本連載125で、日系二世トシオ・モリの『カリフォルニア州ヨコハマ町』を取り上げた際に、アメリカにおける日本人移民史、及びその太平洋戦争下までのクロニクルも示しておいた。それはもちろん戦後を迎えても切断されたわけではなく、前々回のカポーティの『冷血』や前回のアップダイクの『カップルズ』のテーマである、アメリカの犯罪や性と家族の変容とパラレルに営まれてきた。今回はそれらの日系人の物語と犯罪や性と家族が交差する作品にふれてみたい。しかもこの作品のコアとなる年代も一九六五年で、『冷血』や『カップルズ』と時代をともにして起きていた事件を背景としているし、ヒロインがレスビアンであるという設定も現在を告知していよう。
それはニーナ・ルヴォワルの『ある日系人の肖像』(本間有訳)で、原文タイトルは“Southland”だが、これはこの物語の舞台に他ならないロサンゼルス南部地区、クレンショーを表象していると思われる。しかしそれでは邦題にふさわしくなく、この邦訳タイトルが採用されたと推測されるし、また著者のニーナが日本人の母親とポーランド系アメリカ人の父親との間に日本で生まれ、五歳になるまで東京と京都に住んでいたという経歴も重なっているのだろう。
ニーナはこの小説の序にあたる「日本のみなさまへ」を寄せ、自らの来歴を記すとともに、『ある日系人の肖像』の構想をもたらしたロスアンゼルスのクレンショー地区にあるボウリング場喫茶室のモーニング時間の光景をレポートしている。それは一九九六年のことだった。そのテーブルについていたのはほとんどが年寄りの黒人と日系人で、やはり六十代の日系ウエイトレスが渡してくれたメニューには、アメリカ南部の郷土料理と日本食の双方があった。そして「人種の異なる人たちが和気あいあいと入りまじ」り、「みんなそろって食事をしいてい」る光景は、小さい頃からの自らの日系人体験に照らし合わせ、ニーナにとって思いがけないもので、「きっと天国に迷い込んだに違いない」という印象をもたらした。
そのような光景の由来を調べていくと、クレンショー地区において、日系人と黒人が混住していて、戦前、戦後を通じて、両者が親身に支え合ってきた事実に突き当たる。そして多数派の白人から、両者が人種隔離された界隈へと追いやられていたこと、太平洋戦争下にあって、日系人が強制収容所に送られている間、その不在の家を管理していたのは近くの黒人であり、また六〇年代に起きた公民権運動の中で、日系人は黒人の側に立ったことも浮かび上がってくる。
しかしその人種と文化の違いを超えた地域社会、もしくは共同体とでもいうべきクレンショー地区を象徴するボウリング場も老朽化して閉業し、土地開発業者に買収、解体され、新しいショッピングセンターの敷地となってしまったのである。それらの地域の歴史と事柄を踏まえ、物語へと織りこみ、『ある日系人の肖像』は始まっている。まず「プロローグ」において、記録映画のように提出されているのは、かつての新興都市の一角であったひとつの地区、界隈、商店街の明らかな衰退の姿に他ならない。そこにはまず図書館、教会、公立学校、ボウリング場も残っているが、商店街は閑散とし、閉店した店も多い。かつてこの地に住民たちを連れてきた鉄道も廃線となり、甘くてみずみずしいオレンジを産する果樹園や苺畑はコンクリートの下に埋まってしまった。一九五〇年代から六〇年代にかけて、ここは約束の地のようであり、自然のままの丘陵に囲まれた豊かな土地が安く入手でき、言葉や肌の色が異なっていても、あるいは偏見や懸念を有して移ってきた人々にしても、それらの混住は日常のありふれた光景であるゆえに、そうした意識も退けられていく地区でもあった。それが今となれば、「過去の歴史は無用の長物」と化し、ある一角は「スラム化して見捨てられたような場所」になってしまった。そしてそのトポス名が記される。それはカリフォルニア州アンゼルメーサのクレンショー地区だと。
それがイントロダクションとなり、『ある日系人の肖像』の始まりの一九九四年と明記された最初の章へとつながっていく。日系人女性のジャッキー・イシダはカリフォルニア大学ロサンゼルス校のロースクールの学生だった。その祖父フランク・サカイが心臓発作で急に亡くなってから十日後に、彼が一緒に住んでいた叔母の家を訪ねた。それは祖父が残した遺言状を確認するためだった。その遺言状は一九六四年九月の日付で書かれていて、まさに三十年前にしたためられたものだった。それは七項目からなっていたが、もはや遺すべし対象の妻も、先立っていたし、遺すべき家もなく、有効な遺言書とは言い難かった。
ただ七項目の「店はカーティス・マーティンデイルに遺す」という一文だけは同様に、処理済と片づけるわけにはいかなかった。当時祖父はクレンショー地区で小さな食料雑貨店を営んでいたけれど、それはもはやフランク一家の過去にまつわるひとつの話と化していたし、実際にその店も売却されていたのだが、その売却金を三万八千ドルが「店」と書いた箱にそっくり残されていたからだ。しかもそれは二十九年間にわたって隠されていたことになる。
