出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話742 松本清張「断碑」のモデルと濱田耕作『東洋美術史研究』

 前回の松本清張の「断碑」は在野の考古学者森本六爾をモデルとする小説だが、森本を木村としているように、多くの人物が仮名となっている。その中で、鳥居龍蔵は実名で登場し、森本の弟子に当たる人々はイニシャル処理され、人名はフィクションとノンフィクションが混在するかたちである。
或る「小倉日記」伝(「断碑」)

 それは>「断碑」の発表年が昭和二十九年で、まだ存命中の関係者が多いこと、とりわけ彼らが考古学アカデミズムの権威として評価され、モデル小説のキャラクターとしては権威を傷つける要素を孕んでいたことから、そのように配慮されたのであろう。それらの人々の見当はついていたけれど、藤森栄一の『二粒の籾』を読むことで確認できたし、ここで取り上げておきたい。本連載にこれからも出てくるからだ。その前にふれておけば、この森本六爾評伝のタイトルは森本夫妻をさしている。それを前置きとして、登場人物たちを挙げていこう。

f:id:OdaMitsuo:20171220112351j:plain:h110(『二粒の籾』)

 小学校の代用教員の木村が最初に考古学の教えを受けたのは、京都大学助教授の杉山道雄だった。彼の学歴は木村と同じ中学校だけで、考古学の勉強によって、現在の地位を得ていた。しかし杉山は木村の態度に煩わしさを覚え、木村はそれを感じ取り、杉山から離れていく。これは梅原末治である。

 次の高崎健二は東京高師出身の博物館の歴史課長で、かつて木村が出た畝傍中学の教師を務め、その地で考古学を勉強し、古墳墓の研究を主としていた。こちらは上野帝室博物館にいた高橋健自だ。彼は『考古学雑誌』主幹で、博物館考古室での助手雇用予定があるのでと木村の状況を誘う。木村は杉山に別れの挨拶にいくと、杉山は熊田良作先生に会っていくようにといわれ、熊田に会う。彼は京大の教授らしい初老の紳士で、梅原を京大に招いた人物のようだった。

 しかし考古室の佐藤卯一郎にも会ったが、もう一人候補者がいて、そちらは大学の史学科卒だったので、事務官が木村の採用に反対し、博物館入りは水泡に帰してしまった。そこで高崎は先輩の東京高師校長の南恵吉に頼み、木村をその助手に採用してもらった。だが木村はその事情を知り、高崎を見識のない学者として恨んだ。この佐藤は前回の葦牙書房から『日本文化黎明篇』を上梓している後藤守一、南恵吉は日本史学界の長老で考古学会会長三宅米吉博士である。

 そのかたわらで、木村は鳥居龍蔵夫妻の媒酌で結婚し、中央考古学会を組織し、『考古学界』を創刊していくが、そこで従来の考古学者を批判したことから、杉山、高崎、佐藤のところに出入り禁止となる。また南の死で仕事も失う中で研究に励み、浜田は彼らを圧倒してしまった。そして「フランスに行って箔をつけたい」と思いこみ、パリに向かい、「一年の滞仏は空虚」でもあり、病を得て帰朝する。だがもはやアカデミズムからは相手にされず、『考古学界』グループの中にあって、病のために鎌倉に転居し、弥生式文化と農業の起原の研究に打ちこんだ。だが木村の結核は妻にも感染し、彼女は奈良の田舎に隔離され、彼は鎌倉から京都に移った。

 そのことについて、松本は「断碑」の中で書いている。

 彼を京都に呼んだのは京都大学の総長になっていた熊田良作である。この温厚な考古学界の長老は卓治の窮状を見兼ねたのだった。彼の才能を前から認めていたのである。
 何かの名目を与えて、自由に考古学教室に出入りをゆるした。

 これによって熊田が濱田耕作をモデルとしているとわかる。先の熊田に関する記述では喜田貞吉とも考えられたので、濱田と特定できなかったのである。この際だから、『現代日本朝日人物事典』から濱田の立項の前半を引いておこう。
[現代日本]朝日人物事典

