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古本夜話836 永井荷風『歓楽』、易風社、西本波太

 本連載829で、生田長江訳『死の勝利』が易風社から刊行予定だったという佐藤義亮の証言を引いておいた。
 その易風社の本を一冊だけ持っていて、それは永井荷風の『歓楽』で、明治四十二年に刊行されている。ただこの四六判の一冊は初版本だけれども、ほとんど背も裂かれた状態なので、鉛筆で千円という古書価が記され、それで買ったことを思い出させてくれた。私は初版本や限定本などに関しては門外漢だが、それを確認するために、山田朝一『荷風書誌』(出版ニュース社)を繰ってみた。すると書影の掲載はないが、次のような解題が施されていた。
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 白無地の表紙に題字を褐色刷にしてあり背文字も同色である。タイトルは組版で次に簡単な目次があり、その裏に短文の前がきが細長の飾りケイで囲んである。初出は明治四十二年七月「新小説」第十四年七巻に発表されたが発禁処分になった。これ又発禁の厄にあったのが本書である。篇中の「歓楽」「監獄署の裏」の二篇が風俗壊乱により発禁処分を受けたと云われている。

 この際だから、その「短文の前がき」も引いておこう。「短篇小説集歓楽は千九百八年七月外国より帰りて後一年間の創作を集む。千九百九年九月 永井荷風」とある。つまり『歓楽』は「新帰朝者日記」ならぬ「新帰朝者短篇小説集」で、所収の「監獄署の裏」や「狐」はそれを語って興味深いが、ここでは荷風文学への言及を差し控え、さらに書誌を進める。

 『荷風書誌』は続けて大正三年の俳書堂版と同十年の春陽堂板を挙げている。しかしこの二冊は前者が「歓楽」一編、後者は収録作品が差し換えられているので、タイトルは同じだけれど、易風社版とは異なる。それゆえに易風社版『歓楽』は荷風にとっても重要で、やはり易風社版から十月には発禁処分の二作を除いた『荷風集』を刊行していることは、それを示していよう。

 この易風社は麹町区飯田町にあり、発行者を西本波太としている。西本は翠蔭として、『日本近代文学大事典』に立項が見出せるので、それを引いてみる。

 西本翠蔭 にしもとすいいん 明治一五・一一・六~大正六・九・七(1882~1917)編集者、出版人。岡山県小田郡山田村生れ。本名波太。金光中学を経て早大英文科卒。明治三九年、岡三郎(麓)の彩雲閣創立に参加、水谷不倒、土肥春曙らと同社の雑誌「趣味」を創刊。『沙翁の面影』『沙翁と貴族』などを同誌に発表。四〇年より編集責任者(明四〇、「趣味」の権利をゆずりうけ独立、易風社を興す。田山花袋『生』、正宗白鳥『何処へ』、岩野泡鳴『耽溺』などを出版)となり、前年より愛顧を受けていた二葉亭四迷の翻訳や随筆を同誌に掲載するなど、文学雑誌としての性格を打ち出し、新文学の推進に貢献した。

 ここで挙げられている『趣味』は未見だが、同じく『日本近代文学大事典』に一ページ以上に及ぶ立項がある。それによれば、当初は編集主任の水谷不倒の方針もあり、守旧的な文化芸能雑誌で、芸能娯楽方向に力を注ぎ、随筆的趣味的な性格に染められていた。ところが西本が編集を担当するようになってから、文学雑誌としての側面が色濃くなり、文学者の回想、合評形式による作品論、作家論が掲載され、二葉亭四迷や国木田独歩の特集号が組まれ、またロシア文学の翻訳と紹介にも及んでいく。創作では正宗白鳥「塵埃」「妖怪画」、田山花袋「放火犯」「鐘」、永井荷風「晩餐の後」、「深川の唄」などを掲載し、文学的に画期的な活動をしたわけではないけれど、新文学推進の一翼を担ったとされる。

 易風社とは坪内逍遥門下の西本たちグループの呼称で、西本が『趣味』を引き継いでからの版元名としたのであろうし、先にその住所を示しておいたが、これは西本の自宅であったようだ。西本が易風社の『趣味』への作品寄稿を依頼し、それが掲載されることを通じて、易風社は単行本も刊行するようになり、それが前述の正宗白鳥などの著書として結実していったと考えられる。もちろん荷風の『歓楽』も同様で、「晩餐の後」と「深川の唄」もそれに収録されているからだ。

 菅野昭正は『永井荷風巡歴』(岩波書店)において、その最初の章を「深川へ行き唄え」と題し、「永井荷風の小説の《始まり》は『深川の唄』である」と断言的に記している。そこに菅野は、荷風が「山の手=擬似近代=『俗悪蕪雑』等々と下町=江戸旧文化『純粋一致調和』等々の対立から、小説を生成させる源をひきだすこと、その対立を小説の母胎として活用すること」を新たに発見したと見ているのである。それは当然の如く、本連載409の『日和下駄』にもリンクしていくことになる。それが「新帰朝者」の近代日本との再会だったことになる。
永井荷風巡歴 日和下駄

 そうした視座から『歓楽』という短編小説集をみるならば、「監獄署の裏」にしても、「狐」にしても、「深川の唄」と通底している。とすれば、『趣味』は荷風の帰朝者としての新たな文学の発見に寄り添っていたことになろう。


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