それにカーティス・マーティンデイルとは誰なのか。叔母もカーティスのことを知らなかったし、フランクの妻である母親からも何も聞いていなかった。そうした経緯と事情から、ジャッキーがこの人物の消息を調べる役を務めることになる。手がかりは教会での葬儀の参列者であるクレンショー地区の黒人と日系人たちしかなかった。かれらはジャッキーにとって初めて見る顔ばかりだったが、紛れもなく祖父をひとりの男として知っていたはずだし、それは家族についても同様だったと思われた。彼らは葬儀に際して涙を流し、家族も悲しみに暮れていた。それなのにジャッキーはそうした悲しみを共有できず、祖父に愛されていたにもかかわらず、彼のことを何も知らなかったことに気づく。その償いのためにも、彼女はカーティスの消息を調べてみようと決意するのだった。
それはジャッキーの家族の記憶への旅でもあり、叔母、母親、祖母たちの記憶や過去の物語までが喚起され、柳田国男のいうところの「妹の力」を系譜づける日系人の歴史的色彩も添えられていくことになる。それらに加えて、クレンショー地区育ちで公民館に勤めるジェイムス・ラニアーも登場してくる。彼は祖父の店を知っていて、カーティスは従兄に当たり、よく一緒に遊んだものだと語り、その店が自分より年長の少年たちの溜まり場で、カーティスも入り浸り、何年間もアルバイトをしていたことを話すのだった。そのカーティスの所在を尋ねるジャッキーにラニアーはいう。「彼なら死んだよ。(中略)あの騒ぎで死んだ。ワッツで黒人が蜂起した事件だよ、六十五年の」。この「黒人が蜂起した事件」は、高橋徹編『アメリカの革命』(「ドキュメント現代史」15、平凡社)の「解説年表 未完の革命―六〇年代のニューラディカル」の中に、「一九六五年八月一一日―一七日」の日付入りで、次のように記されている。
ロサンゼルス市のワッツ地区で、自然発生的な黒人叛乱が発生、それは延々一一四時間にも及び、ブラウン州知事の命令によって、戒厳令が施行され、四六・五マイルの地域に軍隊が出動した。この地域に居住する黒人六五万名のうち、その約二パーセントに相当する一万人の黒人が、直接この叛乱とかかわりを持ったが、その帰結は次の通り。死者三四名、負傷者一〇三名以上、逮捕者三九五二名(内一八歳以下の未成年者五〇〇名以上)、被害額四〇〇〇万ドル以上。
そして「この事件が非暴力直接行動型の公民権運動に与えた精神的衝撃はまことに甚大だった」とも付記されている。またジャッキーの言も引いておけば、「暴動」は「マーケット・フライという黒人の青年が、警官から暴行をうけたのをきっかけに」して起きたとされる。
しかしカーティスはこの暴動に直接巻きこまれて死んだのではない。フランクの店の冷凍庫で四人の黒人の少年が死体となって見つかり、その一人がカーティスだったのだ。誰かが暴動の最中に四人をそこに閉じこめ、死へと追いやったのだ。しかも事件が多発していたこともあり、そうした黒人の死は気にもとめられず、またマスコミにも取り上げられなかったし、それらはジャッキーの家族にも伝えられていなかった。一族には太平洋戦争間と戦後の年月の歴史に空白があるし、その直後に店はたたまれ、売却されていたことになる。そして祖父の遺書はワッツ暴動の一年前に書かれ、そのまま店の売却金とともに封印され、祖父の死後に至ってジャッキーたちが知ることになったのである。それは祖父が孫に残した事件を追跡してほしいという遺言でもあり、ジャッキーはラニアーとともにその探求に向かっていく。
それは37章に及ぶ、太平洋戦争下から一九九四年にかけての日系アメリカ人の歴史をたどることでもあった。祖父のフランクは戦時中にマンザナー強制収容所に入れられ、そこから軍隊に入り、ヨーロッパ戦線に送られ、アメリカンジャップと称される日系人からなる四四二部隊の兵士として、イタリアやフランスを転戦した。そしてナチスのダッハウ強制収容所を解放したのも四四二部隊だったとされる。そうして彼は負傷してアメリカへと帰還し、食料雑貨店を営み始め、同じ日系人と結婚し、ジャッキーの母や叔母も生まれていた。その祖父に何が起きていたのか。祖父とカーティスのことをたどっていくと、若かりし頃の祖父と黒人少女との秘められた関係が浮かび上がっていく。
かくしてジャッキーとラニアーの祖母とカーティスの過去と現在の交錯する探求、及び多様な登場人物からの回想とナラティブは、日系人と黒人のたどったアメリカの戦後史であるばかりでなく、ロサンゼルスのアンゼルメーサのクレンショー地区の歴史をもオーバーラップさせながら、もはや失われてしまった混住時代の黄金期を刻印づけようとしている。それは図らずも、ひとつの戦後の一時代に対するレクイエムのようにも思えてくる。
なおこの『ある日系人の肖像』の以前に、トマス・H・クックが『熱い街で死んだ少女』(田中靖訳、文春文庫)を書いている。これも一九六三年五月に起きた、アラバマ州バーミンガムでの公民権デモの渦中で発見された黒人少女の死体をめぐる事件をテーマとしている。このデモはキング牧師によって指導されたものだった。このデモも軍隊が動員され、多くの死者を出したはずだ。おそらくニーナの『ある日系人の肖像』もクックの作品を範としているように思われるし、これらの二作はミステリーの体裁をとっているけれども、いずれもアメリカの「ザ・シックスティーズ」のこだまのようにも読めるのである。