 濱田耕作 はまだこうさく 1881.2.22~1938.7.25 考古学者。大阪府生まれ。号は青陵。1905(明38)年東大史学史卒。1917(大6)年京大に設置されたわが国初の考古学講座の教授となり、教室を率いて近代考古学の興隆に大きな足跡を残した。37(昭12)年京大総長となり在任中死去。ヨーロッパ留学中、ペトリー博士に師事して得たイギリス考古学の野外調査訃報と遺物の型式学的研究をわが国で推進し、研究報告書の刊行を責務とし、自らも努めた。(後略)

 この立項に従えば、私たちは現在でも多くの考古学の野外調査、発掘、遺物に関する研究報告書を見ているが、それは濱田に起源が求められることになるし、京大博物館の充実も彼の貢献によるとされる。

 その濱田の著書を一冊だけ入手している。それは本連載738の座右宝刊行会から昭和十八年に刊行された『東洋美術史研究』の再版で、奥付には五千部刊行とある。初版は前年だが、同じく濱田の『考古学研究』『日本美術史研究』もすでに上梓されている。濱田は東大在学中から岡倉天心たちが創刊した美術雑誌『国華』の編集に携わっていたので、美術史に関する論考も多く、濱田は生前にこれらの三冊を考古学、美術史の三部作として出版を計画していたとされる。『東洋美術史研究』の「凡例」の担当は京都帝大考古学教室の梅原末治に他ならず、それは濱田の遺著というべき三部作が、京都考古学教室と座右宝刊行会のコラボレーションによって刊行に至ったことを物語っている。
f:id:OdaMitsuo:20171222135526j:plain:h115(『東洋美術史研究』)

 さて>「断碑」において、その後の木村と熊田の関係はどうなったのだろうか。松本は書いている。「教室に自由に出入りしてもよい、と熊田総長は云ったが、どれも出来なくなった。一つは卓治の病み切った身体を皆が嫌い、一つは卓治の相わらずの傲慢な態度を憎まれたのである」。そして熊田による「教室の平和のため甚だ遺憾ながら今後の出入りは御遠慮下さるようお願い申上げ候」との手紙が届いた。それから卓治は病気が悪化、昭和十一年に同人たちだけに見守られ、三十四歳で亡くなったとある。

 熊田=濱田の死は昭和十三年で、京大総長在任中だったから、栄光に包まれて亡くなったといえよう。森本と濱田の死は、日本考古学創成期の明暗を象徴しているかのようだ。


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古本夜話741 葦牙書房、森本六爾、松本清張「断碑」

 本連載737において、小林行雄が在野の考古学者で、浜田耕作に認められ、京大考古学研究室助手となったことを既述しておいた。彼は森本六爾たちの東京考古学会にも加わっていた。

 その東京考古学会に関連して、葦牙書房の肥後和男『文化と伝統』の巻末に、「東京考古学会刊行書目」が掲載されていたことを思い出した。同書は昭和十七年に藤森栄一を発行者として出されたもので、奥付の発行所名は「あしかびしょぼう」とルビがふられている。B6判函入、三四五ページ、函と背にタイトル、著者、出版社を記した題簽が貼られ、本扉には「肥後和男歴史評論集」とある。その一編は「葦牙(あしかび)」と題され、それが『日本書紀』の「天地の中のひとつの物なれり。かたち葦牙の如し。すなわち化(な)りませる神を国常立尊とまうす」に見えていることを教示してくれる。これは問わず語りのように、ここから出版社名もとられたことが示されている。

 肥後は京都帝大史学科出身で、その「著作書目」によれば、昭和十年代に河出書房や弘文堂などから十冊以上の日本古代史研究書を出していて、『文化と伝統』刊行当時は東京文理大で教鞭をとっていたと思われる。葦牙書房から同書が出されたのは、肥後が東京考古学会編輯の『考古学評論』の寄稿者で、その版元が葦牙書房だったことによっているのだろう。

 やはり確認してみると、巻末に「東京考古学会刊行書目」が見出され、小林行雄に加え、本連載738の『古代の南露西亜』の訳者の坪井良平の名前もあった。それらをリストアップしてみる。これもナンバーは便宜的に振ったものだ。

 1 森本六爾編『日本原始農業』
 2  〃   『日本原始農業新論』
 3  〃   『日本先史土器論』
 4 坪井良平 『仏教考古学論叢』
 5 杉原荘介編『日本文化の黎明』
 6 坪井良平編『歴史考古学研究』
 7 源豊宗、田中重久著『法隆寺建立年代の研究』
 8 森本六爾著『飛行機と考古学』
 9 森本六爾、小林行雄書『弥生式土器聚成図録』
 10 坪井良平著『慶長末年以前の梵鏡』
 11 森本六爾、坪井良平編『考古学年報』全九冊
 12   〃     『考古学』全百拾壹冊 

