大学学長に就任している。つまり鴻盟社も新仏教運動に寄り添っていた出版社だとわかるし、それに文明堂のことも考えれば、両社からケーラスの翻訳や自著を出版した長谷川にしても、これまで誰も指摘してこなかったけれど、新仏教運動の近傍にいたと判断していいように思われる。


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古本夜話879 日本エスペラント学会、小坂狷二『エスペラント捷径』、彩雲閣

 前回の土岐善麿の『外遊心境』にエスペラント語の訳文が収録されていることもあり、ここで日本エスペラント学会の出版物にもふれておきたい。それはこれも例によってだが、浜松の時代舎で、小坂狷二の『エスペラント捷径』なる「独習用・教師用」テキストを入手しているからだ。これは昭和二年初版、同三年第七版で、よく売れていることがわかる。日本エスペラント学会は大正八年に立ち上げられている。だからちょうど設立十年を迎えようとしていた。

f:id:OdaMitsuo:20190204174106j:plain(『外遊心境』) f:id:OdaMitsuo:20190204181240j:plain:h103(『エスペラント捷径』)

 この『エスペラント捷径』は「初学用の独習書」で、文法に加え、多くの模範的文を収録した一五〇ページほどの一冊である。もちろんエスペラントに通じていないし、この内容のレベルもわからないが、小坂が「序」で述べているように、エスペラントにしても「少なくとも中学三年位の程度の外国語の素養」が必要なことは理解できるし、やはり「語学々習の秘訣は根気である」ことも。

 その奥付のところに「我邦にエスペラント普及・研究・実用の中心機関」としての財団法人日本エスペラント学会役員名簿が掲載されているので、そのメンバーを挙げてみる。

 理事長  中村精男
 理事   上野孝男、種田虎雄、河崎なつ、川原次吉郎、何盛三、黒板勝美、小林鐵太郎、 
      高楠順次郎、土岐善麿、西成甫、美野田琢磨、望月周三郎、柳田国男、
      小坂狷二、大井学、三石五六
 幹事   大石和三郎、清水勝雄、木崎宏
 顧問   穂積重遠、三島章道

 肩書は除いたが、大学教授から鉄道技師に至る多様な人々からなり、柳田や土岐がエスペラントを学んでいたのは周知だったけれど、本連載121などでもお馴染みの高楠順次郎も関係していたとは意外であった。ちなみに『エスペラント捷径』の小坂は鉄道技師とされている。

 巻末広告として、エスペラント運動への「大衆の協力」を謳い、日本エスペラント学会の会員になると、大正九年に創刊のエスペラント語研究雑誌『La Revuo Orienta』(ラ・レヴーオ・オリエンタ)が毎月配布されるとの案内もある。この雑誌は未見だし、これらからも手に取る機会を得られるかわからないので、そこに示された内容を列挙してみる。

 1、文芸及び論説欄(エスペラント文)―詳細な脚註を付す。
 2、初等註釈欄―興味あるエス文を和訳し詳しい註を付す。
 3、研究欄―エス語の語学的研究発表。
 4、質疑応答欄―会員の呈出した語学上の質疑に解答す。
 5、普及運動報道欄―国内各地の普及運動を写真入で速報し、併せて海外のエス運動の大事件はすべて報道するを似てエス運動者の見のがすことのできぬ所である。
 6、投書欄。
 7、科学欄。
 8、作文会話欄。
 9、中等講義欄等。

 この雑誌の発行部数と日本エスペラント学会員数はつかめないけれど、月刊誌としてこれだけの内容を盛りこんだものを刊行することはそれなりの会員数を有していたと考えていい。雑誌の他にも、同学会編纂『新撰エス和辞典』、小坂狷二『エスペラント講習用書』、松崎克己『エスペラントやさしい読物』、夏目漱石『倫敦塔』などの「エスペラント書き日本叢書」などの刊行も、これらの会員によって支えられていたにちがいない。なお取次と発売所は北隆館が担っていた。
f:id:OdaMitsuo:20190210144423j:plain:h115(『新撰エス和辞典』)

 ユダヤ系ポーランド人のザメンホフが一八八七年=明治二十年に公表した国際語としてのエスペラントは、一九〇五年にはフランスで第一回世界エスペラント大会の開催、〇八年の世界エスペラント協会の設立に象徴されるように、世界的に拡がっていった。日本に伝わったのは一九〇二年=明治三十五年とされ、〇八年のドイツでの第四回世界大会は先に挙げた理事の国史学者の黒板勝美、及び後の『広辞苑』の編者新村出が参加している。

 またそれに先立つ明治三十九年に、日本における最初のエスペラント書である二葉亭四迷の 『世界語』と『世界語読本』(いずれも彩雲閣)が刊行されている。これらは岩波書店版『二葉亭四迷全集』第九巻に収録されているが、前者は抄録、後者は「例言」だけの収録である。だがそれらを確認してみると、 『世界語』は「露国エスペラント協会々員」の長谷川二葉亭著、「教科用 独習用」で、「文法・会話・読本・字書付」とあり、小坂の『エスペラント捷径』の内容と重なってくる。『世界語読本』のほうはザメンホフ著、二葉亭註釈とあり、これがザメンホフのEsperanto=『国際語』の翻訳だとわかる。

f:id:OdaMitsuo:20190210145210j:plain:h115(『世界語読本』)二葉亭四迷全集 (『二葉亭四迷全集』第9巻)

 二葉亭とエスペラントの関係、これらの刊行の経緯は二葉亭の『世界語』の「例言」、及び同九巻所所収の伊井迂老人「二葉亭とエスペラント」に詳しいが、その売れ行きだけでもふれておくと、たちまち三版を重ね、七、八版まで達し、そのために姉妹編『世界語読本』の刊行に及んだとされる。彩雲閣は歌人の岡麓が明治三十九年に創業し、本連載836の易風社の西本波太が在籍していた。経緯は不明だが、このようなエスペラントという国際語を初めて出版したことになり、その印刷も含め、協力した人々についても想像をたくましくしてしまうし、おそらく二葉亭と彩雲閣版が日本エスペラント学会の出版物の範となったと見なしていいだろう。


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