 これらの他にも単行本として、森本六爾『日本農耕文化の起原』、直良信夫『古代の漁猟』、篠崎四郎『大和古印譜』、後藤守一『日本の文化黎明篇』、セイス、坪井良平訳『原始技芸論』が掲載され、セイスの内容紹介には坪井が東京考古学会主幹とある。しかし「同刊行書目」から見ても、森本六爾の存在感は圧倒的なので、『現代日本朝日人物事典』の立項を引いておこう。
f:id:OdaMitsuo:20171220102659j:plain:h110 [現代日本]朝日人物事典

 森本六爾 もりもと・ろくじ 1903.3.2~36,1.22
考古学者。奈良県生まれ。1920(大9)奈良県立畝傍中卒。小学校代用教員や東京高師(のちの東京教育大)副手などを務めつつ、考古学研究会(のち東京考古学会と改称)を創立。弥生時代に稲作農耕が存在したことを考古学的に解明、弥生文化研究の基礎をつくった。雑誌『考古学』を主宰し、在野の考古学者の育成に活躍した。若くして死んだが、その研究成果は、『弥生式土器聚成図録』(39年、小林行雄と共著)、『日本農耕文化の起原』(41年)、『日本考古学研究』(43年)などに結実している。松本清張の小説「断碑」の主人公は森本をモデルとしている。

 この立項によって、森本の死が昭和十一年だとわかる。それは先に挙げた葦牙書房の森本の著書、ここに見える三著が森本の死後に刊行されたこと、それらは彼が『考古学評論』や『考古学』に発表した論文を、東京考古学会が編んだものであることを示唆している。

 それらの事実を踏まえ、松本の「断碑」(『或る「小倉日記」伝』所収、新潮文庫)を読むと、主人公の「考古学界の鬼才」木村卓治が「その専攻の考古学に関する論文を蒐めた二冊の著書を遺した」と始まっている事情が了承される。小説の中で東京に出た木村は考古学アカデミズムからそねまれ、排除されていく一方で、彼の周りには考古学研究者たちが集まり、その一人は「T」とイニシャルで呼ばれ、梵鐘研究者だと説明されれている。そして木村はアカデミズムの『考古学論叢』を批判し、そこに書くことができなくなったので、グループを結集し、中央考古学会を組織し、その機関誌『考古学界』を出す。「断碑」ではそれに関して、「会費は分担といっても主に資本家のTが出し、雑誌の編集は卓司が受持った」とある。
或る「小倉日記」伝

 これは『考古学論叢』が『考古学評論』、中央考古学会が東京考古学会、『考古学界』が『考古学』、梵鐘研究者で「資産家のT」が坪井良平だと判断できる。それは「東京考古学会刊行書目」の10の坪井の著書、11の『考古学年報』と12の『考古学』の編者が坪井と森本の連名になっていることからも明白であろう。

 さてこの「同書目」の編者や著者ではなく、発行者の藤森栄一にも言及しなければならない。藤森もまた在野の考古学者で、東京考古学会の森本に師事していた。「断碑」の中に『考古学界』同人として、これもイニシャルで「F」が挙げられているが、これは藤森をさしているのかもしれない。

 藤森の戦後の自伝として、『考古学とともに』(講談社、昭和四十五年)が出されている。その第一章の「混乱期」の二節目は、「葦牙書房」とあり、そこには戦前に葦牙書房が神田岩本町に住所を置き、日本古代文化学会事務所も兼ねられていたけれど、それが敗戦後はボルネオ出征中の藤森に代わって、その夫人が信州諏訪に移転させていたことが語られている。そして開店休業中だった葦牙書房が「あしかび書房」として再出発し、森本の『日本農耕文化の起原』と直原の『古代の漁撈(ママ)』を再版し、また自らの『考古学』の埋め草随筆『かもしかみち』も出版してベストセラーとなり、「県内一流の出版元にのし上がった」ことにもふれている。だが肝心の戦前の葦牙書房には及んでおらず、まだそのプロフィルをつかむに至っていない。

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 その後、藤森の森本六爾伝『二粒の籾』(河出書房、昭和四十二年、『藤森栄一全集』第5巻所収、学生社、同五十四年)を後者の版で読んだ。そこには松本が「断碑」で参照したと思われる森本の写真類が収録され、松本が執筆に当たって藤森を取材していたことを知った。また森本が三十三年の短い生涯に十冊の単行本と百六十余の論文を書いたこと、『考古学』が最初は岡書院から出され、その頼りとする若い協力者が樋口清之だったことなどを教えられた。それで「H」という年若い学徒が樋口だとわかる。しかしやはり葦牙書房に関しては語られておらず、依然として定かではない。
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古本夜話740 須井一『清水焼風景』

 これも例によって浜松の時代舎で見つけ、購入してきた一冊だが、須井一の『清水焼風景』という小説集がある。これは五編の中編、長編が収録され、そのうちの長編がタイトルになって言う。改造社から昭和七年に刊行されているけれど、作家名を初めて目にするし、『日本近代文学大事典』を繰ってみても、その名前は出てこない。
日本近代文学大事典

 「まえがき」に当たる須井の「読者諸氏へ」を読むと、他の四編は雑誌に発表しているが、『清水焼風景』は未発表で、初めて「労働者大衆をとりあつかつてみたもの」、「わがプロレタリア文学が、過去幾年かの歴史を経て漸く築き上げたところの唯物弁証法的創作方法に、出来るだけ忠実に拠らうとした」作品とされる。また須井が小説を書き出してから、まだ一年余りで、作品数もこれがほとんどすべてであること、林房雄の激励によって創作を勧めたことなどがしたためられている。

 タイトルに示された『清水焼風景』は京都の清水焼の工場地域を舞台とし、いわば資本家に対する労働者の闘争を描いたもので、その背景には第一次大戦後の世界的大恐慌と金融引き締めに伴う産業合理化がある。伝統的手工芸の清水焼は、瀬戸や美濃の機械化した大資本に圧倒され、破産寸前の状態に追いやられ、そこに職人的労働者と窯を有する製造家との闘争が始まっていく。

 このような内容ゆえに、同書の半分以上を占め、二四〇ページに及ぶ『清水焼風景』は伏せ字だらけで、当局の検閲を意識して編集されたことを示している。それは労働者の集会を見張る岩松淳の装幀の絵にも顕著で、岩松のほうは『日本近代文学大事典』に見え、プロレタリア系の画家とされる。そこまではわかったけれど、須井に関してそれ以上の手がかりがつかめずにいた。ところが水島治男の『改造社の時代・戦前編』に、その須井が出てきたのである。水島は書いている。

 昭和七年、有力な新人があらわれた。須井一である。処女作「棉」をもって登場した。「棉」が発表された雑誌は、いまではおぼえていないのだが、それは商業誌ではなく、ナップ系の雑誌だった。『改造』では昭和七年十月号に「樹のない村」をもらっている。ところが同月の『中央公論』にも「幼き合唱」が載っているのである。流行作家が他の有力誌に同時に作品を発表することがあっても、新人が有力誌にかけもち発表することは、きわめてめずらしいことだったのである。須井一とはいかなる人物であろうか、地下にもぐっているのをこちらから訪ねていって、依頼したものか、書かせてくれといってきたのか、いま、まったく記憶していない。(中略)十二月には大宅壮一塾から、須井一の長編小説「清水焼風景」が持ちこまれ、改造社から発行された。(後略)

 ここに挙げられた「棉」も「樹のない村」も「幼き合唱」も『清水焼風景』に収録されているし、これで同書の改造社からの観光事情が判明したことになる。

 しかし水島の須井をめぐる話には後日譚があり、それも続けて書かれている。それによれば、須井が水島を訪ねてきて、須井一は実在の人物がいて、自分の友人で小学校の先生をしているので、この筆名で有名になると本人に迷惑をかけることになる。だから「加賀耿二」の筆名に変更したいが、それでも原稿をとってもらえるかという相談を受けた。これは水島の一存では決められないし、改造社の会議にかけられ、作品本位だし、また新人が現われたことにすると決められ、加賀名での再出発は『改造』の九年十月号の「工場へ」からで、四回発表しているという。

 だがこれで終わらず、まだ続きがある。昭和十四年に水島は改造社を辞め、東亜公論社という小出版社に携わっていたが、そこに加賀が現われ、支那旅行にいくので、知り合いへの紹介状を頼まれた。その際に河上肇の個人雑誌『社会問題研究』の編集を手伝い、「十三」という匿名で様々な論文を発表していたとの「正体の一端」をもらしたのである。そして水島はさらに最後の落ちとして、「彼は戦後早々、京都から共産党員として、衆議院選挙に立候補して見事に当選した。その名は『谷口善太郎』」と結んでいる。

 あらためて『日本近代文学大事典』を繰ってみると、加賀耿二は立項され、本名谷口善太郎、別名須井一とあるではないか。明治三十二年石川県生れ、大正六年に京都で清水焼の陶工となり、京都陶器従業員組合などを創立し、その組合長となる。つまり『清水焼風景』は自らの体験をベースにしているとわかる。その後日本共産党に入党し、昭和元年の日本労働組合評議会創立に際し、中央常任委員となり、労働運動活動家の道を歩むが、三年の三・一五事件で投獄され、肺病のために自宅監禁中に「棉」などを書き出し、須井一とうプロレタリア作家として登場したことになる。
 なお水島は記していないが、昭和十五年にその東亜公論社から加賀耿二『工場へ』が刊行されている。また新日本出版社の『日本プロレタリア文学全集』29として、『谷口善太郎集』(昭和六十一年)が編まれ、そこには伏せ字なしの『清水焼風景』も収録されている。

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古本夜話739 土居客郎、恒星社、渡辺敏夫『暦』

 本連載730の山本実彦『蒙古』の参考資料として、水島治男の 『改造社の時代・戦前編』『同戦中編』(図書出版社)を読み、ふたつほど気になっていたことが氷解したので、それらを二編挿入しておきたい。

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 水島は大正十三年に創立された夜間の大学である早稲田専門学校に入学し、いずれは新聞記者を志していたが、昼間の仕事として校正係を選んだ。そのきっかけは次のような次第であった。

 叔母の家に下宿していた土居客郎という、もと警醒社にいた人に会わせてもらった。(中略)当時、土居さんは独立して「恒星社」という出版社をおこして、星座や天文学の本を出していた。私は、もともと堺利彦の弟子で、土居さんの警醒社の同僚でやはり独立して厚生閣の主人となっていた岡本正一さんに紹介されて、校正係として入社した。(中略)
 厚生閣の出版物は小学校国語教科書の教授法の研究指導が主であった。当時、アメリカのパーカスト女史が創始したダルトン・プランという新教育方法が流行していた。私の仕事は校正が主で、他は新聞にのせる小さな広告、雑誌ののせる広告作成といった仕事もした。そこで出版界の事情や校正、活字の大きさや、組み方、用紙のことなどを覚えた。

 ここで恒星社の土居のこと、本連載107などの厚生閣の岡本正一が堺利彦の弟子だったことが語られている。これらは知らなかった事実だが、とりわけ前者の恒星社の土居への言及は初めて目にするし、『出版人物事典』における立項を裏づけることになる。
出版人物事典

 [土井伊惣太 どい・いそうた 別名土居客郎]一八九九~一九六六(明治三二~昭和四三)恒星社厚生閣創業者。香川県生れ。同志社大神学科に学び、警醒社編集部を経て一九二二年(大正一一)岡本正一、志賀正路と恒星社を創業、“天文学に憑かれたアマチュアの一人”として天文書の出版を続けた。三七(昭和一二)に『図説天文講座』を出版、三八年には荒木俊馬『天文と宇宙』を刊行、長く版を重ねた。四四年(昭和一九)戦時企業整備で厚生閣を合併、恒星社厚生閣と改めて社長に就任。以来、一貫して学術専門書を中心に出版を続けた。(後略)

 土井と土居のふたつの名前は前者が戦後、後者が戦前に使われていたように推測される。それは水島の証言と昭和十五年の恒星社の渡辺敏夫 『暦』の奥付にも表われ、発行者は土居客郎となっているからである。

 また巻末には五十冊を超える「恒星社出版書目」も掲載され、それらは立項に見える『天文と宇宙』を始めとする天文書で大半が占められ、土居と恒星社の天文書出版の実績がうかがわれる。これは未見だけれど、山本一清、村上忠敬の『天文学辞典』も挙がっていて、同時代の天文学ばかりでなく、星や天文マニアである野尻抱影や稲垣足穂も恒星社の天文書と併走していたにちがいない。

 しかし恒星社の取次を通じての流通販売は厚生閣に委託されていたようで、『暦』の奥付には発行所が芝区南佐久間町の恒星社、発売所が麹町区六番町の厚生閣となっている。これが意味するところを説明してみる。『出版人物事典』の立項は恒星社も厚生閣も大正十一年創業としているけれど、『日本出版百年史年表』を確認すると、同年には岡本による厚生閣の創業しか記されていない。


 
 水島の証言にあるように、厚生閣は教科書関連の出版物を主として、岡本や土居が立ち上げ、岡本がそれらに携わる一方で、土居は天文書の出版を志向していたと思われる。それで厚生閣の出版物と区別するために、厚生閣の別名としての恒星社を使用した。だが当時の出版状況から考えても、天文書の刊行は販売環境が整っておらず、恒星社としての独立した取次口座の開設は無理だったのではないだろうか。また営業の問題もあっただろう。

 そこで発行は恒星社として編集に専念し、取次などの流通販売は厚生閣に委託することになった。それは恒星社の天文書出版が軌道にのったと見なしていい昭和十年代になっても変わらず、その分担が続いていたことを示している。そのような事情から、昭和十九年の出版社整備で両社が合併することになったのだろう。ちなみにこの合併には、『婦人画報』の東京社と「袖珍文庫」などの三教書院も加わっている。

 またこれは拙稿「春山行夫と『詩と詩論』」(『古雑誌探究』所収)でもふれているが、水島が昭和二年に改造社に入り、厚生閣を去る代わりのように、翌年に春山行夫が入社し、『詩と詩論』を創刊する。そのかたわらで、「私の『セルパン』時代」(『第一書房長谷川巳之吉』(日本エディタースクール出版部)で述べられているように、「社主は根っからの商人で、広告文などは一切書かなかったので、毎月でる四、五冊の新刊書の編集や広告は私がひとりで担当」していたのである。つまり岡本は経営と営業に専念していたのであろうし、それが恒星社との関係にも反映されているはずだ。
古雑誌探究  第一書房長谷川巳之吉

 なお春山は戦後に恒星社厚生閣の社長になったのは「平井君という営業係」だったとも記している。それは岡本から平井への、恒星社厚生閣の営業からの経営の引き継ぎを意味していよう。


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古本夜話738 座右宝刊行会とアンダーソン『黄金地帯』

 前回の『古代の南露西亜』の訳者による「参考書目」の中に、アンデルソンの『黄土地帯』『支那の原始文化』の二冊が挙げられ、前者が昭和十七年に座右宝刊行会から刊行されていることを既述しておいた。ただ著者表記はアンダーソンとあるが、これだけは入手している。

 だが同書にふれる前に、まず版元の座右宝刊行会に言及しておくべきだろう。『日本出版百年史年表』などにおいて、座右宝刊行会は志賀直哉が大正十四年に創業したことになっている。それは志賀が大正時代後半に京都に移り住み、博物館や神社仏閣を見歩いているうちに、気に入った東洋の古美術品の大きな写真を集めたものがあればいいと思い、贅沢な古美術図鑑としての『座右宝』を作ろうと考えたのが始まりだった。そのため『座右宝』は志賀の個人的古美術コレクションともいえるし、写真撮影や印刷を大塚巧芸社の大塚稔、編集実務を奈良で志賀と一緒に仕事をしていた橋本基が担当し、発行名義人を志賀、発行所を東京市本郷区の座右宝刊行会として出版したのである。一四二枚の古美術写真を綴じずに桐製の漆箱に収め、書物のかたちになっていなかったが、一五〇部が定価二百円で頒布され、五ヵ月後に六八円の普及版も刊行された。

 これが志賀と座右宝刊行会の設立事情であるけれど、その後のことは山科時代の志賀の愛人と同様に、よくわかっていなかった。その一端がようやく判明したのは阿川弘之の評伝『志賀直哉』(岩波書店、平成六年)においてだった。阿川は豪華本『暗夜行路』にふれ、明確に書いている。
志賀直哉 暗夜行路

 豪華一冊本の「暗夜行路」は、昭和十八年十一月に刊行された。発行元の座右宝刊行会は、大正期に美術図録「座右宝」を出した座右宝刊行会とは別の組織である。「新しき村」発足時の古い会員で、直哉にも梅原にも昔から知遇を得てゐる美術好きの後藤真太郎が、直哉に勧められて名義を引き継ぎ、新しく設立したのが、美術関係を主として扱ふ東京江戸橋の出版社「座右宝刊行会」であつた。出版書肆の経営者となつた後藤の一つの念願は、志賀直哉の名作「暗夜行路」を、自分の好み通りの、贅沢な、美しい一冊に仕立ててみたいといふことで、紙や布や、製本用の材料も時間をかけて上質の物を揃へ、数年がかりで準備を進めて来た。その結果、大戦争のさなかとは思へぬ見事な本が出来上つた。(後略)

 この初版千部、税込み定価二一円六〇銭の『暗夜行路』は未見だが、所持する『黄土地帯』も同年七月の再刊で、数ヵ月早く出されたことになる。だがこれも『古代の南露西亜』と同じく、やはり古代の支那を対象とする考古学書である。その初版は前年の十二月なので、半年余りで版を重ねていて、それもまた戦時下の出版状況の謎のように思える。 初版部数は不明であるけれど、再版は二千部と奥付に記載されているからだ。奥付といえば、発行者は日本橋区江戸橋の後藤真太郎となっていて、確かに阿川がいうように新しい「座右宝刊行会」だとわかる。

 『黄土地帯』は菊判上製、四七四ページで、写真も含めた図版も一五六に及び、サブタイトルとしての「北支那の自然科学とその文化」を論じる専門書たる風格を備え、具体的な「山の生成」「龍と龍骨」「北京人類」などの二十章仕立てだが、それらの中でもとりわけ柳田国男の言説を想起させる「子安貝の表象」が印象深く、「日本の安産の御守」の図版とともに言及されている。
黄土地帯 (『黄土地帯』)

著者のアンダーソンは一八七四年生まれのスウェーデンの地質学者、考古学者で、一九〇六年にスウェーデン地質調査所長となり、一四年に北京農商部中国地質調査所の鉱政顧問に招聘され、渡支し、二五年までの十二年間を支那で過ごした。その間に彼は支那の地質調査を遂行し、大量の化石や考古学的遺物を収集するに至った。その発見のいくつかは画期的なもので、支那における初めての恐竜の発見、また北京人類の発見も同様だった。それに支那にも石器時代が存在したことを確認し、その大住居址を発見し、そこで彩色土器を見出したのも特筆すべきで、これはアンダーソン土器との異名をとったという。

 帰国後はストックホルムに東亜古物院主幹として多くの重要な論稿を発表し、ストックホルム大学教授として東亜考古学を講じていたが、三七年には再び支那に赴き、その際には日本来訪も予定されていた。だがアンダーソンの都合で中止になったとされる。それらもあって、先に挙げたように、昭和十六年に四海書房から『支那の原始文化』が刊行されたのであろう。

 このアンダーソンのことはともかく、座右宝刊行会というと、どうしても美術書や志賀直哉の本のイメージが強かったけれど、『黄土地帯』の巻末広告を見ると、それらに加えて、考古学や支那学に関する著作も刊行しているとわかる。それらは東亜考古学会編『蒙古高原』前篇、仁井田陞『支那身分法史』、関東局篇『旅順博物館図録』、松崎鶴雄『柔父随筆』、浜田耕作『考古学研究』、水野清一、長広敏雄『龍門石窟の研究』、原田淑人『東亜古文化研究』、村田治郎『満州の史蹟』、ル・コック、藤枝晃訳『西域紀行』などである。
支那身分法史 (『支那身分法史』)

後藤真太郎は『華岳素描』の編者となっていることからすれば、美術書と志賀関係は後藤が引き継ぎ、考古学や支那学などは、『黄土地帯』の「訳者序」において、謝辞が示されている座右宝刊行会の齋藤菊太郎、大谷忠正、中田宗男たちによっているのではないだろうか。彼らのプロフィルはつかめないが、考古学や支那学の近傍にあったと思われる。最後になってしまったけれど、訳者の松崎壽和は東京帝国大学考古学研究室に在籍とある。


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